『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(4)伴造の台頭。物部目

『前賢故実. 巻之1』より物部目の肖像画

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816700427928866148


 履中天皇紀・安康天皇紀では物部大前宿禰が天皇の皇位継承に関わる記事が見られ、この頃から物部氏が発展し始めたとも言われていますが、大連として大和王権において大きな影響力を持ち始め、『日本書紀』で「物部」の記事が増え始めるのは雄略天皇紀に登場する物部目大連もののべのめおおむらじの時代からになります。


 『続日本紀』によれば左大臣の石上麻呂が「泊瀬瀬朝倉朝廷大連物部目後、難波朝衛部大華上宇麻之子也」と書かれている事から、日本書紀編纂にも影響力があった事が推察される石上麻呂により目は作成された人物とも言われていますが、実在を主張する説も多く、はっきりしません。


 ですが、物部目の実在性はとにかくとして、物部氏・大伴氏の活躍が雄略天皇紀から増え始めるのは、この頃に葛城氏の様な大豪族の代わりに伴造が台頭し始めた事の反映であると考えられます。


 以下、物部目に関する伝承を見て行きましょう。


(1)『日本書紀』巻十四雄略天皇十三年(己酉四六九五)三月

十三年春三月、狹穗彦玄孫齒田根命、竊姧采女山邊小嶋子。天皇聞、以齒田根命、收於物部目大連、而使責讓。齒田根命、以馬八匹・大刀八口、秡除罪過。既而歌曰、耶麼能謎能、故思麼古唹衞爾、比登涅羅賦、宇麼能耶都擬播、鳴思稽矩那欺。目大連聞而奏之。天皇使鹵田根命、資財露置於餌香市邊橘本之土。遂以餌香長野邑、賜物部目大連。

(十三年の春三月はるやよひに、狹穗彦いざほびこ玄孫齒田根命やしはこはたねのみことひそか采女山邊小嶋子うねめやまのべのしまこをかせり。天皇すめらみこときこしめて、齒田根命をて、物部目大連もののべのめおほむらじ收付さづけて、責讓ころはしめたまふ。齒田根命、馬八匹うまやつぎ大刀八口たちやつて、罪過つみ秡除はらふ。すでにしてうたよみしていはく、


 山辺の 小嶋子ゆゑに 人ねらふ 馬の八匹やつぎは しけくもなし


目大連、聞きてまうす。天皇、鹵田根命をして、資財たからものあらは餌香市邊をかのいちべの橘の本のところに置かしむ。つひ餌香ゑか長野邑ながののむらを以て、物部目大連にたまふ。)



・概要

 雄略十三年春三月、狭穂彦の玄孫(孫の孫)歯田根命が、密かに采女山邊小嶋子うねめやまのべのしまこを犯し、天皇がその事を聞いて物部目大連に預けて歯田根命を責めた。歯田根命は馬八匹・太刀八口を以って罪科を償い、終わってから歌を詠んだ。


 山辺の小島子の為に、人々が狙っている馬の八頭を、手放すのは少しも惜しくない


 という意味の少しも反省していない旨の歌を詠んだため、目の報告を受けた天皇は鹵田根命の資材を全て餌香市邊をかのいちべに出させ、目には餌香ゑかの長野邑を賜ったという内容です。


・解説

 篠川賢氏によると坂本太郎氏の指摘の通り、この話は物部氏の家記(石上氏の『墓記』)に基づく記事である可能性が高いそうですが、歌に基づいて作成された話で事実の伝えと考えられないとしながらも、この話が作られた背景に物部氏が采女の管理や、采女を姦した犯罪者の取り締まり(ひいては警察一般)の任務に関わっていた事を推測するのは可能である事と、物部氏の拠点の一つに餌香の長野邑があった事を推定するのも誤りでは無い(2)と、この方にしては珍しく日本書紀をやや好意的に解釈している向きがあります。


 私も物部目の実在はとにかく、雄略天皇紀の物部に関わる記事から推定して、この頃に物部氏の母系集団が警察的な役割を担っていたのは史実とみて良いかと思います。


 この事を裏付ける記事としては雄略天皇紀七年八月条には吉備下臣前津屋の不敬を聞いた天皇が「物部兵士」三十人を遣わして前津屋の一族七十人を誅殺したとあります。これも篠川賢氏によると「刑の執行を任務として物部とみてよいであろう。これらの記事をそのまま事実の伝えとみることは出来ないが、『日本書紀』編者のまったくの作文とも考え難い。」(2)と、無理矢理『日本書紀』を否定したくても否定する材料も見つけ難い篠川氏の苦しい胸の内が文章に伝わってきます(笑)




