『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(12) 最後の大連 物部守屋②
⑴『日本書紀』巻二一用明天皇元年(五八六)五月
夏五月、穴穗部皇子、欲姧炊屋姫皇后而、自強入於殯宮。寵臣三輪君逆乃喚兵衛、重璅宮門拒而勿入。穴穗部皇子問曰、何人在此。兵衛答曰、三輪君逆在焉。七呼開門。遂不聽入。於是、穴穗部皇子、謂大臣與大連曰、逆、頻無禮矣、於殯庭誄曰、不荒朝庭、淨如鏡面、臣、治平奉仕。即是無禮。方今、天皇子弟多在、兩大臣侍、詎得恣情專言奉仕。又余觀殯内、拒不聽入。自呼開門七廻、不應。願欲斬之。兩大臣曰、随命。於是穴穗部皇子、陰謀王天下之事、而口詐、在於殺逆君。遂與物部守屋大連、率兵圍繞磐余池邊。逆君知之隱於三諸之岳。是日、夜半潜自山出、隱於後宮。〈謂炊屋姫皇后之別業。是名海石榴市宮。〉逆之同姓白堤與横山、言逆君在處。穴穗部皇子、即遣守屋大連〈或本云、穴穗部皇子與泊瀬部皇子、相計而遣守屋大連。〉曰、汝應往討逆君并其二子。大連遂率兵去。蘇我馬子宿禰、外聞斯計、詣皇子所、即逢門底。〈謂皇子家門也。〉將之大連所。時諌曰、王者不近刑人。不可自往。皇子、不聽而行。馬子宿禰即便隨去。到於磐余〈行至於池邊也。〉而切諌之。皇子乃從諌止。於此處踞坐胡床待大連焉。大連良久而至、率衆報命曰、斬逆等訖。〈或本云、穴穗部皇子、自行射殺。〉於是馬子宿禰惻然頽歎曰、天下之亂不久矣。大連聞而答曰、汝、小臣之所不識也。〈此三輪君逆者、譯語田天皇之所寵愛、悉委内外之事焉。由是、炊屋姫皇后、與馬子宿禰、倶發恨於穴穗部皇子也。〉是年、也太歳丙午。
(
・概要
夏五月、
・解説
穴穂部の皇子は
これに逆恨みした穴穂部皇子は物部守屋と蘇我馬子に相談して、逆を討ち取ろうとします。二人は穴穂部に従いますが、守屋が積極的に逆を討とうとしていた事に対し、馬子は穴穂部皇子が直接殺そうとするのを諫め、逆等が殺された事を知ると馬子が嘆き、守屋はその馬子を馬鹿にし、逆が殺された事により
・『前賢故実. 巻之1』より三輪君逆の肖像画
https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816700428870687521
欽明朝から始まる仏教の受容を巡る争いは、書記の記述が僧侶の手で書かれた記録を元にしており、仏教が実際以上にひどい迫害を受けた様に書かれているという説もあるようですが⑵、だとすれば廃仏派筆頭の守屋が推した穴穂部皇子が史実よりも悪く描かれている可能性もあります。
前稿でご紹介させて頂きました敏達天皇紀十四年(五八五)六月の記事で引用されている或本によれば、守屋と共に計って仏法を滅して、寺塔を焼き仏像を捨てようとしたと書かれている逆は物部氏と協力関係にあった様に見えますが、穴穂部皇子に命じられて逆をあっさりと殺してしまうのは廃仏派も一枚岩ではなかったという事でしょうか?
