コラム『古事記』と『日本書紀』どちらが正しい言い伝えなのか?

 歴代大臣・大連の紹介の途中ですが、歴史学者が『日本書紀』の内容を批判するのに『古事記』を利用するという事が多い為、本当に『古事記』の方が正確なのか、疑問に思いました。


 『古事記注釈』の西郷信綱の言葉を借りると古事記のヲケとシビの歌垣の争いが書紀では武烈天皇紀の話になっていて内容も違う事に対して「このような場合、どちらが正伝か決めることが出来ないし、また、その必要もない。伝承はかなり自由に姿を変える」(1)という様に、あまり学術的な内容とは言い難いですが、本稿は専ら『古事記』と『日本書紀』共通の伝承がある場合どちらが両書共通の資料である『帝紀』『旧辞』原文にどれだけ近いか等を成立の背景なども考慮しながら検討したいと思います。



◇『古事記』の企画・成立の背景

 『古事記』上巻の序文に古事記の企画・成立の背景が書かれています。大まかに説明すると、天武天皇の御代、天皇は多くの氏族が持っている帝紀(天皇の正史)と本辞(諸氏族の家伝)は事実と違い、多くの虚偽が加えられており、その誤りを改めないと何年としない内に真実は失われてしまうだろうとし、帝紀を選び記し、本辞を調べ究めて、後世に伝えようという趣旨の事を仰せになり、稗田阿礼に帝皇の日継(天皇代々の継承)と先代(諸家代々)の旧辞(古伝)をみ習わせましたが、天皇が代わってもその事績は成就しませんでした。


 元明天皇の世に至り、和同四年九月十八日、天皇が安萬侶に命じて稗田阿礼が誦んだ天武天皇の勅語の旧辞を選び記して献上せよと仰せられ、太安萬侶おおのやすまろは細部まで目を配り正しい物を採録した事、上古の時代の言葉は率直であり、それを漢字で敷き移し、漢語で綴る事が容易では無かった事などが記されています。(2)



◇『古事記』の企画・成立の背景ポイント

 上記で説明しました『古事記』序文には原資料に関する多くの情報が含まれており、重要なポイントを纏めると以下の4点になります。


①天武天皇の頃には多くの氏族に『帝紀』と『本辞』と呼ばれる言い伝えがあった。

②『帝紀』と『本辞』は多くの虚偽が加えられている。

③偽りを削り真実を定め、稗田阿礼に誦み習わせた。

④元明天皇の世に至り、稗田阿礼が口誦こうしょうしたものを太安萬侶おおのやすまろが撰録した。


 ①につきましては『日本書紀』でも天武天皇十年三月十七日に大極殿において、川嶋皇子以下十二人に、帝紀と上古の諸事を定めさせ、中臣連大嶋なかとみのむらじおおしま平群臣子首へぐりのおみここうべの二人が筆を執って書き記した事が書かれており、この記事にある「帝紀と上古の諸事」は『古事記』と『日本書紀』と共通の原資料であると推察されています。


 ②は各氏族にとって都合が良い伝承であったのか、あるいは天皇家にとって都合の悪い伝承であったのか、定かではありませんが、③により、いわば天皇家の正史を後世に残そうとしますが、完成には多くの年月がかかり④の元明天皇の時代になりようやく太安萬侶おおのやすまろによって『古事記』という書物の形で完成する事になります。



◇『古事記』は「いつはりを削りまことを定め」ている。

 さて、『古事記』と『日本書紀』のどちらがより古い伝承なのか、判断するには②と③が判断の元になるかと思います。


 例えば、『日本書紀』の履中天皇即位前紀には仲皇子が反乱を起こし、当時太子であった履中天皇の宮を囲んだ際、平群木菟宿禰へぐりのつくのすくね物部大前宿禰もののべおほまへのすくね漢直あやのあたひの祖である阿知臣あちおみが太子を救い、馬に載せて脱出する描写があります。


 『古事記』では同じ事件の記事でも平群木菟宿禰へぐりのつくのすくね物部大前宿禰もののべおほまへのすくねの二人の名は登場し無い為、この二人に関してはまさしく「いつはりを削りまことを定め」られた伝承という事になり、即ちこの記事の場合、『日本書紀』の記述の方がより古い伝承であった事が推測されます。


 そう言ったケースはしばしば見られますし、他のケースでは別稿で武内宿禰の紹介記事でも書いた様に、『日本書紀』では一見意味が通じない素朴な伝承に近い物を載せたのに対して『古事記』の文学性に富んだ記述は旧来の伝承が修正されたものである可能性が高いと思います。


 また、『日本書紀』の景行天皇紀では弟橘媛おとたちばなひめ宮簀媛みやずびめの伝承もあっさりと描かれているのに対し、『古事記』では二人についてはより詳しい記事と歌まで載せており、特に弟橘比売おとたちばなびめに関しては悲劇的に描かれており、物語として関心を引きやすい内容になっているのは伝承が修正されたものであると思います。


 但し、津田左右吉等の研究で知られている通り、『日本書紀』が漢籍による潤色された記事が多いのも事実です。


 例えば仁徳天皇と菟道稚郎子うじのわきいらつこが互いに皇位を譲ろうとする伝承の様に『古事記』では素朴に描かれ、『日本書紀』では漢籍を元に明らかに潤色されている場合のパターンも多いので、より古い伝承であるのかは『古事記』だから『日本書紀』だからと考えるより、各記事毎に比較して判断するしかありません。


 ですが、『古事記』で内容がシンプルなものは「いつはりを削りまことを定め」られた影響もあり、履中天皇即位前紀の様に、よりシンプルな記載だからと言って古い資料に忠実とも言えないのではないでしょうか。




◇記述が古いとして、それは正しいのか?

