「排仏崇仏論争の虚構」の批判
近年では『日本書紀』の物部氏による廃仏(排仏)の記事が虚構であり、寧ろ物部氏と蘇我氏の権力闘争であったと言う説が有力であり、個人的にはこの説に関して疑問に感じている事は過去の稿で述べたとおりです。
『日本書紀』の物部氏が行った排仏を虚構とする所見は、ネットで読める物としては國學院大講師の有働智奘氏が中外日報にご寄稿された「排仏崇仏論争の虚構」という記事が良くまとまっているので取り上げてみます。
・『中外日報』2019年9月4日「排仏崇仏論争の虚構」有働智奘
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20190904-001.html
要点を纏めてみると。
①『先代旧事本紀』(平安前期)に仏教排除を実行したような記載が全くない
②『元興寺縁起』では物部や中臣の名がみられず、仏教信仰の反対者は「餘臣」と表現している。これらは物部氏が排仏推進の率先者でないことを示していると考えられる。
③物部の本拠地から飛鳥時代初期の遺構が残る渋川廃寺(大阪府八尾市)が発見されている。
④三河国の国造であった物部氏が関与したと考えられる愛知県内最古の北野廃寺が挙げられ、近隣に物部守屋の息子が創建したという伝承が残る真福寺がある。
⑤関東最古の寺谷廃寺も物部氏が関与していたことなどが指摘されている。
⑥『日本書紀』の継体天皇紀、欽明天皇紀をみると、日本と百済の交流に関与した官僚として物部氏が多く登場する。そのため、蘇我氏のみが文化、技術を独占したとは考え難く、東アジアに拡散していた仏教を物部氏が知らなかったとも言い難い。
⑦物部氏の職掌をふまえて考えると、文献に記す一連の行為は、単に「疫病」という穢れを祓う神事であり、疫病をもたらした「ほとけ」神に関与した祭祀者へ刑罰を執行したとみなすことができる。仏像等を廃棄して破壊、弾圧した残虐行為にみえるが、物部氏は祭祀氏族としての役割、そして刑部として警察、司法権の職務を実行したのみといえる。
⓼その職務は仏という蕃神の罪を祓う祭祀の執行、及び仏像、塔などを焼き払い、川へ流し、蕃神の罪を祓う神事となる。つまり、仏の住まいを焼いたり、河口へ流したりする行為は、神が居ます世界(国)へ帰坐を求める方法であり、現在、神道の祭儀として残るどんと焼きや人形流しなどのような祭祀の一種であった。
⑨蘇我氏は神祇を軽視し、率先して仏教を受容して、仏教のイデオロギーを得たという認識が強い。しかし、それは神祇信仰を廃止したということではない。蘇我氏の居住地である奈良県・曽我玉造遺跡から神祇祭祀の遺構がみられ、後世の『延喜式』「神名上」には大和と下総に蘇我氏の神社が記されている。
⑩仏教伝来記事では必ず仏教信仰、疫病流行、仏を祓う、災害・疫病という同じ内容が繰り返して循環している。まさしく、これは古代日本の神観念である祟りの構造である。つまり、仏教伝来記事は祟りという神観念から生じた祭祀方法の争いを記したのであった。
⑪この仏教伝来記事を「排仏崇仏」という論争とすることは、管見では中世までの史書でみない。「排仏・崇仏」という観点を提示する典籍の初見は、谷川士清『日本書紀通證』(1762年刊)である。国学者である谷川は、儒家の「排仏」説を紹介している。したがって、「排仏・崇仏」という用語は、近世以降の儒学、国学者による排仏意識で創られたと考えられる。
以上が所謂「排仏崇仏論争」に対する批判とひいては『日本書紀』の物部氏の記述を否定する根拠の代表的な物として纏まっており、特に③と⑥についてはよく知られている事かと思いますが、⑨以外は納得しかねる内容の為、それぞれ分析・反論をしてみます。
先ず①については有働氏の認識違いです。『先代旧事本紀』第九巻「帝皇本紀」の用明天皇二年夏四月
↓『先代旧事本紀 10巻』(巻第9「帝皇本紀」より)該当部分の画像。(著作権切れ)
