『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(9) 元祖キングメーカー大伴金村①
首相など時の最高権力者の選定に大きな影響力を持つ者をキングメーカーと言います。日本では田中角栄・竹下登・小沢一郎などがよく知られていますが、遥か昔、古代日本の大王選定に大きな影響力を誇ったキングメーカーの元祖と呼ぶべき人物が存在しました。その名を大伴金村と言います。
日本初の独裁政権を築いた雄略天皇の死後、短命な王権が続き、大王の王権は不安定になりました。武烈天皇が死去すると仁徳天皇系統の血筋が途絶えるという大王家始まって以来の危機が訪れました。
金村はこの王権が不安定な時期に応神天皇系の血統である継体天皇を見出した事で、今の世にまで続く天皇家の基盤を築きました。
本稿では元祖キングメーカーの大伴金村大連について取り上げてみたいと思います。金村に関する記事は多いので二回に分けて行いたいと思います。
なお、武烈天皇紀における金村の記事は別稿「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(6)日本の王になろうとした平群真鳥大臣」をご覧ください。
又、『古事記』の継体天皇記で「大伴之金村連」と表記されている事から大伴金村が大連では無いという篠川賢氏の説に関しましては別稿「大和王権の最高位。「大臣」「大連」とは?」をご覧ください。
(1)『日本書紀』巻十七継体天皇即位前紀
男大迹天皇。〈更名彦太尊。〉譽田天皇五世孫、彦主人王之子也。母曰振媛。振媛、活目天皇七世之孫也。(中略)天皇年五十七歳、八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩。元無男女、可絶繼嗣。壬子。大伴金村大連議曰、方今絶無繼嗣。天下何所繋心。自古迄今、禍由斯起。今足仲彦天皇五世孫倭彦王、在丹波國桑田郡。請試設兵仗、夾衛乘輿、就而奉迎、立爲人主。大臣大連等、一皆隨焉、奉迎如計。於是、倭彦王、遥望迎兵、懼然失色。仍遁山壑、不知所詣。
(
天皇、
・概略
天皇が五十八歳の、(武烈天皇)八年の冬十二月八日に、
・解説
武烈天皇の死後、天皇に後継ぎも皇女も無く、仁徳天皇系統の血筋が絶えてしまいました。そこで大伴金村は第14代天皇仲哀の5世の孫という
何処まで信憑性のある記事なのか分かりませんが、当時の不安定な情勢を表しているのかも知れません。なお、本文は『古事記』には無い話のなので『旧辞』には無かった話だと推察出来ます。
(2)『日本書紀』巻十七継体天皇元年(丁亥五〇七)正月
元年春正月辛酉朔甲子、大伴金村大連、更籌議曰、男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。冀慇懃勸進、紹隆帝業。物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰、妙簡枝孫、賢者唯男大迹王也。
(
・概要
継体天皇元年1月4日、大伴金村大連はまた議って「
・解説
倭彦王に逃げられてしまい、一計を案じた金村は今度は応神天皇の5世の孫である
音頭を取ったのは物部麁鹿火でも許勢男人でもなかった事は、天皇不在の当時、事実上の最高権力者は金村であった事が伺えます。
(3)『日本書紀』巻十七継体天皇元年(丁亥五〇七)二月
二月辛卯朔甲午、大伴金村大連、乃跪上天子鏡劔璽符再拜。男大述天皇謝曰、子民治國重事也。寡人不才、不足以稱。願請、廻慮擇賢者。寡人不敢當。大伴大連、伏地固請。男大迹天皇、西向譲者三。南向譲者再。大伴大連等皆曰、臣伏計之、大王子民治國、最宜稱。臣等、爲宗廟社稷、計不敢忽。幸藉衆願、乞垂聽納。男大迹天皇曰、大臣大連、將相諸臣、咸推寡人。寡人敢不乖、乃受璽符。是日、即天皇位。以大伴金村大連爲大連、許勢男人大臣爲大臣、物部麁鹿火大連爲大連、並如故。是以、大臣大連等、各依職位焉。
(
・概略
二月四日に、
男大迹天皇は「
・解説
金村は所謂三種の神器と呼ばれる神器の中の鏡・剣を奉り拝礼し、男大迹に即位を願いましたが、その責任の重さに辞退しました。倭彦王が逃げ出してしまったように、当時の情勢では下手に大王に即位すると殺されてしまう可能性も高いと考えたのかも知れません。
ですが、再三の粘り強い説得で折れて、男大迹は即位を決意しました。この時も大和王権の代表は金村が務め、言わば金村のお陰で今日まで続く天皇家の血筋が保たれた事になります。保守系の人達から金村の功績(それが大伴氏繁栄の為の下心があったとしても)を口にしている姿をみた事がありませんが、もっと評価されるべきでは?
