『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(8)物部氏の全盛期 物部麁鹿火

『前賢故実. 巻之1』より物部麁鹿火の肖像画

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816700428350383373


 本稿では過去にご紹介させて頂きました大連・大臣よりも実在性がずっと高く、『古事記』でも『日本書紀』でも活躍が伝えられ、天皇と同等の役割を果たしたとも解釈されている物部麁鹿火大連もののべあらかひおほむらじを取り上げます。


 なお、麁鹿火の娘の影媛に関する逸話は「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(6)日本の王になろうとした平群真鳥大臣」。『古事記』の物部荒甲之大連に関する記事は「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(7)謎の大臣・巨勢男人」の(3)を参考にしてください。



(1)『日本書紀』巻十七継体天皇二一年(丁未五二七)六月壬辰朔 甲午三日

廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率衆六萬、欲往任那、爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑、而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶豫經年。恐事難成、恒伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所、而勸防遏毛野臣軍。於是、磐井掩據火豐二國、勿使修職。外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、内遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰、今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏倆前、遂戰而不受。驕而自矜。是以、毛野臣、乃見防遏、中途淹滯。天皇詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰、筑紫磐井反掩、有西戎之地。今誰可將者。大伴大連等僉曰、正直仁勇通於兵事、今無出於麁鹿火右。天皇曰、可。


(二十一年の夏 六月みなづき壬辰みづのえたつの朔 甲午きのえうまのひ近江毛野臣あふみのけなのおみ衆六萬いくさむよろづて、任那みまなに往きて、新羅しらきやぶられし南加羅ありしひのから喙己呑とくことん為復かへ興建てて、任那に合わせむとす。ここに、筑紫國造磐井つくしのみやつこいはゐひそか叛逆そむくことをはかりて、猶豫うらもひして年を。事のがたきことをおそりて、つね間隙ひまうかがふ。新羅しらきこれを知りて、ひそか貨賂まひなひ磐井いはゐもとおくりて、すすむらく、毛野臣けなのおみいくさ防遏へよと。是に、磐井、ほのくにとよのくに、二つの国におそりて、使修職つかへまつらず。海路うみつぢへて、高麗こま百濟くだら・新羅・任那等の国のとしごと職貢みつぎものたてまつる船をわかついたし、内は任那につかはせる毛野臣の軍をさいぎりて、乱語なめりごと揚言ことあげしていはく、「今こそ使者つかひひとたれ、昔はともだちとして、肩摩かたす肘触ひじすりつつ、共器おなじけにして同食ものくらひき。いずくに率爾にはかに使となりて、われをしてまへ自伏したがはしめむ」といひて、つひたたかひてうけず。おごりて自らたかぶ。ここて、毛野臣、すなは防遏へられて、中途なかみちにして淹滯さはりとどまりてあり。天皇すめらみこと大伴大連金村おほとものおほむらじかなむら物部大連麁鹿火もののべのおほむらじあらかひ許勢大臣男人等こせのおほおみをひとらみことのりしてのたまはく、「筑紫つくし磐井反いはゐそむおそひて、西のひなくにたもつ。今誰いまたれいくさのきみたるべき者」とのたまふ。大伴大連等 僉曰みなまうさく、「たひらただしくめぐいさみて兵事つはもののことこころしらへるは、今 麁鹿火あらかひが右にづるひと無し」とまうす。天皇曰く、「ゆるす」とのたまふ。)


・概略

 継体天皇二一年夏六月三日、近江の毛野臣が六万の兵を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅ありしひのから喙己呑とくことんの失地を回復し、任那に合併させようとした。この時、筑紫国磐井が密かに反逆を企てたが、グズグズして年を経、事が難しいのを恐れて隙を窺っていた。新羅がこれを知って磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害する様に勧めた。

 磐井は火国ほのくに(肥前・肥後)・豊国とよのくに(豊前・豊後)などを抑えて、職務を果たせない様にして、外は海路を遮断して、高麗こま(高句麗)・百濟くだら・新羅・任那等の国が貢物を運ぶ船を欺き奪い、内は任那に遣わされた毛野臣の軍を遮り、無礼な揚言をして「今でこそ(大和王権の)使者だが、昔は仲間として肩や肘をすり合わせ、同じ釜の飯を食った仲だ。使者になったからと言って、にわかに自分を従える事が出来るものか」と言って遂に戦って従わず、気勢が盛んであった。毛野臣は前進を阻まれ、途中で停滞してしまった。

