上代の一般兵の武装を推察(2)国内文献編

◇『古事記』で見る鉄の鏃

 『隋書倭国伝』の時期に至っても骨の矢が使われている事は分かりましたが、一方で『魏志倭人伝』の時期から鉄の鏃も使われています。


 ですが、魏志の時代には「竹箭或鐵鏃或骨鏃」と書かれている事から、竹や骨の鏃と併用されていた事から鉄の鏃はまだまだ貴重品であった事が伺われます。


 では、何時頃から具体的に鉄の鏃が実戦でも使われ始めたのか?


 ヒントは『古事記』にありました。


・『古事記』下巻 允恭天皇条

是以百官及天下人等背輕太子而歸穴穂御子尓輕太子畏而逃入大前小前宿禰大臣之家而備作兵器【尓時所作矢者其箭之内故号其矢謂輕箭也】穴穂王子亦作兵器【此王子所作之矢者即者也是謂穴穂箭也】

(是を以ち百官ももつかさと、天の下の人等ひとども、輕太子を背きて、穴穂御子にりぬ。しかして輕太子畏みて、大前小前宿禰大臣おほまへをまへのすくねのおほおみが家に逃げ入りて、兵器つはものそなへ作る。【の時に作れる矢は、さきあかがねにせり。かれ其の矢をなづけて輕箭かるやと謂ふ。云々しかしか】穴穂王子も兵器つはものを作る。【此の王子の作れる矢は今時いまどきの矢ぞ。是を穴穂箭あなほやと謂ふ】)

【】は原文脚注。

(『新版 古事記 現代語訳付き』 中村啓信 角川ソフィア文庫524・202ページより引用)


・概要

 允恭天皇の崩御後、皇位継承者の木梨之軽太子きなしのかるのひつぎのみこが同母妹の軽大郎女かるのおほいらつめと不倫し、多くの官人や天下の民たちは軽太子に背を向け、弟の穴穂皇子あなほみこ(後の安康天皇)に心を寄せました。この世情に軽太子は恐れて大前小前宿禰大臣の家に逃げ込み、武器を作って備えました。

 その時に作った鏃が銅で出来ていたので、これを軽箭と言い、穴穂皇子もまた武器を作りましたが、この皇子が作った矢が今時の矢、つまり、古事記編纂当時の鉄の鏃という事になり、これを穴穂箭と呼んだと言います。


 この後、木梨之軽太子は幾つかの歌を残し、軽大郎女と共に心中します。


 具体的に鏃の素材にまで触れている貴重な記事です。この允恭天皇条に書かれている時期と重なる様に銅の鏃は五世紀中葉に姿を消したので、鉄の鏃のこの時期から始まったかと思いますが、『隋書倭国伝』の記事から骨の鏃も併用していた可能性も高いです。



◇伊勢朝日郎の伝説について考察。

・『日本書紀』巻十四雄略天皇十八年(甲寅四七四)八月 戊申十日

 十八年秋八月己亥朔戊申、遣物部菟代宿禰・物部目連、以伐伊勢朝日郎。々々々聞官軍至、即逆戰於伊賀青墓。自矜能射、謂官軍曰、朝日郎手、誰人可中也。其所發箭、穿二重甲。官軍皆懼。菟代宿禰、不敢進撃。相持二日一夜。於是、物部目連、自執大刀、使筑紫聞物部大斧手、執楯叱於軍中、倶進。朝日郎乃遥見、而射穿大斧手楯二重甲。并入身肉一寸。大斧手以楯翳物部目連。目連即獲朝日郎斬之。


(十八年の秋八月の己亥つちのとのゐ朔戊申ついたちつちのえさるのひに、物部菟代宿禰もののべうしろのすくね、物部目連を遣わして、伊勢いせ朝日郎あさけのいらつこたしめたまふ。朝日郎、官軍みいくさいたると聞きて、即ち伊賀の青墓あおはかたたかふ。みずかゆみいることをほこりて、官軍みいくさひてはく、「朝日郎が手に誰人たれあたるべき」といふ。其のいはなは、二重ふたへよろひ穿とほす。官軍、皆懼みなおづ。菟代宿禰、敢へて進み撃たず。相持まもること、二日一夜ふつかひとよここに、物部目連、みづか大刀たちりて、筑紫つくし聞物部大斧手きくのもののべのおほをのてをして、楯をりて軍の中にたけびしめて、ともすすましむ。朝日郎、すなははるかに見て、大斧手が楯と二重ふたへよろひとを射穿いうがつ。あはせて身のししに入ること一寸ひとき。大斧手、楯を以って物部目連をさしかくす。目連、即ち朝日郎をとらへころしつ。)

