『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(6)日本の王になろうとした平群真鳥大臣

 『日本書紀』によれば葛城氏が滅亡後、代わりに大臣となったのは葛城氏と同じく武内宿禰の末裔と伝えられている平群真鳥でした。


 平群真鳥が大臣となった記事は前稿の『日本書紀』巻十四雄略天皇即位前紀十一月壬子朔 甲子の引用文で取り上げていますが、大伴室屋・物部目と同じく、何故真鳥が大臣に任命されたのかはっきりとしていません。


 それでも大伴室屋や物部目に関しては雄略即位をバックアップしたであろう事が推測出来る事は前稿で述べました通りですが、平群真鳥に関しても雄略天皇の意図として葛城氏に近い一族を内部分裂させることで葛城氏の力を削ぐ目的があったと推測出来ます。


 ですが、平群真鳥の大臣任命は事実とはみなさないのが一般的な解釈であるそうです。(日野昭、笹山晴生、辰巳和宏、加藤謙吉等)


 以下に平群真鳥の伝承を見て行きましょう。



(1)『日本書紀』巻十六武烈天皇即位前紀 (仁賢天皇)十一年(戊寅四九八)八月。

億計天皇崩。大臣平群眞鳥臣、專擅國政、欲王日本。陽爲太子營宮。了即自居。觸事驕慢、都無臣節。於是、太子、思欲聘物部麁鹿火大連女影媛、遺媒人、向影媛宅期會。影媛、會姧眞鳥大臣男鮪。〈鮪、此云茲寐。〉(中略)

太子甫知鮪曾得影媛。悉覺父子無敬之状、赫然大怒。此夜、速向大伴金村連宅、會兵計策。大伴連、将數千兵、徼之於路、戮鮪臣於乃樂山。〈一本云、鮪宿影媛舍、即夜戮。〉


(億計天皇 かむあがりましぬ。大臣平群眞鳥臣おほおみへぐりまとりおみ專国政たくめくにのまつりごとほしきままにして、日本やまときみとあらむとおもふ。いつはりて太子ひつぎのみこためみやつくるまねす。つくりをはりてすなはみづかむ。触事ことごとおごあなづりて、かつ臣節無やつこらまのわきまへなし。ここに、太子ひつぎのみこ物部麁鹿火大連もののべのあらかひのおほむらじ女影媛むすめかげひめあとへむとおもほして、媒人なかだちつかはして、影媛がいへに向はしめてはむことをちぎる。影媛、いむさき眞鳥大臣まとりのおほおみ男鮪こしびをかされぬ。〈鮪、これをば茲寐しびと云ふ。〉(中略)

太子ひつぎのみこはじめてしびいむさき影媛かげひめを得たることを知りぬ。ことごとく父子かぞこ無敬ゐやなかたちさとりたまひて、赫然おもほてりておほきにいかりたまふ。此の夜、すみやか大伴金村連おほとものかなむらのむらじいへでまして、いくさつどへて計策はかりたまふ。大伴連、数千ちあまりの兵をて、みちへて、鮪臣しびのおみ乃楽山ならやまころしつ。〈一本あるふみはく、鮪、影媛がいへに宿り、即の夜戮ころされぬといふ。〉)


・概要

 億計(仁賢)天皇崩御後、大臣平群眞鳥臣は国政を欲しい儘にして、日本の国王になろうと欲した。太子の為に宮を造ると偽り、完成すると自分が住み込んだ。ことごとく奢り高ぶり、臣下の節度を弁えなかった。この時、太子は物部麁鹿火大連もののべのあらかひのおほむらじ女影媛むすめかげひめを娶ろうと思い、仲人を遣わせて影媛の家に赴かせ、双方行き合う約束をした。影媛は以前、真鳥大臣の子のしびに犯されていた。(中略)


 太子は初めて鮪が既に影媛と通じている事を知った。ことごとく無礼な親子の事を知り、顔を赤くして大いに怒ると、この夜、大伴金村連おほとものかなむらのむらじの家に行き、兵士を集めて計画を立てると、大伴連は数千の兵を率いて道を塞ぎ、鮪臣を奈良山で殺した。(ある本によると、鮪は影媛の家に泊まり、その夜に殺された)


・解説

 本文が長い為、主に歌垣部分を省略しましたが、上記の引用は平群真鳥が日本の王になろうとした事や、しびが皇太子(武烈天皇)が娶ろうとしていた影媛と通じており、その事を知った武烈が大伴金村に命じ、鮪を殺した事が書かれています。


 天皇家成立以来、日本国王として振舞った人物は日本史上でも足利義満ぐらいしかいませんし(というより彼の場合は明に対して称しただけですが)、恐らく文献ではっきりと日本の王になる野望が語られている唯一の人物が平群真鳥かと思います。


 雄略死後続く王権の基盤が脆弱な時期に平群氏が如何に巨大な力を持っていたかを物語るエピソードではありますが、後程理由を述べます様に創作の可能性が高いです。


・平群氏と物部氏が連携していた可能性があるか?