⑶『日本書紀』巻二一用明天皇二年(五八七)四月
二年夏四月乙巳朔丙午、御新甞於磐余河上。是日、天皇、得病、還入於宮。群臣侍焉。天皇詔群臣曰、朕思欲歸三寶。卿等議之。群臣入朝而議。物部守屋大連與中臣勝海連、違詔議曰、何背國神敬他神也、由來、不識若斯事矣。蘇我馬子宿禰大臣曰、可隨詔而奉助、詎生異計。於是、皇弟皇子〈皇弟皇子者穴穗部皇子、即天皇庶弟。〉引豐國法師〈闕名也。〉入於内裏。物部守屋大連耶睨大怒。是時、押坂部史毛屎急來、密語大連曰、今、群臣圖卿、復將斷路。大連聞之即退於阿都〈阿都大連之別業所在地名也。〉集聚人焉。中臣勝海連於家集衆、隨助大連、遂作太子彦人皇子像與、竹田皇子像厭之。俄、而知事難濟、歸附彦人皇子於水派宮。〈水派、此云美麻多。〉舍人迹見赤梼、伺勝海連自彦人皇子所退、拔刀而殺。〈迹見姓也、赤梼名也、赤梼、此云伊知毘。〉大連、從阿都家、使物部八坂、大市造小坂、漆部造兄、謂馬子大臣曰、吾聞、群臣謀我、我故退焉。馬子大臣、乃使土師八嶋連於大伴毘羅夫連所、具述大連之語。由是毘羅夫連、手執弓箭皮楯、就槻曲家、不離晝夜守護大臣。〈槻曲家者大臣家也。〉天皇之瘡轉盛。將欲終時。鞍部多須奈〈司馬達等子也。〉進而奏曰、臣、奉爲天皇出家脩道。又奉造丈六佛像及寺。天皇爲之悲慟。今南淵坂田寺木丈六佛像、挾侍菩薩是也。
(二年の
・概要
二年の夏四月二日、磐余の河上で
・解説
病床にある用明天皇は仏法への帰依を口にすると、これを物部守屋大連と
それに対し、馬子には物部氏と並ぶ武門の名家である大伴氏の
⑷『日本書紀』巻二一崇峻天皇即位前紀用明天皇二年(五八七)七月
秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子、蘇我馬子宿禰大臣、紀男麻呂宿禰、巨勢臣比良夫、膳臣賀施夫、葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。大伴連噛、阿倍臣人、平群臣神手、坂本臣糠手、春日臣〈闕名字。〉倶率軍兵從、志紀郡到澁河家。大連親率子弟與奴軍、築稻城而戰。於是大連、昇衣揩朴枝間臨射如雨。其軍強盛、填家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、三廻却還。是時、廐戸皇子、束髮於額〈古俗、年少兒年十五六間束髮於額、十七八間、分爲角子、今亦爲之。〉而隨軍後。自忖度口、將無見敗、非願難成。乃斮斮取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髮、而發誓言、〈白膠木、此云農利泥。〉今若使我勝敵、必當奉爲護世四王、起立寺塔。蘇我馬子大臣又發誓言、凡諸天王、大神王等、助衛於我、使獲利益、願當奉爲諸天與大神王、起立寺塔流通三寶。誓已、嚴種種兵而進討伐。爰有迹見首赤梼、射墮大連於枝下、而誅大連并其子等。由是大連之軍忽然自敗、合軍悉被皀衣、馳獵廣瀬勾原而散之。是役、大連兒息與眷屬、或有逃匿葦原、改姓換名者、或有逃亡不知所向者。時人相謂曰、蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計而殺大連矣。平亂之後、於攝津國造四天王寺、分大連奴半與宅、爲大寺奴、田庄、以田一萬頃賜迹見首赤梼。蘇我大臣亦依本願於飛鳥地起法興寺。
(秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、
是の時、廐戸皇子、
・概要
秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣たちに勧めて、物部守屋大連を滅すこ計画を謀った。
是の時、廐戸皇子は
・解説
馬子は多くの皇子や有力豪族達を味方に着け、守屋の住む渋川の邸宅に攻め込む所謂「丁未の乱」が勃発します。豪族達がかつての大臣・大連に氏を連ねた錚々たる顔ぶれで、葛城・平群・巨勢・大伴・蘇我が揃い踏みな上、阿部、春日と言った有力豪族までも敵に回り、とても物部氏だけでは勝てそうもありませんが、守屋はこれを三度も退けてしまったとのこと。流石に大袈裟に書かれていると思いますが、事実、物部の兵が精強であったから守屋や捕鳥部万(別稿で記載予定)の奮闘のような伝承が産まれたのかも知れません。
ですが、廐戸皇子こと聖徳太子が四天王寺を建てる事を誓い、馬子も法興寺を建てる事を誓うと、迹見首赤梼が射た矢が守屋を射落し、蘇我方が勝利すると言う筋です。
より具体的な話は『上宮聖徳太子伝補闕記』に書かれていますが、こちらは後世の付会による部分が多く、史実とは言い難いです。
