天皇・大王

「神武大王」って誰やねん? 大王号について(辛口注意)

 古代史関連の書籍を読むと、推古以前の古い天皇について「○○大王」(○○は漢風諡号)と表記されている場合が多数あります。


 左巻きな歴史学者が少しでも天皇の権威を下げたいのかなという意図が透けて見えるのですが、天皇という呼称がどんなに遡っても推古朝以降から使われる様になったという通説(近年では天武天皇辺りからと言うのが通説ですが、詳しくは何れ別稿で述べるかも知れません)から、それ以前の天皇に対して大王号を使うと意図は分からなくもありません。


 とは言え、在野のアマチュアが書いたある著書に「神武」という表記があるのを見て違和感を拭えませんでした。


 何故なら、記紀の表題を含め、少なくても上古の文献に「神武」なる表現は一度も登場していないからです。



◇『日本書紀』による「大王」の初見


 では、文献上では何時頃から「大王」という表記が登場するかと言えば仁徳天皇の御代からになります。


 『日本書紀』 巻第十一の仁徳天皇即位前紀によれば、応神四十一年春二月に太子ひつぎのみこである菟道稚郎子うじのわきいらつこが弟の大鷦鷯尊おおささぎのみこと(仁徳天皇)に位を譲り、


「大王者風姿岐嶷。仁孝達聆。以齒且長。足爲天下之君。」

大王きみは、風姿岐嶷みやびすがたいこよこにまします。仁孝達ひとをめぐみおやにしたがふこととほきこえて、齒且長みよはひまたひととなりたまへり。天下あめのしたきみすにれり。)


・参考『日本書紀(二)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注 岩波文庫 223ページから224ページ


と申し上げているのが初見で、以後、允恭紀、雄略紀、顕宗紀、継体紀等にしばしば見えます。


 これは『後漢書』等の文献によったもので、四世紀後半頃から朝鮮半島まで進出した大和王権の勢力拡張に伴い、この頃から大王を称し始めた可能性もあるらしいですが、とにかく『日本書紀』ではこの記事が最初の「大王」表記となります。



◇金石文による「大王」の初見


 埼玉県で発掘された稲荷山古墳の鉄剣銘文には「獲加多支鹵大王」と書かれており、これは「ワカタケルオホキミ」と読むのが通説で、これは大泊瀬稚武おほはつせわかたける、つまり第二十一代天皇・雄略天皇を指します。また、江田船山古墳出土太刀の銘文にも「獲□□□鹵大王」(□は消失部分)と書かれており、銘文の一部が消失していますが、現在ではこれも「ワカタケルオホキミ」を指すと言うのが通説です。


 以下のURLに著者が撮影した江田船山古墳出土太刀の「大王」部分を拡大した実物の画像があります。


・江田船山古墳出土太刀(撮影場所:東京国立博物館 考古展)

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817330667311924077


 千葉県市原市の稲荷台一号古墳が調査された際、「王賜」と書かれた鉄剣が発掘されましたが、これは稲荷山古墳の鉄剣銘文よりも少し古い五世紀半ばの物と推定されている為、この頃はまだ単に「王」と呼ばれており、歴史学上では初めて大王と呼ばれたのは雄略からというのが通説のようです。(異論としては『宋書倭国伝』にあるように対外的には倭王を称していた事と、「大王」の名称は大王に仕え奉っていた人物からの敬称であり、大王号が成立していたという確証が無いという説もあります。)


 但し、『古事記』では天皇の子をみこと呼んでいるので、つまり王子から下賜されたという解釈も可能であり、実際はもっと以前から大王号を使われていた可能性も否定できないのではないかと思いますが、津田史観の呪縛なのか、そう言った考えをする学者の意見を聞いた事がありません。



◇仁徳天皇以前にも「大王」号が使われていた?


 ここまで見ると『日本書紀』を好意的に解釈しても第十六代仁徳天皇までしか遡りませんが、実は記紀よりも遥かに古い文献で仁徳天皇よりも早く「大王」号で呼ばれていた天皇の名が登場します。


 鎌倉時代の学者、占部兼文と兼方父子のあらわした日本書紀の注釈書『釈日本紀』に「上宮記に曰く、一に云う」と言う形で『上宮記』という書が引用され、今に伝わっていますが、書名から聖徳太子の伝記であると思われ、その文面から『古事記』や『日本書紀』編纂時よりも古い時代に書かれたものであると言われています。


 この上宮記には第二十六代継体天皇の母方の系譜が、第十一代垂仁天皇から八代に渡って記録されており、始祖の名に「伊久牟尼利比古大王いくむにりひこおほきみ」と書かれています。


・『国史大系. 第7巻』 経済雑誌社 

 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097

『釈日本紀』巻第十三 述義九(354コマ681ページ7行目参照)


 「伊久牟尼利比古大王」は『日本書紀』の「活目入彦五十狭茅天皇いくめいりびこいさちのすめらみこと」、つまり第十一代・垂仁天皇の事です。つまり、現存する文献上で最も古く「大王」号を使われている天皇は垂仁天皇ということになります。


 (前稿で述べた実在した天皇を垂仁天皇以降だと思う根拠の一つにこの『上宮記』の記述があります。)


 但し、単に推古朝当時の概念で「大王」と記されているのに過ぎない事も考えられる為、『上宮記』だけを見て垂仁天皇の世から「大王」と呼ばれていたと断定する訳にも行かないでしょうね。


 現状の研究では一次資料(該当する時代から出土した金石文等)を記紀のような後世の資料よりも優先するならば、大王号は雄略天皇の時代からであると判断せざるを得ませんが、上古の文献を丁寧に見ていく限り、必ずしも雄略以降と限定する事も出来ないかと思います。


 何れにせよ「神武大王」などという表現は文献上でもあり得ず、大王号を称した可能性があるのは、どんなに遡っても垂仁天皇以降としか言いようがありません。


 大王を称していた事が証明されている天皇、例えば「雄略大王」等と漢風諡号に大王号を当て嵌めると言う歴史学者のイデオロギー丸出しのナンセンスな造語を(百歩譲って)認める事が出来ても「神武」なんて呼び方はあり得ないのです。


 つまり「神武大王」なんて表現をしている著書の作者は『日本書紀』すら真面に読んでいるのか怪しいので研究書として一読にも値しないという事です。皆様も記紀の天皇名表記の際はくれぐれも真似しない様にお願いします……。



□参考

『日本書紀(一)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注 岩波文庫

『日本書紀(二)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注 岩波文庫

『日本書紀(三)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注 岩波文庫

『新版 古事記 現代語訳付き』 中村啓信 角川ソフィア文庫

『古代天皇はなぜ殺されたのか』 八木荘司 角川書店

『ワカタケル大王とその時代―埼玉稲荷山古墳』 編集 小川良祐・狩野久・吉村武彦 山川出版社


 因みに今回やり玉に挙げた「神武大王」という表現は上記参考文献は関係なく、別の著書に書かれています。

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