コラム 葛城氏の神の性質

 武内宿禰、葛城円と言う葛城氏に関わる二人の大臣のご紹介をさせて頂いたついでに、古い名族でありながら神代に祖神が登場しない葛城の神の性質がどういったものであったのか考えてみましょう。


 記紀で葛城氏の神がはっきりと登場するのは神代より遥かに時代が降る雄略天皇の御代、一言主の神が登場するのみですが、このエピソードが葛城氏の氏神の性格を知る重大なヒントとなっています。


(1)『日本書紀』巻十四雄略天皇四年(庚子四六〇)二月

四年春二月、天皇、射獵於葛城山。忽見長人。來望丹谷。面貌容儀、相似天皇。天皇知是神、猶故問曰、何處公也。長人、對曰、現人之神。先稱王諱。然後應噵。天皇、答曰、朕是、幼武尊也。長人、次稱曰、僕是一事主神也。遂與盤于遊田、駈逐一鹿、相辭發箭、並轡馳騁。言詞恭恪、有若逢仙。於是、日晩田罷。神、侍送天皇、至來目水。是時、百姓、咸言、有徳天皇也。


(四年の春二月はるきさらぎに、天皇すめらみこと葛城山かづらきやま射獵かりしたまふ。たちまちたきたかき人を見る。きたりて丹谷たにかひあひのぞめり。面貌容儀かほすがた、天皇に相似たうばれり。天皇、是神これかみなりと知らしめせども、猶故なほことたへに問ひてのたまはく、「何処いづこきみぞ」とのたまふ。たきたかき人、こたへてのたまはく、「現人之神あらひとかみぞ。きみみななのれ。しかうしてのちはむ」とのたまふ。天皇、答へてのたまはく、「おのれは是、幼武尊わかたけのみことなり」とのたまふ。たきたかき人、つぎてなのりてのたまはく、「やつかれこれ一事主ひとことぬしの神なり」とのたまふ。つひとも遊田かりたのしびて、一の鹿しし駈逐ひて、箭発やはなつことを相辞こもごもゆづりて、うまのくちを並べて馳騁す。言詞恭ことことばゐやゐやしくつつしみて、ひじりごときことをします。ここに、日晩ひくれて田罷かりやみぬ。神、天皇を侍送おくりたてまつりたまひて、來目水くめのかはまでにまういたる。是の時に、百姓おほみたからことごとくまうさく、「おむおむしくします天皇なり」)


 (1)の概略は四年春二月、天皇が葛城山の狩に行った際、長身の人が現れ、容姿が天皇によく似ていました。天皇はこれが神であると思いましたが、わざと「どちらの公でいらっしゃいますか」と尋ねると、背の高い人は「現人神(姿をあらわした神)である。先ずあなたの名前を名乗りなさい。そうすれば自分も答えよう」と言われ、天皇は「私は幼武尊わかたけのみことである」と答えました。すると背の高い人は「私は一事主である」と言いました。それから一緒に狩を楽しみ、鹿を追い詰めても矢を放つのは譲り合い、轡を並べて馳せ合い、言葉も恭しく仙人に逢ったかのようでした。日も暮れて狩も終わり、神が天皇を見送りして来米川までお越しになられ、この時、世の人々は「天皇は徳のあるお方である」と言いました。


 上記の伝承は奉斎神が天皇に見いだされることにより、葛城氏の祭祀権が奪われた事を意味すると言われていますが、『古事記』の一言主の伝承の方は雄略が一言主を恐れ畏まる内容になっており、これは葛城本家が滅ぼされた後も尚、「『古事記』の一言主の神話が伝えるのは葛城山中では天皇と言えども葛城の神に屈服せねばならなかったことと、葛城氏の勢力がなお強力であった事を示す」という説(2)もあり、どちらなのかハッキリしません。


 『続日本紀』『日本霊異記』と言った後世の文献の一言主を見ると、時が経つにつれ貶められている事から、最も一言主を尊んだ『古事記』の方が『日本書紀』よりも古い話を伝えている可能性が高いと言えます。


