『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(5)伴造の台頭。大伴室屋

『前賢故実. 巻之1』より大伴室屋の肖像画

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816700428309079513


 本稿では物部氏と並び大連を輩出した大伴氏の最初の大連であり、実在性が高い人物である大伴室屋についてご紹介させて頂きます。


 万葉歌人であり征隼人持節大将軍にもなった大伴旅人や、同じく万葉歌人で持節征東将軍の大伴家持等の祖である事から、大伴氏と言えば文武両道のイメージがありますが、文の方面が尊ばれるのは近江朝以降と思われます。


 物部氏は武だけでなく祭祀の面でも重要な役割を担っていましたが、大伴氏は天皇の信任を得て、勢力を広げていくと共に専ら武の方面で大和王権における影響力を強めていきます。


 以下の史料から主な大伴室屋の事績を辿っていきます。



(1)『日本書紀』巻十三允恭天皇十一年(壬戌四二二)三月 丙午四日

十一年春三月癸卯朔丙午、幸於茅渟宮。衣通郎姫、歌之曰、等虚辭陪迩、枳彌母阿閇椰毛、異舎儺等利、宇彌能波摩毛能、余留等枳等枳弘。時天皇謂衣通郎姫曰、是歌不可聆他人。皇后聞必大恨。故時人號濱藻、謂奈能利曾毛也。先是、衣通郎姫居于藤原宮。時天皇詔大伴室屋連曰、朕頃得美麗孃子。是皇后母弟也。朕心異愛之。冀其名欲傳于後葉奈何。室屋連依勅而奏可。則科諸國造等、爲衣通郎姫、定藤原部。


(十一年の春三月はるやよひ癸卯みづのとのう朔丙午ついたちひのえうまのひに、茅渟宮ちぬのみやいでまし。衣通郎姫そとほしのいらつめうたよみしてはく、


とこしへに 君も会へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を


時に天皇すめらみこと、衣通郎姫にかたりてのたまはく、「の歌、他人あしたひとになかせそ。皇后きさき、聞きたまはば必ずおほきにうらみたまはむ」とのたまふ。かれ時人ときのひと、浜藻をなづけて、奈能利曾毛なのりそもへり。是より先に、衣通郎姫、藤原宮ふじわらのみやはべりき。時に天皇、大伴室屋連おほとものむろやむらじみことのりしてのたまひしく、「われ頃得美麗このごろかほよ孃子をみなを得たり。是、皇后の母弟おもはらからなり。が心にいとめぐしとおもふ。ねがはくは其の名を後葉のちのよに伝へむとおもふこと、奈何いかに」とのたまひき。室屋連むろやのむらじみことのりまかせてまうすにゆるされぬ。すなは諸國造等くにぐにのみやつこおほせて、衣通郎姫の為に、藤原部ふじわらべを定む。)



・概要

 允恭天皇十一年三月四日、天皇が茅渟宮に訪れると衣通郎姫そとほしのいらつめが「すっかり安心して、何時も変わらずに、あなたにお逢いできるのではございません。海の浜の喪の、波のまにまに岸辺に近寄り漂う様に、稀にしかお逢いいたしておりません」という意味の歌を詠み、天皇は「この歌を他人に聞かせない様に、皇后に恨まれるから」と言い、それで時の人は浜藻を名付けて「なのりそ藻(人に告げるな)」と言った。


 これより先、衣通郎姫が藤原宮に来た時、天皇は大伴連室屋に詔して、「朕はこの頃美人の孃子をみなを得た。皇后の妹である。特別に可愛いと思うので、どうかその名を後世に残したいと思うが、如何であろうか?」と言った。室屋連が勅に従い奏上した事を許された。即ち、諸国のみやつこに衣通郎姫の為に、藤原部ふじわらべを定めるように仰った。


・解説

 允恭天皇の皇后・忍坂大中姫おしさかのおほなかつひめの妹の弟姫おとひめは麗しい輝きが布を通す程なので衣通郎姫そとほしのいらつめと呼ばれる信じられない様な逸話を持つ美女で、允恭天皇が皇后の嫉妬を恐れた程でした。


