大伴狭手彦の妻。松浦佐用姫(弟日姫子)の伝承

 前稿で大伴金村の子、狭手彦に関する記事を少し取り上げましたが、この狭手彦の妻に関する伝承が『肥前国風土記』松浦郡や『万葉集』五巻により伝えられており、更に九州や奥州にまで類似の人柱の伝承が広がっている事から、これらを取り上げてみます。


 本稿は歴史学的なテーマから離れ、どちらかと言えば国文学・民俗学的なテーマとなりますが、伝奇小説の題材には適したテーマだと思うので、宜しければ参考にしてください。


*菊池容斎 (武保) 著 大伴狭手彦肖像画(著作権切れ)

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816700427757103106


⑴『肥前国風土記』松浦郡 鏡渡

鏡渡在郡北 昔者 檜隈盧入野宮御宇武少廣國押楯天皇之世 遣大伴狭手

彦連 鎮任那之国 兼救百済之国 奉命到来 至於此村 即娉篠原村篠謂志弩弟日姫子成婚日下部君等祖也 容貌美麗 特絶人間 分別之日 取鏡與婦 々含悲啼 渡栗川 所与之鏡 緒絶沈川 因名鏡渡


かがみの渡、〈こほりの北に在り。〉昔者むかし檜隈ひのくま盧入野宮いほりのみやあめの下した知らしめしし武少廣國押楯たけをひろくにおしたて天皇すめらみことに、大伴狭手彦連おほとものさでひこのむらじりて任那国みまなのくにを鎮め、ねて、百済の国を救はしめき。みことうけたまはりていたりて来て、此の村に至り、やがて篠原しのはらの村〈篠は志弩しのふ〉の弟日姫子おとひひめこつまどひ、まぐはひしき。〈日下部君等がおやなり〉容貌かほ美麗きららしく、殊に人間ひとのよすぐれたりき。分別わかるる日、鏡を取りてをみなおくりき。婦、悲しみを含みてきつつ、栗川くりかはを渡りしに、おくらえし鏡の緒絶えて川に沈みき。因りて鏡の渡と名づく)


・概略

 かがみの渡。こほりの役所の北に在る。昔、檜隈盧入野宮ひのくまいほりのみやで天下をお治めになった武少広国押楯天皇たけをひろくにおしたてのすめらみこと (宣化天皇)の御代、大伴狭手彦連おほとものさでひこのむらじつかはして任那国みまなのくにを鎮圧し、同時に、百済国を救援させなさった。命を奉じて来て、この村に到着した。


 篠原しのはらの村〈篠をばシノと言う〉の弟日姫子おとひひめこの求婚して結婚した。〈日下部君等が祖先である〉顔かたちが美しく、絶世の美人であった。別れる日、鏡を手に取って婦人に与えた。婦人は、悲しみ泣きながら、栗川を渡ると、与えられた鏡の緒が切れて川に沈み、これによって鏡の渡と名づけられた。




⑵『肥前国風土記』 松浦郡 褶振峯

褶振峯在郡東 烽処名曰褶振烽 大伴狭手彦連 発船渡任那之時 弟日姫子登此 用褶振招因名褶振峯 然弟日姫子 与狭手彦連相分 経五日之後有人毎夜来 与婦共寝 至暁早帰 容止形貌 似狭手彦 婦抱其恠 不得忍黙 窃用続麻 繋其人襴 随麻尋往 到此峯頭之沼辺 有寝蛇 身人而沈沼底 頭蛇而臥沼脣 忽化為人 即語云志怒波羅能 意登比売能古素 佐比登由母 為祢弖牟志太夜伊幣爾久太佐牟也于 時 弟日姫子之従女 走告親族 々々発衆 昇而看之蛇并弟日姫子 並亡不存 於茲 見其沼底 但有人屍各謂弟日女子之骨 即就此峯南 造墓治置 其墓見在


褶振ひれふりみねこほりの東に在り、とぶひの処の名を褶振ひれふりみねといふ。〉大伴狭手彦の連、発船ふなだちして任那みまなに渡りし時、弟日姫子おとひのひめこここに登りて、ひれちて振りきき。りて褶振ひれふりみねと名づく。しかるに、弟日姫子、狭手彦の連と相分あひわかれて五日を経し後、人あり、夜毎よごとに来て、をみなと共に寝、暁に至れば早く帰る。容止形貌すがたかたち、狭手彦に似たりき。婦、そを怪しとおもひて、もだもえあらず、ひそか続麻うみもちてその人のすそけ、のまにま、め往きしに、このみねかみほとりに到りて、いねたるへみあり、身は人にして沼の底に沈み、かしらへみにして沼のほとりに臥せりき。たちまちに人とりて。すなはち歌ひしく、