(『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 430~431・80ページより引用)



・解説

 『日本書紀』では雄略天皇十八年秋八月に伊勢朝日郎いせのあさけのいらつこという人物が射った矢が物部大斧手という人物の楯を貫通し、二重に着た鎧を射通したという説話があります。


 二重に着た鎧と言うのが後世、壬申の乱の時に大分君稚臣おおきだのきみ わかみが鎧を重ね着したのが札甲によって甲の重ね着をしたのと同じ事を指すのかも知れませんが、楯も鎧も革製だったら至近距離から鉄の鏃で射れば貫通する可能性もあるのかも知れません。


 『日本書紀』の用明天皇二年(五八七)四月 二日に大伴毘羅夫連おおともひらぶむらじが皮楯を持つ描写があります。昭和一〇年、大阪府豊中市桜塚古墳から黒赤の漆を塗り分けたと思われる長さ1.5メートルにも及ぶ革製の置き楯が発見された事もあるので、手に持つ楯も革楯が使われていた可能性が高いです。


◇木製の楯


 弥生時代中期から古墳時代中期の木製の楯実物が発掘されており、古墳時代後期には副葬品としての役割を終え、六世紀になると実物の楯が見られなくなります。


 しかし、それ以降も木製の楯は使われており、平城宮跡の発掘調査で、宮域の西南隅地域で井戸の遺構が検出され、その井戸枠に木製の楯が転用されていました。これは頂部が山形で赤や白色に描かれた渦巻模様の楯で、『延喜式』巻二十八「隼人司」に見える威儀用の楯の記載(楯一百八十枚。【枚別長五尺,廣一尺八寸,厚一寸。頭編著馬髮,以赤白土墨畫鈎形。】)に一致することから隼人の楯と呼ばれています。




◇鉄の楯

・『日本書紀』巻十一仁徳天皇十二年(甲申三二四)七月 癸酉三日

十二年秋七月辛未朔癸酉、高麗國貢鐵盾・鐵的。

(十二年の秋七月あきふみづき辛未かのとのひつじ朔癸酉ついたちみづのとのとりのひに、高麗國こまくにくろがねの盾・くろがね的をたてまつる。)

(『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 430~524・242ページより引用)


・解説

 鉄の楯について触れている日本書紀の記述です。仁徳天皇十二年に高句麗が鉄の楯と鉄の的を贈ってきたこの記事は、池内宏によると、「高句麗は当時強勢な国で朝貢などするはずが無く、これらの記事は書紀編者が適宜造作して挿入したもの」としていますが、高句麗を客観的に見れば狭い朝鮮半島内で強勢を誇ったと言うだけであり、九州の半分にも満たない国土しかない当時の百済や新羅を圧倒しているだけで、高句麗サイドから物を考えれば、広開土王碑にあるような倭国との戦争に勝利したとしても、なお南朝鮮に大きな影響力を持ち、本土でも勢力範囲が九州から関東に及んでいたと思われる大和王権と積極的に敵対したいとは思えません。


 持論ですが、面従腹背で形だけだとしても高句麗が朝貢してきた可能性は充分あります。後世、織田信長が武田信玄や上杉謙信と敵対するのを恐れ、散々貢物を贈ったらしいですが、外交とはそう言った物です。


 石上神宮に「日の御楯」と言う2面の鉄楯が伝わっており、これは5世紀後半の物と言われていますが、神功紀の七支刀も石上神宮に伝わったように、日の御楯も案外仁徳天皇の時代(5世紀前半)に奉られた鉄楯ではないかと想像しています。(東京国立博物館で1面は実物を見た事があります。撮影は許可されていないのが残念でしたが……。)


 次稿では日本書紀のおける武器の使用例を挙げます。


◇参考文献

『新版 古事記 現代語訳付き』 中村啓信 角川ソフィア文庫

『古代の技術』 小林行雄 檀書房

『日本書紀(二)(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫


国立国会図書館デジタルコレクション『延喜式 : 校訂. 下巻』皇典講究所, 全国神職会 校訂 大岡山書店

(https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442231/135)135コマ目

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