『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(9) 元祖キングメーカー大伴金村①


 首相など時の最高権力者の選定に大きな影響力を持つ者をキングメーカーと言います。日本では田中角栄・竹下登・小沢一郎などがよく知られていますが、遥か昔、古代日本の大王選定に大きな影響力を誇ったキングメーカーの元祖と呼ぶべき人物が存在しました。その名を大伴金村と言います。


 日本初の独裁政権を築いた雄略天皇の死後、短命な王権が続き、大王の王権は不安定になりました。武烈天皇が死去すると仁徳天皇系統の血筋が途絶えるという大王家始まって以来の危機が訪れました。


 金村はこの王権が不安定な時期に応神天皇系の血統である継体天皇を見出した事で、今の世にまで続く天皇家の基盤を築きました。


 本稿では元祖キングメーカーの大伴金村大連について取り上げてみたいと思います。金村に関する記事は多いので二回に分けて行いたいと思います。


 なお、武烈天皇紀における金村の記事は別稿「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(6)日本の王になろうとした平群真鳥大臣」をご覧ください。


 又、『古事記』の継体天皇記で「大伴之金村連」と表記されている事から大伴金村が大連では無いという篠川賢氏の説に関しましては別稿「大和王権の最高位。「大臣」「大連」とは?」をご覧ください。



(1)『日本書紀』巻十七継体天皇即位前紀

男大迹天皇。〈更名彦太尊。〉譽田天皇五世孫、彦主人王之子也。母曰振媛。振媛、活目天皇七世之孫也。(中略)天皇年五十七歳、八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩。元無男女、可絶繼嗣。壬子。大伴金村大連議曰、方今絶無繼嗣。天下何所繋心。自古迄今、禍由斯起。今足仲彦天皇五世孫倭彦王、在丹波國桑田郡。請試設兵仗、夾衛乘輿、就而奉迎、立爲人主。大臣大連等、一皆隨焉、奉迎如計。於是、倭彦王、遥望迎兵、懼然失色。仍遁山壑、不知所詣。


男大迹天皇をほどのすめらみこと。〈またみな彦太尊ひこふとのみこと。〉譽田天皇ほむだのすめらみこと五世いつつぎみまご彦主人王ひこうしのおほきみみこなり。いろは振媛ふるひめまうす。振媛は、活目天皇いくめのすめらみこと七世ななつぎの孫なり。(中略)

天皇、年五十七歳みとしいそぢあまりななつ、八年の冬十二月ふゆしはす己亥つちのとのゐのひ(八日)に、小泊瀬天皇をはつせのすめらみことかむあがりましぬ。元より男女無をとこみこをみなみこなくして、継嗣絶みつぎたゆべし。壬子みづのえねのひ(二十一日)に、大伴金村大連おほとものかなむらおほむらじはかりて曰はく、「まさに今絶えて継嗣みつぎ無し。天下あめのしたいづれの所にか心をけむ。いにしへより今にいたるまでに、わざはいこれりておこる。今 足仲彦天皇たらしなかつひこのすめらみこと五世いつつぎみまご倭彦王やまとひこのおほきみ丹波國たにはこく桑田郡くはたのこほりす。ふ。こころみ兵仗つはものけて、乘輿みこしはさまもりて、きてむかまつりて、立てて人主きみとしまつらむ」といふ。大臣おほおみ大連おほむらじもはら皆隨みなしたがひて、迎へ奉ること、はかりことごとし。是に、倭彦王、はるかに迎へたてまつるつはものおせりて、懼然おそりて失色おもへりあやまりぬ。りて山壑やまたににげほどはしりて、いませむ所を知らず。)


・概略

 男大迹天皇をほどのすめらみこと〈別の名は彦太尊ひこふとのみこと。〉は譽田天皇ほむだのすめらみこと(応神天皇)の五世の孫で、彦主人王ひこうしのおほきみみこである。母を振媛ふるひめと言い振媛は、活目天皇いくめのすめらみこと七世ななつぎの孫である。


