『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(12) 最後の大連 物部守屋②

⑴『日本書紀』巻二一用明天皇元年(五八六)五月

夏五月、穴穗部皇子、欲姧炊屋姫皇后而、自強入於殯宮。寵臣三輪君逆乃喚兵衛、重璅宮門拒而勿入。穴穗部皇子問曰、何人在此。兵衛答曰、三輪君逆在焉。七呼開門。遂不聽入。於是、穴穗部皇子、謂大臣與大連曰、逆、頻無禮矣、於殯庭誄曰、不荒朝庭、淨如鏡面、臣、治平奉仕。即是無禮。方今、天皇子弟多在、兩大臣侍、詎得恣情專言奉仕。又余觀殯内、拒不聽入。自呼開門七廻、不應。願欲斬之。兩大臣曰、随命。於是穴穗部皇子、陰謀王天下之事、而口詐、在於殺逆君。遂與物部守屋大連、率兵圍繞磐余池邊。逆君知之隱於三諸之岳。是日、夜半潜自山出、隱於後宮。〈謂炊屋姫皇后之別業。是名海石榴市宮。〉逆之同姓白堤與横山、言逆君在處。穴穗部皇子、即遣守屋大連〈或本云、穴穗部皇子與泊瀬部皇子、相計而遣守屋大連。〉曰、汝應往討逆君并其二子。大連遂率兵去。蘇我馬子宿禰、外聞斯計、詣皇子所、即逢門底。〈謂皇子家門也。〉將之大連所。時諌曰、王者不近刑人。不可自往。皇子、不聽而行。馬子宿禰即便隨去。到於磐余〈行至於池邊也。〉而切諌之。皇子乃從諌止。於此處踞坐胡床待大連焉。大連良久而至、率衆報命曰、斬逆等訖。〈或本云、穴穗部皇子、自行射殺。〉於是馬子宿禰惻然頽歎曰、天下之亂不久矣。大連聞而答曰、汝、小臣之所不識也。〈此三輪君逆者、譯語田天皇之所寵愛、悉委内外之事焉。由是、炊屋姫皇后、與馬子宿禰、倶發恨於穴穗部皇子也。〉是年、也太歳丙午。


夏五月なつさつき穴穗部皇子あなほべのみこ炊屋姫皇后かしきやひめのきさきをかさむとして、自強みづからしひて、殯宮もがりのみやに入らむとす。寵臣三輪君逆めぐみたまふまちきみみわのきみさかふ乃ち兵衛つはものとねりして、宮門みかど重璅さしかためてふせぎて入れず。穴穗部の皇子問ひて曰く、「何人なにひとここはべる」。兵衛つはものとねり答へて曰く、「三輪君逆みわのきみさかふはべり」。七たび「みかどを開け」と呼ぶ。遂にゆるし入れず。是に於いて、穴穗部皇子、大臣おほおみ大連おおむらじとにかたりて曰く、「さかふしきりにゐや無し、殯庭もがりのみやに於いてしのびごとたてまつりて曰く、『朝庭みかどを荒さず、きよめまつること鏡のおもの如くに、やつがれ、治め奉仕つかまつらむ』。即ち是れゐや無し。方今いま、天皇の子弟多みやからさはに在り、ふたりの大臣おほまへつきみはべり、たれ恣情ほしいままたうめ奉仕つかまつらむと言ふことを得む。又、あれ殯内もがりのみやのうちむとおもへど、拒ぎてゆるし入れず。自ら『門を開け』と呼ぶこと七廻ななたびこたへず。願はくはコレを斬るらむとおもふ」。ふたりの大臣おほまへつきみ曰く、「みことままに」。これに穴穗部皇子、陰かに天下あめのしたきみたらむことをはかり、うはべいつはりて、逆君さかふのきみを殺さむといふことをたもてり。遂に物部守屋大連と、兵を率ゐて、磐余いわれ池邊いけのべ圍繞かこむ。逆君さかふのきみ知りて三諸みもろをかに隱れぬ。是の日、夜半よなかに潜かに山より出でて、後宮きさきのみやに隱れぬ。〈炊屋姫皇后かしきやひめのきさき別業なりどころふ。是を海石榴市宮つばきいちのみやと名づく。〉逆の同姓うから白堤しらつつみと横山、逆君の在處ありどころげまをす。穴穗部皇子、即ち守屋大連をりて〈或本あるふみに云ふ、穴穗部皇子と泊瀬部皇子と、相計たばかりて守屋大連を遣す。〉曰く、「汝應いましまさに往きて逆君さかふのきみならびに其のふたりの子をころすべし」。大連遂に兵を率ゐてく。蘇我馬子宿禰、ほかにてはかりことを聞きて、皇子のみもとに詣で、即ち門底かどもとに逢ひぬ。〈皇子の家の門を謂ふ。〉將に大連の所にかむとす。時に諌めて曰く、「きみたるひと刑人つみびとに近付けず。自往いでますべからず」。皇子、聽かずして行きたまふ。馬子宿禰 即便すなはしたがひてきぬ。磐余いはれに到りて〈行きて池邊に至る也。〉たしかに諌む。皇子乃ち從ひてみぬ。りて此のところに於いて胡床あぐら踞坐しりうたげて大連おほむらじを待つ。大連おほむらじ良久ややひさしくして至り、率を衆ゐて報命かへりごとまをして曰く、「逆等をころをはりぬ」。〈或本あるふみに云く、穴穗部皇子、自ら行きて射殺す。〉是に馬子宿禰うまこのすくね惻然いたみ頽歎なげきて曰はく、「天下のみだれは久しからじ」。大連聞答へ曰く、「汝、小臣こまちきみらざる所なり」。〈此の三輪君逆は、譯語田天皇をさだのすめらみこと所寵愛めぐみたまひてことごと内外うちとの事をゆだねたまひき。是に由りて、炊屋姫皇后かしきやひめのきさき、馬子宿禰と、倶に穴穗部皇子を發恨うらみたまふ。〉是の年、太歳 丙午ひのえのうま。)