篠原しのはらの 弟姫の子を 

一夜ひとゆも てむしだや

いへに下さむ


時に、弟日姫子の従女とものめ、走りて親族うからに告げしかば、親族、もろびとおこして昇りて看しに、へみと弟日姫子と、ともせてらざりき。ここにその沼の底を見しに、ただ、人のかばねありき。おのおの、弟日女子の骨なりとひて、やがてこの峯の南にきて、墓を造りて治め置きき。其の墓はいまに在り)


・概略

 褶振ひれふりみね。郡の役所の東に在り、とぶひところの名を褶振ひれふりみねという。大伴狭手彦の連が、船出して任那みまなに渡航した時、弟日姫子おとひのひめこは、ここに登って、ひれを振って狭手彦の魂を呼び招いた。これによって褶振ひれふりみねと名づけらた。そうして、弟日姫子、狭手彦の連が別れて五日を経った後、ある人が夜毎に来て、彼女と共に寝ね、夜明けになると早く帰った。姿かたちが、狭手彦に似ていた。彼女はその事を不思議に思って、黙っていられず、密かに紡いだ麻糸を用いてその人の裾に繋げ、麻糸を辿って尋ねていったところ、この峯の沼の辺りに到着した。寝ている蛇が居て、身は人であって沼の底に沈み、頭は蛇であって沼のほとりに臥せていた。突然人に化けると、語って言うには、


篠原しのはらの 弟姫の子よ 一夜共寝した時には、家に帰さなくてはならないのか


 その時に弟日姫子の侍女が、走って親族うからに告げた。親族は大勢を呼び集めて登ってみると、蛇と弟日姫子は共に姿が無かった。ここに、その沼の底を見ると、ただ人の屍のみ有った。各々の人が皆、弟日女子の骨だと言い、この峯の南に就いて、墓を造っ亡骸を葬って治め置いた。その墓は今もある。


・解説①

 ⑴⑵は『肥前国風土記』の松浦郡鏡の渡、褶振の峰に伝わる伝承で、地名由来譚ですが、土地の女性と派遣された貴族の青年との悲哀を語る伝説でもあります。弟日姫子のもとに夜ごと訪れる男の正体を、衣の裾に麻糸をつけてその後ろを辿って蛇である事を突き止める「 蛇聟入り・苧環おだまき型」という話型があり、『古事記』の祟神天皇の段で語られている三輪山伝説の変形となっています。ただ、三輪山伝説の蛇が人々の畏敬の対象であり、生まれる子の聖性を保証するものであったのに対し、この話は蛇が単なる妖怪の類になっているのが対称的です。個人的には本来の伝承が仏教の影響で蛇神が零落して悪しきものと歪められて伝えられたのかと疑っています。


 謡曲「松浦」では松浦を訪れた旅僧が海女から領巾振山・鏡宮にまつわる佐用姫と狭手彦の話を聞きましたが、その夜佐用姫の霊が狭手彦の形見の鏡を抱いて現われ、僧に袈裟を乞い、その礼として鏡を見せたところ狭手彦の姿が鏡に映り、佐用姫の霊は懺悔して狭手彦と別れた時の狂乱の様を再現すると言う筋の話があり、恋慕の妄執によって仏果を得られないという話に変遷していますが、古伝承の類は時の流れと共に仏教に引き付けられて変化していく傾向があるように思えます。



⑶万葉集 巻五 八六八―八七〇

天平二年七月十日

憶良誠惶頓首謹啓。

憶良聞、方岳諸侯都督刺使、並依典法、巡行部下、 察其風俗、意内多端、口外難出。謹以三首之鄙歌、欲寫五蔵之欝結、其歌曰、


憶良おくら誠惶頓首せいくわうとんしゅ謹みて啓す。憶良聞かくは、方岳ほうがくの諸侯都督の刺使しし、並に典法に依りて部下を巡行して、 其の風俗をるといふ。意の内に端多く、口の外に出し難し。謹みて三首のひなしき歌を以ちて、五つの蔵の欝結むすほほりうつす。其の歌に曰はく、)


八六八

麻都良我多 佐欲比賣能故何 比列布利斯 夜麻能名乃美夜 伎々都々遠良武

(松浦県佐用比賣の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ)


八六九

多良志比賣 可尾能美許等能 奈都良須等 美多々志世利斯 伊志遠多礼美吉 [一云 阿由都流等]