 天皇が五十八歳の、(武烈天皇)八年の冬十二月八日に、小泊瀬天皇をはつせのすめらみこと(武烈天皇)は崩御された。元来、武烈天皇に皇子も皇女も無く、継後継者は断絶した。二十一日に、大伴金村大連おほとものかなむらおほむらじが相談して、「まさに今、天皇の後継ぎが居ない。天下の人は心をどこに寄せたらいいのか。昔からより今日に至るまで、騒乱はこの事により起きる。今、 足仲彦天皇たらしなかつひこのすめらみことの五世の孫の倭彦王やまとひこのおほきみが丹波國の桑田郡くはたのこほりにおいでになる。試みに軍備を整え、天皇が載られる輿こしを護衛して、行ってお迎え申し上げて、君とお立てしようではないか」と言った。大臣おほおみ大連おほむらじは皆一致して従い、計画通りお迎え申し上げる事にした。この事に、倭彦王は、兵士を遠くに眺めて、恐ろしくなり顔色を失い、山谷に逃げ隠れして行方不明になった。


・解説

 武烈天皇の死後、天皇に後継ぎも皇女も無く、仁徳天皇系統の血筋が絶えてしまいました。そこで大伴金村は第14代天皇仲哀の5世の孫という倭彦王やまとひこのおほきみと言う人物に目をつけ、輿を運ばせた軍勢に迎えに行かせますが、この軍勢を敵と見間違えたのか? 倭彦王は恐怖を感じて逃げ出してしまうと言う話です。


 何処まで信憑性のある記事なのか分かりませんが、当時の不安定な情勢を表しているのかも知れません。なお、本文は『古事記』には無い話のなので『旧辞』には無かった話だと推察出来ます。

 



(2)『日本書紀』巻十七継体天皇元年(丁亥五〇七)正月 甲子四日

元年春正月辛酉朔甲子、大伴金村大連、更籌議曰、男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。冀慇懃勸進、紹隆帝業。物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰、妙簡枝孫、賢者唯男大迹王也。


元年はじめのとし春正月はるむつき辛酉かのとり朔甲子ついたちきのえねのひに、大伴金村大連、また籌議はかりはく、「男大迹王をほどのおほきみ性慈仁ひととなりめぐみありて孝順おやにしたがふ。天緒あまつひつぎつたへつべし。ねがはく慇懃ねむごろすすまつりて、紹隆さかえしめよ」といふ。物部麁鹿火大連もののべのあらかひおおむらじ許勢男人大臣等こせのをひとおほおみたちみな曰く、「枝孫みあなすゑくはしくえらぶに、賢者かしこききみただし男大迹王ならくのみ」といふ。)


・概要

 継体天皇元年1月4日、大伴金村大連はまた議って「男大迹王をほどのおほきみは性情け深く親孝行で、皇位を継がれるのに相応しいかたであられる。願わくは懇ろにお勧め申して、皇統を栄さしめようではないか」と言った。物部麁鹿火大連もののべのあらかひおおむらじ許勢男人大臣こせのをひとおほおみ達は「ご子孫を十分に選んでみると、賢者は唯男大迹王だけである」と言った。


・解説

 倭彦王に逃げられてしまい、一計を案じた金村は今度は応神天皇の5世の孫である男大迹王をほどのおほきみが皇位に相応しいと推挙し、物部麁鹿火大連もののべのあらかひおおむらじ許勢男人大臣こせのをひとおほおみ達もこれに賛成します。


 音頭を取ったのは物部麁鹿火でも許勢男人でもなかった事は、天皇不在の当時、事実上の最高権力者は金村であった事が伺えます。



(3)『日本書紀』巻十七継体天皇元年(丁亥五〇七)二月 甲午四日

二月辛卯朔甲午、大伴金村大連、乃跪上天子鏡劔璽符再拜。男大述天皇謝曰、子民治國重事也。寡人不才、不足以稱。願請、廻慮擇賢者。寡人不敢當。大伴大連、伏地固請。男大迹天皇、西向譲者三。南向譲者再。大伴大連等皆曰、臣伏計之、大王子民治國、最宜稱。臣等、爲宗廟社稷、計不敢忽。幸藉衆願、乞垂聽納。男大迹天皇曰、大臣大連、將相諸臣、咸推寡人。寡人敢不乖、乃受璽符。是日、即天皇位。以大伴金村大連爲大連、許勢男人大臣爲大臣、物部麁鹿火大連爲大連、並如故。是以、大臣大連等、各依職位焉。