・概要

 夏五月、穴穗部皇子あなほべのみこ(欽明天皇の皇子)、炊屋姫皇后かしきやひめのきさき(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯そうとして、殯宮もがりのみやに入ろうとした。敏達天皇の寵臣・三輪君逆が兵衛を呼んで、宮門みかどをさしかためて、防いで入れなかった。穴穗部皇子は訊ねた、「誰がここにいるのか」。兵衛は答えて言った、「三輪君逆が居ます」。七度も「門を開けよ」と呼んだ。逆は遂に聽許し入れなかった。そこで、穴穗部皇子は大臣と大連とに、「さかふは甚だしく無礼である、殯宮の庭でしのびごと(死者の徳を讃える言葉)を読み、『朝庭みかどを荒らさぬよう、鏡の面の如く浄めお仕えし、私くしめがお守り申します』。これが無礼である。今、天皇の子弟は多く、二人の大臣も居るのだ、誰が自分勝手に、私だけでお守りしますと言えようか。又、私が殯宮の内を見ようと思って、防いで入れてくれない。『門を開けよ』と七度も呼んだが答えが無い。許せぬ事だ。切り捨てたいと思う」と語った。二人の大臣は、「仰せのままに」と言った。穴穗部皇子、陰かに天下に王たらんことを企て、口実を設けて、逆君さかふのきみを殺そうという下心があった。ついに物部守屋大連と、兵を率いて、磐余いわれ池邊いけのべを囲んだ。逆君さかふのきみはこれを知りて三輪山に隠れた。この日、夜中に密かに山より出て、後宮きさきのみや(敏達天皇の皇后の宮)に隠れた。〈炊屋姫皇后かしきやひめのきさきの別荘をいい。是を海石榴市宮つばきいちのみやと名づけられている。〉逆の一族の白堤しらつつみと横山は逆君の居る場所を告げた。穴穗部皇は守屋大連を遣わして〈ある本には、穴穗部皇子と泊瀬部皇子が計画して守屋大連を遣わしたとある。〉「お前が行って逆君と其の二人の子を殺せ」と言った。大連は遂に兵を率いて行き、蘇我馬子宿禰は他所に居てこの計画を聞き、皇子の所にまいり、門のところで逢った。大連の所に行こうとしていた。この時に諌めて、「王たる者は罪人に近付けません。自らおいでになってはいけません」。皇子は聞かずに行った。馬子宿禰は従ってついて行った。磐余に到り、しきりに諌めると皇子は従い行くのを止めた。その場所で床几に座り大連を待つと、暫くしてやってきて、兵を率いて復命して、「逆等を殺し終わりました」といった。〈ある本によると、穴穗部皇子、自ら行って射殺した。〉是に馬子宿禰 は崩れ嘆いて、「天下は程なく乱れるだろう」。聞いていた大連は答へ、「お前の様な小者には分からぬ事だ」。〈この三輪君逆は、譯語田天皇をさだのすめらみこと(敏達天皇)の寵愛を受けていて、内外の事を悉く委ねられていた。これに由り、炊屋姫皇后かしきやひめのきさき(後の推古天皇)、馬子宿禰と共に穴穗部皇子を恨んだ。〉この年、太歳 丙午ひのえのうま