 まぁ、一般的な一言主の神話の解釈はこんな所ですが、多分誰も研究していないであろう葛城氏の神の本質について探ってみました。



(3)『日本書紀』巻二神代下第九段本文

先是、天稚彦在於葦原中國也、與味耜高彦根神友善、〈味耜。此云婀膩須岐。〉故、味耜高彦根神、昇天弔喪。時、此神容貌、正類天稚彦平生之儀。故、天稚彦親屬妻子皆謂、吾君猶在、則攀牽衣帶、且喜且慟。


(是より先、天稚彦あめわかひこ葦原中國あしはらのなかつくにに在りしときに、味耜高彦根神あじしきたかひこねのかみ友善うるはしかりき。〈味耜、此をば婀膩須岐あぢすきと云ふ。〉かれ、味耜高彦根神、天に昇りて喪をとぶらふ。時に、此の神の容貌かたち、正に天稚彦が平生いけりしときよそほひたり。故、天稚彦が親屬妻子ちちははうがらやからめこ皆謂みなおもはく、「が君は猶在しなずなほましましけり」といひて、則ち衣帶ころもひもかかり、且喜かつよろこ且慟かつまどふ。)


〈〉=本文註


 (3)は長くなるので大幅に本文を割愛していますが、内容を要約すると天稚彦と生前仲が良かった味耜高彦根神は天稚彦の喪を弔いにやってきましたが、その姿が天稚彦が生きていた時とそっくりだった為、天稚彦の両親と妻はまだ天稚彦が生きていると勘違いした、という内容です。


 この味耜高彦根神は賀茂氏の氏神ですが、『釈日本紀』引用の『土佐国風土記』逸文によると「有土左高賀茂大社 其神名爲一言主尊 其祖未詳 一説曰大穴六道尊子 味鉏高彦根尊」(4)と書かれており、一言主の祖は詳らかでは無いですが、一説によれば大穴六道尊の子、味鉏高彦根尊であるとの内容で、この事から賀茂と葛城が関りが深かった事を指し、両者の拠点が同じことだったからも裏付けられています。


(5)『日本書紀』巻十応神天皇九年(戊戌二七八)四月

九年夏四月、遣武内宿禰於筑紫、以監察百姓。時武内宿禰弟甘美内宿禰、欲廢兄、即讒言于天皇、武内宿禰、常有望天下之情。今聞、在筑紫而密謀之曰、獨裂筑紫招三韓令朝於己、遂將有天下。於是、天皇則遣使、以令殺武内宿禰。時武内宿禰歎之曰、吾元無貳心、以忠事君。今何禍矣、無罪而死耶。於是、有壹伎直祖眞根子者。其爲人能似武内宿禰之形。獨惜武内宿禰無罪而空死、便語武内宿禰曰、今大臣以忠事君。既無黒心、天下共知。願密避之、參赴于朝、親辨無罪、而後死不晩也。且時人毎云、僕形似大臣。故今我代大臣而死之、以明大臣之丹心、則伏釼自死焉。(以下、略)


(九年の夏四月なつうづきに、武内宿禰を筑紫に遣はして、百姓おほみたから監察しむ。時に武内宿禰のおとと甘美内宿禰うましまちのすくね、兄をてむとして、すなはち天皇によこまうさく、「武内宿禰、常に天下あめのしたねがこころ有り。今聞く、筑紫にはべりて、ひそかはかりてふならく、『ひとり筑紫を裂きて、三韓みつのからくにを招きて己にしたがはしめて、つひ天下あめのしたたもたむ』といふなり」とまうす。ここに、天皇、すなはち使いをつかはして、武内宿禰を殺さしむ。時に武内宿禰、歎きていはく、「やつかれ、元より弐心ふたこころ無くして、まめこころを以て君につかふ。今何のわざはひそも、罪無くしてみまからむや」といふ。是に、壹伎直いきのあたひおや眞根子まねこといふひと有り。其れ為人ひととなり、能く武内宿禰の形にたうばれり。ひとり武内宿禰の、罪無くしてむなしくみまからむことををしびて、便すなはち武内宿禰に語りて曰はく、「今 大臣おほおみまめのこころを以て君につかふ。既に黒心無きたなきこころ無きことは、天下共に知れり。願はくは、ひそかりて、みかど參赴まうでまして、みづか罪無つみなきことをわきだめて、のちみまからむことおそからじ。時人ときのひとつねに云はく、『やつかれが形、大臣にたうばれり』といふ。かれ、今 やつかれ、大臣にかはりてみまかりて、大臣の丹心きよきみみこころあかさむ」といひて、則ち釼にあたりてみづかみまかりぬ。)