二月きさらぎ辛卯かのとのう朔甲午ついたちきのえうまのひに、大伴金村大連おほとものかなむらのおほむらじ、乃ちひざまづきて天子すめらみこと鏡剣みかがみはかし璽符みしるしたてまつりて再拜をがみたてまつる。男大述天皇をほどのすめらみこといなびてのたまはく、「おほみたからを子とす国ををさむることは、重きわざなり。寡人不才おのれみつなくして、ぐるにらず。願請ふ、おもひめぐらしてさかしきひとえらべ。寡人おのれは敢へて当たらじ」とのたまふ。大伴大連おほとものおほむらじつちして固くひまつる。男大迹天皇をほどのすめらみこと、西に向ひてゆづりたまふことみたび。南に向ひて譲りたまふことふたたび。大伴大連等 皆曰みなもうさく、「やつこ伏してはかりみれば、大王おほきみおほみたからを子とし国ををさめたまふ、もとかなふべし。臣等やつこら宗廟社稷くにいへの為に、はかりみることへているかせにせず。さいはひもろもろねがひりて、ねがはくは垂聽納ゆるしいれたまへ」とまうす。男大迹天皇 のたまはく、「大臣大連おほおみおほむらじ将相諸臣まへつきみもろもろのおみことごとく寡人おのれを推す。寡人敢へてたがはじ」とのたまひて、すなは璽符みしるしを受く。是の日に、即天皇位あまつひつぎしろしめす。大伴金村大連おほとものかなむらおほむらじて大連とし、許勢男人大臣こせのをひとおほおみをもて大臣とし、物部麁鹿火大連もののべのあらかひおほむらじをもて大連とすること、ならびもとの如し。ここを以て、大臣大連 各職位おのおのつかさくらゐままにす。)


・概略

 二月四日に、大伴金村大連おほとものかなむらのおほむらじは跪いて、天子の鏡・剣の御印を奉って拝礼申し上げた。男大述天皇をほどのすめらみことは辞退して、「人民を子として国を治めることは、責任の重い事である。私は天子としての才幹も無く、天皇の資格はない。お願いだ。思慮をめぐらして賢者をえらびなさい。私はその任には就かない」とおっしゃった。大伴大連おほとものおほむらじは地面に伏して強く懇願して言った。男大迹天皇をほどのすめらみことは、西に向ひて三度辞退なさり、南に向って再度辞退なさった。大伴大連等は皆「臣、伏して考えますと、大王おほきみが、人民を子として国を治めなさるに、最も相応しいお方です。臣等は、国家の為に、考える事を決して軽々しくしません。多くの人の願いによって、聞き入れられることをお願い致します」と申し上げた。


 男大迹天皇は「大臣大連おほおみおほむらじ将相諸臣まへつきみもろもろのおみが皆私を推す。私は敢えて背くまい」とおっしゃって、すぐに御印を受けられ、是の日に、天皇に即位された。大伴金村大連おほとものかなむらおほむらじを大連とし、許勢男人大臣こせのをひとおほおみを大臣とし、物部麁鹿火大連もののべのあらかひおほむらじを大連とすること、全て先代と同じだった。これによって、大臣大連等の職位は従前通りだった。


・解説

 金村は所謂三種の神器と呼ばれる神器の中の鏡・剣を奉り拝礼し、男大迹に即位を願いましたが、その責任の重さに辞退しました。倭彦王が逃げ出してしまったように、当時の情勢では下手に大王に即位すると殺されてしまう可能性も高いと考えたのかも知れません。


 ですが、再三の粘り強い説得で折れて、男大迹は即位を決意しました。この時も大和王権の代表は金村が務め、言わば金村のお陰で今日まで続く天皇家の血筋が保たれた事になります。保守系の人達から金村の功績(それが大伴氏繁栄の為の下心があったとしても)を口にしている姿をみた事がありませんが、もっと評価されるべきでは?