・解説

 穴穂部の皇子は炊屋姫皇后かしきやひめのきさきを犯そうと殯宮に侵入しようとするとしましたが、敏達天皇の寵愛を受けていた三輪君逆が隼人を使い、官門を守らせ暴挙を防ぎました。


 これに逆恨みした穴穂部皇子は物部守屋と蘇我馬子に相談して、逆を討ち取ろうとします。二人は穴穂部に従いますが、守屋が積極的に逆を討とうとしていた事に対し、馬子は穴穂部皇子が直接殺そうとするのを諫め、逆等が殺された事を知ると馬子が嘆き、守屋はその馬子を馬鹿にし、逆が殺された事により炊屋姫皇后かしきやひめのきさきと馬子が穴穂部皇子を恨んだと言う筋です。


・『前賢故実. 巻之1』より三輪君逆の肖像画

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 欽明朝から始まる仏教の受容を巡る争いは、書記の記述が僧侶の手で書かれた記録を元にしており、仏教が実際以上にひどい迫害を受けた様に書かれているという説もあるようですが⑵、だとすれば廃仏派筆頭の守屋が推した穴穂部皇子が史実よりも悪く描かれている可能性もあります。


 前稿でご紹介させて頂きました敏達天皇紀十四年(五八五)六月の記事で引用されている或本によれば、守屋と共に計って仏法を滅して、寺塔を焼き仏像を捨てようとしたと書かれている逆は物部氏と協力関係にあった様に見えますが、穴穂部皇子に命じられて逆をあっさりと殺してしまうのは廃仏派も一枚岩ではなかったという事でしょうか?


 炊屋姫皇后かしきやひめのきさきと馬子が穴穂部皇子を恨んだという記事から推測すると、逆は廃仏派ながら必ずしも反蘇我氏とは限らず、寧ろ馬子とも協力関係にあったのかも知れません。あるいは馬子方に鞍替えしたので、それを守屋が裏切りと捉えて穴穂部を動かした、等色々憶測も出来ますが、いずれにせよこの出来事が当時の皇族や豪族の反感を招いた可能性は高く、馬子との武力衝突では有力豪族がこぞって守屋の敵に回ったの原因の一つになったのかも知れません。



⑶『日本書紀』巻二一用明天皇二年(五八七)四月 丙午二日

二年夏四月乙巳朔丙午、御新甞於磐余河上。是日、天皇、得病、還入於宮。群臣侍焉。天皇詔群臣曰、朕思欲歸三寶。卿等議之。群臣入朝而議。物部守屋大連與中臣勝海連、違詔議曰、何背國神敬他神也、由來、不識若斯事矣。蘇我馬子宿禰大臣曰、可隨詔而奉助、詎生異計。於是、皇弟皇子〈皇弟皇子者穴穗部皇子、即天皇庶弟。〉引豐國法師〈闕名也。〉入於内裏。物部守屋大連耶睨大怒。是時、押坂部史毛屎急來、密語大連曰、今、群臣圖卿、復將斷路。大連聞之即退於阿都〈阿都大連之別業所在地名也。〉集聚人焉。中臣勝海連於家集衆、隨助大連、遂作太子彦人皇子像與、竹田皇子像厭之。俄、而知事難濟、歸附彦人皇子於水派宮。〈水派、此云美麻多。〉舍人迹見赤梼、伺勝海連自彦人皇子所退、拔刀而殺。〈迹見姓也、赤梼名也、赤梼、此云伊知毘。〉大連、從阿都家、使物部八坂、大市造小坂、漆部造兄、謂馬子大臣曰、吾聞、群臣謀我、我故退焉。馬子大臣、乃使土師八嶋連於大伴毘羅夫連所、具述大連之語。由是毘羅夫連、手執弓箭皮楯、就槻曲家、不離晝夜守護大臣。〈槻曲家者大臣家也。〉天皇之瘡轉盛。將欲終時。鞍部多須奈〈司馬達等子也。〉進而奏曰、臣、奉爲天皇出家脩道。又奉造丈六佛像及寺。天皇爲之悲慟。今南淵坂田寺木丈六佛像、挾侍菩薩是也。