 武烈と鮪が妻争いをする女性が物部麁鹿火大連もののべのあらかひのおほむらじの娘の影媛かげひめと言う人物で、日本書紀の「一本云」には鮪は影媛の家に宿っていて殺されたとありますが、同時に物部氏も攻撃されたことを意味します。


 大臣の平群氏と大連の物部氏が結びついていたとすれば、天皇家としては無視できない出来事だったでしょう。そこに彼らと比肩する地位である大伴金村が平群氏を滅ぼす権力争いは充分あり得る出来事かも知れません。後世、鎌倉時代の執権・北条氏は頼朝縁の有力御家人達を滅ぼしましたし、室町時代の足利義満も有力守護達を討ちましたが、雄略没後権力の基盤が脆弱であった大和王権も似た様な状況にあったとしても不思議ではありません。


 しかし、金井清一によると、平群氏が滅びた後も物部氏は次代の継体朝に物部麁鹿火が依然として重臣の事から、影媛が物部氏の女であったという伝えは本来のものでなく、影媛は琴を弾いて神を招く巫女であり、恐らく石上神宮に仕えていたのであり、そのため、物部氏滅亡後のある時点で物部氏の女と伝えられるようになったと述べています。(2)



(3)『日本書紀』巻十六武烈天皇即位前紀 (仁賢天皇)十一年(戊寅四九八)十一月戊寅朔 戊子十一日

冬十一月戊寅朔戊子、大伴金村連、謂太子曰、眞鳥賊、可撃。請討之。太子曰、天下将亂。非希世之雄、不能濟也。能安之者、其在連乎。即與定謀。於是、大伴大連、率兵自將、圍大臣宅。縱火燔之。所撝雲靡。眞鳥大臣、恨事不濟、知身難兔。計窮望絶。廣指臨詛。遂被殺戮。及其子弟。詛時唯忘角鹿海、鹽不以爲詛。由是、角鹿之鹽、爲天皇所食、餘海之臨爲天皇所忌。


冬十一月ふゆしもつき戊寅つちのえとら朔戊子ついたちつちのえねのひ大伴金村連おほとものかなむらむらじ太子ひつぎのみこかたりまうしてまうさく、「眞鳥まとりあた、撃ちたまふべし。うけたまはらくはたむ」とまうす。太子ひつぎのみこのたまはく、「天下乱あめのしたみだれむとす。世にすぐれたるたけきひとに非ずは、ことなすことあたはじ。これやすみせむ者は、むらじに在らむか」とのたまはく。すなはともはかりことを定む。是に、大伴大連、いくさみづかいくさのきみとして、大臣おほおみいへかくむ。火をはなちてく。さしまね所雲ところくものごとくになびけり。眞鳥大臣まとりのおほきみ、事のらざむことをうらみて、身のまぬかがたきことをさとりぬ。計窮はかりこときはま望絶のぞみたえぬ。広くうしほしてとごふ。つひ殺戮ころされぬ。其の子弟やからさへいたる。ふ時に唯角鹿海ただつぬがのうみの塩をのみ忘れて、とごはず。これりて、角鹿つぬがの塩は、天皇すめらみこと所食おものとし、余海あたしうみの塩は、天皇の所忌おほいみとす。)


・概要

 冬十一月十一日、大伴金村連おほとものかなむらむらじは「真鳥の賊を討つべし。仰せがあれば討ち払います」と申し上げた。太子は「天下騒乱の恐れがある。世に優れた人物でなければこれを治めることが出来ない。よくこれを安らかに出来るのは(大伴)連しかいない」と仰せられた。ここに、大伴大連は兵士を率いて自ら将軍として大臣の家を囲んだ。火を放ち焼き払い、人々は指揮に雲の様に靡き従った。真鳥大臣は事の成らざる(日本の王になれなかった事?)を恨み、逃れ難い事を悟った。計画の望みが耐えると、広い海の潮を指して呪いをかけると遂に殺された。科はその一族に及んだ。呪うときに唯、敦賀の海の塩だけ忘れて呪われなかった。この事により、敦賀の塩は天皇の御食用に使われたが、他の海の塩は天皇が忌まれる事になった。