 (継体)天皇は大伴大連金村おほとものおほむらじかなむら物部大連麁鹿火もののべのおほむらじあらかひ許勢大臣男人等こせのおほおみをひとらみことのりをして「筑紫の磐井が反乱して、西の国をわがものにしている。今誰か将軍に適任な者は居ないか」と言われた。大伴大連ら皆が「正直で勇に富み、兵事に精通しているのは、いま麁鹿火の右に出る者はありません」と答えると「それでよい」と言われた。


・解説

 歴史教科書にも載っている彼の有名な「磐井の乱」の事の発端に関する記事です。新羅と関係が深かった事が推察される筑紫国の磐井が北九州諸国を制し、毛野臣率いる新羅の征討軍を妨害しました。


 篠川賢氏によると、当時の朝鮮半島情勢から考えると不自然ではなく、『先代旧事本紀』国造本紀の伊吉嶋造条には「磐余玉穂朝、伐石井従者新羅海辺人天津水凝後上毛布直造」つまり、「継体朝に、石井(磐井)に従った新羅の海辺の人を征伐し、天津水凝あまつみずこりの後裔である上毛布直かみつけぬのあたいみやつことした」とあることから、磐井が新羅と結んだ事は事実とみてよいと述べています。(2)


 継体天皇が磐井討伐を計ると、大伴金村により将軍として推挙されたのが大連の地位にあった物部麁鹿火でした。


 武烈朝の平群氏滅亡の際には麁鹿火の娘の影媛が平群鮪と恋仲にあった事が事実だとすれば、当時の物部氏は不安定な地位にあったはずですが、この頃には将軍に推挙される程の信頼を得ていたという事でしょうか。




(3)『日本書紀』巻十七継体天皇二一年(丁未五二七)秋八月辛卯朔

秋八月辛卯朔、詔曰、咨、大連茲惟磐井弗率。汝徂征。物部麁鹿火大連再拜言、嗟、夫磐井西戎之姧猾。負川阻而不庭。憑山峻而稱亂。敗徳反道。侮嫚自賢。在昔道臣、爰及室屋、助帝而罸。拯民塗炭、彼此一時。唯天所賛、臣恒所重。能不恭伐。詔曰、良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河决。戰如風發。重詔曰、大將民之司命。社稷存亡、於是乎在。勗哉。恭行天罸。天皇親操斧鉞、授大連曰、長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。專行賞罸。勿煩頻奏。


秋八月あきはつき辛卯かのとのうついたちのひに、みことのりしてのたまはく、「大連おほむらじ惟茲これこ磐井率いはゐしたがはず。汝徂いましゆきてて」とのたまふ。物部麁鹿火大連もののべのあらかひおほむらじ再拝をがみてまうさく、「磐井いはゐは西のひな姧猾かだましきやつこなり。川のさがしきことをたのみてつかへまつらず。山のたかきりてみだれをぐ。いきほひやぶりてみちそむく。あなづおごりて自らさかしとおもへり。在昔むかし道臣みちのおみより、ここ室屋むろやいたるまでに、きみまもりてつ。おほみたから塗炭くるしきすくふこと、かれこれ一時もろときなり。唯天ただあめたすくるところは、やつこつねおもみにする所なり。つつしたざらむや」とまうす。詔してのたまはく、「良将すぐれたるいくさのきみいくさだちすること、めぐみを施してうつくしびを推し、己をおもひはかりて人を治む。攻むること河の決くるが如し。戦ふこと風のつが如し」とのたまふ。また詔して曰はく、「大将おほいくさのきみおほみたから司命いのちなり。社稷くにいへ存亡ほろびほろびざらむことここに在り。つとめよ。つつしみて天罸あまつみを行へ」とのたまふ。天皇すめらみことみづから斧鉞まさかりりて、大連おほむらじに授けていはく、「長門よりひむがしをば朕制われかとらむ。筑紫より西をばいましかとれ。専賞罸たくめたまひものつみを行へ。しきりまうすこと勿煩なわづらひそ」とのたまふ。)