(二年の夏四月なつうづきの乙巳きのとのみの朔丙午ついたちひのえうまのひ磐余河上いはれのかはのかみ新甞御にひなめきこしめす。是の日、天皇、得病おほみここちそこなひたまひて、とつみや還入かへります。群臣侍はべり。天皇群臣まへつきみたちみことのりしてのたまはく、「三寶さむぽうらむと思ふ。卿等議いましたちはかれ」。群臣まへつきみたちみかどまゐりて議る。物部守屋大連と中臣勝海連なかとみのかつみのむらじ、詔にたがひ議りて曰す、「いかに國神くにつかみに背きて他神あたしかみゐやまはむや、由來もとより、斯のごとき事をらず」。蘇我馬子宿禰大臣 まうす、「詔のままゐたすまつるべし、たれなる計をさむ」。是に於いて、皇弟皇子すめいろとのみこ〈皇弟皇子というふは穴穗部皇子、即ち天皇の庶弟はらからなり。〉豐國法師とよくにのほふし〈名をもらせり。〉を引きて内裏おほうちまゐいる。物部守屋大連 耶睨にらみて大に怒る。是の時、押坂部史毛屎おしさかべのふひとけくそあわて來て、密かに大連に語りて曰く、「今、群臣まへつきみたちうしはかる、まさに路をちてむ。大連聞きて、即ち阿都あと〈阿都は大連も別業なりところ所在地はべるところの名なり。〉に退きて、人を集聚あつむ。中臣勝海連もおのがいへいくさを集へて、大連を隨助ゐたすく、遂に太子彦人皇子ひつぎのみこひこひとのみこみかたと、竹田皇子の像とを作りてまじなふ。しばらくありて、事のし難きことを知りて、彦人皇子に水派宮みまたのみや〈水派、これ美麻多みまたと云ふ。〉に歸附く。舍人とねり迹見赤梼とみのいちい、勝海連の彦人皇子のみもとより退まかるをうかがひて、たちを拔きて殺しつ。〈迹見はうぢなり、赤梼は名なり、赤梼、此を伊知毘いちひと云ふ。〉大連、阿都の家より、物部八坂もののべのやさか大市造小坂おほいちのみやつこをさか漆部造兄ぬりべのみやつこのあにを使として、馬子大臣にかたらしめて曰く、「やつかれ聞く、群臣まへつきみたちおのれはかると、我れこのゆゑ退まかりぬ」。馬子大臣、乃ち土師八嶋連はしのやしまのむらじ大伴毘羅夫連おほとものひらぶのむらじもとに使はして、つぶさに大連のことを述ぶ。是に由りて毘羅夫連ひらぶのむらじ、手に弓箭皮楯ゆみやかはたてを執りて、槻曲つきくまの家にきて、晝夜ひるよるれず大臣を守護まもる。〈槻曲の家は大臣家なり。〉天皇のみやまひ轉盛いよいよさかんなり。將にせたまひなむとす。時に鞍部多須奈くらつくりべのたすな司馬達等しばだちとが子なり。〉進みてまをして曰く、「やつこ、天皇の奉爲おほむため出家いへでして道をおこなはむ。又丈六またぢゃうろく佛像みかた及び寺を造り奉らむ」。天皇 めにかなしまどひたまふ。今 南淵みなみぶちの坂田寺の木の丈六の佛像、挾侍菩薩けふしのぼさつ是れなり。)