 『古事記』の安康即位前記では兄である木梨軽太子きなしかるのひつぎのみこと近親相姦を行った軽大郎女かるのおほいらつめ布通王そとおりのみこと呼ばれているので同一人物とも言われ(但し、本居宣長の『古事記伝』では「紛れたる伝へ」としており、別人とみるのが通説)、言わば傾国の美女とか魔性の女と呼ぶのに相応しい女性の名を残すために天皇が大伴室屋に藤原部を定めたのが大伴室屋の名が初めて登場する記事となります。


 藤原部など宮号、あるいは名前に因んだ皇室領を「名代なしろ」と呼びますが、衣通郎姫の場合、藤原宮に住んでいたから藤原部を定めたということになります。大伴氏が天皇に信任される事により、大和王権における影響力をどの様に広げていったかを示唆する記事となります。




(2)『日本書紀』巻十四雄略天皇即位前紀十一月壬子朔 甲子十三日

天皇、命有司設壇於泊瀬朝倉即天皇位。遂定宮焉。以平群臣眞鳥爲大臣。以大伴連室屋。物部連目爲大連。


天皇すめらみこと有司つかさみことおほせて、たかみくら泊瀬はつせの朝倉にまうけて、即天皇位あまつひつぎをしろしめす。つひに宮を定む。平群臣眞鳥へぐりおみまとり大臣おほおみとす。大伴連室屋おほとものむらじむろや物部連目もののべのむらじめを以て大連とす。)



・解説

 (2)は雄略天皇が即位する際に天皇が役人に命じて即位の場所を泊瀬の朝倉に設け、皇位に即位すると、宮を定め、平群真鳥を大臣とし、大伴連室屋、物部連目を大連にした事が書かれています。


 (1)の記事にある様に、藤原部を定めたぐらいの事績しかない室屋が雄略天皇即位前紀で突如最高位である大連に任命されるのは、雄略天皇が眉輪王、市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこ御馬皇子みまみこと言った雄略の皇位継承におけるライバルを葬る際に、恐らく大伴氏や物部氏がバックアップしたであろう功績に対する論功行賞だったのではないかと思います。


 井上光貞氏は「それぞれの皇子の背後には必ずやこれを支持する勢力があったはずで、キナシカルノミコを討った安康の背後には、記紀の所伝によれば物部連があったとされている。また、マヨワノミコ、続いてイチノベオシハノミコを討った雄略を支持したのは、私は大伴連であろうとおもう。大伴連のうごきはこの雄略朝から著しくなるからである。そして、物部・大伴の二氏が軍事を掌る伴造の家であって、葛城などの地方豪族の出身でないこと、従って皇室との関係において後者はこれと対等に近いが、前者はトモであるという事はかつて詳しく述べたことである。」(3)


 と主張しています。木梨軽皇子は古事記では大前小前宿禰おほまへこまへのすくね、日本書紀では物部大前宿禰もののべおほまへのすくねの家に逃げ込んだところ、安康天皇に引き渡された伝承を載せていますが、この事から安康即位の際に物部氏がバックアップしたと見られており、同様に雄略を支持した勢力が大伴氏であったとみる井上氏の見解は妥当かと思います。


 付け加えて言えば、権勢を振るった葛城氏に対抗するために天皇家に忠誠深い伴造から有力者が出てくるのは必然の出来事であり、それらが物部・大伴両氏でした。


 葛城氏と同じく武内宿禰の末裔という系譜が創作されている事から、葛城氏と同族意識があると思われる平群真鳥の大臣就任も、実は葛城氏に近い一族を内部分裂させることで葛城氏の力を削ぐ目的があったと推測出来ます。(但し、真鳥の大臣就任に関しては創作である疑いが強い事は次稿で述べます。)