・概略

 継体天皇二一年秋八月、(天皇は)詔して「大連よ磐井が叛いている。汝が行って討つのだ」と言われた。

 物部麁鹿火大連再排して、「磐井は西の果ての狡猾な者です。山川が険阻なのをたのみとして、恭順を忘れ乱を起こしたものです。道徳に反し、驕慢で自惚れています。私の家系は祖先から今日まで帝の為に戦いました。塗炭の苦しみから人民を救うのは昔も今も変わりません。ただ天の助けを得る事は私が恒美重んずるところです」と言った。詔に「良将は出陣にあたっては将士をめぐみ、思いやりをかける。そして攻める勢いは怒涛や疾風のようである」といわれ、また「大将は兵士の死命を制し、国家の存続を支配する。謹んで天罰を加えよ」と言われた。天皇は(将軍の印綬である)斧鉞を授けて大連に「長門より東は朕が治めよう。筑紫より西はお前が統治し、処罰も思いのままに行え。一々報告する事は無い」と言われた。


・解説

 天皇により筑紫より西、つまり九州は麁鹿火の思いのままに統治せよと言われる程の信頼を麁鹿火が得ていた逸話です。


 この記事に着目した古代史研究でも著名な民俗学者の谷川健一氏は『先代旧事本紀』「天孫本紀」のニギハヤヒ降臨に同行した面々の記載を取り上げ、その出自地と推定される地名を調べ、これをみると河内・大和・摂津と筑前・築後にまたがった物部氏の同族が多い事を指摘し、継体朝の磐井の乱における麁鹿火の活躍は乱後、九州の物部氏の勢力を飛躍的に増大させたことを推定すると共に、麁鹿火が磐井を打倒したのは、都から遥々連れてきた下向した官兵の力よりは、むしろ九州在地の物部氏の協力が大きかったという説(4)は中々歴史学者には無い着眼点で面白いとは思いますが、信憑性が低いとされている『先代旧事本紀』「天孫本紀」を基礎資料としている点や北九州から大和へ東遷した物部氏の「根」であるという谷川氏の持論から導き出されている説の為、鵜呑みには出来ません。


 とは言え、『新撰姓氏録』に載る石上氏同祖系氏族数が百を超え、「物部八十氏もののふのやそうじ」(八十は実数ではなく多いと言う意味。実際八十どころじゃないんですが)と言われる程同族が多く、古代最大の氏族であった物部氏がこの頃には既に九州でも勢力が盛んで、麁鹿火に協力したと言う可能性は充分にあります。


 「筑紫より西はお前に任せよう」と言う継体天皇の言葉が後世の付会だとしても、それが物部氏の九州における勢力範囲を裏付けるものであったのかも知れませんね。


*追記:大伴氏の家記改竄説

 ⑶は『芸文類聚』を利用した漢文的修飾の典型的な例と言われ、「在昔道臣、爰及室屋」の部分は、出典の「周武」を「道臣」、「公旦」を「室屋」に入れ換えたものであり、道臣は神武天皇に仕えた道臣命で大友氏の祖。室屋は大連大伴金村の祖父の大連であり、共に大伴氏の功業を称えており、物部麁鹿火の言葉としては相応しく無いと言われています。➀


 つまり、本来⑶は漢文を潤色して作られた大伴氏の家記に基づいて書かれたものであり、それを物部氏の立場から修正されたとみてよく、このことを本来大伴氏の関与も語られていたのに、後の大伴金村の失脚により、対朝鮮半島関係の記事から大伴氏の姿が抹消されたのではあるまいかという見方➁や、物部氏の立場からの修正が加えられたとすれば、その時期は、編纂の最終段階ということになり、大納言の大伴安麻呂が死去し、なお左大臣石上麻呂(物部麻呂)は存命中の時期、すなわち和同七年(七一四)五月から養老元年(七一七)三月までの間とみるのを妥当との推測があります。③


