『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(10) スキャンダラスな大連 物部尾輿

・『前賢故実. 巻之1』より物部尾輿の肖像画

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816700427930665548


 現代において議員の女性スキャンダルが発覚するとワイドショーや週刊誌で糾弾されますが、貞操と言う観念が今よりもずっと希薄だったと思われる古代においても、自身や相手の立場によっては厳しく問われる場合があったということでしょうか?


 今回は、そんな古代政界のお騒がせ大連の物部尾輿について取り上げたいと思います。

 なお、尾輿が大伴金村を失脚させた記事につきましては「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(9) 元祖キングメーカー大伴金村②」の稿をご覧ください。


⑴『日本書紀』巻十八安閑天皇元年(甲寅五三四)閏十二月是月

是月、廬城部連枳莒喩唹女幡媛、偸取物部大連尾輿瓔珞、獻春日皇后。事至發覺、枳莒喩、以女幡媛、獻采女丁、〈是春日部釆女也。〉并獻安藝國過戸廬城部屯倉、以贖女罪。物部大連尾輿、恐事由己、不得自安。乃獻十市部、伊勢國來狭々・登伊〈來狭々。登伊、二邑名也。〉贄土師部、筑紫國膽狭山部也。


の月に、廬城部連枳莒喩いほきべのむらじきこゆ女幡媛むすめはたひめ物部大連尾輿もののべのむらじをこし瓔珞くびたまぬすみ取りて、春日皇后かすがのきさきたてまつる。事発覚ことあらはるるにいたりて、枳莒喩きこゆ、女幡媛を以て、采女丁うぬめのよほろたてまつり、〈是春日部これかすかべの釆女うぬめなり。〉あはせ安芸国あぎのくに過戸あまるべ廬城部屯倉いほきべのみやけを献りて、むすめの罪をあかふ。物部大連尾輿、事のおのれることをおそりて、みづかやすきことを得ず。乃ち十市部とをちべ伊勢国いせのくに来狭狭くささ登伊とい〈來狭狭。登伊は、二つのさとの名なり。〉の贄土師部にへのはじべ、筑紫国の胆狭山いさやまべたてまつる。)




・概要

 廬城部連枳莒喩いほきべのむらじきこゆの娘、幡媛はたひめ物部大連尾輿もののべのむらじをこしの首飾りを盗み取って、春日皇后かすがのきさきに献上したと言う事が発覚し、枳莒喩きこゆが幡媛を以て、采女丁うぬめのよほろを献上した、〈是春日部これかすかべの釆女うぬめなり。〉併せて安芸国あぎのくに過戸あまるべ廬城部屯倉いほきべのみやけを献上して、娘の罪を贖った。


 物部大連尾輿は自分に事が及ぶことを恐れ、安心できず、十市部とをちべ伊勢国いせのくに来狭狭くささ登伊とい〈來狭狭。登伊は、二つのさとの名なり。〉の贄土師部にへのはじべと筑紫国の胆狭山いさやまべを献上した。


・解説

 廬城部連枳莒喩の娘、幡媛という女性に盗まれた首飾りが春日皇后に献上されたため、罪が自分に及ぶのを恐れ、十市部、伊勢国来狭狭・登伊の贄土師部と筑紫国の胆狭山を献上したと言うスキャンダラスな記事です。


 察するに幡媛という女性が浮気相手だったのでしょうか? 現代とは貞操の観念が違うので同じ感覚では捉えられませんが、史実であるとすれば大連という地位にある尾輿にとって大変不名誉出来事だったかと思いますが、一般的には史実とは捉えられていないようです。


 当エッセイで度々取り上げている篠川賢氏は例の如く事実として、そのような事があったとは考え難いとしながら、具体的な部名を上げるこの記事を、まったくの机上の作文とみるのも正しくないとし、事実としては、これらの部の管掌者(伴造)が尾輿の配下にあったか、あるいはもとは物部とされていた集団に、これらの部としての負担が追加されたか、または部名が変更になった(負担の内容が変更になった)かこのような事が推定されるであろうとし、十市部の管掌者は『先代旧事本紀』「天孫本紀」より「五部人」の一人「十市部首等祖富々侶」であること、筑紫国の膽狭山部については『新撰姓氏録』河内国神別には(物部氏の祖)ニギハヤヒ三世孫の出雲醜大使主命を祖とする勇山連が膽狭山部の中央における管掌者であった可能性も考えられるとし、この記事からは、物部氏が多くの伴造を配下に置くことで台頭していった状況を読み取るべきであろうと述べています。⑵