 (5)は引用が長くなりましたので概略だけ述べますと、応神天皇9年4月、武内宿禰の弟である甘美内宿禰が武内宿禰を失脚させようと天皇に「武内宿禰は天下を狙う野心があり、密かに語っていたのが『筑紫を割って取り、三韓を従わせれば天下を取ることが出来る』と言っているそうです」と讒言し、天皇は使いを遣わして武内宿禰を殺すことを命じました。武内宿禰は「自分に二心は無いし忠心を以って仕えているのに何のとがで死ななければならないのか」と嘆いていると壹伎直の祖である真根子という武内宿禰とそっくりな者が武内宿禰が罪無くして死ぬことを惜しみ、自分が代わりに死ぬ旨を述べると即座に剣で自分を斬って死んだという内容です。


 この説話は甘美内宿禰は紀のあたいの祖なので、歴史学的な解釈を想定すると友好的であったと思われる葛城氏の母系集団と紀氏が一時期的に緊張関係にあった可能性を示唆するのかも知れませんが本稿の趣旨と異なるので深くは触れません。本稿で取り上げたのは、この説話でも武内宿禰と似た人物である真根子という存在が(1)や(3)と同じく、「Aという者と同じ姿をしたBという者が登場する」という説話と共通していからです。


 また、(1)(3)(5)とも共通するのが葛城氏、あるいは葛城氏と近い一族に関わる伝承なので、葛城氏の信仰は「Aという者と同じ姿をしたBという者が登場する」という話が伝えられていたのではないかと思います。(5)に関しては神ではなく真根子という人間に過ぎませんが、単に影武者が死んだ話ではなく、武内宿禰という一種の神格化された人物に関わっているので、葛城氏の神話の残滓から創作された話ではないかと個人的には思っています。


 なお、葛城山の一事主の神話に関しては、井伊章氏によると「この神話を現代語に解釈すると、深山でみられる御来光という自然現象であり、自分の姿が山向こうの煙霧の中に数倍の大きさとなって現れ、かわされた一言一言の問答は山彦現象と解し得る」(6)との事です。在野の研究者の方による青銅器を文化圏で分けている様な古い著書で、今となっては殆ど観るべき点も無いですが、引用部分だけは納得できました。


 南郷大東遺跡、南郷安田遺跡、極楽寺ヒビキ遺跡など祭祀儀礼が行われたと思われる遺構が発掘されているので、葛城氏の信仰が如何いったものであったのか、詳細が解き明かされる事を願います。

 



(1)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫418、34ページ

(2)『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』 森公章 山川出版社

(3)『日本書紀(一)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫116、ページ

(4)『風土記』武田祐吉 岩波文庫 327ページ

(5)『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫510、511、196、198ページ

(6)『倭の人々』金剛出版 井伊章


◇おまけ

アオイシロWKS~秘曲剣巻草薙篇~ルートB第3部 君待ちがたに(ハッピーエンド)

https://www.youtube.com/watch?v=l3eFkn0O1ew&t=2695s

当方が過去に作成した二次創作ゲームです。(製作元より二次ゲームの作成・配布及び動画での公開を許可されています)18:05ぐらいにこのネタを使っています。

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