『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(9) 元祖キングメーカー大伴金村②
本稿は安閑天皇紀~欽明天皇紀の大伴金村の記事について取り上げます。尚、継体天皇紀における金村の記事は前稿をご覧ください。
『前賢故実. 巻之1』より大伴金村の肖像画
https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816700427583429342
(1)『日本書紀』巻十八安閑天皇元年(甲寅五三四)十月
冬十月庚戌朔甲子、天皇勅大伴大連金村曰、朕納四妻、至今無嗣。萬歳之後、朕名絶矣。大伴伯父、今作何計。毎念於茲、憂慮何已。大伴大連金村奏曰、亦臣所憂也。夫我國家之王天下者、不論有嗣無嗣、要須因物爲名。請爲皇后次妃、建立屯倉之地、使留後代、令顯前迹。詔曰、可矣。宜早安置。大伴大連金村奏稱、宜以小墾田屯倉、與毎國田部、給貺紗手媛。以櫻井屯倉〈一本云、加貺茅渟山屯倉。〉與毎國田部、給賜香香有媛。以難波屯倉與毎郡钁丁、給貺宅媛。以示於後、式觀乎菖。詔曰。依奏施行。
(
・概要
冬十月十五日に、天皇は
・解説
大伴室屋が允恭天皇十一年三月四日に藤原部を定め名代を定める事に係わった記事を室屋の稿で取り上げましたが、⑴では孫の金村が安閑天皇の四人の妃の名を残すために屯倉の設置に係わったことが書かれており、これも名代に当たります。
皇后は身分は天皇に等しかったのですが、後宮に居る為に、外部ではその御名を知らぬものが多く、また、当時は女の名はみだりに他人に知らせなかったから名代という形で名を残そうとしたという事で、妃の経済基盤として屯倉を定める目的もあった様です。勅文や金村の奏は説明の為の造作であろう⑵という説もありますが、室屋の代から名代に係わる記事がある事から、大伴氏には名代の設置や管理をする役割があったのは事実では無いかと個人的には推測しています。
⑶『日本書紀』巻十八安閑天皇元年(甲寅五三四)閏十二月
閏十二月己卯朔壬午、行幸於三嶋。大伴大連金村從焉。天皇使大伴大連、問良田於縣主飯粒。縣主飯粒、慶悦無限。謹敬盡誠。仍奉獻上御野・下御野・上桑原・下桑原、并竹村之地、凡合肆拾町。大伴大連、奉勅宣曰、率土之下、莫匪王封。普天之上、莫匪王域。故先天皇、建顯號垂鴻名、廣大配乎乾坤、光華象乎日月。長駕遠撫、横逸乎都外、瑩鏡區域、充塞乎無垠。上冠九垓、旁濟八表。制禮以告成功、作樂以彰治定。福應允臻、祥慶符合於往歳矣。今汝味張、率土幽微百姓。忽爾奉惜王地、輕背使乎宣旨。味張自今以後、勿預郡司。於是、縣主飯粒、喜懼交懷。廼以其子鳥樹送大連、爲僮竪焉。於是、大河内直味張、恐畏永悔、伏地汗流。啓大連曰、愚蒙百姓、罪當萬死。伏願、毎郡、以钁丁春時五百丁、秋時五百丁、奉獻天皇、子孫不絶。藉此祈生、永爲鑒戒。別以狭井田六町、賂大伴大連。蓋三嶋竹村屯倉者、以河内縣部曲爲田部之元、於是乎起。
(
・概要
閏十二月四日、三島(大阪府三島郡)に行幸された。大伴大連金村が従って行った。天皇は大伴大連を遣わして、良田を
大伴大連は
・解説
安閑天皇が行幸し、その際に金村が従い、良田を
これ以前の記事(秋七月一日)によると、大河内直味張は雌雉田を献上するように言われていましたが、嘘を吐いて騙していた経緯があり、金村の怒りを受け、味張は恐れ畏まって
王命に従わない豪族に圧力をかけて従わせ、許される事をとりなす代わりに大伴氏の勢力もちゃっかりと広げていたという事でしょうか?