余談ですが、三種の神器は元々は本文の様に鏡と剣の二種だけだったという説もあり、『古語拾遺』でも「即、以八咫鏡、及、薙草劍二種神寶授賜皇孫、永(即ち、八咫の鏡及び、草薙剣、
⑸『日本書紀』巻十七継体天皇元年(丁亥五〇七)二月
庚子、大伴大連奏請曰、臣聞、前王之宰世也、非維城之固、無以鎭其乾坤。非掖庭之親、無以繼其趺萼。是故白髮天皇無嗣、遣臣祖父大伴大連室屋、毎州安置三種白髮部、〈言三種者、一白髮部舎人、二白髮部供膳、三白髮部靭負也。〉以留後世之名。嗟夫、可不愴歟。請、立手白香皇女、納爲皇后、遣神祗伯等、敬祭神祗、求天皇息、允答民望。天皇曰、可矣。
(
・概略
十日に、
・解説
金村が後継ぎがいなかった清寧天皇が祖父・室屋に命じて三種の
清寧・武烈が後継ぎがいなかったために国政の混乱を招きましたが、その事を危惧した金村の心情を吐露したという話で、何処まで本当か分かりませんが、皇后の選定に金村が関わったのは当時の情勢からして不思議ではありません。
本稿では詳しく触れませんが、継体が応神五世の孫であるという血筋は推古朝から然程離れていない時期に書かれた『上宮記』によりはっきりとしているので、水野裕の唱える王朝交代説は破綻しており、『日本書紀』の応神五世の孫という系図は正しく事実を伝えていると思いますが、同じような血統の大王候補はゴロゴロいたのかも知れません。
*参考資料
『釈日本紀』引用『上宮記』逸文「継体天皇系譜」(著作権切れ画像使用)
https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816700427433814594
なお、大分先の稿になりますが、王朝交代説の批判は以下に取り上げています。
・オワコントンデモ学説。王朝交代説の趣旨と批判。
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330657198382518
「継体天皇は畿外から大伴氏に擁立されて立ち、反対勢力に妨げられて大和に入るまで二十年を要する状態であり、半島では朝鮮系営が失敗し、多くの負担を受けて不満を抱いていた族長たちの反乱が起こった。その一例が筑紫の磐井の乱であり、継体天皇の崩御に当たっては、辛亥の変とでもいうべき内乱状態があった」⑺
という林家辰三郎氏の空想豊かな(上田正昭風の言い方の真似ですw)説(ミステリー小説?)もあるぐらいですが、倭彦王が逃げ出してしまった事から推察出来るように、政情が不安であったのは事実かと思うので、この様な政治情勢では仁徳系統の血筋と結びつきたいという思惑は当然あったかと思います。
何だかんだとありながら、二十年かけて継体天皇は大和入りをしますが、筑紫の国で磐井が反乱を起こし、この時に金村は物部麁鹿火を推挙します。この記事及び、後の金村失脚の原因となった任那四県の割譲に係わった記事に関しましては「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(8)物部氏の全盛期 物部麁鹿火」をご覧ください。
次稿は安閑天皇紀から欽明天皇紀までの金村の記事をご紹介したいと思います。既に平群真鳥や物部麁鹿火の稿で多くの記事を取り上げていたとは言え、本稿だと継体天皇即位前紀と元年の記事しか紹介出来てませんね(滝)金村さん目立ち過ぎよ。。。
*追記:大伴氏は軍事的氏族か?