・解説

 この話は敦賀の塩が天皇家に献上されていた史実を示し、平群氏が関わっていたという説があります。敦賀には石棚付設の古墳が多くみられ、製塩集団との関係がうかがえ、石室内での床面から石棚までの高さを検討した中村修は、和歌山から岡山県にかけての瀬戸内海沿岸に低い石棚が分布することから、紀伊→大和→吉備および敦賀半島周辺へと波及し、紀氏・平群氏が関与したことを指摘しています。(4)


 ですが、石棚が付設されるのが古墳時代末期なので、平群真鳥の呪詛に関しては恐らく後世の付会であり、真鳥の時代から製塩集団と関りがあったのか疑問が残ります。



・記紀で異なる伝承

 『日本書紀』では平群氏滅亡の記事が武烈天皇紀に載っていますが、『古事記』では清寧天皇記に載っており、また、登場人物も異なる等矛盾が生じています。


 参考までに以下に『古事記』の平群氏滅亡の記事を見てみます。



(5)『古事記』下巻 清寧天皇条

故將治天下之間平群臣之祖名志毘臣立于歌垣取其袁祁命將婚之美人手其孃子者菟田首等之女名者大魚也尓袁祁命亦立歌垣於是志毘臣歌曰

意富美夜能袁登都波多傳須美加多夫祁理 

如此歌而乞其歌末之時袁祁命歌曰

意富多久美袁遲那美許曾須美加多夫祁礼 

尓志毘臣亦歌曰

意富岐美能許許呂袁由良美淤美能古能夜幣能斯婆加岐伊理多多受阿理 

於是王子亦歌曰

斯夲勢能那袁理袁美礼婆阿蘇毘久流志毘賀波多傳尓都麻多弖理美由 

尓志毘臣愈怒歌曰

意富岐美能美古能志婆加岐夜布士麻理斯麻理母登夲斯岐礼牟志婆加岐夜氣牟志婆加岐


尓王子亦歌曰

意布袁余志斯毘都久阿麻余斯賀阿礼婆宇良胡夲斯祁牟志毘都久志毘 

如此歌而鬪明各退明旦之時意祁命袁祁命二柱議云凡朝廷人等者旦参赴於朝廷晝集於志毘門亦今者志毘必寢亦其門無人故非今者難可謀即興軍圍志毘臣之家乃殺也


(故天かれあめ下治したしらしめさむとせしあひだに、平群臣がおや、名は志毘臣しびおみ歌垣うたがきに立ち、其の袁祁命をけのみことかむとする美人をとめの手を取りつ。其の孃子をとめは、菟田首等うだのおびとらむすめ、名は大魚をふをなり。しかして袁祁命も歌垣に立ちたまふ。是に志毘臣歌ひいはく、


 大宮の をとつ端手はたで 隅傾かたぶけり


く歌ひて、其の歌のすゑふ時に、袁祁命歌ひりたまはく


 大匠 拙劣をぢなみこそ 隅傾かたぶけれ 


尓して志毘臣、また歌ひく、


 大君の 心をゆらみ

 臣の子の 八重の柴垣

 入り立たずあり

 

是に王子みこ、また歌ひりたまはく


 潮瀬しほせの 波折なをりを見れば

 遊び来る しび鰭手はたで

 妻立つまたてり見ゆ

  

尓して志毘臣、いよいよ怒り、歌ひいは


 大君の 王の柴垣

 八筋締やふじまり しまもとほし

 切れむ柴垣 焼けむ柴垣


尓して王子、また歌ひりたまはく


 大魚おふをよし 鮪突しびつ海人あま

 れば うらごほしけむ

 鮪突しびつしび


く歌ひて、たたかかし、おのもおのも退しりぞきぬ。くるあしたの時、意祁命おけのみこと袁祁命をけのみこと 二柱ふたはしらはかりたまはく、「おほよそ朝廷みかどの人等は、あしたには朝廷みかど参赴まゐおもむきき、昼は志毘しびかどに集ふ。また今は志毘かならずねてあらむ。また其のかどに人無けむ。かれ今に非ずは、はかるべきことかたけむ」とのりたまふ。すなはちいくさおこし、志毘臣が家をかくみ殺したまふ。)


・概要

 清寧天皇が天下を治めた時代、平群臣の祖・志毘臣しびおみが、志毘臣の求婚相手である菟田首等うだのおびとらの娘、大魚をふをという女性を歌垣で袁祁命をけのみこと(後の顕宗天皇)が求婚した。