 ②に関しては『古事記』継体天皇条に「(前略)竺紫君石井。不従天皇之命而。多

无禮。故遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而。殺石井也」④とあり、物部氏と共に大伴氏も磐井の乱に参戦した可能性は充分考慮してよく、この事実から『芸文類聚』を利用して大伴氏の家記が書かれたものの、改竄されてしまった可能性は否定できません。


 ③に関しては、和銅三年(七一〇年)三月十日、都が平城京に遷ったとき、石上麻呂は旧都の留守になったことは、藤原不比等との対立により石上麻呂が政権から遠ざけられたという見方もあり⑤、だとすれば和同七年(七一四)五月から養老元年(七一七)三月までの間という時期に、石上麻呂に他家の家記を改竄する程の権力があったのか疑問が残ります。寧ろ、②の事情により、物部氏というよりは編纂者の意向で大伴氏の家記が改竄されてしまったと考えるべきでしょうか?




(5)『日本書紀』巻十七継体天皇二二年(戊申五二八)十一月 甲子十一日

廿二年冬十一月甲寅朔甲子、大將軍物部大連麁鹿火、親與賊帥磐井、交戰於筑紫御井郡。旗鼓相望、埃塵相接。決機兩陣之間、不避萬死之地。遂斬磐井、果定疆場。


(二十二年の冬十一月ふゆしもつき甲寅きのえとら朔甲子ついたちきのえねのひに、大将軍おほいくさのきみ物部大連麁鹿火もののべのおほむらじあらかひみづかあたひとごのかみ磐井と、筑紫の御井郡みゐのこほり交戦あひたたかふ。旗鼓相望はたつづみあひのぞみ、埃塵相接ちりあひつげり。はかりことふたつのいくさあひださだめて、万死みをすつるところらず。つひに磐井を斬りて、はたして疆場さかひを定む。)



・概略

 継体天皇二十二年十一月十一日、大将軍物部大連麁鹿火は、敵の首領磐井と、筑紫国の三井群で交戦し、両軍の旗や鼓が相対し、軍勢のあげる塵埃は入り乱れ、両軍は勝機をつかもうと、決死の戦を交えて互いに譲らなかった。そしてついに磐井を斬って、ついに反乱を鎮圧した。


・解説

 本文は『芸文類聚』の武部の将師、後魏温子昇広陽王北征請大将表「旗鼓相望、埃塵相接、決機両陣之間、不避万死之地。」の引用と言われています(6)。ですが、麁鹿火率いる官軍が磐井に勝利した事は『古事記』の継体天皇条や「筑紫国風土記逸文」の磐井の墓に関する記事からも史実とみて良いかと思います。


 なお、継体天皇紀では磐井は斬られていますが、『釈日本紀』引用の「筑紫国風土記逸文」の磐井の墓に関する記事では官軍に勝てそうにない事を知った磐井が単身豊前国の上膳かみみけの県に逃げた事が書かれており、磐井はこの時討たれなかった可能性もありますが、真偽の確かめようもありませんし、仮に生きていたとして、山の険しい峰で人生を終えたという伝えられる磐井に何か出来たとも思えず、大和王権の北九州支配の強化に抵抗する術は無かったでしょう。


 この磐井の墓は福岡県八女市の岩戸山古墳にあり、「筑紫国風土記逸文」を裏付ける石人といった石製表飾品が発掘されています。参考までに以前、東京国立博物館の考古展で撮影した石人の資料画像は以下になります。

https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/KHh5p2RA


 なお、磐井に関しては『江田船山古墳出土太刀銘文』と『稲荷山古墳出土鉄剣銘文』により遅くても雄略天皇の時代には大和王権の勢力が北九州から関東に及んでいた事が証明されたことで、とっくに破綻しているハズの九州王朝説にかけたトンデモが未だにネット上で溢れかえってますので注意してください。

(古田信者の研究者はこれらの銘文に珍解釈をして否定している模様ですが、古田が『東日流外三郡誌』の如き偽書を擁護している事からも推して知るべしです)