(3)『日本書紀』巻十四雄略天皇十八年(甲寅四七四)八月 戊申十日

 十八年秋八月己亥朔戊申、遣物部菟代宿禰・物部目連、以伐伊勢朝日郎。々々々聞官軍至、即逆戰於伊賀青墓。自矜能射、謂官軍曰、朝日郎手、誰人可中也。其所發箭、穿二重甲。官軍皆懼。菟代宿禰、不敢進撃。相持二日一夜。於是、物部目連、自執大刀、使筑紫聞物部大斧手、執楯叱於軍中、倶進。朝日郎乃遥見、而射穿大斧手楯二重甲。并入身肉一寸。大斧手以楯翳物部目連。目連即獲朝日郎斬之。



(十八年の秋八月の己亥つちのとのゐ朔戊申ついたちつちのえさるのひに、物部菟代宿禰もののべうしろのすくね、物部目連を遣わして、伊勢いせ朝日郎あさけのいらつこたしめたまふ。朝日郎、官軍みいくさいたると聞きて、即ち伊賀の青墓あおはかたたかふ。みずかゆみいることをほこりて、官軍みいくさひてはく、「朝日郎が手に誰人たれあたるべき」といふ。其のいはなは、二重ふたへよろひ穿とほす。官軍、皆懼みなおづ。菟代宿禰、敢へて進み撃たず。相持まもること、二日一夜ふつかひとよここに、物部目連、みづか大刀たちりて、筑紫つくし聞物部大斧手きくのもののべのおほをのてをして、楯をりて軍の中にたけびしめて、ともすすましむ。朝日郎、すなははるかに見て、大斧手が楯と二重ふたへよろひとを射穿いうがつ。あはせて身のししに入ること一寸ひとき。大斧手、楯を以って物部目連をさしかくす。目連、即ち朝日郎をとらへころしつ。)


・概要

 十八年の秋八月十日。雄略天皇は物部菟代宿禰もののべうしろのすくね、物部目連を遣わして、伊勢いせ朝日郎あさけのいらつこを討たせられた。朝日郎は官軍が来ると聞いて、伊賀の青墓で迎え撃った。弓が得意な事を誇り、「朝日郎相手に誰が当たることが出来るか」と言った。その射放つ矢は二重の鎧を射通し、漢軍は皆恐れ戦いていた。菟代宿禰は敢えて進まず、退治する事二日一夜に及んだ。物部目連は自ら大刀を取り、筑紫つくし聞物部大斧手きくのもののべのおほをのてに楯を持たせて軍の中で雄たけびを上げさせながら進んだ。朝日郎は遥かに眺め、大斧手の楯と二重の鎧を射通し、体の中に一寸突き刺さった。大斧手は楯で物部目連を隠し、目連は朝日郎を捕らえると斬り殺した。


・解説

 坂本太郎氏によると、この話も「物部氏の家記によるもの」とされていますが、篠川賢氏によると「目も大斧手も実在の人物とは考え難いが、その設定自体は、事実に基づくものであると考えられる」(4)などと如何とでも取れそうな解釈をしていますが、同書で引用している榎村寛之氏は、「楯と弓箭に呪力を認める意識は、令制的な祭祀具として楯と鉾の組み合わせが成立する以前の古い段階の意識であり、持統の即位式において石上麻呂が大楯を立てているのは(『日本書紀』持統四年正月朔条)、この意識に基づいたものであろうとされている。」との事で、更に篠川氏はこの点は、「石上氏が目を祖としていることと関連したものと考えられるのであり、石上麻呂の関与が想定される」との見解を出しています。


 しかし、守屋俊彦氏は全く別の見解で、この話は「伊勢国風土記逸文の伊勢津彦討伐の物語の複写」(5)との事です。


 『伊勢国風土記』逸文を要約すると、神武東征の際、天皇が天日別命に遥か遠い国がある、平定せよと命じ、伊勢津彦と言う者に「汝の国を天孫に献れ」と言うと伊勢津彦は拒否しましたが、結局は国譲りし、退却したと書かれています。この伊勢津彦は退却する際に「日の如く光り輝いた」と伝えられており、太陽神的な性格があります。


 話に登場する伊勢津彦は伊勢の国王であり、太陽神を祖神とし、自らも太陽の子と称していたであろう、それが伊勢津彦の原型である事を守屋氏は指摘しており、更に「朝日郎の物語は伊勢津彦の物語と同型であり、しかも朝日郎は、朝日という太陽を思わせる名を持っている為、朝日郎の物語は伊勢津彦の物語の複写であり、朝日郎の物語は伊勢津彦の末裔と言えよう。雄略天皇の地方豪族討伐の物語の一つとして、伊勢津彦の物語を模型にして作られた物であろう。作者は物部氏とみられる。」(5)と守屋氏は述べています。