 その歌垣の場に志毘臣も立っていた。


 彼は「大宮のをとつ瑞手隅はたですみ傾けり」と、袁祁命の宮殿がボロボロな事を揶揄った。


 そこで袁祁命は「大匠拙劣をほたくみをぢなみこそ隅傾けり」と、それは大工のせいで自分が知った事ではない。と歌い返した。


 すると志毘は「皇子の心は弛んでいるから、臣下である私が、ものにした女性はとりもどせないだろう」と歌う。


 皇子は志毘を魚の鮪にかけて、「潮の流れに遊び泳ぐ鮪の傍らに、私の妻が立っているのが見える」と歌い返した。


 志毘が怒って「皇子の御殿の柴垣は、いくら結んでも縛っても切れてしまい、焼けてしまう」と宮殿の悪口を言うと


 皇子は大魚なる女性を狙っている志毘は、大魚を皇子が奪い取ったら、さぞかし寂しいだろうという意味の歌を歌った。


 この様にお互い歌を歌い争い明し、お互い別れると、翌朝、袁祁命は兄の意祁命おけのみこと(清寧天皇)に相談し、「役人たちは朝には朝廷に参上して来るが、昼には(平群氏の権勢におもねる為に)志毘の家に集まる。今頃は志毘は眠っているはずだろう。今こそ彼を討つべきである」と言い、軍を起こし、志毘の家を取り囲み殺した。


・解説

 (1)や(3)の記事ではシビと歌垣争いをするのは袁祁命をけのみことではなく小泊瀬稚鷦鷯尊おはつせのわかさざきのみこと、女性も大魚ではなく影媛であり、歌垣の内容も違うなど矛盾が生じている為、記紀のどちらが正しい伝なのか不明ですが、津田左右吉は、「武烈紀以後については元来旧辞がなく、内容が希薄になるので、書紀編纂の際に顕宗天皇についての物語を武烈天皇の話にすり換えたのであろう」(6)又は「武烈紀に影媛の話を移したのは、これまで多く読み慣れていたような物語(旧辞)が忽然として消滅し記事の体裁が急に変化するのを緩和する為ではなかったのだろうか」(7)と推測しています。つまり、古事記が正伝であり、日本書紀の旧辞的内容を引き延ばす為に改変されたとの解釈になります。


 また、金井清一によると、「天皇は権力闘争に勝ったが、妻争いには負けたのである。国家の歴史においては権力闘争の勝利の方が妻争いのそれよりも重要だったと考えられる。そのために妻争いに敗者としてもやむを得ない人物として暴虐な武烈天皇が選ばれたのであろう。史実として武烈天皇が主人公であったわけではあるまい。記されたような歌垣が史実であったと思われない。原型は物語として発生したのであって、その主人公は武烈天皇ではなく、古事記の様に袁祁命だったのだと思われる」(8)と述べ、津田左右吉と同じく顕宗天皇のと捉えている様に、史実とはみなさないのが一般的な見解の様です。


*追記

 日野昭氏は記紀の伝承の違いを比較し、古事記においては単なる王子とシビとの恋人争いという私的な関係に興味の中心がおかれているのに対して、書紀においては、平群真鳥が「專擅國政、欲王日本」という野望を抱いていたことを強調することによって、政治権力の争奪という公的事件に中心があり、シビの話はそのエピソードの様な位置におかれていることから、ここには重厚な歴史を作ろうとした書紀の編者の意図があらわれているとともに、平群氏の動向をも、個人的興味ではなく国家的見地から描写しようとする意識が働いていることを見逃し得ないであろうこと。及び、書紀の記述に当たって、物部氏および大伴氏という種族の勢力への配慮がなされていたことがわかり、(『古事記』の)相手の女性が菟田首のむすめであるか、(『日本書紀』の)物部大連の女であるかという相違は、この話が私的な恋愛事件であるか、公的な権力闘争であるか、ということに対応していることから、旧辞の原型がどのようなものであったのかは、推定することが容易であり、古事記の所伝がより原型に近いものであり、大伴金村の活動が記される様になったのは、真鳥の登場によって国家的事件となった。この話の収捨をつけるためには、当代のライバルとしてあげておくことが要求されたのであろう、記紀の所伝にはかなり開きがあるとはいえ、結局は同じ主題の説話の拡大であり、主題の中心の多少の異動に記事の拡大増加にすぎない、と推測し、そこで、その説話との関連において、雄略・清寧紀の執政の記事をみると、もしこの説話を除いたばあい、平群氏の強盛ということは史実として根拠づけうるものが、ほとんどないことになり、武内氏族たる平群氏の執政という点については、疑義の少なくないことを注意しておきたいと思う。と、記紀の平群氏の記述についての史実性を否定しました。