 この後、大伴氏は有力豪族を退け、古代屈指の豪族として発展していきます。以下に大伴室屋の最大の見せ場をご紹介致します。



(4)『日本書紀』巻十五清寧天皇即位前紀 廿三年(己未四七九)八月。

廿三年八月、大泊瀬天皇崩。吉備稚媛陰謂幼子星川皇子曰。欲登天下之位。先取大藏之官。長子磐城皇子。聞母夫人教其幼子之語曰。皇太子雖是我弟。安可欺乎。不可爲也。星川皇子不聽。輙隨母夫人之意。遂取大藏官。鏁閇外門。式備乎難。權勢自由費用官物。於是大伴室屋大連。言於東漢掬直曰。大泊瀬天皇之遺詔今將至矣。宜從遺詔奉皇太子。乃發軍士圍繞大藏。自外拒閇。縱火燔殺。是時吉備稚媛。磐城皇子異父兄兄君。城丘前來目。〈闕名。〉隨星川皇子而被燔殺焉。惟河内三野縣主小根。慓然振怖。避火逃出。抱草香部吉士漢彦脚。因使祈生於大伴室屋大連曰。奴縣主小根事星川皇子者信。而無有背於皇太子。乞降洪恩救賜他命。漢彦乃具爲啓於大伴大連。不入刑類。小根仍使漢彦啓於大連曰。大伴大連。我君降大慈愍。促短之命既續延長。獲觀日色。輙以難波來目邑大井戸田十町。送於大連。又以田地與于漢彦。以報其恩。


(二十三年の八月はづきに、大泊瀬天皇、かむあがりましぬ。吉備稚媛きびのわかひめひそか幼子星川皇子わかごほしかわのみこかたりてのたまはく。「天下之位登たかみくらしらむとならば、大藏おほくらつかさを取れ」とのたまふ。長子磐城皇子このかみいわきのみこ母夫人いろはのみめの、其の幼子に教ふることを聴きて曰はく、「皇太子、是我これわおととなりといへども、いづくにぞあざむくべけむ。不可爲しかはすべからず」とのたまふ。星川皇子、不聽かずして、たやすく、母夫人いろはのみめみこころしたがひて、つひに大藏のつかさを取れり。外門ほかとかためて、わざはひそなふ。権勢いきほひ自由ほしきままにして、官物おほやけもの費用つひやす。ここに大伴室屋大連、東漢掬直やまとのあやのつかのあたひに言ひてのたまはく、「大泊瀬天皇おほはつせのすめらみこと遺詔のちのみことのりし、今に至りなむとす。遺詔に従ひて、皇太子につかへまつるべし」といふ。すなは軍士いくさおこして大藏を囲繞かくむ。よりふせかためて、火をけて燔殺やきころす。の時に、吉備稚媛きびのわかひめ、磐城皇子の異父兄兄君ことぞえのあにえきみ城丘前來目きのをかさきのくめ〈名をせり。〉星川皇子に隨ひて、燔殺されぬ。ここ河内三野縣主小根かふちのみあがたぬしをね慓然振怖をののきて、火をりてのがれ出づ。草香部吉士漢彦くさかべのきしあやひこが脚をうだきて、りて生きむことを大伴室屋大連にのみまうさしめてまうさく、「やつこ縣主小根あがたぬしをね、星川皇子につかへまつりしことは、まことなり。しかれども皇太子に背きたてまつること有ること無し。ふ、洪恩おほきなるめぐみくだして、ひといのちを救ひ賜へ」とまうす。漢彦あやひこ、乃ちつぶさために大伴大連にまうして、刑類ころすつみのつらに入れず。小根、りて漢彦をして大連にまうさしめてまうさく、「大伴大連、我が君、大きなる慈愍めぐみくだして、促短せまれる命、既に延長べて、日の色を観ることを獲たり」とまうす。すなは難波なには來目邑くめむら大井戸おほいへ田十町たところを以て、大連に送る。又田地またたどころを以て、漢彦あやひこに与へて、其のめぐみむくゆ。)


・概要

 雄略天皇二十三年八月、天皇が亡くなられると、夫人の吉備稚媛きびのわかひめは、幼い星川皇子に「天子の位に登ろうと思うなら、まず大蔵の役所を取りなさい」と唆し、長子の磐城皇子いわきみこはこの事を聞いて「皇太子は私の弟であるけれど叛く事など出来ません。してはならないことです」と言った。しかし、星川皇子は聞かずに吉備稚媛の意向に従い、大蔵を乗っ取った。外門を閉ざし固めて、攻撃に備え、官物を勝手に使った。


 大伴室屋大連は東漢掬直やまとのあやのつかのあたひに「(雄略)天皇の遺詔のことが今起きようとしている。遺詔に従い皇太子にお仕えしなければならない」と言った。兵士を出動させ大蔵を取り囲み、外から防ぎ固めて火をつけて焼き殺した。