藤間生大氏は「大伴氏の研究」⑻で仲哀九年二月紀に仲哀天皇の死後、神功皇后が「
➀「大伴」というウジの名称は、本来軍事を意味しない。伴のうち有力なもの、伴のなかの伴の意味である。
➁大伴氏が軍事担当のトモとして台頭したのであれば、当然大伴氏固有の部である大伴・大伴部が軍事的に活躍するはずである。しかしそうしたことを示す史料はほとんどない。
③大伴氏が藤原部その他、部の設置に関係した記録があるが、これが大伴氏本来の職掌であった
以上のような点をあげられました。⑼
これらの中で、➀③に関しては同意出来ます。但し、➁に関しては同意し難いです。確かに雄略天皇紀七年八月条には吉備下臣前津屋の不敬を聞いた天皇が物部兵士三十人を遣わして前津屋の一族七十人を誅殺したという如き記事が大伴部には見られないかも知れませんが、例えば継体天皇二一年紀秋八月条の「在昔道臣、爰及室屋」に面影を残す磐井の乱における大伴氏の功績が消されてしまっていることや、書紀の記事で信頼おける内容が室屋以降である場合、そもそも藤原部の設置ぐらいしか功績の無い大伴室屋がいきなり大連になるのは不自然であり、その理由が、かつて井上光貞氏が、イチノベオシハノミコを討った雄略を支持したのは大伴連であろう⑽と想定された様に雄略以降の大王家の後継者争い大伴氏が関与した可能性が高いことは「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(5)伴造の台頭。大伴室屋」でも触れていますが、これらのことから想定すると、大伴氏が軍事的な氏族であることは否定しきれません。わざわざ大伴部であることを強調しなくても自明の理であったからではないかと思います。
又、③に関しては他にも、次稿で触れますように、屯倉の設置においても大伴氏が関与していたことが解りますが、安閑天皇元年閏十二月四日の記事(詳細は次稿参照)から想定すると、地方豪族に屯倉を設置させることは容易くなく、抵抗も想定されたことから、大伴氏の武力を背景に屯倉となる土地や田部と言った人員の献上を要求したことは想像に難くありません。
但し、大伴氏の性格を軍事にのみ限定するのは正しい解釈ではないという解釈には同意するという広義の意味では、大伴氏は軍事氏族ではないという見方も正しいと言えますが、21世紀に至りましても世界各国に軍事政権が存在する様に、何時の時代でも国家支配の装置として軍事力と言うものは欠かせないものであり、大伴室屋以降の執政が事実であるとすれば、それを支えるのは当然のことながら軍事力であり、これをわざわざ大伴氏と切り離して解釈するのも正しくないのでは無いかと思います。
こうした分離的な考え方は、ある意味、六世紀末の崇仏廃仏論争が宗教論争ではなく、政治闘争だという、宗教と政治を切り離して考える様な、当時の社会的背景も考慮しない現代人的でナンセンスな発想に似通っているのかも知れません。このことについては別稿「「排仏崇仏論争の虚構」の批判」で詳しく述べましたので、そちらをご覧ください。
◇参考文献
⑴『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 454・162・164ページ
⑵『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 455・164・166ページ
⑶『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫
455・456・166ページ
⑷『古語拾遺』 加藤玄智 校訂 岩波文庫 57ページ (国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 30コマ)
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3457563
⑸『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 456・168ページ
⑹『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫
171ページ 注一
⑺『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 392ページ 補注二一
⑻『萬葉集大成 第5巻 歴史社会篇』平凡社 247頁
所収「大伴家の歴史 一 大和政府における室屋と金村」藤間生大
⑼『日本古代兵制史の研究』直木孝次郎 吉川弘文館
⑽『井上光貞著作集 第一巻』 岩波書店 68ページ
「帝紀からみた葛城氏」
◇関連項目
・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(6)日本の王になろうとした平群真鳥大臣
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452221445101819
・「大和王権の最高位。「大臣」「大連」とは?」
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452220955007031
・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(8)物部氏の全盛期 物部麁鹿火
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700426076171609
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