 ですが、紀の「大臣平群眞鳥臣專擅國政欲王日本」記の「凡朝廷人等者旦参赴於朝廷晝集於志毘門」と表現されているのは直木孝次郎が主張する様な天皇家と豪族の二重支配を反映しているとも捉えられますし、当時の平群氏の勢いや王権の不安定さを表すのでしょうか? 以下に考古学的な知見から探ってみます。



・平群氏の後期古墳と考古学的知見

 平群谷の古墳として挙げられるのは、生駒山地と矢田丘陵にはさまれた平群谷の東の矢田丘陵西斜面にある椿井春日神社境内に椿井宮古墳、王寺から平群に向かう地域にあった六世紀初めの頃の首長墳と見られる勢野茶臼山古墳、信貴山から東へ延びる椹原の一尾根の柿塚古墳、平群谷で最大の前方後円墳で六世紀中頃のものとされている烏土塚古墳、近鉄生駒線の平群駅の東北五百メートルにある三里古墳、平群駅の西七百メートルにあるツボリ山古墳、烏土塚古墳の北五百メートルにある西宮古墳などがあります。ここでは勢野茶臼山古墳・烏土塚古墳のような首長墓を含んで築造されており、ここを本拠地とした平群氏によって築造されたものと見られますが、ここには平群真鳥の活動した時期の古墳が全く築造されていません(9)。


 他にも(3)の解説で石棚が付設されるのが古墳時代末期である事から真鳥の時代に製塩と関わっていたのか疑問を述べましたが、この様に、考古学的に見ると記紀に見られる鮪や真鳥の権勢が怪しい物となってしまいます。


 その為、後世、帝紀と上古の諸事の記定に平群臣子首へぐりのおみこびとが関わっていた事から、真鳥や鮪の話は子首の創作である可能性も疑われると言わざるを得ません。


 あるいは書紀の「一本云」という説明から推測すると、この伝承に関しては複数の話が伝わっており、その中に物部氏と大伴氏の直接的な対立表現を避けるため、スケープゴートーとして平群氏を仕立て上げた大伴氏の墓記でもあったのかも知れませんが、今となっては知る術もありません。



・後世の平群氏

 以降の平群氏は六世紀の後半、崇峻天皇即位前紀の所謂「丁未の乱」で平群臣神手へぐりおみかむて大伴連噛おおともむらじくひ阿倍臣人あへのおみひと坂本臣糠手さかもとのおみあらて春日臣かすがのおみらと共に軍兵を率いて物部守屋大連もののべのもりやおほむらじの渋河の家を攻めた事が書かれており、『聖徳太子伝暦』や『上宮聖徳太子伝補闕記』(10)にもその名が見え、補闕記によれば神手は冠位十二階で二番目の冠位に当たる小徳を与えられています。


 また、推古天皇三十一年、小徳の平群臣宇志へぐりおみうしが副将軍の一人として新羅征伐に加わっている事から、この頃には平群氏の勢いが盛んであったと思われます。


 以後、天武朝には平群子首へぐりこびとが朝臣の姓を与えられ、天武十年三月、帝紀および上古諸事の記定作業に加わり、奈良時代の遣唐使として唐に派遣された平群広成が天平勝宝二年、従四位上に叙せられますが、以降平群氏は目立った人物も出さず衰退していきます。


 


*参考文献

(1)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

449・450・144・146・150ページ

(2)『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 180ページ

(3)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

451・152ページ

(4)『纒向学研究センター研究紀要 纒向学研究 第5号』桜井市纒向学研究センター 11ページ

https://www.city.sakurai.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/48/kiyou-2.pdf

(5)『新版 古事記 現代語訳付き』 中村啓信 角川ソフィア文庫 229~231・531・532ページ

(6)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 147ページ 注六

(7)『日本上代史研究』津田左右吉 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1041707/1/84

(8)『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 179ページ

*追記

『日本古代氏族伝承の研究』日野昭 永田文晶堂

「三 執政」48-52ページ


(9)『古代豪族葛城氏と大古墳』 小笠原好彦 吉川弘文館 183ページ

(10)『聖徳太子御伝叢書』高楠順次郎, 望月信亨 編 金尾文淵堂

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1057756/19

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