 因みに当時は人間の命、または労働力によって債務の弁済や贖罪を行う習慣が存在していたようで、『隋書』巻八十一倭国伝に、「其の俗、殺人・強盗及び姦は死。盗は、臓を計りて物をあがなふ。財無くんば、身を没して奴と為す」と記事がある他、葛城円の稿でご紹介させて頂きました雄略天皇三年八月条には眉輪王をかくまった葛城円大臣が、死罪を贖うために、娘の韓媛と葛城の家七か所を奉ろうとして許されなかった事や、この記事の様に廬城部連枳莒喩の娘、幡媛が采女丁うぬめのよほろとして献上されるのは、親が必要に応じて子女を売買あるいは贈与して差し支えないという日本在来の考え方があったようです。⑶


 なお、廬城部連に関しては『新撰姓氏録』では「尾張連同祖、火明命之後裔也」とあり、枳莒喩の名は雄略天皇三年四月条に栲幡たくはた皇女に通じたとして讒言されて殺された廬城部連武彦の父と同じ人物かと思われます。


*追記

 ⑴の記事で尾輿の部民献上の記事の理由について、物部氏の記紀の所伝や、律令制下での位置づけから、書紀成立時の物部氏の警察的性格が一般的になっていた事が理解できるため、そのことを踏まえて⑴の記事に読めば、警備を職務とする尾輿が盗難にあったことは、事件が自身に関わるだけに問題にとなりますが、ただし、職務怠慢だったことが贖罪に値するという単純な図式ではないらしいです。


 「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(9) 元祖キングメーカー大伴金村②」でも取り上げた『日本書紀』巻十八安閑天皇元年(甲寅五三四)閏十二月 壬午四日の記事では、奉献を惜しんだ大河内直味張おほしかふちのあたひあじはりはその不忠をそしられ、味張は「恐畏かしこまり」永遠の部曲献上を誓います。「かしこし」の語は恐怖と畏敬とが明確に分化されておらず、それをまつることで新しい秩序を再生するという古代の発想に関わる時間的行為のなかに成立した言葉だからであるといいます。➀


 王権の秩序を逸脱した味張は、新しい秩序を誓い、それが曲部の起源とされていることからみても、典型的な服属の型であり、それを「求悔くやしび」誓ったと心の形容をもって描くのが日本書紀であり、こういった臣下の側の主体的な心が問われることは律令制下に発生するそうです。➁


 一方の県主飯粒が「喜びかしこまることこころてり」、さらに少年を従者として献上する。この歓喜と畏敬の交錯した心が、詔の下賜に引き出されたことが律令制下の臣下のあるべき姿であり、尾輿にも同様のことが言え、尾輿の心が「みづかやすきことを得ず」であるのは、物部氏の職務を意識し、天皇に対する畏敬の念の心が主体的に立ち現れたからであり、単に罪を恐れたのではなく、ここには被害者でありながらなお、天皇に対する畏怖の念の心を起こし、進んで部民を献上する姿が描かれているのであり、尾輿の部民献上は贖罪ではないという解釈もあります。③


 こういった解釈は若干牽強付会の感が否めませんが、味張や飯粒の記事が同月にあることから、天皇に対する仕え方として、教訓を示す意味があって載せられた可能性は考慮しても良さそうです。



◇仏教公伝と蘇我氏との対立

⑷『日本書紀』巻十九欽明天皇十三年(五五二)十月

冬十月、百濟聖明王、〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一躯・幡蓋若干・經論若干卷。(中略)是日、天皇聞已、歡喜踊躍、詔使者云、朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰、西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾有。可禮以不。蘇我大臣稻目宿禰奏曰、西蕃諸國、一皆禮之。豐秋日本、豈獨背也。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同奏曰、我國家之、王天下者、恒以天地社稷百八十神、春夏秋冬、祭拜爲事。方今改拜蕃神、恐致國神之怒。天皇曰、宜付情願人稻目宿禰、試令禮拜。大臣跪受而忻悦、安置小墾田家。懃脩出世業爲因。淨捨向原家爲寺。於後、國行疫氣、民致夭殘。久而愈多。不能治療。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同奏曰、昔日不須臣計、致斯病死。今不遠而復、必當有慶。宜早投棄、懃求後福。天皇曰、依奏。有司乃以佛像、流弃難波堀江。復縱火於伽藍。燒燼更無餘。於是天無風、雲忽炎大殿。