まぁ現代なら警察が脱税の容疑者から賄賂を貰ったら大問題ですが、古代においてはそうやって治安を安定させていた面もあるかと思うので、現代人と同じ感覚で物を見てはいけませんね。
因みに六世紀頃、国造支配下の小豪族が自分の土地を屯倉として皇室に差し出すのは、国造から自立する意図があったそうです。⑷ それが事実であるとすれば、屯倉献上に大伴氏が関わる事で国造と小豪族の間の緩衝的な役割を担った事実を表しているのかも知れません。
あと、如何でも良い事かも知れませんが、県主飯粒が子の鳥樹を金村の僮竪(従者)としたとの事ですが、
⑸『日本書紀』巻十八宣化天皇二年(乙卯五三七)十月壬辰朔
二年冬十月壬辰朔、天皇、以新羅寇於任那、詔大伴金村大連、遣其子磐與狭手彦、以助任那。是時、磐留筑紫、執其國政、以備三韓。狭手彦往鎭任那、加救百濟。
(二年の
・概要
二年の冬十月一日に、天皇は新羅が
・解説
金村の子達が新羅に侵略された任那に派遣され、任那を助けた記事ですが、磐に関しては他に見えず、狭手彦に関しては欽明二十三年八月条に高麗(高句麗)を破った記事があります。三代実録、貞寛三年八月十九日の条の
狭手彦は出発の際に肥前国松浦郡での
⑹『日本書紀』巻十九欽明天皇元年(五四〇)九月
九月乙亥朔己卯、幸難波祝津宮。大伴大連金村・許勢臣稻持・物部大連尾與等從焉。天皇問諸臣曰、幾許軍卒、伐得新羅。物部大連尾與等奏曰、少許軍卒、不可易征。曩者、男大迹天皇六年、百濟遣使、表請任那国上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。大伴大連金村、輙依表請、許賜所求。由是、新羅怨曠積年。不可輕爾而伐。於是、大伴大連金村、居住吉宅。稱疾不朝。天皇遣青海夫勾子、慰問慇懃。大連怖謝曰、臣所疾者、非餘事也。今諸臣等謂臣滅任那。故恐怖不朝耳。乃以鞍馬贈使、厚相資敬。青海夫人、依實顯奏。詔曰、久竭忠誠。莫恤衆口。遂不爲罪、優寵彌深。
(
・概略
九月五日、
これで大伴大連金村、
・解説
この事件のきっかけの記事は「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(8)物部氏の全盛期 物部麁鹿火」稿⑺の記事をご覧ください。この稿で取り上げましたように、麁鹿火はこの時仮病を使って勅使の役割を辞退していますが、「任那四県の割譲」を推し進めた金村は失脚の原因となってしまい、この後の大伴氏と物部氏の地位に影響を及ぼす結果となってしまいます。
⑹は大伴金村がこの時の「任那四県の割譲」を非難する物部尾輿等の言葉によって事実上失脚したという記事ですが、篠川賢氏によると、なぜこの段階で突然「四県割譲」の責任が問われるのか不思議であり、そのまま事実とみる事が出来ないとし、「任那四県の割譲」と金村の失脚とは、直接因果関係が無いという八木充(『日本書紀研究』一「大伴金村の失脚」)の指摘を取り上げています。しかし、篠川氏は継体天皇紀六年十二月条に「任那四県の割譲」を伝える宣勅使の役を物部麁鹿火が辞退したと言う、この記事の伏線となる話がわざわざ作られていることからすると、大伴金村が外交問題を理由に失脚し、そこには物部氏との対立があったというこの記事の主旨については、事実に基づいている可能性が高いのではないか⑸と述べています。継体天皇紀に関しては篠川氏が何を以って作り話と断言しているのか明確ではありませんが、物部氏と大伴氏の対立が金村失脚の原因である事は認めているようです。
私も物部氏との権力闘争で大伴金村が失脚したことは事実かと考えています。雄略朝で祖父の大伴室屋が大連になって以来、長い間権力の座のトップに立っていれば豪族達の不満も高まっていた事は想像に難くありませんし、⑶の記事の様に豪族が大伴氏から屯倉となる土地や田部と言った人員の献上を要求され、強い反発を抱かれていた可能性もあります。
また、対外的にはこの頃は新羅が力をつけてきており、篠川氏等の主張と違い記事の通り三韓政策の失政が原因である事も考えられますが、国内の政治でも金村に対する批判が高まっていた事は想像に難くありません。
その不満の受け皿として台頭したのが、もう一人の大連である物部尾輿であったのかも知れません。(何故、物部麁鹿火と友好的であった金村を、尾輿がしがらみに捕らわれず失脚させられたのか、尾輿の稿で推測してみたいと思います)
こうして、武烈天皇から五代に渡り、天皇を支え続けた大伴金村も遂に失脚をしてしまいます。金村の三男の狭手彦は⑸の記事を始め、高麗を破るなどの武功を立てますが、結局大連になる事はなく、以降大伴氏から大連を輩出することはありませんでした。
ですが、長男の大伴咋は蘇我馬子の物部守屋攻撃の際に馬子に協力した他、主に外交で活躍し、孫の大伴吹負は壬申の乱で大きな戦果を挙げました。
子孫には万葉歌人であり征隼人持節大将軍にもなった大伴旅人や持節征東将軍になり『万葉集』も編纂した大伴家持を始め、『日本霊異記』の編集した景戒など、一族に多くの武人・文人を輩出し、武門のみならず日本の文化面の発展にも大きく貢献し、後裔の伴氏に至るまで最も天皇家に寄り添った一族として長い間繁栄を続けます。