 この時、吉備稚媛きびのわかひめ磐城皇子いわきみこの異父兄の兄君えきみ城丘前来目きのをかさきのくめも星川皇子とともに焼き殺された。この時、河内三野縣主小根かふちのみあがたぬしをねは恐れ戦いて火を避け脱出した。草香部吉士漢彦くさかべのきしあやひこが脚に抱き着き、助命を大伴室屋大連に乞うて欲しいと言い「自分が星川皇子に仕えたのは事実です。しかし皇太子(清寧天皇)に背く事はございません。どうか大きな恵によりお許しください」と言った。


 漢彦あやひこは大伴連に色々と詳しく申し立てて、処刑はされなかった。小根は漢彦から大連に申し上げさせ、「大伴大連、我が君の大きな恵によって、寿命が迫っていた命が生きながらえて、また日の目を見ることが出来ました」と言い、難波の来目邑の大井戸の田十町を大連に贈った。また、田地を漢彦に与えてその恩に報いた。



・解説

 雄略天皇紀ではしばしば反乱伝承が描かれている吉備氏の血筋である星川皇子の反乱を大伴室屋が鎮圧したエピソードです。


 当時、山陽地方で巨大な勢力を誇った吉備氏はこの反乱が鎮圧された後、吉備上道臣きびのかみつみちのおみが船軍四十艘を率いて攻めようとしたものの、星川皇子が殺されたことを知り、退いた後、天皇の遣いに責められ、山部を取り上げられた出来事を最後に吉備氏の反乱は影を潜めます。


 5世紀前半から中頃にかけて、全国4位の規模を誇るという造山古墳、その後の作山古墳は吉備氏の最盛期に造られたと言われていますが、5世紀後半には古墳の規模が縮小していくのは『日本書紀』の雄略天皇紀や清寧即位前紀に見られる吉備氏の反乱伝承と衰退に符号していると言われています。


 直木孝次郎氏の説などでよく知られている様に、当時は豪族と天皇の二重支配であったと言われていますが、独裁政権を目指した雄略天皇の時代、天皇家に仕える伴造の立場から地方豪族の力を削ぎ、中央の支配を強める役割を担ったのが物部氏であり、大伴氏であった事が伺えます。




◇大伴室屋の兵力

 大伴氏を支えた軍事力には靫負部という古代の宮廷の緒門を守衛した伴と部があり、舎人が太刀を佩き、靫負は弓矢を負いました。大伴連に率いられた軍団であり、地方国造の師弟による編成される軍隊でした。景行天皇紀四十年に日本武尊が甲斐国の酒折宮で靫部を大伴連の先祖、大伴武日連に賜った記事があります。


 集解職員令左衛士府条所引弘仁二年十一月二十八日付官符には「室屋大連公。領靱負三千人。」と書かれていますが真偽は不明です。時代が少し下り武烈天皇即位前紀では「此夜、速向大伴金村連宅、會兵計策。大伴連、将數千兵、徼之於路、戮鮪臣於乃樂山」と室屋の孫、大伴金村が一夜の内に数千の兵を率いて平群鮪臣へぐりしびおみを殺したという記事が元になっていると個人的には思うのですが、武烈天皇即位前紀の記事自体は『後漢書』、光武帝紀の「会兵計策」及び「光武帝将数千兵、徼之於陽関」を採ったものらしいです(5)


 只、「領靱負三千人」が史実を反映したものであれば5世紀頃の一豪族の兵力としては相当の人数でしょうし、大伴氏は他にも来目部久米部という軍事的な部民を率いてました。これらの軍事力が葛城氏・平群氏・吉備氏を抑え込む主戦力になった事は想像に難くありません。


 長くなるので割愛しましたが、雄略天皇紀二十三年八月に条に大伴室屋に対して「大連等、民部廣大、充盈於國」という詔は大伴連等が莫大な部曲の私有していた事を示し、後世大化前代における私有民である大伴部は全国的に分布し、特に東国・奥羽が目立ちます。(6)


 この莫大な部曲・軍事力を基盤に、大伴氏は天皇家を長い間支え続ける事になります。


◇大伴室屋は長寿だった?