・概要

 二年の夏四月二日、磐余の河上で新甞にひなめの大祭が行われた。是の日、天皇は病にかかられて宮中に帰られた。群臣がおそばにはべり。天皇は群臣に言われた、「朕は三宝(仏・法・僧)に帰依したいと思う。卿等もよく考えて欲しい」。群臣は参内して相談し、物部守屋大連と中臣勝海連なかとみのかつみのむらじは、勅命に反対して、「何故、國神くにつかみに背いて他国の神を敬うことがあろうか、元より、この如きことを知りません」と言った。蘇我馬子宿禰大臣は「詔のままに従ってご協力すべきである、誰か異なる相談をすることになろうか」と言った。穴穗部皇子は豐國法師とよくにのほふしを連れて内裏おほうちに入られた。物部守屋大連は、これを耶睨にらんで大いに怒った。この時、押坂部史毛屎おしさかべのふひとけくそが慌ててやって来て、密かに大連に語って言った、「今、群臣たちは、あなたを陥れようとしており、まさに退路を断とうとしています」。大連は聞いて、阿都あと〈阿都は大連も別業なりところ(別荘)の所在地はべるところの名なり。〉に退いて、人を集めた。中臣勝海連も家に兵を集めて、大連を助けようとした。遂に太子彦人皇子ひつぎのみこひこひとのみこひとかたと、竹田皇子の像とを作りまじないをかけて呪った。しばらくして、事の成難いことを知り、彦人皇子の水派宮みまたのみやの方へついた。舍人とねり迹見赤梼とみのいちいは、勝海連の彦人皇子の所より退出するのを伺って、たちを抜いて殺した。大連は阿都の家より、物部八坂もののべのやさか大市造小坂おほいちのみやつこをさか漆部造兄ぬりべのみやつこのあにを使いとして、馬子大臣に語らせて、「自分は、群臣が自分を図ろうとしていると聞いた。是ゆえにここに退いた」と言った。馬子大臣は、乃ち土師八嶋連はしのやしまのむらじ大伴毘羅夫連おほとものひらぶのむらじのもとに使わして、つぶさに大連の言葉を述べさせた。是に由って毘羅夫連ひらぶのむらじ、手に弓箭皮楯ゆみやかはたてを取り、槻曲つきくまの家に行き、昼夜を分かたず大臣を守護まもった。〈槻曲の家は大臣の家である。〉天皇の疱瘡はいよいよ重くなり。まさに亡くなられようとする時に、鞍部多須奈くらつくりべのたすなが前に進みて、「私は天皇の御為に出家して修道いたします。また丈六じょうろくの仏像及び寺を造り奉りましょう」と奏上した。天皇は悲んで大声で泣かれた。今 南淵みなみぶちの坂田寺にある木の丈六の仏像、脇侍わきじ(あるいは脇士)の菩薩が是れである。


・解説

 病床にある用明天皇は仏法への帰依を口にすると、これを物部守屋大連と中臣勝海連なかとみのかつみのむらじは、反対しますが、天皇までも仏法受容に傾く情勢下で守屋は孤立を深めてゆき、この段階で群臣、つまり大夫まへつきみ達は多くが馬子に従い、一方の守屋は押坂部史毛屎おしさかべのふひとけくそ物部八坂もののべのやさか大市造小坂おほいちのみやつこをさか漆部造兄ぬりべのみやつこのあにと言った大夫よりも下位の伴造層しか味方が居らず、右腕である中臣勝海までもが裏切り、挙句の果て迹見赤梼とみのいちいに勝海が殺されてしまいます。


 それに対し、馬子には物部氏と並ぶ武門の名家である大伴氏の大伴毘羅夫連おほとものひらぶのむらじが味方に着き、馬子の家を守るという対称的な状況になります。大伴氏が同じ連姓である物部氏よりも臣姓である蘇我氏に着いたのは、かつて大伴金村が守屋の親である物部尾輿により失脚させられた恨みもある事は想像に難くありません。大伴氏が蘇我氏に着いたことも、他の豪族達が守屋を見限るきっかけになったのかも知れません。


 