https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817139557948549717
文中の「
これは『先代旧事本紀』が平安時代に書かれている書である事からして、仏教に反する様な内容は書き難い時代背景があったのでしょう。また、この書が時代が新しい記事よりも
②につきましては、天平 19 (747) 年成立とされる『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』のことかと思われますが、冒頭部分に
③は目下のところ物部氏が仏教を崇拝していた有力な証拠と見られて居り、『日本書紀』の記事を虚構とする一番有力な説ですが、結論から言えば、敗北した物部守屋の所領が没収され、その地に他者が寺を建てたと言うだけの話です。
2004年に行われた財団法人八尾市文化財調査研究会の渋川廃寺の報告書によると、「渋川廃寺創建時 (飛鳥時代前期)の 遺構でないことは明らかで再建に伴う構築であり、遺物の時期からみてその時期は奈良時代後半以降に比定される」としながらも瓦の種類によっては造られた時期が明確に出来ない現状では推測の域を出ず、瓦のセットによっては非常に雑な作りで、奈良時代後半以降のものであろうと推測されています。⑶(詳細は参考文献項目記載のURLよりPDFファイルをダウンロードしてご覧ください)
つまり、考古学的な知見では発掘された考古物は恐らく再建されたもので建築時期は奈良時代後半を下らず、西暦587年に物部守屋が敗死してから200年ほど後のものとなります。渋川廃寺が再建される以前、最初に創建されたのか時期が不明な為、渋川廃寺の遺構が見つかったと言っても、物部氏が建立した証明にはならないのです。
また、再建以前は飛鳥時代に建立されたものだとしても、それが物部氏によるものだという文献は存在せず、寧ろ『日本書紀』崇峻天皇即位前紀・用明天皇二年(五八七)七月の記事によれば「平亂之後。於攝津國造四天王寺。分大連奴半與宅。爲大寺奴田庄」⑷と書かれており、つまり、物部守屋が倒された丁未の乱平定後、摂津の国に四天王寺を建立し、守屋の奴婢と家を分けて、四天王寺の奴婢と
前稿でも述べましたように四天王寺の建立は推古紀元年是歳条に「始造四天王寺於難波荒陵」とも記されている事から篠川賢氏はこの記事を疑問を呈していますが⑸、四天王寺出土の古瓦は飛鳥寺の時代よりも後れる時期のものとみられる点、今の地に建設されたのは推古朝末年頃までとみられており⑹、守屋滅亡後の建立という疑問があるのは確かですが、『荒陵寺御手印縁起』(『御手印縁起』と略称)または『四天王寺御手印縁起』と称される平安後期に作成されたとされている四天王寺の縁起資材帳(平安初期と言う説もある)によれば、守屋子孫従類二七三人が寺の永奴婢となった事と、没官所領田園十八万六千八百九十代が寺の永財と定められた事、そして河内国と摂津国の所領が記載されており⑺、『日本書紀』の記述を裏付けています。
記載された地名には弓削・鞍作・衣揩・葦原など、大阪府八尾市にあたる地名が見られ、この地は物部守屋の本拠地と言われており、特に衣揩は衣摺の事と言われており、「地名辞書」によれば守屋が防戦した渋川稲城は此の地なるへしと書かれています。⑻
他の可能性として考えられるのは崇峻天皇即位前紀七月に「時人相謂曰、蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計而殺大連矣。」⑼とあり、時の流言で守屋の妹は馬子の妻であり、
つまり物部氏の本拠地は他の勢力により摂取されており、この地を没収した後の四天王寺勢力、あるいは四天王寺の勢力が及ぶ以前に物部氏の遺産を継承した蘇我氏等により、寺が建てられていたとしても何の不思議もないのです。
被征服者の聖地の跡地を再利用して征服者が新たな聖地を創る事は海外でも例があります。例えばビサンツ帝国の教会はオスマントルコに滅ぼされて以来、モスクとして利用されました。それと同じことで、他の氏族とは別格の天孫降臨に匹敵する祖神の伝承を持ち、司祭を掌る一族でもあった物部氏の神を抑え込むために寺を建てた可能性もあるでしょう。
