『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(7)謎の大臣・巨勢男人

 『日本書紀』では葛城氏・平群氏の衰退後、継体朝で大臣になったのは葛城氏・平群氏と同じく武内宿禰の系譜が伝わる巨勢許勢男人と言う人物でした。ところが具体的な事績はほぼ伝えられておらず、創作された人物とも言われています。更に『続日本紀』では後継の一族に氏が誤りであると指摘されているなど謎の人物です。


 以下に男人に関する記事を取り上げていきます。



(1)『日本書紀』巻十七継体天皇元年(丁亥五〇七)正月 甲子四日

元年春正月辛酉朔甲子、大伴金村大連、更籌議曰、男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。冀慇懃勸進、紹隆帝業。物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰、妙簡枝孫、賢者唯男大迹王也。


元年はじめのとし春正月はるむつき辛酉かのとり朔甲子ついたちきのえねのひに、大伴金村大連、また籌議はかりはく、「男大迹王をほどのおほきみ性慈仁ひととなりめぐみありて孝順おやにしたがふ。天緒あまつひつぎつたへつべし。ねがはく慇懃ねむごろすすまつりて、紹隆さかえしめよ」といふ。物部麁鹿火大連もののべのあらかひおおむらじ許勢男人大臣等こせのをひとおほおみたちみな曰く、「枝孫みあなすゑくはしくえらぶに、賢者かしこききみただし男大迹王ならくのみ」といふ。)


・概要

 継体天皇元年1月4日、大伴金村大連はまた議って「男大迹王をほどのおほきみは性情け深く親孝行で、皇位を継がれるのに相応しいかたであられる。願わくは懇ろにお勧め申して、皇統を栄さしめようではないか」と言った。物部麁鹿火大連もののべのあらかひおおむらじ許勢男人大臣こせのをひとおほおみ達は「ご子孫を十分に選んでみると、賢者は唯男大迹王だけである」と言った。


・解説

 武烈天皇の死後、武烈に子がいなかった為、大伴金村等が皇位継承者の候補として挙げたのが男大迹王をほどのおほきみ(後の継体天皇)でした。その際に物部麁鹿火や許勢男人達が賛成したという内容で、『日本書紀』に見える男人の発言と思しき内容はこれだけであり、しかも麁鹿火と男人のどちらが言い出したのか、曖昧になっていますが、これが『日本書紀』に記された唯一の男人の事績の様です。


 金村が音頭を取ったとは言え、応神天皇の5世の孫という血筋が不確かな天皇を大臣クラスが支持したというのであれば、それだけでも大きな事績であると言えなくはありませんが、後に大臣を立て続けに輩出する蘇我氏と比べて余りにも不明な点が多すぎると言わざるを得ません。



(2)『日本書紀』巻十七継体天皇二三年(己酉五二九)九月

秋九月、巨勢男人大臣薨。

秋九月あきながつきに、巨勢男人大臣 みうせぬ。)


・解説

 事績が伝わらない男人ですが、継体天皇二十三年九月に死んだという事だけ伝わっています。


 大伴室屋ですら死亡時期がハッキリとしないのに、この頃の人物では殺された人物以外で死亡した時期が記されている大王家の家臣は極めて異例です。


 宣化天皇元年七月の物部麁鹿火の死亡記事も恐らく当時の大和王権にとって大きな出来事であった事を推測させるように、男人の死が大きなものであったから記事に残した可能性もあるかも知れません。


 ですが、歴史学会では男人は実在性が低い人物とされています。



◇巨勢男人創作説


(3)『古事記』下巻 継体天皇条より抜粋

此之御世竺紫君石井不從天皇之命而多无礼故遣物部荒甲之大連大伴之金村連二人而殺石井也

(此の御世に、竺紫君石井つくしのきみいはゐ、天皇の命に従はずして礼无ゐやなきこと多し。故物部荒甲之大連かれもののべのあらかひのおほむらじ大伴之金村連おほとものかなむらのむらじ二人をつかはして、石井いはゐころしたまふ)


・解説

 許勢男人の大臣任命は『古事記』にその名が見えない事などから、日野昭・直木孝次郎・加藤謙吉等によって疑問が提示されているのですが(4)『古事記』では(3)の様に筑紫君 石井磐井の反乱を鎮圧するために物部 荒甲麁鹿火と大伴之金村を遣わしたという記事であり、『日本書紀』にも男人派遣の記事が見えず、磐井の乱鎮圧後の翌年に男人の死亡記事がある事から、磐井の乱の頃には既に高齢、あるいは病床の身であった事が考えられ、『古事記』の石井鎮圧記事に男人が登場しないのは当然の事で、この記事を以って男人の大臣任命を創作とする歴史学者の姿勢には疑問を感じます。ですが、他にも男人に関して不可解な記事が『続日本紀』に書かれており、これも男人の非実在説に拍車をかけているようです。




