『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(12) 最後の大連 物部守屋①

『前賢故実. 巻之1』より物部守屋の肖像画

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816700428699495224


 大伴氏の失脚により、物部氏・蘇我氏の二氏が大和王権の頂点に立ち、仏教公伝をきっかけとし、物部尾輿と蘇我稲目による権力争いが生じました。その流れは子の物部守屋と蘇我馬子にも引き継がれていきます。(但し、守屋が尾輿の子であると言う記述は『日本書紀』に無く、『先代旧事本紀』第五巻「天孫本紀」に物部尾輿の子とあるのみです)


 本稿では最後の大連となってしまった物部守屋について触れていきたいと思います。記事が多い為、2回に分けてご説明させて頂きたいと思います。


 尚、今回より『日本書紀』の底本を変更しましたので底本につきましては参考文献をご覧ください。



⑴『日本書紀』巻二十敏達天皇元年(五七二)四月是月

是月宮于百濟大井。以物部弓削守屋大連爲大連如故。以蘇我馬子宿禰爲大臣。


(是の月に百濟の大井に宮つくりたまう。物部弓削守屋大連もののべのゆげのもりやのおほむらじを以て大連となすこともとの如し。蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねを以て大臣おほおみと爲す。)


・概略

 是の月(四月)に百済の大井(河内長野市大井あるいは奈良県広陵町百済)に宮を造営された。物部弓削守屋大連もののべのゆげのもりやのおほむらじを以て大連に任じられるのは元の通りであった。蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくね大臣おほおみとした。


・解説

 「如故もとのごとし」と書かれていますが、物部守屋の初見の記事となり、欽明朝には守屋の大連就任の記事がありません。篠川賢氏は欽明朝における尾輿の記事は十四年条の「崇仏論争」記事を最後に見えなくなる事と、欽明の治世は三十二年に及んだ事から、記事は無くても、その後のある時期に、尾輿に代わって大連に任命された事は充分に考えられるとし、「如故」とあることを理由に、この任命記事の信憑性を疑う必要は無いと思うと述べており⑵これを否定する文献も無いので特に異論はありません。



⑶『日本書紀』巻二十敏達天皇十四年(五八五)三月丁巳朔

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫奏曰。何故不肯用臣言。自考天皇及、於陛下。疫疾流行、國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。詔曰、灼然、宜斷佛法。

三月やよひ丁巳ひのとのみついたちのひに、物部弓削守屋大連もののべのゆげのもりやのおほむらじ中臣勝海大夫なかとみのかつみのまへつきみまをして曰く。「何の故にかあへやつがれが言を用ゐたまはぬ。考天皇かぞのみかどより陛下きみに及び、疫疾えやみあまねく行はれて、國のおほみたから絶えつし。たくめ蘇我臣そがのおみ佛法ほとけのみのりおこおこなるに非ずや」。みことのりしてのたまはく、「灼然いやちこなり、宜しく佛法ほとけのみのりめよ」)


・概略

 三月一日、物部弓削守屋大連もののべのゆげのもりやのおほむらじ中臣勝海大夫なかとみのかつみのまへつきみは奏上して「何故私どもの申し上げた事をお用いりにならないのですか。欽明天皇より陛下に及び、疫病が流行して、国民も死に絶えそうなのは、専ら蘇我臣そがのおみが仏法を広めた事によるのに相違ありません」(天皇は)みことのりして、「極めて明白である。仏法を止めよ」と言われた。



⑷『日本書紀』巻二十敏達天皇十四年(五八五)三月丙戌

丙戌、物部弓削守屋大連、自詣於寺、踞坐胡床。斫倒其塔、縱火燔之。并燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。是日、無雲風雨。大連被雨衣。訶責馬子宿禰、與從行法侶、令生毀辱之心。乃遣佐伯造御室、〈更名、於閭礙也〉喚馬子宿禰所供善信等尼。由是、馬子宿禰、不敢違命、惻愴啼泣、喚出尼等、付於御室。有司便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭。天皇思建任那、差坂田耳子王爲使。屬此之時、天皇與大連、卒患於瘡。故不果遣。詔橘豐日皇子曰、不可違背考天皇勅。可勤修乎任那之政也。又發瘡死者、充盈於國。其患瘡者言、身如被燒被打被摧、啼泣而死。老少竊相謂曰、是燒佛像之罪矣。