(足姫神の命の魚釣らすとみ立たしせりし石を誰れ見き [一云 鮎釣ると])


八七〇

毛々可斯母 由加奴麻都良遅 家布由伎弖 阿須波吉奈武遠 奈尓可佐夜礼留

(百日しも行かぬ松浦道今日行きて明日は来なむを何か障れる)



*誠惶頓首:心からおそれかしこまり地にぬかずく

*領巾:夫人の頸にかける白い織物。

*領巾麾之嶺:佐賀県東松浦郡。唐津湾に臨んでいる。



⑷万葉集 巻五 八七一-八七五

天平二年七月十一日 筑前國司山上憶良謹上

(天平二年七月十一日 筑前の國の司 山上憶良やまのへのおくら謹みて上る)


大伴佐提比古郎子、特被朝命奉使藩國。艤棹言歸 、稍赴蒼波。妾也松浦[佐用嬪面] 嗟此別易、歎彼會難。即登高山之嶺、遥望離去之船、悵然断肝黯然銷魂。遂脱領巾麾之、傍者莫不流涕。因号此山曰領巾麾之嶺也。乃作歌曰、


大伴佐提比古おほともさでひこ郎子いらつこ、特に朝命を被り、使を藩國となりのくにうけたまはる。艤棹ふなよそひしてここき、稍蒼波ややにさうはに赴く。をみなめ松浦[佐用ひめ] 此の別るるこのときの易きをなげき、彼の會ふこと難きを歎く。即、高山の嶺に登りて、遥に離れ去く船を望み、悵然いたとして肝を断ち、黯然もだとして魂をつ。遂に領巾ひれを脱ぎてる。そばの者 なみだを流さざるはかりき。因りてこの山になづけて領巾麾ひれふりの嶺と曰ふ。乃、歌を作りて曰はく、)


八七一

得保都必等 麻通良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈

後人追和

(遠つ人松浦佐用比賣まつうらさよひめつまごひ領巾ひれ振りしより負へる山の名

後の人の追ひて和ふる)


八七二

夜麻能奈等 伊賓都夏等可母 佐用比賣何 許能野麻能閇仁 必例遠布利家<牟>

最後人追和

(山の名と言ひ継げとかも佐用比賣がこの山のに領巾を振りけむ

いと後の人追ひて和ふる)


八七三

余呂豆余尓 可多利都夏等之 許能多氣仁 比例布利家良之 麻通羅佐用嬪面

最最後人追和二首

(萬世に語り継げとしこのたけに領巾振りけらし松浦佐用比賣

最最いといと後の人の追ひて和ふる二首)


八七四

宇奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 比礼布良斯家武 麻都良佐欲比賣

(海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用比賣)


八七五

由久布祢遠 布利等騰尾加祢 伊加婆加利 故保斯苦阿利家武 麻都良佐欲比賣

(行く船を振り留みかね如何いかばかりこほしくありけむ松浦佐用比賣)



*悵然:いたむ。心が傷ついて痛むの意

*黯然:黙然。モダスは黙っていること。

*遠つ人:枕詞

*振り留みかね:フリは接頭語。停め得ないで。



⑸万葉集 巻五 八八三

三嶋王後追和松浦佐用比賣歌一首

(三嶋の王の、後に追ひて和ふる松浦佐用比賣の歌一首)


八八三

於登尓吉岐 目尓波伊麻太見受 佐容比賣我 必礼布理伎等敷 吉民萬通良楊満

(音に聞き目にはいまだ見ず佐用比賣が領巾振りきとふ君松浦山)


*三嶋王:舎人皇子の子


・解説②

 ⑴⑵の肥前国風土記では弟日姫子と言う名前ですが、⑶~⑸の万葉集五巻では松浦佐用比賣(あるいは佐用比賣)になっています。ともに夫を大伴狭手彦とし、妻が夫の別離を悲嘆する様子も同じで同一の伝説であることは疑いありません。


 風土記の弟日姫子は土地に伝わる名により、松浦と言う娘子の出身の地名を冠する松浦佐用姫の名は、その土地以外に通用していた名によるものであり、いずれも本名では無いと言われています。(民俗学的解釈は下記項目参照)


 呼子湾の沖の加部島にある田島神社の境内に、佐用姫神社があり、佐用比売は鏡山からこの島に渡り、天童岳で領巾を振り続けて、遂に石化したという伝承があり、望夫石と呼ばれる石が境内にあるそうです。