(5)『続日本紀』巻十八天平勝宝三年(七五一)二月 己夘廿六日

己夘。典膳正六位下雀部朝臣眞人等言。磐余玉穗宮。勾金椅宮御宇天皇御世。雀部朝臣男人爲大臣供奉。而誤記巨勢男人大臣。眞人等先祖巨勢男柄宿祢之男有三人。星川建日子者雀部朝臣等祖也。伊刀宿祢者輕部朝臣等祖也。乎利宿祢者巨勢朝臣等祖也。淨御原朝庭定八姓之時。被賜雀部朝臣姓。然則巨勢雀部。雖元同祖。而別姓之後。被任大臣。當今聖運。不得改正。遂絶骨名之緒。永爲無源之民。望請。改巨勢大臣。爲雀部大臣。陳名長代。示榮後胤。大納言從二位巨勢朝臣奈弖麻呂。亦證明其事。於是。下知治部。依請改正之。


己夘つちのとのうのひ。典膳正六位下 雀部ささきべ朝臣眞人等あそむまひとらまうす。磐余玉穗いわれたまほの宮。勾金椅まがりかねはしの宮の御宇の天皇御世に。雀部朝臣男人ささきべのあそむをひと大臣おほおみと爲て供奉ぐぶす。而るに誤りて巨勢男人大臣こせのをひとのおほおみ記せり。眞人等か先祖巨勢の男柄宿祢をちかのすくねの男三人有り。星川の建日子たけひこは雀部の朝臣等か祖といふ。伊刀宿祢いとのすくね輕部朝臣かるべのあそむ等を祖といふ。乎利の宿祢は巨勢の朝臣等を祖なりといふ。淨御原朝庭きよみはらのみかど八姓やくさのかばねを定めたまふ時に雀部の朝臣のかばねうけたまは被る。然るヰは則ち巨勢雀部ははじめは同祖なりといへども、かばねを別たる後、大臣に任せ被る。今の聖運に当たり、改正することを得ずれは、つひに骨名の緒を絶ち、永く無源の民爲をむ。望みふ。巨勢の大臣を改めて、雀部の大臣と爲し、名を長代にのべて、榮を後胤こういんに示さん」といふ。大納言從二位巨勢の朝臣奈弖麻呂あそむなでまろも。亦其の事を証明す。是に於いて治部に下知してまうすに依りて之を改正せしむ。)


・概要

 二十六日。典膳(内膳司の次官)で正六位下の雀部ささきべ朝臣眞人等あそむまひとらが言上した。

磐余玉穗いわれたまほの宮(継体天皇)。勾金椅まがりかねはしの宮の御宇の天皇(安閑天皇)の御世に。雀部朝臣男人ささきべのあそむをひと大臣おほおみが任じられお仕えしましたが、巨勢男人大臣こせのをひとのおほおみと誤って記せられました。眞人等の先祖である巨勢男柄宿祢こせのをちかのすくねの息子は三人有り。星川の建日子たけひこは雀部の朝臣等か祖と言い。伊刀宿祢いとのすくね輕部朝臣かるべのあそむ等を祖と言い。乎利の宿祢は巨勢の朝臣等を祖であると言います。淨御原朝庭きよみはらのみかど(天武天皇の御世)が八姓やくさのかばねを制定なさった時に、雀部の朝臣のかばねうけたまわりました。そのため、巨勢と雀部ははじめは祖先が同じでしたが、氏姓が別れた後で大臣に任じられました。今、天皇の運が盛んな時に当たり、改正することができなければ、遂に氏族の由来を忘れ去られ、起源を持たない氏族となってしまうでしょう。願わくば、巨勢の大臣を改めて、雀部の大臣とし、名を永く後世に伝え、光栄を子孫に示したい」

と要望し、大納言で從二位巨勢の朝臣奈弖麻呂あそむなでまろも、其の事を証明した。よって治部省に命じてこれを改正した。



・解説

 巨勢男柄宿祢は『古事記』で伝えられている武内宿禰の子・許勢小柄のことであり、『日本書紀』には記載が無く、巨勢氏の伝説上の祖と言われています。男柄の三人の子がそれぞれ、雀部・軽部・巨勢の祖となり、その後、雀部の血筋である雀部朝臣男人が巨勢男人大臣と誤って記され、これを雀部朝臣眞人が改正する様に願ったと言う話です。