丙戌ひのえいぬのひに、物部弓削守屋大連、自ら寺にいたりて、胡床あぐら踞坐しりうたげり。其の塔を斫倒きりたふし、火をけてく。あはせて佛像ほとけのみかた佛殿ほとけのおほとのとを燒く。既にして燒けし所のあまりの佛像ほとけのみかたを取りて、難波なにはの堀江に棄てしむ。是の日に、雲無くて風ふき雨ふる。大連、被雨衣あまよそひして、馬子宿禰うまこのすくねと、從ひてのりを行へるひとどもとを訶責めて、やぶり辱かしむる心をおこさしむ。乃ち佐伯造御室さへきのむらじみむろ〈更の名は於閭礙おるけなり〉を遣して、馬子宿禰のいたはる所の善信等ぜんしんらの尼をさしむ。是に由りて、馬子宿禰うまこのすくねあへみことたがはず、いたなげ啼泣いさちつつ、尼等をし出して、御室みむろさづく。有司つかさひと便たちまち尼等の三衣さむえを奪ひて、海石榴市つばきのいちうまやたち禁錮からめとらへ、楚撻しりかたうちき。天皇、任那を建てむことを思ひて、坂田耳子王さかたのみみこのおほきみを差して使つかひす。此の時にあたりて、天皇すめらみこと大連おほむらじと、にはか瘡患かさやみたまふ。つかはすを果さず。橘豐日たちばなのとよひの皇子にみことのりしてのたまはく、「考天皇かぞのきみみことのり違背そむくべからず、任那のまつりごとを勤めをさむべし」。又 かさおこして死ぬる者、國に充盈てり。其のかさ者言ふ、「身燒かれ打たれくだかるるが如し」。啼泣いさちつ死ぬ。老もわかきも、ひそかに相語りていはく、「是れ佛像を燒きまつれる罪か」。)


・概略

 三十日、物部弓削守屋大連、自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、その塔を切り倒させ、火をつけて焼き、併せてと仏像と仏殿を焼き、焼け残った仏像を集めて、難波なにはの堀江に捨てさせた。是の日に、雲が無いのに風が吹き雨が降った。大連は雨衣あまきぬをつけた。馬子宿禰うまこのすくねと、これに従った僧侶たちを責めて、人々に侮る心を持たせるようにした。佐伯造御室さへきのむらじみむろ〈またの名は於閭礙おるけ〉を遣して、馬子宿禰の供養する善信等ぜんしんらの尼を呼ばせた。


 これにより、馬子宿禰うまこのすくねは敢えて命に抗せず、ひどく嘆き泣き叫びながら、尼等を呼び出して、御室みむろに託した。役人はたちまち尼等の法衣を奪って、海石榴市つばきのいちの馬屋館につなぎ、尻や肩を打った。天皇、任那の再建を考え、坂田耳子王さかたのみみこのおほきみを使いに選ばれた。この時に天皇すめらみこと大連おほむらじがにわかに疱瘡に冒された。それで遣わすのを中止した。橘豐日たちばなのとよひの皇子にみことのりして「先帝のみことのりに背くべからず、任那の政策を怠るな」と言われた。疱瘡で死ぬ者が国に満ちた。そのかさむ者が、「身を燒かれ、打ち砕かれる様だ」。と言って泣き叫びながら死んでいった。老いも若きも、密かに語り合って、「是れ仏像を焼いた罪か」と言った。



⑸『日本書紀』巻二十敏達天皇十四年(五八五)六月

夏六月、馬子宿禰奏曰、臣之疾病、至今未愈、不蒙三寶之力難可救治。於是、詔馬子宿禰曰、汝、可獨行佛法。宜斷餘人。乃以三尼還付馬子宿禰。馬子宿禰受而歡悦。嘆未曾有、頂禮三尼。新營精舎、迎入供養。〈或本云、物部弓削守屋大連、大三輪逆君、中臣磐余連、倶謀滅佛法、欲燒寺塔、并棄佛像。馬子宿禰諍而不從。〉