④⑤につきましてはそもそも中央の物部氏の動きと関係がありません。同じ中央で政権を担っていた大連である物部麁鹿火と物部尾輿の間でさえ大伴氏に対する態度が大きく異なっていたぐらいなので、地方豪族に対してどの程度中央の物部氏の関与があったのか疑問です。
谷川健一氏は物部氏の祖神であるタケミカヅチまたはフツヌシがおなじく物部氏に関係の深い香々背男(谷川氏は香々背男の別名、天津甕星を『先代旧事本紀』のニギハヤヒと共に降臨した筑紫弦田物部等の祖である天津赤星と結び付けています)を討伐させたことを朝廷に服従し臣従した「内物部」がまつろわぬ「外物部」を退治したという意味に取れなくないと述べました様に⑾、
なお、④に関しては守屋の子が創建したと言う伝承ですが、聖徳太子建立の46刹の一つとも言われており、そもそも伝承に過ぎず物部氏が関係ない可能性も高いかと思います。
また、真福寺の創建者で物部守屋の次男と伝えられている物部真福なる人物は『日本書紀』はおろか『先代旧事本紀』巻五「天孫本紀」の系図にすら名が見えず、実在が怪しいと言わざるを得ません。
*追記:文保二年(一三一八)の著書なので真偽が疑わしいですが、『聖徳太子伝』(『聖徳太子伝暦』とは別の書)によれば物部守屋の次男は「片野目連」とあるそうです。
そして、⑤に関しても寺谷廃寺が7世紀前半を下らない時期に建立されたと言われているので、物部守屋敗死よりも後の時代の遺構になります。
⑥に関しては物部氏が仏教を知っていたかどうかと許容する事では違った話なので論外と言えます。解りやすい例を挙げれば、織田信長・豊臣秀吉などは宣教師を利用しましたが彼ら自身はキリスト教に帰依した訳ではありません。
寧ろ、当時のスペインやポルトガルと言ったキリスト教国が宣教師を送りキリスト教の信者を他国に広めさせ、神が唯一つである事からその国の他の神と王権(何処の国の王権も大抵神の子孫を自称していたのでキリスト教信者にとって王も異教徒、即ち自分達の敵になる)を否定させ反乱を起こさせ、国が鎮圧しようとするとキリスト教徒保護を名目に軍隊を送り、植民地を広げていったという事を知った秀吉はキリスト教の弾圧に方針を切り替えています。
歴史は繰り返すと言いますが、隋が仏教を今で言うグローバルスタンダードの柱とし、
つまり仏教を知っている事と、取り入れる事は全く意味が異なるのです。寧ろ海外では神祇よりも仏が上位の存在として敬われている事実を理解していたからこそ、『先代旧事本紀』でみられるような天皇家に匹敵する降臨伝承を許されていた物部氏の立場を揺るがすものとして危険だと警戒していたと考えるのが自然かと思います。
せいぜい武内宿禰の子孫を称するだけで大した祖神伝承も無い蘇我氏と違い、天孫降臨に匹敵する伝承を有する物部氏が易々と宗旨替えするとは思えず、自らの優位性を放棄する様な事を進んで行うとは思えません。
⑦⓼については要するに物部氏が祭祀氏族と刑部としての役割を果たしたに過ぎず、焼き払うのも神道の儀式であり、所謂排仏では無いという事で、これは流石に宗教学者の視点かと感服します。
似た例を海外に求めれば、カエサル著の『ガリア戦記』ではガリア人のある部族は枝江細工で大きな
ですが、『日本書紀』の記述によれば雄略即位前紀で眉輪王と葛城円達が家ごと焼き払われたり、清寧天皇即位前紀で吉備皇子等の大蔵に火をつけられ焼き殺されたり、あるいは武烈天皇即位前紀で平群真鳥大臣の家が焼かれたように古代においては焼き払うことは刑罰的な意味があった事で知られており、どんと焼きの様な儀式と結びつけるのは無理があるかと思います。
また、物部氏が職務を果たしたに過ぎず、弾圧では無いという主張も詭弁で、例えば一神教の国で仏教を信仰しようとしたら警察や軍に家を焼かれたり破壊されたらこれを弾圧でないと言えるのでしょうか?