 では、記紀で共通する伝承で内容に違いがあった場合、『古事記』あるいは『日本書紀』のどちらかの記述の方が古いとしてそれが判断が分かれると思います。


 ②で言う虚偽として当て嵌められたケースが、

(1)明らかに史実では無い場合。

(2)天皇家にとって都合が良くない


 少なくても上記二つのケースがあるかと思います。(1)については天皇家と近い血筋を自称する為に勝手に系譜を作り上げた一族も多数存在しただろうし、ありもしない手柄話を家伝として創作した一族も多く存在したでしょう。天皇家としてはそんな胡散臭い物を排して自らの神聖と正当性を示す必要があったので、「いつはりを削りまことを定め」る事は国家の権威を高める為にも必要不可欠な事だったのでしょう。


 「歴史は勝者が創る」等と語る軽薄な知ったかぶりの言を支持する訳ではありませんが、それでも(2)に関しては歴史書として免れない宿命ですが、比較的『日本書紀』は客観的な立場で、天皇家にとって不都合と思われる記事も多く散見されます。


 例えば武烈天皇の暴君っぷりがそうですし、わずか七歳の眉輪王に暗殺された安康天皇や崇峻天皇の東漢駒による暗殺も不名誉な内容でしょう。古事記の舞台よりも後世の記事となりますが、斉明天皇紀二年(六五六)是歳の記事に見られる大規模開発による人民の抗議などは考古学的な裏付けもあり、この様な失政が史実である可能性が高く、本来であれば「不都合な事実」と想定されますが隠していません。また、「一書曰あるふみにいはく」という形で多くの文献を引用し、ある意味読者に判断を委ねており、あくまで天皇家側の正史である『古事記』より客観的なイメージがあります。


 故に「虚偽」とされ、『日本書紀』にはあっても『古事記』で削除された物もあるのでしょう。安康天皇の暗殺については記紀でほぼ共通の内容ですが、『古事記』では武烈天皇の悪行、崇峻天皇の暗殺は伝えられていません。


 武烈天皇の悪行に関して通説では『史記』に登場する殷の暴君・紂王の記述を下敷きに創作されたと言われており、あるいは内山真龍によれば百済王の無道暴虐を奏上した百済記を転じて本文とした(3)と言われており、この話が創作されたのは武烈の血統が断絶したので、血筋が遠い継体天皇の皇位継承の正当性を増す為とも考えられますが、そんな回りくどい事するなら病床の武烈が継体に禅譲する話でも創作すりゃ良いじゃんと単純に思ってしまいます。


 話が若干ずれましたが、記事により『日本書紀』の方が『帝紀』『旧辞』のような原資料に近い伝承を掲載していたとして、だからと言ってそれが。特に『旧辞』的内容から歴史的事実を見出すのは難しいのは以前の稿でご紹介させて頂きました、『帝紀から見た葛城氏』で述べた井上光貞氏の主張の通りかと思います。(4)


 それでも『帝紀』『旧辞』と言った史料以外にも各氏族の『墓記』や朝鮮や中国の文献など複数史料も利用し、ある意味公平な立場を目指した『日本書紀』は『古事記』よりは客観的かと思います。


 極端な話、『古事記』の様に天皇家が認めるのであればそれはある意味正史と言っても良いですが、歴史学者が『日本書紀』よりも『古事記』の記述を優先するとあれば、皮肉な事に彼らが否定したい天皇家の歴史を認めた事になります。


 記事によりケースバイケースなのでしょうが、私の認識では『古事記』は文学性の富んだ歌物語で読む分には面白いかと思いますが、『日本書紀』は歴史書だと思うので、必然的に後者を優先し、より正確さを求めるには考古物や遺跡・外的史料などとの比較検討は必要であっても、大方は『古事記』より『日本書紀』の方を信用していいかと思っています。



◇参考文献

(1)『古事記注釈 第八巻』 西郷信綱 筑摩書房 138ページ

(2)『新版 古事記 現代語訳付き』 中村啓信 角川ソフィア文庫

(3)『日本書紀 : 訓読. 中巻』 黒板勝美 編 岩波文庫(国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 141コマ 註解三)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029096

(4)『井上光貞著作集 第一巻』 岩波書店 29~30ページ


◇関連項目

初学者が先ず参考にすべき論文・井上光貞『帝紀からみた葛城氏』

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452219092525207

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