(夏 六月みなつき馬子宿禰うまこのすくねまうしていはく、「臣の疾病やまひ、今に至りて未だえず、三寶さむぽうの力をかうぶらずばすくひ治むべきことかたし」。是に於いて、馬子宿禰にみことのりしてのたまはく、「いましひと佛法ほとけのみのりおこなし。宜しく餘人あたしひとむべし」。乃ち三の尼を以て馬子の宿禰にかへさづく。馬子宿禰受けて歡悦よろこびぬ。未曾有めづらしきよとなげきて、三の尼を頂禮をがむ。新に精舎てらつくりて、迎へ入れて供養いたはりやしなふ。〈或本あるふみに云ふ、物部弓削守屋大連もののべゆげのもりやのおほむらじ大三輪逆君おほみわのさかふのきみ中臣磐余連なかとみのいはれのむらじ、倶に謀りて佛法ほとけのみのりを滅して、寺塔てらき、あはせて佛像ほとけのみかたを棄てむと欲す。馬子宿禰うまこのすくね あらかひてしたがはず。〉)


・概略

 夏 六月、馬子宿禰うまこのすくねが奏上して、「私の病気が重く、今に至るも治りません、仏の力をかうぶらなくてはすくい治るのは難しいでしょう」と言った。そこで、馬子宿禰にみことのりして、「お前一人で仏法を行いなさい。他の人の崇仏は禁止せよ」と言われた。三人の尼を馬子の宿禰に返し渡された。馬子宿禰はこれを受けて喜んだ。珍しい事だと感歎し、三人の尼を拝んだ。新しい寺(高市群の石川精舎)を造営し、迎え入れて供養(供物をささげる事)した。〈ある本に、物部弓削守屋大連もののべゆげのもりやのおほむらじ大三輪逆君おほみわのさかふのきみ*、中臣磐余連なかとみのいはれのむらじ、供に計って仏法を滅して、寺塔てらを焼き仏像を捨てようとしたが。馬子宿禰うまこのすくねが反対して従わなかった。〉


*参考文献底本では「逆」に「さかし」という訓ですが、井上光貞氏等校注の『日本書紀』など一般的に「さかふ」と呼ばれているので修正しました。


・解説

 ⑶⑷⑸は所謂崇仏論争の記事で、物部弓削守屋大連もののべのゆげのもりやのおほむらじ中臣勝海大夫なかとみのかつみのまへつきみ等の奏上で一旦仏教が弾圧されたものの、仏教を信仰することを天皇から独占的に認められた蘇我馬子が精舎を建立して三人の尼を迎え入れましたが、物部弓削守屋大連もののべゆげのもりやのおほむらじ大三輪逆君おほみわのさかふのきみ中臣磐余連なかとみのいはれのむらじらがこれに反抗し、馬子の建てた寺や塔を焼いて仏像を廃棄しようとしたとあります。


 鈴木正信氏によると、近年では崇仏論争そのものの存在が疑問視されており、この記事についても物部・中臣・大神各氏が神祇祭祀に深い関りがを持っていたとする『日本書紀』編者の歴史認識に基づいて、これらの氏族が廃仏派として一括記載された可能性が指摘されており、この記事⑸では大神氏の氏族表記が「大三輪」となっていることは、この記事に後から手が加えられたことを示すという指摘しています。⑹


 確かにこの後の用明天皇紀元年に、大三輪逆君が守屋に討ち取られてしまう事から大三輪氏の関与は疑わしい部分もあるかも知れませんが、記紀によれば雄略朝の頃に三輪山祭祀に係わる記事が集中している事から、(大)三輪君が神祇に深く関与していた事は5世紀後半まで遡る事が推測されるので必ずしも『日本書紀』の作文とは言い切れません。


 また、崇仏論争に関する批判論に対しては反論があるのですが、長くなるので機会を改め別稿で述べたいと思います。



⑺『日本書紀』巻二十敏達天皇十四年(五八五)八月 己亥十五日

秋八月乙酉朔己亥、天皇、病彌留崩于大殿。是時、起殯宮於廣瀬。馬子宿禰大臣佩刀而誄。物部弓削守屋大連听然而咲曰、如中獵箭之雀烏焉。次弓削守屋大連手脚搖震而誄。〈搖震戰慄也。〉馬子宿禰大臣咲曰、可懸鈴矣。由是二臣微生怨恨。三輪君逆、使隼人、相距於殯庭。穴穂部皇子欲取天下、發憤稱曰、何故事死王之庭、弗事生王之所也。