冬十月ふゆかむなづき、百濟の聖明王せいめいわう、〈またの名は聖王せいわう。〉西部姫氏達率せいほうきしだち怒唎斯致契等ぬりしちけいらまだして、釈迦仏しゃかほとけ金銅像一躯かねのみかたひとはしら幡蓋若干はたきぬがさそこら経論若干卷きやうろんそこらのまきたてまつる。(中略)。

是の日に、天皇すめらみこときこしめをはりて、歓喜よろこ踊躍ほどはしりたまひて、使者つかひみことのりしてのたまはく、「われ、昔よりこのかたいまかつかくの如く微妙くはしきのりを聞くこと得ず。しかれども朕、みづかさだむじ」とのたまふ。すなは群臣まへつきみたち歴問となめとひてのたまはく、「西蕃にしのとなりのくにたてまつれる仏の相貌端厳かほきらぎらしもはいまかつて有らず。ゐやまふべきやいなや」とのたまふ。蘇我大臣稻目宿禰そがのおほみのいなめのすくねまうしてまうさく、「西蕃にしのとなり諸國くにぐにもはら皆礼みなゐやまふ。豊秋日本とよあきづのやまと豈独あにひとそむかむや」とまうす。物部大連尾輿もののべのおほむらじをこし中臣連鎌子なかとみのむらじかまこ、同じくまうしてまうさく、「我が国家みかど天下あめのしたきみとましますは、つね天地社稷あまつやしろくにつやしろ百八十神ももあまりやそかみを以て、春夏秋冬はるなつあきふゆ祭拜まつりたまふことをわざとす。まさ今改いまあらためて蕃神あたしくにのかみをがみたまはば、恐るらくは国神くにつかみの怒を致したまはむ」とまうす。天皇曰すめらみことのたまはく、「情願ねが人稻目宿禰ひといなめのすくねさづけて、こころみゐやまをがましむべし」とのたまふ。大臣おほおみひざまづきて受けたまはりて忻悦よろこぶ。小墾田をはりだいへ安置せまつる。ねむごろに、世をいづわざをさめてよすがとす。向原むくはらの家を浄めはらひて寺とす。後に、国に疫気えやみおこりて、民夭おほみたからあからしまにしぬることを致す。久にして愈多いよいよおほし。をさいやすことはのあたはず。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じくまうしてまうさく、「昔日臣いむさきやつかれはかりこともちゐたまはずして、病死やみしにを致す。今 とほからずしてかへらば、必ずまさよろこび有るべし。早く投げ棄てて、ねむごろに後のさいはひを求めたまへ」とまうす。天皇曰すめらみことのたまはく、「まうままに」とのたまふ。有司つかさすなは仏像ほとけのみかたを以て、難波なにはの堀江に流し棄つ。復火またひ伽藍てらく。焼ききてまたあまり無し。是にあめに風雲無くして、たちまち大殿おほとのひのわざはひあり。)


・概略

 冬十月、百濟の聖明王せいめいわう西部姫氏達率せいほうきしだち怒唎斯致契等ぬりしちけいらを遣して、釈迦仏しゃかほとけ金銅像一躯かねのみかたひとはしら幡蓋若干はたきぬがさそこら経論若干卷きやうろんそこらのまきを献上した。(中略)。

是の日に、天皇はこの事を聞き給わって、欣喜雀躍されて、使者にみことのりして「朕は昔からこれまで、まだこの様な妙法を聞いた事が無かった。しかし、朕一人では決定しない」と言われた。群臣一人一人に問うと、「西の隣の国から献上された仏の顔は端正に美を備え、まだ見た事もありません。これを奉るべきか如何か」との言った。蘇我大臣稻目宿禰そがのおほみのいなめのすくねが申し上げて言うには、「西隣の諸國では、皆礼拝しています。豊秋日本とよあきづのやまとだけがそれに背くべきでしょうか」と言った。物部大連尾輿もののべのおほむらじをこし中臣連鎌子なかとみのむらじかまこが同じく申し上げるには、「我が帝の、天下あめのしたきみとしておいでになるのは、常に天地社稷あまつやしろくにつやしろ百八十神ももあまりやそかみ春夏秋冬はるなつあきふゆにお祀りされる事が仕事です。今改いまあらためて蕃神あたしくにのかみ(仏)を拝めば、恐らく国神くにつかみのお怒りをうけることになりましょう」と言った。