◇賢妻と、日本初の仮病の記録


(7)『日本書紀』巻十七継体天皇六年(壬辰五一二)十二月

(冬十二月、百濟遣使貢調。別表請任那国上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。哆唎国守穗積臣押山奏曰、此四縣、近連百濟、遠隔日本。旦暮易通、鷄犬難別。今賜百濟、合爲同國、固存之策、無以過此、然縱賜合國、後世猶危。况爲異場、幾年能守。大伴大連金村、具得是言、同謨而奏。迺以物部大連麁鹿火、宛死宣勅使。物部大連、方欲發向難波館、宣勅於百濟客。其妻固要曰、夫住吉大神、初以海表金銀之國、高麗・百濟・新羅・任那等、授記胎中譽田天皇。故大后氣長足姫尊、與大臣武内宿禰、毎國初置官家、爲海表之蕃屏、其來尚矣。抑有由焉。縱削賜他、違本區域。綿世之刺、詎離於口。大連報曰、教示合理、恐背天勅。其妻切諌云、稱疾莫宣。大連依諌。(以下略))


冬十二月ふゆしはすに、百濟、使をまだして朝貢みつきたてまつることふみたてまつりて任那国みまなのくに上哆唎おこしたり下哆唎あろしたり娑陀さだ牟婁むろ四県よつのこほりふ。哆唎国守たりのくにのみこともち穗積臣押山ほづみのおみおしやままうしてまうさく、「の四県は、近く百済にまじはり、とほ日本やまとへだたる。旦暮あしたゆふべに通ひやすくして、鷄犬にわとりいぬき難し。今百済にたまはりて、あはせて同じ国とせば、固くまたはかりこと、以てこれぐるは無けむ。しかれども、たとたまはりて国を合すとも、後世のちのよなほあやふからむ。いはむ異場ことさかひてば、幾年ちかきとしすらにく守らむや」とまうす。大伴大連金村おほとものおほむらじかなむらつばひらかことを得て、はかりことを同じくしてまうす。すなは物部大連麁鹿火もののべのおほむらじあらかひを以て、勅宣みことのりのたまふ使につ。物部大連、まさ難波なにはむろつみち向ひて、百済のつかひ勅宣みことのりのたまはむとす。其の固くいさめていはく、「住吉大神すみのえのおほかみ、初めて海表わたのほか金銀しろかねこがねの国、高麗こま・百済・新羅・任那等みなならを以て、胎中はらのうちにまします譽田天皇ほむだのすめらみこと授記さづけまつれり。かれ大后氣長足姫尊おほきさきおきながたらしひめのみこと大臣武内宿禰おほみたけしうちのすくねと、国毎くにごとに初めて官家みやけを置きて、海表わたのほか蕃屏まがきとして、其のありくることひさし。抑由はたゆゑ有り。し削きてひとくにたまはば、もと區域さかひたがひなむ。綿世ながきよそしりいづくにが口にさかりなむ」といふ。大連 かへりまうして曰はく、「をししめすことことわりかなへれども、恐るらくは、天勅すめらみことのみことのりそむきまつらむことを」といふ。其の妻切めいたいさめて云はく、「やまひまうしてみことのりなせそ」といふ。大連 いさめしたがひぬ。(以下略))



・概略

 継体天皇六年冬十二月、百済が使いを送り、調をたてまつった。別に上表文をたてまつって、任那国みまなのくに上哆唎おこしたり下哆唎あろしたり娑陀さだ牟婁むろ四県よつのこほりの割譲を請った。


 哆唎国守たりのくにのみこともち穗積臣押山ほづみのおみおしやまが奏上して、「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっています。百済とこれらの地は朝夕に通い易く、鶏犬の声もどちらのものか聞き分けにくいほどであり、いま百済に賜って同国とすれば、保全のためにこれに過ぐるものは無いと思われます。しかし百済に合併しても後世の安全は保障しがたいですが、まして百済と切り離して置いたら、とても何年も守り得ないでしょう」と言った。