秋八月あきはづき乙酉きのとのとり朔己亥ついたちつちのとのゐのひに、天皇すめらみこと病彌留やまひおもりて大殿おほとのかむあがりましぬ。是の時に、殯宮もがりのみや廣瀬ひろせに起つ。馬子宿禰大臣うまこのすくねのおほおみ たちきてしのびごとたてまつる。物部弓削守屋大連もののべゆげのもりやのおほむらじ 听然而咲あざわらひいはく、「獵箭ししやへる雀烏すずめの如し」。次に弓削守屋大連ゆげのもりやのおほむらじ 手脚搖震てあしふるひわななきてしのびごとたてまつる。〈搖震は戰慄ふるふなり。〉馬子宿禰大臣 わらひていはく、「鈴をし」。是に由りてふたりおみ やうやく怨恨うらみす。三輪君逆みわのきみさかふ隼人はやとをして、もがりに庭に相距とぶらはしむ。穴穂部皇子あなほべのみこ天下あめのしたを取らむと欲す、發憤むつかりてことあげして曰く、「何のゆゑ死王すぎたまひしきみみやつかへまつりて、生王たひらかにますきみみもとつかへまつらざる」。)


・概略

 秋八月十五日、天皇すめらみことは病が重くなり大殿おほとので崩御された。是の時に、殯宮もがりのみやを広瀬に立てた。馬子宿禰大臣うまこのすくねのおほおみたちびてしのびごとを述べた。物部弓削守屋大連もののべゆげのもりやのおほむらじ は嘲笑って、「獵箭ししや(獣猟で使われる大きな矢)で射られた雀烏すずめの様だ」と言った。次に弓削守屋大連ゆげのもりやのおほむらじ は手脚を震わせわなないてしのびごとを述べた。馬子宿禰大臣は笑って、「鈴をつけたら面白い」と言った。これによって二人のおみはだんだん怨みを抱き合うようになった。三輪君逆みわのきみさかふ隼人はやとを使って、もがりの庭に守らせた。穴穂部皇子あなほべのみこ天下あめのしたを取ろうと欲し、憤り、「何故死んだ王のみやに仕え、生きている自分のもとへ仕えないのか」と論じた。


・解説

 守屋が馬子の事を獵箭ししやで射られた雀の様だと嘲笑ったのは小柄な身に大刀を帯びた馬子の不格好さを喩えたものと解釈されています。⑻現代の感覚では天皇の喪儀でまで大の大人が何を幼稚な争いをしているのか? と思われるかも知れませんが、平林章仁氏によると、雀の跳ねる様な仕草や手足を震わせる所作が、当時の王や貴人の殯宮で誄を述べる際に行われた事まで疑う必要はなく、蘇我馬子が雀の跳ねる様な所作をしたことに宗教的意味があったという事を問題としています。⑼


 平林氏は『古事記』上巻の天若日子が亡くなったでの喪儀を行う喪屋(殯宮)をつくり、川鴈かわかりをきさりもち(死者の食事を持ち運ぶ)、さぎを掃持ち(死者の行く道を掃き清める)、翠鳥かわせみを御食人(調理人)、雀を碓女うすめ(儀礼的に哭女する)として、八日間の喪儀を催したと言い、これは神話であって史実ではないことは言うまでも無いが、そこには古代の実際の喪葬儀礼の状況を反映していると考えられ、つまりこれは、おのおのの鳥に扮装した人々が、殯の場や冥界への道をきよめる箒や死者(の霊魂)に供える酒食などを捧げ持ち、またそれを鎮め慰める哭泣や株などを行って喪儀に奉仕したことの、神話的表現とみられるとし、馬子が敏達天皇の殯宮で誄を述べる際に行った雀の跳ねる様な所作と、天若日子の模擬に雀などの鳥たちが奉仕したと伝えられることの類似に留意し、鳥霊信仰にもとづくものであったと推測されています。⑽