 天皇は、「それでは願人の稻目宿禰いなめのすくねに授けて、試しに礼拝させてみよう」とおっしゃられた。大臣はひざまづきて受けて喜び、小墾田をはりだいへに安置し。懇ろに仏道を修めるよすがとした。向原むくはらの家を祓い清めて寺とした。後に、国に疫病が流行り、人民に若くして死ぬ者が多かった。それが長く続き治め癒す事が出来なかった。物部大連尾輿・中臣連鎌子、共に奏して、「あの時、臣の意見を用いられなくて、この病死を招きました。今元に返されたら、必ず喜びがあるでしょう。早く仏を投げ棄てて、懇ろに後の福を求めるべきです」と言った。天皇は、「申すままにせよ」とおおせになった。役人は仏像を難波の堀江に流し棄て、寺に火をつけて焼き尽くした。するとてに風も雲も無しに、たちまち宮の大殿に火災があった。


・解説

 所謂仏教公伝に関する記事ですが、この記事は様々な問題があり信憑性の面で疑問視されています。先ず、長いので省略しましたが聖明王の台詞を始め、この記事の表現の至るところが金光明最勝王経による文章が多くなっており、金光明最勝王経は唐の義浄が長安三(西暦七〇三)年に訳したものであり、明らかな書紀編纂者の創作と言われています。⑸


 また、『上宮聖徳法王帝説』では仏教公伝を「欽明天皇戊牛年」と述べており、欽明天皇即位中に戊牛年が無い事や、近くの戊牛年は西暦五三八年にあたる為、現在の歴史学会や教育界では西暦五三八年が仏教公伝の年の定説になっています。⑹


 とは言え、仏教公伝に際して廃仏派の物部氏・中臣氏と崇仏派の蘇我氏の対立が起こったこと自体は事実とみてよいかと個人的には思いますが、これも最近の研究では物部氏の本拠地である渋川に仏を祀った痕跡がある事から史実では無く、物部・蘇我による権力闘争だったと言う説が有力の様です。


 しかし、これは余りにも宗教に鈍感な現代の日本人的な発想かと思います。無論政治闘争的な面は無視できませんが、それは宗教と密接に結びついているハズです。理由につきましては物部守屋の記事と関わってくるので、守屋の稿で述べたいと思います。



◇何故友好関係にあった大伴氏を失脚させられたか?

 大伴金村を失脚させた記事に関しては「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(9) 元祖キングメーカー大伴金村②」で取り上げましたが、物部麁鹿火の時代には友好関係にあった大伴氏を何故失脚させられたのか、不自然な感じが否めません。この頃、物部・大伴の権力闘争があった事に関しては認めるのが通説ですが、その理由については定説と言うものが無いかと思います。


 金村の稿において豪族の金村に関しての不満の受け皿として尾輿が台頭したのではないかという私見は述べましたが、磐井の乱の際には麁鹿火を将軍として推挙した金村に対し、そう易々と恩を仇で返すような行為を出来るものでしょうか?


 理由として考えられるのは、麁鹿火と尾輿が親子ではない事です。『先代旧事本紀』巻五「天孫本紀」によれば、物部麁鹿火連公は物部麻佐良連公の子で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみことの14世の孫(『新撰姓氏録』によれば15世の孫)であり、物部尾輿連公は物部荒山連公の子で、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみことの13世の孫であり、親も饒速日尊との世代も異なります。⑺


 尾輿の方が饒速日尊との世代が近い事から天孫本紀の系図は疑問も持たれており、麁鹿火と尾輿が父子ないし兄弟といったような、近い血縁関係にあった⑻という見方もあるようですが、他の資料からその根拠がなく、寧ろ天孫本紀にあるように麁鹿火と尾輿の血縁関係は遠い系譜であったことは事実とみて良いかと思います。


 一つの考え方として思いつくのは、尾輿が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと11世の孫、物部目大連公の血統である物部本家の人間であるのに対し、同神11世の孫である物部布都久留連公もののべのふつくるのむらじきみの血統であると伝わっていた麁鹿火は分家的立場で子に大連の地位を世襲出来なかったのではないかと思います。尾輿の子、守屋は河内の渋川(大阪府八尾市)の邸宅を本拠地としており、尾輿も渋川を本拠地としていた事が想定されます。