 余談ですが、三種の神器は元々は本文の様に鏡と剣の二種だけだったという説もあり、『古語拾遺』でも「即、以八咫鏡、及、薙草劍二種神寶授賜皇孫、永(即ち、八咫の鏡及び、草薙剣、二種ふたつのくさ神寶たからを以って、皇孫すへらみことに授け賜りて、ひたふるに )」⑷と書かれている様に鏡と剣の二種になっています。



⑸『日本書紀』巻十七継体天皇元年(丁亥五〇七)二月 庚子十日

庚子、大伴大連奏請曰、臣聞、前王之宰世也、非維城之固、無以鎭其乾坤。非掖庭之親、無以繼其趺萼。是故白髮天皇無嗣、遣臣祖父大伴大連室屋、毎州安置三種白髮部、〈言三種者、一白髮部舎人、二白髮部供膳、三白髮部靭負也。〉以留後世之名。嗟夫、可不愴歟。請、立手白香皇女、納爲皇后、遣神祗伯等、敬祭神祗、求天皇息、允答民望。天皇曰、可矣。


庚子かのえのねのひに、大伴大連おほとものおほむらじ奏請まうしてまうさく、「やつこく、さきみかどの世ををさめたまふこと、維城まうけのきみ固非かためあらずは、以て其の乾坤あめつちを鎮むること無し。掖庭うちつみや親非むつびあらずは、以て其の趺萼みあなすゑを継ぐこと無しと。是のゆゑに、白髮天皇しらかみのすめらみことみつぎ無かりしかば、やつこ祖父おほぢ大伴大連室屋おほとものおおむらじむろやをして、州毎くにごと三種みやから白髮部しらかべ安置きて、〈三種みやからと言ふは、一つには白髮部舎人しらかべのとねり、二つには白髮部供膳しらかべのかしはで、三つには白髮部靭負しらかべのゆけひなり。〉後世のちのよの名をとどめむとしたまひき。嗟夫いたまざるべけむや。うけたまはらくは、手白香皇女たしらかのひめみこを立てて、して皇后きさきとし、神祗伯等かむつかさのかみらつかはして、神祇あまつやしろくにつやしろ敬祭いつきて、天皇すめらみことみこまうめして、まことおほみたからのぞみに答へむ」とまうす。天皇 のたまはく、「ゆるす」とのたまふ。)


・概略

 十日に、大伴大連おほとものおほむらじが奏請して「私は、先の天皇が世を治めなさるに、皇太子をきちんと設けなければ、天下を鎮める事はできず、また皇后と仲睦まじくしなければ、位を継ぐ子孫が出来ないと聞きました。それ故に、白髮天皇しらかみのすめらみこと(清寧天皇)に後継ぎがいなかったので、私の祖父 大伴大連室屋おほとものおおむらじむろやに命じ、国毎に三種の白髮部しらかべを設置して、〈三種みやからと言うのは、一つは白髮部舎人しらかべのとねり、二つは白髮部供膳しらかべのかしはで、三つは白髮部靭負しらかべのゆけひである。〉後世に名を留めようとなさった。ああ、痛ましい事です。願わくは、手白香皇女たしらかのひめみこを立てて、皇后きさきとし、神祗伯等かむつかさのかみらを遣わして、天神地祇の社を祀り、天皇すめらみこと御子みこが授かる事を願い、人民の当然な望みに答えましょう」と申し上げた。天皇は「許可する」とおっしゃられた。


・解説

 金村が後継ぎがいなかった清寧天皇が祖父・室屋に命じて三種の白髮部しらかべを設置してまで名前を残そうとした事を引き合いに出して、皇后を娶らせる為に手白香皇女たしらかのひめみこを立てて、皇后きさきとするように勧めます。