 山上憶良は天平二年七月、肥前国松浦川で遊んだ大伴旅人からその時の歌と序文を示され、神功皇后とその地を訪れる機会が無い恨みを三首の歌(巻五・八六八~八七〇)に託しました。万葉集にはそれらに続けて、佐用姫伝説を漢文で記述し、佐用姫の悲嘆を詠んだ五種の歌を載せています。その作者に関しては諸説ありますが、「最最後人追和二首」と題する八七四・八七五の二首のみは憶良説と広く認められています。この二首によっても、夫を慕う佐用姫の激しく純粋な恋に憶良が感動した事が伺われます。


◇民俗学的な松浦佐用姫

 人柱伝説の一種で、美女を水の神の生贄とした話が奥州にも伝わっており、その美女を松浦佐用姫とするものが多く、九州にもこの話の一分派と認められるものが分布しています。筑後三井郡床島の堰の工事に際し、俵に詰められて水底に沈められたというのが貧しい為に身を売られた「おさよ」という9歳の少女であったり、佐用姫人柱の物語が広く各地に分布している事は、この物語を運搬している者があったと民俗学者の柳田国男は推測しています。


 佐用姫のサヨはさえの神を意味し、松浦のマツは神あるいは貴人に対して奉仕を意味する言葉で、松浦佐用姫は固有名詞では無く、本来は遠く遊行して諸国の神に参向した一群の女性を指す言葉と柳田氏は解釈してますが、解説②でも書きましたように松浦は地名なのでこの解釈は無理がありそうです。その為、率直に松浦に伝わる説話が各地に伝播したと考えるのが自然な気がしますが、何故九州から遠く離れた奥州でも松浦佐用姫の伝承が広がったのでしょうね?


 なお、弟日姫子と言う名に関しては日下部の君の祖と『肥前国風土記』には記されていますが、この名が実は遊女(漂泊の巫女が次第に土着して里巫女と化し、あるいは巫女村を形成していくとともに、歩き巫女の下級の者で売色を重ねている者など)の総称であったと思われる事から、遊女の類であった可能性を民俗学者の折口信夫は述べていますが⑹、太田亮氏によると『肥前国風土記』松浦郡賀周里条に昔この地に居た土蜘蛛を景行天皇が国を巡っていた時に陪従の大屋田子という日下部君らの祖が誅滅した記事が見え、弟日姫子はこの人の裔であると述べています。⑺


 大屋田子の話自体は説話に過ぎないとしても、日下部君に弟日姫子が大屋田子の末裔であるという系譜が伝わっていたとすれば、折口説は後世の牽強付会と言わざるを得なくなります。個人的には単純に弟日姫子と言う名が日下部君を連想させるので、弟日姫子が遊女の総称となる以前から日下部君に伝えられていた話であり、遊女や歩き巫女によりその地に伝えられ土着化した話と言うよりは、寧ろ日下部君の伝承を各地に伝播した結果、それを伝える彼女らが弟日姫子と結びつけられたと考えた方が妥当かと思います。


*歩き巫女:大社の職員としての巫女とは別に巷間に散在する巫女で、諸方を旅行している者が多い。




◇参考文献

⑴⑵原文参照(一部訂正して記載)

『標注古風土記』栗田寛 纂註 大日本図書 135コマ

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993215


⑴⑵『風土記』武田祐吉 編 岩波文庫 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 252~254ページ130・131コマ(一部訂正して記載)

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173165


⑶~⑸原文参照

『日本歌学全書. 第9編 万葉集 巻第1−巻第6』佐々木弘綱, 佐々木信綱 共編並標註 博文館 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 280~283ページ158~160コマ

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993409


⑶~⑸『新定万葉集. 上』武田祐吉 著 有精堂 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 150~152ページ。93・94コマ

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1127423/85?tocOpened=1


・解説①②

『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 275~277ページ


・解説①「蛇聟入り・苧環おだまき型」

『口語訳 古事記』 訳・注釈 三浦佑之 文藝春秋 160ページ 注68


・民俗学的な松浦佐用姫

『民俗学辞典』 財団法人民俗学研究所編 東京堂出版 538ページ


⑹『万葉集辞典』折口信夫 著 文会堂書店 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 239コマ 補102ページ

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958698


・遊女

『民俗学辞典』 財団法人民俗学研究所編 東京堂出版 649ページ


⑺『姓氏家系大辞典. 第2巻』太田亮 著 姓氏家系大辞典刊行会 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 104コマ 202ページ

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/104


・歩き巫女

『民俗学辞典』 財団法人民俗学研究所編 東京堂出版 551ページ

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