⑷『日本書紀』巻二一崇峻天皇即位前紀用明天皇二年(五八七)七月

秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子、蘇我馬子宿禰大臣、紀男麻呂宿禰、巨勢臣比良夫、膳臣賀施夫、葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。大伴連噛、阿倍臣人、平群臣神手、坂本臣糠手、春日臣〈闕名字。〉倶率軍兵從、志紀郡到澁河家。大連親率子弟與奴軍、築稻城而戰。於是大連、昇衣揩朴枝間臨射如雨。其軍強盛、填家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、三廻却還。是時、廐戸皇子、束髮於額〈古俗、年少兒年十五六間束髮於額、十七八間、分爲角子、今亦爲之。〉而隨軍後。自忖度口、將無見敗、非願難成。乃斮斮取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髮、而發誓言、〈白膠木、此云農利泥。〉今若使我勝敵、必當奉爲護世四王、起立寺塔。蘇我馬子大臣又發誓言、凡諸天王、大神王等、助衛於我、使獲利益、願當奉爲諸天與大神王、起立寺塔流通三寶。誓已、嚴種種兵而進討伐。爰有迹見首赤梼、射墮大連於枝下、而誅大連并其子等。由是大連之軍忽然自敗、合軍悉被皀衣、馳獵廣瀬勾原而散之。是役、大連兒息與眷屬、或有逃匿葦原、改姓換名者、或有逃亡不知所向者。時人相謂曰、蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計而殺大連矣。平亂之後、於攝津國造四天王寺、分大連奴半與宅、爲大寺奴、田庄、以田一萬頃賜迹見首赤梼。蘇我大臣亦依本願於飛鳥地起法興寺。


(秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子もろもろのみこたち群臣まへつきみたちとにすすめて、物部守屋大連を滅さむことを謀る。泊瀬部皇子はつせべのみこ、竹田皇子、廐戸皇子うまやどのみこ難波皇子なにはのみこ春日皇子かすがのみこ、蘇我馬子宿禰大臣、紀男麻呂宿禰きのをまろのすくね巨勢臣比良夫こせのおみひらぶ膳臣賀施夫かしわてのおみかたふ葛城臣烏那羅かつらぎのおみをならとも軍旅いくさを率ゐて、進みて大連を討つ。大伴連噛おほとものむらじくひ阿倍臣人あべのおみひと平群臣神手へぐりおみかみて坂本臣糠手さかもとのおみぬかて春日臣かすがのおみ〈名字をもらせり。〉倶に軍兵いくさを率ゐて、志紀郡しきのこほりより澁河の家に到る。大連親ら子弟やから奴軍やつこらとを率ゐて、稻城いなききてたたかふ。是に於いて大連、衣揩きぬずり朴枝えのきまたに昇りてのぞみ射ること雨の如し。其のいくさ強盛さかゐにして、家にち野にあふれたり。皇子等の軍と群臣まへつきみたちいくさと、怯弱恐怖おちおそれて、三廻却還みたびしりぞく。

是の時、廐戸皇子、束髮於額ひさごはなにして〈古俗ふるきとひ年少兒わらは年十五六とをあまりいつつむつころ束髮於額ひさごはなす、十七八とをあまりななつやつの間は、分ち角子あげまきと爲す、今もまたなせり。〉いくさうしろしたがひたまふ。自から忖度はかりて曰く、「やぶらるるからむや、ねがひに非ずば成り難からん」。乃ち白膠木ぬりでのきり取りて、く四天皇のみかたを作りて、頂髮たきふさに置きて、誓言うけひてたまはく、〈白膠木、此ヌリテと云ふ。〉「いま若し我をして敵に勝たしめば、必ずまさ護世四王ごせしわう奉爲みために、寺塔てら起立てむ」。蘇我馬子大臣又 誓言うけひつ、「おほよ諸天王しょてんわう大神王等だいじんわうたち、我を助けまもりて、利益かつことしめば、願はくはさに諸天と大神王との奉爲みために、寺塔てらを起し立て三寶さむぽう流通つたへむ」。ちかをはりて、種種くさぐさいくさいつくしくして進みて討伐つ。ここ迹見首赤梼とみのおひといちひ有り、大連をもと射墮いおとして、大連、并に其の子等をころす。是に由りて大連のいくさ忽然にはかに自ら敗れ、軍合いくさこせりてふつく皀衣くろぎぬて、廣瀬ひろせ勾原まがりのはら馳獵かりするまねしてあかれぬ。是のえだちに、大連の兒息眷屬やから、或は葦原に逃げかくれて、かばねを改め名をふる者有り、或は逃げせてにけむ所を知らざる者有り。時の人 相謂あひかたりて曰く、「蘇我大臣の妻は、是れ物部守屋大連のいろとなり。大臣おほおみみだりに妻のはかりことを用ゐて大連を殺す」。みだれ平ぎて後、攝津國つのくに四天王寺してんわうじを造り、大連のやつこなかばいへとを分けて、大寺おほてらの奴、田庄たどころと爲し、田一萬頃たよろづしろを以て迹見首赤梼に賜ふ。蘇我大臣 本願ねがひままに飛鳥のところ法興寺ほふこうじつ。)