 平林氏の説の様な儀礼が実際に行われていたとすれば、守屋と馬子のやりとりも史実である可能性が高いでしょう。現代においても冠婚葬祭は大きな意味を持ちますが、古代においては遥かに意義が高く、宗教的儀礼を取り仕切る事は即ち権力のイニシアチブを握る事に繋がったのでしょうから、物部も蘇我も生存をかけて、必死に叩き合っていた事は想像に難くありません。


 なお、篠川賢氏によれば三輪君逆が隼人を使い殯庭の警護にあたらせたことを、この段階で隼人が登場するのは不自然であり、そのまま事実とみる事は出来ない⑾としています。


 恐らく井上光貞氏等の古い歴史学者の見解で、隼人に関する記事で史実とするのは天武天皇紀十一年(六八二)七月 甲午三日の記事の隼人が方物を持って貢し、大隅隼人と阿多隼人が相撲をして大隅隼人が勝った記事からとしている説が篠川氏の念頭にあったのかも知れませんが、近年の考古学的な成果によれば、例えば2015年に宮崎県えびの市島内字杉ノ原の島内139号地下式横穴墓で発掘された副葬品に衝角付冑・短甲のような大和王権との関りの深さを示す五世紀末~六世紀初頭頃の遺物が見つかっており⑿、この地域を支配していた日向諸県君ひむかのもろあがたきみが大隅隼人等を服属させていたと思われます。


 履中天皇のキサキである草香幡梭姫皇女くさかのはたびひめのひめみこの母、日向泉長比売ひむかのいずみながひめを輩出し、大和王権と結びつきが強かったことで知られている南九州の豪族、日向諸県君ひむかのもろあがたきみはその氏名から旧諸県地域、現在の宮崎県宮崎市・東諸県群・西諸県群・小林市・えびの市・北諸県群・都城市、更に鹿児島県曾於郡志布志町・松山町・有明町・大隅町・財部町・末吉町と大隅隼人の根拠をも含む広大な地域を支配する南九州の大豪族であったと見られており、九州最大の規模を有する男佐穂塚古墳・女狭穂塚古墳を含む三百基以上が集まる西都原古墳群(宮崎県西都市)や前期古墳を含む生目古墳群は、諸県君氏を中心とする集団の奥津城と見られ、彼らの勢力の大きさが知られており⒀、大隅隼人の拠地を支配していた事から、諸県君を通して隼人が派遣されていた可能性は有り得るので、六世紀後半の時点で隼人が登場しても特に不自然とは思えません。(というか、篠川氏が殆ど考古学的な知見を参考にしないのは何故でしょうか? 手法的に新しい記事と比較して古い記事に少しでも共通点があると古い記事の方を否定すると所謂「反映法」が殆どなので、説得力に欠けると思うのは自分だけでしょうか?)


 物部守屋を本題とするには若干主旨がずれましたが、鈴木正信氏・篠川賢氏等が信憑性を問う一連の記事に関して、丁寧に分析して行けば特に疑う必要はなく、史実に近いと思います。


 次稿では物部守屋の滅亡についてご説明いたします。




◇参考文献

⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/182

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/31


⑵『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 186ページ


⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/187

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/37


⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/187

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/37


⑸『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/188

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/37


⑹『日本古代氏族研究叢書④ 大神氏の研究』鈴木正信 雄山閣 29ページ 


⑺『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/188

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/37


⑻『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 49ページ 注一四


⑼『蘇我氏の実像と葛城氏』平林章仁 白水社 46~47ページ


⑽『蘇我氏の実像と葛城氏』平林章仁 白水社 47~48ページ


⑾『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 187ページ


⑿『えびの市 島内 139 号地下式横穴墓 調査速報』 平成 27 年 1 月 25 日

https://www.city.ebino.lg.jp/tempimg/150120095059201501261119570f.pdf


⒀『謎の古代豪族 葛城氏』平林章仁 祥伝社新書 164ページ


*『国史大系. 第1巻 日本書紀』『日本書紀 : 訓読. 下巻』は一部修正しました。

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