 補足すると、日が昇り海原を照らす「海照あまてらす」太陽信仰は、天上から照らす「天照あまてらす」よりも古い信仰の形らしく、伊勢津彦が伊勢国から退く際、海原で波を起こしながら「日の如く光り輝いた」のは天照よりも古い太陽神であった可能性を思わせます。


 『風土記』では殆ど天照大神の名前が登場しない事から、天照大神が大して古い太陽神では無く、各地の多くの記事で名が見受けられるオオアナムチの方が古くから広く信仰されていたというのが私の持論ですが、天照大神の出自は海人族の太陽神であり、尾張氏の天照神あまてるかみが天照大神の前身と思われると言う宗教・神話学者の松前健氏の説はよく知られているとおりです(6)。


 記紀には伊勢津彦の名は登場しませんが、風土記にはしばしばその名が見られることから、伊勢津彦は記紀では存在を抹殺された天照大神以前の伊勢国に存在した古来の太陽神で、朝日郎の説話は伊勢津彦のような古来の伊勢の太陽神を奉っていた一族の抵抗とも見られますが、同じく太陽神であることを思わせる饒速日命にぎはやひのみことを奉る物部氏との戦いである事が何らかの意味があるのではないのかと思えてなりません。


 個人的には物部氏が雄略朝の頃、伊勢国古来の太陽神を祀った朝日郎の様な一族を征討した出来事が説話的に伝えられたのかと推測していますが、革製の鎧と革製の楯であれば、鉄の鏃で射貫くのは可能かもしれないという事は過去の稿(関連項目参照)で取り上げた通りなので、完全な創作とも言い難いかも知れません。


 名著で知られている民俗学者の谷川健一氏の『青銅の神の足跡』(いろいろな作品のモチーフになっているので、特に創作をなさっている方には是非とも読んで頂きたい本です)によると、伊勢国多度神社で祀られている一目連はもともと「一つ目の連」と呼んでいたのではないかと推測しており、理由は雄略紀において物部目連が朝日朗と戦った記事があり、朝日朗が支配していた朝明郡と、物部目がこの戦いの後に賜った猪名部は多度神社のすぐ近くに位置する事を述べています。(7)




・『先代旧事本紀』を読んで不思議に思う事。

 この様に、『日本書紀』では大活躍の物部目ですが、一つ気になるのが、物部氏の伝承を載せた『先代旧事本紀』では物部目の活躍が全く伝えられていない事です。祖神である天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと宇摩志麻治命うましまちのみことの伝承については『日本書紀』に無い話まで盛られているのだから、一族の英雄と言ってもいい物部目や物部麁鹿火もののべのあらかひについて、もっと詳しい伝承を載せていても良いハズですが、何故系譜や大連になった事ぐらいしか載せていないのか理由が分かりません。


 『先代旧事本紀』が『日本書紀』をベースにしているのは明らかであり、編纂者が彼らの伝承について知らない訳が無く、寧ろ意図的に彼らを書く事を避けているのではないかとさえ勘繰りたくなります。


 かつて、ネットで物部氏に詳しい方にこの事を尋ねてみると、編纂した時期的に書く事が出来ない何らかの事情があったのではないか? と言った話をお伺いした事がありますが、そうなると石上氏の衰退と関わっているのかな? 程度しか予測出来ません。だとすれば、そもそも何で『先代旧事本紀』が書かれたのかという疑問に突き当たってしまいますが……。


 穿った見方をすれば、元々は物部氏の『墓記』に無かった伝承で、目の活躍は『日本書紀』編纂時に創作された話であり、『先代旧事本紀』編纂者が『墓記』に忠実で『日本書紀』の話を避けた(麁鹿火の話に関しては大伴金村が主導している事から、『日本書紀』では大伴氏の『墓記』の内容を漢籍風に潤色した為、物部氏の『墓記』に無かった?)とも考えられなくもありませんが、証明のしようも無いので推測の域を出ませんね……。


 詳しい方が居られましたら何卒ご教示の程宜しくお願い致します。




◇参考文献

(1)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 428・70ページ

(2)『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 143ページ

(3)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 430~431・80ページ

(4)『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 144~145ページ

(5)『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 222ページ

(6)『謎解き日本神話』 松前健 大和書房 81ページ

(7)『青銅の神の足跡』 谷川健一 集英社文庫


◇関連項目

上代の一般兵の武装を推察(2)国内文献編

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452220555426641


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