(7)『日本書紀』巻十六武烈天皇三年(辛巳五〇一)十一月

十一月、詔大伴室屋大連、發言濃國男丁、作城像於水派邑。仍曰城上也。


十一月しもつきに、大伴室屋大連にみことのりして、「信濃國の男丁よほろおこして、かたち水派邑みなまたむらに作れ」とのたまふ。りて城上きのへと曰ふ。)


・概要

 武烈天皇三年十一月に、大伴室屋大連に「信濃國の壮丁を集めて、城を(大和の)水派邑みなまたむらに作れ」と命じた。よってそこを城上という。



・解説

 (1)の允恭天皇紀が初出の大伴室屋で、最後に名が登場するのが(7)の武烈天皇紀三年なので、これが史実だとすれば何と七代の天皇に仕えた事になり、武内宿禰ですら四代(神功を含めて五代)なので驚くべき長寿となりますが、流石に不自然すぎるので、この時代の大連である大伴金村の事績とみるのが一般的な見解の様です。


 只、この様な長寿の伝承が生まれる背景として、伝説的な活躍が伝えられる室屋が大伴氏の『墓記』では武内宿禰の如く神格化されており、室屋の事績と伝えられていた可能性もあるのかも知れません。



*追記:大伴氏関連記録の史実性

 大伴室屋以前の大伴氏関連の記録を一覧にすると以下になります。


◎天孫降臨条(記紀)

イ、神武東征に従事=道臣命(記)・日臣命(紀)

ロ、垂仁天朝五大夫の一=大伴武日(紀)

ハ、景行朝日本武尊東征に従軍=大伴武日(紀)

二、仲哀朝四大夫の一=大伴武似(紀)


 イは神話・伝説の中にあり何らかの事実的記載も認める事は出来ないとされながらも、神武東征の記事に天孫降臨条の記事との重なりがみられ、天孫降臨伝承が形成される以前の大伴氏の氏祖伝承と推測される面も有していると見られています。

 ロは大伴氏に軍事氏族の面影が無く、五氏族の最下位に挙げられれ、古事記にも同様の記事が見えません。

 ハはいかように武門の語りとみられようが、日本武尊東征譚はもとより歴史的事実とは考えられず、古事記に武日が見えません。

 ニはロの記事では阿倍・和珥・中臣・物部・大伴の五氏であったのが、ニの記事では阿倍・和珥の名が無く、新たに加わった大三輪氏は何故か物部・大伴両氏の上に位置し、依然大伴氏は最下位であり、古事記にも記載がありません。⑻


 これらのイ~ニの記事について、史実は認められないとされ、川口常孝氏はこれらの『日本書紀』の記述は歴史以前とも称すべき部分で武日・武以の実在性は十分には信じがたい。ゆえに、厳密に実在した人物は武以の子といわれ、大伴金村の祖父にあたる、允恭天皇十一年(四二二)紀の大伴室屋あたりからとすべきであるとし、物部目とともに大連を賜ったことが雄略即位前紀(四五七)に見え、大連は、大王の称号の確立に伴って生じてきたものと考えてよく、即位前期の記事は、今や大伴氏が、物部氏と共に大和朝廷の最高執政官の役割をになうに至ったことを告げており、大伴氏の史上への登場を確認して良いだろうと説かれています。⑼


 つまり、室屋以前の大伴氏の人物・事績は虚構であり、室屋以降の記事から史実性を認め、室屋の代から大連という称号が使われ始めたと考えてよい様です。


 比較検討する材料が少ないことと、『古事記』に武日・武以の名がみられないからと言って、『日本書紀』の方が虚構と単純に考えてよいのか疑問に感じる事はありますが、大夫の記事で順位まで着目する手法は、「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(1)伝承の時代。物部十千根大連」の稿で取り上げたロの記事が『続日本紀』巻四和銅元年(七〇八)三月 丙午十三日の記事との関連性で、両書の記事が似ているからと言って、順位が一致していない事から和銅元年の出来事を『日本書紀』に取り入れたという説の再検討も可能なのかも知れません。



・参考文献

(1)『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫548・326ページ

(2)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫415・24ページ。

(3)『井上光貞著作集 第一巻』 岩波書店 68ページ

「帝紀からみた葛城氏」

(4)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫435・436・92・94・96ページ。

(5)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 151ページ 注六

(6)『日本書紀(一)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 382ページ 注二五

(7)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫452・155ページ。

(8)『大伴氏の伝承 旅人・家持への系譜』菅野雅雄 桜楓社 80~88ページ

(9)『大伴家持』川口常孝 桜楓社 6ページ


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