 清寧・武烈が後継ぎがいなかったために国政の混乱を招きましたが、その事を危惧した金村の心情を吐露したという話で、何処まで本当か分かりませんが、皇后の選定に金村が関わったのは当時の情勢からして不思議ではありません。


 手白香皇女たしらかのひめみこは継体記では手白髪命。仁賢天皇皇女で、母は雄略天皇皇女の春日大娘皇女かすがのおほいらつめのひめみこ。継体天皇の出自を疑う論では、天皇がこの皇女を皇后とする事によって、仁徳天皇の系統に結び付こうとしたと推測しています⑹


 本稿では詳しく触れませんが、継体が応神五世の孫であるという血筋は推古朝から然程離れていない時期に書かれた『上宮記』によりはっきりとしているので、水野裕の唱える王朝交代説は破綻しており、『日本書紀』の応神五世の孫という系図は正しく事実を伝えていると思いますが、同じような血統の大王候補はゴロゴロいたのかも知れません。


*参考資料

『釈日本紀』引用『上宮記』逸文「継体天皇系譜」(著作権切れ画像使用)

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816700427433814594


 なお、大分先の稿になりますが、王朝交代説の批判は以下に取り上げています。


・オワコントンデモ学説。王朝交代説の趣旨と批判。

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330657198382518


「継体天皇は畿外から大伴氏に擁立されて立ち、反対勢力に妨げられて大和に入るまで二十年を要する状態であり、半島では朝鮮系営が失敗し、多くの負担を受けて不満を抱いていた族長たちの反乱が起こった。その一例が筑紫の磐井の乱であり、継体天皇の崩御に当たっては、辛亥の変とでもいうべき内乱状態があった」⑺

という林家辰三郎氏の空想豊かな(上田正昭風の言い方の真似ですw)説(ミステリー小説?)もあるぐらいですが、倭彦王が逃げ出してしまった事から推察出来るように、政情が不安であったのは事実かと思うので、この様な政治情勢では仁徳系統の血筋と結びつきたいという思惑は当然あったかと思います。


 何だかんだとありながら、二十年かけて継体天皇は大和入りをしますが、筑紫の国で磐井が反乱を起こし、この時に金村は物部麁鹿火を推挙します。この記事及び、後の金村失脚の原因となった任那四県の割譲に係わった記事に関しましては「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(8)物部氏の全盛期 物部麁鹿火」をご覧ください。


 次稿は安閑天皇紀から欽明天皇紀までの金村の記事をご紹介したいと思います。既に平群真鳥や物部麁鹿火の稿で多くの記事を取り上げていたとは言え、本稿だと継体天皇即位前紀と元年の記事しか紹介出来てませんね(滝)金村さん目立ち過ぎよ。。。



*追記:大伴氏は軍事的氏族か?

 藤間生大氏は「大伴氏の研究」⑻で仲哀九年二月紀に仲哀天皇の死後、神功皇后が「大臣おほおみ武内宿禰たけしうちのすくね、及び中臣なかとみ烏賊津いかつむらじ物部瞻咋連もののべいくひのむらじ大伴武以おほともたけもつむらじに詔して曰く、天下未だに天皇の崩りまししことを知らず、若し百姓知らば、おこたる者あらむか、即ち大夫まちきみに命じて、百寮をひきゐて、宮中を守らしめた」という仲哀紀の記事を引き、「この史料は未だ神秘的な雰囲気のつよい仲哀紀のものであり、そのままの形では利用できかねる」と、断った上で、「ただ大和連合政府の職務分担は如何なるものだろうかということを想定する時、この史料は一つの手引きになるに違いない。政治を分担する武内、祭祀を分担する中臣と大三輪、武事を分担する大伴と物部といったことが考えられる。政治、祭祀、軍事の三分担は、単に日本の場合だけではなくて、未だ氏族時代の名残をもつ古代社会の当初にはどこにでもあるやり方ではないかと思う」と述べられ、大伴氏を軍事氏族として捉える見方がありましたが、直木孝次郎氏は大伴氏の性格を軍事にのみ限定するのは正しい解釈ではないと否定され、その説の根拠として、