・概要

 秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣たちに勧めて、物部守屋大連を滅すこ計画を謀った。泊瀬部皇子はつせべのみこ、竹田皇子、廐戸皇子うまやどのみこ難波皇子なにはのみこ春日皇子かすがのみこ、蘇我馬子宿禰大臣、紀男麻呂宿禰きのをまろのすくね巨勢臣比良夫こせのおみひらぶ膳臣賀施夫かしわてのおみかたふ葛城臣烏那羅かつらぎのおみをなら、共に軍兵を率いて大連を討った。大伴連噛おほとものむらじくひ阿倍臣人あべのおみひと平群臣神手へぐりおみかみて坂本臣糠手さかもとのおみぬかて春日臣かすがのおみ共に軍兵を率いて、志紀郡しきのこほりより守屋の住む渋川の家に到着した。大連自ら子弟と奴の軍を率いて、稲城を築いて戦った。大連は衣揩きぬずりの榎の木股に昇り、上から眺め雨の如く矢を射った。その軍は精強で、家に満ち野に溢れた。皇子等の軍と群臣の兵は弱く、恐れて三度退いた。


 是の時、廐戸皇子は束髮於額ひさごはな(当時の十五、六歳の髪型)で軍の後に従っていた。自から何と無く察して、「もしかすると敗けるのではなかろうか、願をかけないと叶わないだろう」と言われた。乃ち白膠木ぬりでのきを切り取り、急いで四天皇の像を作り、頂髮たきふさの上に置いて、誓いを立てて言われた、「今、もし自分を敵に勝たせて下されば、必ずに護世四王ごせしわうの為に、寺塔を建てましょう」と言われた。蘇我馬子大臣もまた誓いを立てて、「諸天王しょてんわう大神王等だいじんわうたち、我を助け守って、勝つことを得れば、諸天と大神王との為に、寺塔を建て、三宝を伝えましょう」。誓いが終わり、武備を整え進撃した。ここに迹見首赤梼とみのおひといちひと言う者が有り、大連を枝の下に射落し、大連、とその子等を殺した。是によって大連の軍は自然に崩壊した。兵たちはこぞって黒衣(令制では奴婢や家人の衣)を着て、広瀬の勾原まがりのはらに狩りをする真似をして逃げ去った。この戦役に、大連の息子と一族は、或は葦原に逃げ隠れて、かばねを改め名を変える者有り、或は逃げせて逃亡先の分からぬ者のいた。時の人は語り合って、「蘇我大臣の妻は、物部守屋大連の妹である。大臣おほおみは軽々しく妻の謀を用いて大連を殺した」と言った。乱の平定後、攝津國に四天王寺してんわうじを造り、大連の奴婢と家を分けて、大寺おほてらの奴婢、田庄たどころとし、田一万代たよろづしろ(一代は百畝)を迹見首赤梼に賜わった。蘇我大臣は誓願の通りに飛鳥の地に法興寺ほふこうじ(飛鳥寺)を建てた。


・解説

 馬子は多くの皇子や有力豪族達を味方に着け、守屋の住む渋川の邸宅に攻め込む所謂「丁未の乱」が勃発します。豪族達がかつての大臣・大連に氏を連ねた錚々たる顔ぶれで、葛城・平群・巨勢・大伴・蘇我が揃い踏みな上、阿部、春日と言った有力豪族までも敵に回り、とても物部氏だけでは勝てそうもありませんが、守屋はこれを三度も退けてしまったとのこと。流石に大袈裟に書かれていると思いますが、事実、物部の兵が精強であったから守屋や捕鳥部万(別稿で記載予定)の奮闘のような伝承が産まれたのかも知れません。