 麁鹿火の本拠地については不明ですが、『新撰姓氏録』和泉国神別で「同神(饒速日命)十五世孫。物部麁鹿火大連之後也 高岳首たかをかのおびと」⑼とあり、世代が大きく異なるので断言は出来ませんが、後裔の高岳首と同じく和泉を本拠に構えていた可能性もあります。


 あるいは麁鹿火の娘、影媛が武烈天皇紀で「伊須能箇瀰賦屡嗚須擬底石上の布留ち過ぎて」⑽と謳っていることや、「石上布留神杉神成恋我更爲鴨石上の布留の神杉神さびし恋をもわれは更にするかも」⑾という万葉集の歌にある様に曾祖父の物部布都久留連の名が石上と関りを想定させる事から、後世の石上氏の本拠地である大和国山辺郡石上郷付近は本来、麁鹿火の一族が本拠としていたのかも知れません。


 『先代旧事本紀』巻第三「天神本紀」では饒速日尊の降臨伝承の舞台が河内国の河上の哮峯いかるがのみねである事から、物部本家の本拠地は河内と考えられていますが、文献からは麁鹿火が河内と結びつきそうな記事も見当たらないので麁鹿火は大連と言っても分家的な立場であったのかも知れません。


 葛城氏は襲津彦―玉田宿禰―円大臣の血統である葛城氏の本家と襲津彦―葦田宿禰―蟻臣の血統の分家があり、葛木下郡は本家、葛木上郡は分家が支配していたように、物部氏も河内の渋川付近は本家、大和の石上付近は分家と本拠地が別れていた可能性があり、それが後世、守屋が滅ぼされた後に石上に本家を移していったのかも知れません。


 だとすれば、本家の尾輿としてはしがらみに捕らわれることなく、金村を失脚させられたのでしょう。大伴氏を失脚させたことにより、一時的に物部氏が権力の頂点に立ちますが、この事が大伴氏の恨みを買った事は想像に難くありません。この後、大伴氏がそれまで友好的に接していた大連である物部氏ではなく、大臣である蘇我氏に協力するようになったのは物部氏にとって大きな痛手だったに違いありません。以降、大伴氏の代わりに中臣氏と協力関係になりましたが、当時の中臣氏に蘇我氏と互しえる程の力はありませんでした。


 尾輿の記事を見る限りで言えば、過去の物部目や麁鹿火のような武人というよりは、政治家らしい権謀術数に長け、保身と人を蹴落とす事は得意だったようですが、目先の事しか見えていませんでした。任那分譲の使者になることを妻の意見を受け入れて断った先見の明があり、天皇から「長門より西はお前に任せる」と言われる程絶大な信頼を得、磐井の乱を鎮圧した功績も抜群であり、屯倉の籾を運ばせ天皇家の代わりの様な事まで勤めたという、あまりにも偉大であった物部麁鹿火に比べていい印象を受けません。


 大伴金村を失脚させたように、⑷の記事の出来事は台頭著しい蘇我氏も失脚させる狙いが尾輿にあったのかも知れません。ですが、かつての葛城氏の様に娘を入内させたり渡来人から得る利権などを通し、蘇我氏は失脚するどころか益々当時の政界において影響力を増していき、互いの子の守屋・馬子の代まで権力闘争は続く事になります。




◇参考文献

⑴『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 470・471・220・222ページ

⑵『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 177・178ページ

⑶『日本書紀の世界』 中村修也編集 思文閣出版 116ページ


*追記

➀『古代語誌-古代語を読むⅡ-』 岡部隆志 桜楓社

➁『古代言語探求』呉哲男 五柳叢書

③『歴史読本』2008年11月号 新人物往来社 113-114ページ

所収「『先代旧事本紀』と物部氏に関する論考 ― 物部尾輿」


⑷『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫  492・493・298・300・302ページ

⑸『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 299ページ。注七

⑹『現代語訳 日本書紀』抄訳 菅野雅雄 新人物文庫 310~311 註1

⑺『国史大系. 第7巻』経済雑誌社 編 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 154・155コマ

https://dl.ndl.go.jp/pid/991097/1/154

⑻『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 181ページ

⑼『群書類従. 第拾七輯』塙保己一 編 経済雑誌社 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 98コマ

https://dl.ndl.go.jp/pid/1879818/1/98

⑽『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 148コマ

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/148

⑾『日本歌学全書. 第10編 万葉集 巻第7−巻第13』佐々木弘綱, 佐々木信綱 共編並標註 博文館 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 138コマ

https://dl.ndl.go.jp/pid/993410/1/138

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る