その基盤を作ったのは大伴金村であり、何よりも前稿でも述べましたように本日まで続く天皇家の存続に大きな役割を果たした金村の功績は大きいかと思います。
*追記:五世紀中頃から六世紀後半にかけての大伴氏の執政伝承の史実性
『日本書紀』の記事による大伴室屋から大伴金村が失脚するまでの大伴氏の執政伝承を検討した溝口睦子氏は、同時期の大臣である平群・蘇我・葛城と言った武内宿禰から蘇我稲目に至るまで、日本の歴史は間断ない大臣による執政が行われてきたものの、大臣による執政記事の中身が、みな全く形式的で空疎なものばかりであり、実質的な内容をもつものはゼロに等しく、例外は葛城氏と平群氏の反乱伝承しかあげることができない一方、大伴氏による執政記事をみると、まさしく執政の名に値する伝承が、具体的かつ豊富な内容をもってぎっちり詰まっており、両者を比較するならば、どちらの記事の由来の方が古いのか一目瞭然で殆ど争う余地がないとし、大伴氏の執政伝承は到底一朝一夕に作り上げられる性質のものではないが、大臣の執政記事の多くはその気になれば史官がたちどころに書き上げる類のものであり、この間の大臣執政記事があとから加えた虚構の産物であることはほぼ誤りがないこととして、本エッセイでも取り上げた直木孝次郎氏などによる巨勢大臣の就任造作説を支持し、蘇我氏登場以前における大臣執政は根拠がないとして『日本書紀』の記述を批判しました。
大臣執政の記事に関しての当方の見解は過去の稿に述べた通りであり、近年の考古学的な知見からみて平群氏以外の記述は肯定して良いというのが私見です。
それはとにかく、溝口氏は大伴氏の執政伝承に関しては、大きな歴史の流れからみたとき、このように大伴氏が政治のあらゆる面にわたってトップの地位にあることを伝える記事が、六世紀中頃以降に造作されたとは思えない。なぜなら大伴氏は、この時期以降二度と再び、このような輝かしい地位に昇ったことはなかったからであり、金村の失脚以降、つねに二流の貴族として終始した大伴氏が、この様な最高権力者としての伝承を、それも一つや二つではなく、大量に作りだして周囲に認めさせるということはきわめて考えにくい。やはりこれら大伴氏の執政を語る伝承は、細部の事実はともかく、大局的にみて、史実の核を含むとみて間違いないのではないかと考えられました。
この考え方は何も大伴氏に限らず、溝口氏の批判する葛城氏の記事にも当て嵌まるのではないかと思いますが、「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(5)伴造の台頭。大伴室屋」の追記でも取り上げた、武以以前とは正反対に、室屋以降の『日本書紀』の記事から史実性を認めてもよいという考えとは一致します。
◇参考文献
⑴『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 469・470・216・218ページ
⑵『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 219ページ注二
⑶『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 470・218・220ページ
⑷『日本古代史「記紀・風土記」総覧』 別冊歴史読本 新人物往来社 127ページ
⑸『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 473・230ページ
⑹『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 476・240・242ページ
⑺『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 179ページ
*追記
『古代氏族の系譜』溝口睦子 吉川弘文館 236-253頁
「第四章 大伴氏の歴史 三 最高執政官大伴氏」
◇関連項目
・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(5)伴造の台頭。大伴室屋
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452221281449970
・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(9) 元祖キングメーカー大伴金村①
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700427041757550
・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(8)物部氏の全盛期 物部麁鹿火
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700426076171609
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