 ですが、廐戸皇子こと聖徳太子が四天王寺を建てる事を誓い、馬子も法興寺を建てる事を誓うと、迹見首赤梼が射た矢が守屋を射落し、蘇我方が勝利すると言う筋です。


 より具体的な話は『上宮聖徳太子伝補闕記』に書かれていますが、こちらは後世の付会による部分が多く、史実とは言い難いです。


 篠川賢氏によれば、具体的人名を持って記される馬子側の軍の構成については史実とみてよいとし、多くの皇子と、マヘツキミ層のほとんどが馬子の側に加わっていた事になり、この事件は馬子と守屋の私闘ではなく、推古を頂点とした時の朝廷による守屋の討伐事件であったという事である⑸。との事ですが、この時点の推古がどの程度影響力があったか疑わしく、寧ろ⑵の記事にある様に三輪君逆を殺した事で豪族達の反感を買った可能性がある事や、⑶の記事にある様に用明天皇が仏教を受容した事や大伴氏が蘇我氏の味方に廻った影響によるものかと思われます。


 他にも篠川氏は四天王寺の建立について、推古紀元年是歳条に「始造四天王寺於難波荒陵」と記されている事から、守屋滅亡直後の建立とするこの記事の信憑性に問題があることは明らかであるとし、守屋の遺産の奴と宅とを四天王寺に施入したということも疑問としなければならない⑹と述べられています。


 確かに四天王寺出土の古瓦は飛鳥寺の時代よりも後れる時期のものとみられる点、今の地に建設されたのは推古朝末年頃までとみられており⑺、守屋滅亡後の建立という記事に疑問があるのは確かですが、『荒陵寺御手印縁起』(『御手印縁起』と略称)または『四天王寺御手印縁起』との称される平安後期に作成されたとされている四天王寺の縁起資材帳(平安初期と言う説もある)によれば、守屋子孫従類二七三人が寺の永奴婢となった事と、没官所領田園十八万六千八百九十代が寺の永財と定められた事、そして河内国と摂津国の所領が記載されており⑻後世の文献とは言えここまで具体的に記された史料を無視して良いのか疑問に思います。この事に関しては次稿投稿予定の「排仏崇仏論争の虚構に関する反論」でも取り上げる予定です。


 また、時の流言で守屋の妹は馬子の妻であり、大臣おほおみは軽々しく妻の謀を用いて大連を殺したとあるのは、守屋の遺産を蘇我氏が継承した事により、守屋の妹が手にした事によって生じた流言とみる事も可能⑼との事で、こう言った流言が実際にあったのか、あるいは本当に守屋の妹が謀を立てたのか、定かではありませんが、蘇我氏が守屋の遺産を継承した可能性は高そうです。


 説話的な記述の信憑性はとにかくとして、この乱により物部氏が大きく衰退した事は確かで、以降は連姓の層から大連を輩出する事も無く、物部守屋が最後の大連となってしまいます。



◇現代まで守屋奴婢の子孫は四天王寺で仕事をしていた?

 ⑷の記事で守屋の敗死後、四天王寺の奴婢となったことが書かれていますが、この末裔が今なお四天王寺でいろいろな仕事に就いており、それらの人々を公人と呼ばれており、その中の公人長者はとくに四天王寺の大祭の聖霊会には欠かせない役柄であると言う話を四天王寺の関係者の方から聞いたと言う話が谷川健一氏の著書『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』に掲載されています⑼。残念ながら公人の方々の家で、先祖の履歴をよく知る祖父や父はお亡くなりになられたとの事で、谷川氏は詳しいお話が聞けなかったそうです。事実だとすれば一四〇〇年もの間、奴婢の末裔が四天王寺に暮らしていたとすれば凄いことですね。


 物部氏に関しては書くべきことが多過ぎるのですが、長文になってしまったので何れ別稿で触れたいと思います。(取り敢えず、崇仏拝仏論争虚構論に対する反論と捕鳥部万の奮闘譚は取り上げる予定です。出来れば守屋以降の物部氏の盛衰や石上麻呂による物部氏の復権なども取り上げたいです。)



◇参考文献

⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/189

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/40


⑵『史料による日本の歩み 古代編』 関晃・井上光貞・児玉幸多 編 吉川弘文館 44ページ


⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/190

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/41


⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/191

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/42


⑸『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 201ページ 

⑹『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 201ページ

⑺『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 382ページ 補注七

⑻『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』谷川健一 河出書房新社 288~290ページ

⑼『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』谷川健一 河出書房新社 32ページ

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