篠川賢氏によれば、具体的人名を持って記される馬子側の軍の構成については史実とみてよいとし、多くの皇子と、マヘツキミ層のほとんどが馬子の側に加わっていた事になり、この事件は馬子と守屋の私闘ではなく、推古を頂点とした時の朝廷による守屋の討伐事件であったという事である⑸。との事ですが、この時点の推古がどの程度影響力があったか疑わしく、寧ろ⑵の記事にある様に三輪君逆を殺した事で豪族達の反感を買った可能性がある事や、⑶の記事にある様に用明天皇が仏教を受容した事や大伴氏が蘇我氏の味方に廻った影響によるものかと思われます。
他にも篠川氏は四天王寺の建立について、推古紀元年是歳条に「始造四天王寺於難波荒陵」と記されている事から、守屋滅亡直後の建立とするこの記事の信憑性に問題があることは明らかであるとし、守屋の遺産の奴と宅とを四天王寺に施入したということも疑問としなければならない⑹と述べられています。
確かに四天王寺出土の古瓦は飛鳥寺の時代よりも後れる時期のものとみられる点、今の地に建設されたのは推古朝末年頃までとみられており⑺、守屋滅亡後の建立という記事に疑問があるのは確かですが、『荒陵寺御手印縁起』(『御手印縁起』と略称)または『四天王寺御手印縁起』との称される平安後期に作成されたとされている四天王寺の縁起資材帳(平安初期と言う説もある)によれば、守屋子孫従類二七三人が寺の永奴婢となった事と、没官所領田園十八万六千八百九十代が寺の永財と定められた事、そして河内国と摂津国の所領が記載されており⑻後世の文献とは言えここまで具体的に記された史料を無視して良いのか疑問に思います。この事に関しては次稿投稿予定の「排仏崇仏論争の虚構に関する反論」でも取り上げる予定です。
また、時の流言で守屋の妹は馬子の妻であり、
説話的な記述の信憑性はとにかくとして、この乱により物部氏が大きく衰退した事は確かで、以降は連姓の層から大連を輩出する事も無く、物部守屋が最後の大連となってしまいます。
◇現代まで守屋奴婢の子孫は四天王寺で仕事をしていた?
⑷の記事で守屋の敗死後、四天王寺の奴婢となったことが書かれていますが、この末裔が今なお四天王寺でいろいろな仕事に就いており、それらの人々を公人と呼ばれており、その中の公人長者はとくに四天王寺の大祭の聖霊会には欠かせない役柄であると言う話を四天王寺の関係者の方から聞いたと言う話が谷川健一氏の著書『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』に掲載されています⑼。残念ながら公人の方々の家で、先祖の履歴をよく知る祖父や父はお亡くなりになられたとの事で、谷川氏は詳しいお話が聞けなかったそうです。事実だとすれば一四〇〇年もの間、奴婢の末裔が四天王寺に暮らしていたとすれば凄いことですね。
物部氏に関しては書くべきことが多過ぎるのですが、長文になってしまったので何れ別稿で触れたいと思います。(取り敢えず、崇仏拝仏論争虚構論に対する反論と捕鳥部万の奮闘譚は取り上げる予定です。出来れば守屋以降の物部氏の盛衰や石上麻呂による物部氏の復権なども取り上げたいです。)
◇参考文献
⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/189
『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/40
⑵『史料による日本の歩み 古代編』 関晃・井上光貞・児玉幸多 編 吉川弘文館 44ページ
⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/190
『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/41
⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/191
『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/42
⑸『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 201ページ
⑹『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 201ページ
⑺『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 382ページ 補注七
⑻『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』谷川健一 河出書房新社 288~290ページ
⑼『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』谷川健一 河出書房新社 32ページ
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