 大伴金村も意見に同調して奏上した。物部大連麁鹿火もののべのおほむらじあらかひみことのりを伝える使いとされた。物部大連が難波館に出向き、百済の使いに勅を伝えようとした時、彼の妻が固く諫めて、「住吉大社は海の彼方の金銀の国です、高麗こま・百済・新羅・任那などを、まだ胎中におられる譽田天皇ほむだのすめらみこと(応神天皇)にお授けになりました。そこで大后氣長足姫尊おほきさきおきながたらしひめのみこと(神功皇后)は、大臣武内宿禰おほみたけしうちのすくねと共に、国毎に宮家を設け、海外での我が国の守りとされ、長く続いてきた由来もあります。もしこれを割譲して他国に与えたら本来の領域と違ってきます。そうしたら後世長い間非難が絶える事が無いでしょう」と言った。

 大連は言葉を返し、「教えてくれたことは理にかなっているが、それでは勅にそむくことになるだろう」と言った。その妻は強く諫めて、「病気と申し上げて勅宣をお受けにならないのが宜しいでしょう」と言ったので、大連は諫めに従った。


・概要

 百済により任那の四県を割譲して欲しいと請われ、その意を与した哆唎国守たりのくにのみこともち穗積臣押山ほづみのおみおしやまが奏上し、大伴金村も同調し、その勅使の役割として麁鹿火に白羽の矢が立ちますが、彼の妻は神功皇后が武内宿禰と共に国外に設けた宮家を割譲したら後世長い間批判されると反対し、病気だからと勅宣を断る様に入れ知恵をして、麁鹿火は勅宣を受けませんでした。恐らくこれが日本で初めての仮病の記録ですね(笑)


 時の最高権力者と思われる大伴金村の意に反するのは相当なリスクがあったかと思います。武烈紀の平群鮪と影媛の記事が平群氏と物部氏が連携しようとしており、それが大伴金村により断たれたのが事実だとして(以前の稿で述べましたようにこの頃の平群氏に関する記事は捏造の疑いが強いですが)、継体天皇擁立で音頭をとったのが金村であったとすれば、同じ大連の地位でも金村の方が優位性が高い事が推察される為です。


 ところが金村が磐井征伐の将軍に麁鹿火を推挙している事から、この頃は大伴・物部両氏は友好関係を結べていたようで、少なくても大伴氏から報復されたという事は『日本書紀』には書かれていません。


 長い目でみるとこの時の麁鹿火の判断は正解で、この事が権勢を誇った金村及び大伴氏の失脚に繋がっていきます。詳しい解説は金村の稿で書きたいと思いますが、この話が事実だとすれば麁鹿火の妻の先見の明は驚くべきものがありますね。



◇後の麁鹿火に関する概略

 磐井を征伐した彼は継体天皇の死後、後を継いだ安閑・宣化天皇の世に至っても大連の地位に就きます。


 宣化天皇元年五月に蘇我稲目・阿部臣等と屯倉(皇室領)の籾を運ぶ役割を担い、新家連を遣わして籾を運ばせます。この事は漢籍による潤色と言われていますが、何らかの原資料があり、麁鹿火は天皇家と同等の役割を果たしていたと解釈されています。この記事に関しては掲載予定の蘇我稲目大臣の稿で詳しく述べる予定です。


 同年の秋七月に麁鹿火は死亡しました。葛城円や平群真鳥の様に殺害された者以外で死亡記事があるのは巨勢男人についで二番目の事例になりますが、わざわざ死亡記事を載せているのは救国の英雄とも言っていい彼の死が余程大きな出来事だったという事でしょうか。




◇参考文献

(1)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 462・188・190ページ

(2)『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 170ページ

(3)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 462・463・190・192ページ

(4)『白鳥伝説』 谷川健一 集英社 105~107ページ

*追記

➀『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

193ページ 注四

➁『大伴氏の伝承 旅人・家持への系譜』菅野雅雄 桜楓社 103ページ

③『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 170-171ページ

④『国史大系 第7巻』経済雑誌社

所収「古事記下巻」

https://dl.ndl.go.jp/pid/991097/1/94

⑤『藤原不比等』上田正昭 朝日新聞社


(5)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 463・192・194ページ

(6)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 193ページ

(7)『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 176・178・458ページ


◇関連項目

・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(6)日本の王になろうとした平群真鳥大臣

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452221445101819

・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(7)謎の大臣・巨勢男人

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700426419892169

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