⑨に関しては同意です。平林章仁氏は曽我玉作遺跡の消長から、祭祀氏族として忌部氏の成立を六世紀中葉と推測し、蘇我氏はこの忌部氏と親密な間柄にあったこと、さらに蘇我氏が神祇祭祀にも少なからず関心を抱いていたことを知られたと述べています。⒀
忌部氏は後裔の斎部広成が『古語拾遺』を記す神祇祭祀を司る一族で、同書の中で同じく神祇祭祀を司る中臣氏に対する敵対心を露にしていますが、蘇我氏の本拠地は大和国高市群曽我(橿原市曽我町)であり、忌部氏は大和国高市群忌部里(橿原市忌部町)と隣接しており、曽我玉作遺跡では蘇我氏の軒先で忌部氏が祭祀で使用する玉作を行っていた事が推察出来る事から、仏教を信仰していたからと言って蘇我氏が神祇を軽視していた訳ではなさそうです。
そもそも、『日本書紀』巻二二推古天皇十五年(六〇七)二月十五日条に「甲午。皇太子及大臣率百寮。以祭拜神祗」⒁つまり、推古天皇が皇太子及び蘇我馬子大臣と百寮を率いて神祇を祀り拝されたと記されており、推古天皇が神祇も重んじており、馬子もこれに従っていたので、崇仏の立場だからと言って神祇を軽んじていた事は『日本書紀』から伺えず、「崇仏=反神祇」という単純な構図では無いのです。
馬子の本音は何処にあったのか知る由もありませんが、恐らく天神地祇の末裔を称している諸豪族達の反発を恐れた打算も含まれており、推古に従い神祇を祀るパフォーマンスもせざるを得なかったという事も考えられますが、恐らく仏教一辺倒が許される情勢でも無く、神祇も軽視する訳にはいかなかったのでしょう。
⑩の記事も同意ですが、排仏崇仏論争という論点から一寸ずれているような気もします。
⑪については近世の国学者の意識に基づき、「排仏崇仏論争」なるものが行われ、その意識で論争が繰り広げられていたと言いたいのでしょうが、この言葉自体は然程意味がなく、要は『日本書紀』の記述がどれだけ正しいか如何かが重要なのかと思います。
◇結び
2001年3月10日前後、タリバンがバーミヤン大仏を破壊し、世界中から批判された事がありますが、彼らにとって自分の信じる神以外は悪魔とみなされていたのでしょう。また、イランなど宗教指導者が事実上国を治めている例は現代においても見受けられます。所謂『悪魔の詩』事件では同書の邦訳者、筑波大学の五十嵐一助教授が殺害されたのはイランの関与があったと言われています。
科学が発展した現代においてすらこの様な教条主義的な信者が居るのですから、神との距離感が今よりもずっと近しかった古代日本において、似た様な出来事があったとしても不思議ではありません。
多くの歴史学者が指摘する様に、物部氏と蘇我氏の権力闘争であったという面は否定できませんが、それは一面に過ぎず、昔は政治を「まつりごと」と称した様に宗教と政治が密接に結びついており、これを敢えて分けて考えようとする歴史学者の思考は極めて現代的であり(まぁ歴史学者には宗教を否定しているマルクス主義者が多いですからね)何としてでも『日本書紀』の記述を否定したいと言う意図が透けて見えるので彼らの考え方を鵜呑みには出来ません。
そう言った面では宗教学者の有働智奘氏の視点は⑧の様に学ぶべき事もありましたが、大局的な見地では「排仏崇仏論争」なる造語の否定で終わり、概ね歴史学者の所見に対する追従に留まり、彼らに対する批判にまで及んでいない事は少し残念に思います。
◇参考
・『中外日報』2019年9月4日「排仏崇仏論争の虚構」有働智奘
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20190904-001.html
⑴『先代旧事本紀 10巻』 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563305/18
⑵「元興寺伽藍縁起并流記資財帳の研究」名古屋市立大学研究紀要 15 2003年 吉田一彦
https://ncu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1255&file_id=25&file_no=1
⑶「渋川廃寺 第2次調査・第3次調査 2004年」(財)八尾市文化財調査研究会報告79 (4429_2_財団法人八尾市文化財調査研究会報告79.pdf)129ページ
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/4429
⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編 経済雑誌社
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/191
⑸『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 201ページ
⑹『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 382ページ 補注七
⑺『大日本仏教全書 118』仏書刊行会 明治45-大正11
https://dl.ndl.go.jp/pid/952822/1/35
⑻『大日本地名辞書 上巻 二版』吉田東伍 著 冨山房 1907/10/17
https://dl.ndl.go.jp/pid/2937057/1/171
『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』 谷川健一 河出書房新社 288~290ページ
⑼『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編 経済雑誌社
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/191
⑽『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』谷川健一 河出書房新社 32ページ
⑾『白鳥伝説』 谷川健一 集英社 357ページ
*追記『白鳥伝説』 谷川健一 集英社 120ページ
⑿『ガリア戦記』 カエサル著/國原吉之助訳 講談社学術文庫 218ページ
⒀『蘇我氏の実像と葛城氏』 平林章仁 白水社 39ページ
⒁『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編 経済雑誌社
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/198 198・199コマ
*『国史大系. 第1巻 日本書紀』は一部訂正しております。
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