➀「大伴」というウジの名称は、本来軍事を意味しない。伴のうち有力なもの、伴のなかの伴の意味である。

➁大伴氏が軍事担当のトモとして台頭したのであれば、当然大伴氏固有の部である大伴・大伴部が軍事的に活躍するはずである。しかしそうしたことを示す史料はほとんどない。

③大伴氏が藤原部その他、部の設置に関係した記録があるが、これが大伴氏本来の職掌であった

以上のような点をあげられました。⑼


 これらの中で、➀③に関しては同意出来ます。但し、➁に関しては同意し難いです。確かに雄略天皇紀七年八月条には吉備下臣前津屋の不敬を聞いた天皇が物兵士三十人を遣わして前津屋の一族七十人を誅殺したという如き記事が大伴部には見られないかも知れませんが、例えば継体天皇二一年紀秋八月条の「在昔道臣、爰及室屋」に面影を残す磐井の乱における大伴氏の功績が消されてしまっていることや、書紀の記事で信頼おける内容が室屋以降である場合、そもそも藤原部の設置ぐらいしか功績の無い大伴室屋がいきなり大連になるのは不自然であり、その理由が、かつて井上光貞氏が、イチノベオシハノミコを討った雄略を支持したのは大伴連であろう⑽と想定された様に雄略以降の大王家の後継者争い大伴氏が関与した可能性が高いことは「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(5)伴造の台頭。大伴室屋」でも触れていますが、これらのことから想定すると、大伴氏が軍事的な氏族であることは否定しきれません。わざわざ大伴であることを強調しなくても自明の理であったからではないかと思います。


 又、③に関しては他にも、次稿で触れますように、屯倉の設置においても大伴氏が関与していたことが解りますが、安閑天皇元年閏十二月四日の記事(詳細は次稿参照)から想定すると、地方豪族に屯倉を設置させることは容易くなく、抵抗も想定されたことから、大伴氏の武力を背景に屯倉となる土地や田部と言った人員の献上を要求したことは想像に難くありません。


 但し、大伴氏の性格を軍事に限定するのは正しい解釈ではないという解釈には同意するという広義の意味では、大伴氏は軍事氏族ではないという見方も正しいと言えますが、21世紀に至りましても世界各国に軍事政権が存在する様に、何時の時代でも国家支配の装置として軍事力と言うものは欠かせないものであり、大伴室屋以降の執政が事実であるとすれば、それを支えるのは当然のことながら軍事力であり、これをわざわざ大伴氏と切り離して解釈するのも正しくないのでは無いかと思います。


 こうした分離的な考え方は、ある意味、六世紀末の崇仏廃仏論争が宗教論争ではなく、政治闘争だという、宗教と政治を切り離して考える様な、当時の社会的背景も考慮しない現代人的でナンセンスな発想に似通っているのかも知れません。このことについては別稿「「排仏崇仏論争の虚構」の批判」で詳しく述べましたので、そちらをご覧ください。




◇参考文献

⑴『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 454・162・164ページ

⑵『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 455・164・166ページ 

⑶『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

455・456・166ページ

⑷『古語拾遺』 加藤玄智 校訂 岩波文庫 57ページ (国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 30コマ)

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3457563

⑸『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 456・168ページ

⑹『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 

171ページ 注一

⑺『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 392ページ 補注二一

⑻『萬葉集大成 第5巻 歴史社会篇』平凡社 247頁

所収「大伴家の歴史 一 大和政府における室屋と金村」藤間生大

⑼『日本古代兵制史の研究』直木孝次郎 吉川弘文館

⑽『井上光貞著作集 第一巻』 岩波書店 68ページ

「帝紀からみた葛城氏」



◇関連項目

・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(6)日本の王になろうとした平群真鳥大臣

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452221445101819

・「大和王権の最高位。「大臣」「大連」とは?」

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452220955007031

・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(8)物部氏の全盛期 物部麁鹿火

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700426076171609

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る