 直木孝次郎、加藤謙吉両氏によると、『日本書紀』成立のわずか三十年ののちにこのような異伝が生じ、しかもそれを巨勢氏の長とみられる奈弖麻呂が証明しているという事は巨勢男人が実在の人物では無かったからと言う説を述べ、篠川賢氏もこれを支持しており、本来の任命記事は、以下の大化五年に巨勢徳太(徳陀古)が左大臣、大伴長徳が右大臣に任命されたという事実を背景にした作文だろうと推測しています(6)。


(7)『日本書紀』巻二五大化五年(六四九)四月 甲午廿日

夏四月乙卯朔甲午、於小紫巨勢徳陀古臣授大紫爲左大臣。於小紫大伴長徳連。〈字馬飼。〉授大紫爲右大臣。

夏四月なつうづき乙卯きのとのう朔甲午ついたちきのえのうまのひに、小紫せうし巨勢徳陀古臣こせのとくだこのおみに、大紫だいしのくらゐを授けて、左大臣ひだりのおほみとす。小紫せうし大伴長徳連おほとものながとこのむらじあざな馬飼うまかひ。〉大紫だいしのくらゐを授けて右大臣みぎのおほおみとす。)


 (5)の記事に関しては不可解に思うのは同意ですが、巨勢が誤りで雀部が本来の氏であったと言う記事を以って男人を創作の人物と言う直木・加藤両氏の説は論理的飛躍が過ぎると思いますし(例えるならば「聖徳太子」なる人物は推古朝に実在しなくても「厩戸皇子」は実在したのと同じ様なものかと)、(7)の記事を以って男人の大臣任命を作文とする篠川氏の説にしても(7)に物部氏の人物が含まれない事から、後世の記事に無理やり当て嵌めた言いがかりとしか思えません。


 何故この様な穴だらけの理論が歴史学会ではまかり通っているのか理解に苦しみます。今回の様に津田史観の歴史学者の理論で行き詰まった場合、客観的な判断材料となり得るのは考古学的な知見となります。



・考古学的な知見

 奈良県高市群高取町市尾にある市尾墓山古墳は全長六十六メートル(みかけは全長百十メートル)の西向きの前方後円墳で、二段築成されており、後円墳にある横穴式石室に家形石棺が安置されており、発掘調査により、鉄千金銅製の馬具、須恵器などが玄室の床面から、棺内からは刀残片・装身具などが出土しており、六世紀前半に築造されたものとみなされており、岸俊男氏や和田萃氏によれば波多氏の本拠地と想定していますが(8)、河上邦彦氏による男人の墳墓とする説もありはっきりしません。


 『和名類聚抄 』によれば波多は大和國高市群波多(9)であり、同書によれば巨勢は大和國高市群巨勢(10)であり、波多氏と巨勢氏は隣接した地域を本拠地としていました。記紀ではこの時代に波多氏の活躍が見られない事から、六世紀前半にこの規模の古墳を造れたのは大臣の地位にあった男人である可能性が高いと思います。


*追記1:河上邦彦氏による市尾墓山古墳の被葬者の推定

 河上邦彦氏は墓山古墳の周辺豪族、即ち波多氏と巨勢氏を比較し、波多氏説の根拠である、墓山古墳の約二キロ南東にある高取町大字羽内字アズキ谷235番地に鎮座する波多甕井神社の存在を取り上げつつも、武内宿禰を祖とする同族関係にあるものの各豪族のなかでもっともふるわなかった氏族の様であり、六世紀代にはそれ程の勢力を有していたとは考えられないのに対し、巨勢氏の場合、古墳時代から飛鳥、奈良、平安にかけて大いに繁栄したこと、勢力地区では五世紀から七世紀にかけての古墳があり、一連の系譜が続きそうであることなどを取り上げ、五世紀末~六世紀初の古墳は墳丘規模こそ小さいが濠・堤を加え、この頃の有力豪族の塚は百メートル以上と考えられるとし、この様にして考えれば、みかけの規模が百十メートルを持つ墓山古墳では巨勢氏ではないかと推定し、巨勢男人の実在の可能性が極めて強く文献記載の信頼にたる初めての人物として浮かび上がってくると主張されました。これは先に述べた私見を更に押し進める内容であり同意出来ます。




・その後の巨勢氏

 巨勢男人の娘の紗手媛さてひめ香香有媛かかりひめは安閑天皇の妃となり、崇峻朝で任那再興の大将軍となった巨勢比良夫こせのひらぶ、幸徳紀大化五年正月に左大臣となった巨勢 徳陀古徳太、天智紀十年正月に御史大夫になった巨勢 比等などを輩出し、天武紀十三年十一月条に朝臣性を賜りました。


 六世紀の新興豪族と言われている巨勢氏は蘇我氏の影に隠れがちですが、かつて栄華を誇った葛城氏よりも多くの人材を輩出することになった事から、葛城氏の権力の一部を継承し、男人の時代からその基盤が創られたのではないかと推察出来ます。



*追記2:平林章仁氏による許勢男人大臣就任の造作説批判。

 ⑷の様な見解に対し、平林章仁氏は⑵と⑸の記事を比較し、⑵では許勢男人大臣は継体天皇二三年(五二九)九月に亡くなったとあるが、⑸の記事では雀部男人は継体・安閑朝に亘り、大臣であったとあることから、明らかに依拠する史料が異なったことを思わせるとし、雀部朝臣氏の異論という点を敷衍すれば、巨勢男柄(許勢男柄)宿禰を祖とする集団が巨勢・雀部・軽部の三氏に分立した(氏の名が確定した)のがこの時である、という意識から想定され、こうした氏族の範囲と氏の名の確定は巨勢男柄宿禰後裔集団だけでなく、王権全体に押し広げてであったと考えられ、継体天皇系王統・王権による新たな施策の一環だったと考えられ、何れにしても、ここでは巨勢臣氏や雀部臣氏の直接的な祖である「、又、⑶の記事に許勢男人の大臣任命が見えないのは、同記が「大伴之金村連」と記していることからも解る様に、『古事記』は大臣・大連任命のことに意を払っているわけではなく、史書の性格や依拠した原資料の相違によるものであることを指摘し、巨勢男人大臣就任の造作説を批判しました。


 又、許勢男人の大臣就任の理由を、五世紀から六世紀への内政変遷を単純化して推測を交え、葛城氏の滅亡後は、葛城氏政権の有力成員であった集団の序列にしたがって平群氏が執政官(大臣)に就任して政権の継承がはかられ、しかし、王権と平群氏(真鳥・鮪父子)の間に軋轢が生じて平群氏がその地位を失い、程なくして武烈天皇も亡くなり、王権崩壊の危機に陥った。そこで、王家直属の臣僚である大伴金村・物部麁鹿火と、葛城氏政権で平群氏に次ぐ地位にあった許勢男人らが中心となり、王権・王家の再構がはかられ、新たに応神天皇五世孫の男大迹王が迎えられ、継体天皇として即位するとともに、許勢氏らの祖である男人が大臣に任命されたと、推考され、ただし、それは一代で終わったとのことです。


 上記推考の内、平群氏の権勢に関しては前稿(『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(6)日本の王になろうとした平群真鳥大臣)で述べました様に怪しいと言わざるを得ません。私見では、雄略朝の一言主の神話や、顕宗天皇の母が葛城蟻臣の娘の荑媛はえひめであることから、葛木下郡支配者である玉田宿禰―葛城円大臣系の葛城本家の滅亡後も、分家筋で葛木上郡支配者の葦田宿禰―葛城蟻臣系の葛城氏が辛うじて命脈を保っており、蟻臣が大臣の地位に無くても、まだ一定の政治力を持ち続けていたものの、それも武烈か継体の代で終わり、代わりに台頭してきたのが許勢氏であったのではないかと推測しています。つまり、平林説の平群氏を葦田宿禰系葛城氏と置き換えて考えれば、不都合はなく、充分同意できるものであると思います。




・参考文献

(1)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 455ページ・164ページ

(2)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 465・202ページ

(3)『新版 古事記 現代語訳付き』 中村啓信 角川ソフィア文庫 534・238・239ページ

(4)『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 168ページ

(5)『国史大系. 第2巻 続日本紀』経済雑誌社 編 154コマ 297ページ

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991092

(6)『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 168ページ

(7)『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 520・306・308ページ

(8)『古代豪族葛城氏と大古墳』 小笠原好彦 吉川弘文館 176ページ

(9)『古事記事典』 尾畑喜一郎 編 桜楓社 239ページ

(10)尾畑、前掲書 230ページ


*追記1

『後期古墳の研究』河上邦彦 259-276頁

「後編 第一章 発掘調査を通じてみた主要古墳の検討 一 市尾墓山古墳」

https://dl.ndl.go.jp/pid/3082983/1/141


*追記2『日本古代氏族研究叢書⑤ 蘇我氏の研究』平林章仁 50‐51ページ 

「第一章 大臣蘇我氏の前史 -五世紀の蘇我氏- 第六節 蘇我氏最初の大臣・蘇我稲目宿禰」


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