『日本書紀』最強のモノノフ 捕鳥部万
『前賢故実. 巻之1』より捕鳥部万の肖像画
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物部守屋滅亡の際に多くの一族や眷属が逃げ隠れしたことは前稿の記事に取り上げましたが、この時に唯一人で朝廷を相手に奮戦した武人の武勇伝と、彼の飼犬に関する秘話が伝わっています。
解説書等ではよく『平家物語』の木曽義仲の最期と重ねられる事が多く、軍記物語の走りとも言える万の伝承について取り上げてみたいと思います。
⑴『日本書紀』巻二一崇峻天皇即位前紀用明天皇二年(五八七)七月
物部守屋大連資人捕鳥部萬、〈萬名也。〉將一百人、守難波宅。而聞大連滅、騎馬、夜逃向茅渟縣有眞香邑。仍過婦宅而遂匿山。朝庭議曰、萬、懷逆心、故隱此山中。早須滅族、可不怠歟。萬、衣裳幣垢、形色憔悴。持弓帶釼、獨自出來。有司遣數百衛士圍萬。萬即驚匿篁聚。以繩繋竹、引動令他惑己所入。衛士等被詐、指搖竹馳言。萬、在此。萬、即發箭、一無不中。衛士等恐不敢近。萬便弛弓、挾腋、向山走去。衛士等即夾河追射。皆不能中。於是有一衛士、疾馳、先萬。而伏河側、擬射中膝。萬即拔箭、張弓發箭、伏地而號曰、萬、爲天皇之楯、將効其勇、而不推問。翻致逼迫於此窮矣。可共語者來。願聞殺虜之際。衛士等競馳射萬。萬便拂捍飛矢、殺卅餘人。仍以持釼、三截其弓、還屈其釼、投河水裏。別以刀子、刺頚死焉。河内國司、以萬死状牒上朝庭。朝庭下苻稱、斬之八段、散梟八國。河内國司、即依苻旨臨斬梟時、雷鳴大雨。爰有萬養白犬。俯仰廻吠於其屍側、遂噛擧頭收置古冢、横臥枕側、飢死於前。河内國司、尤異其犬、牒上朝庭。朝庭、哀不忍聽、下苻稱曰、此犬世所希聞。可觀於後。須使萬族、作墓而葬。由是萬族、雙起墓於有眞香邑、葬萬與犬焉。
(
・概略
万は、着物は破れ垢だらけで、憔悴した姿で、弓を持ち剣を帯びて、自ら出て来た。役人は数百の兵士を遣して万を囲んだ。万は即ち驚いて竹藪に隠れた。繩を竹につないで、引き動かして、兵士たちに自分がいる場所を惑わせた。兵士たちは騙されて、動く竹を目指して駆けつけ、「万はここに居る」と言った。すると万は矢を放ち、一つとして当たらない事は無かった。兵士たちは恐れて近づけなかった。万は弓の弦を外し、腋に挟んで、山に向って逃げて行った。
兵士たちは直ぐに河を挟んで追いかけながら射ったが、皆当たらなかった。ここに一人の兵士が居て、早く駆けて万を先回りして、河の側に伏して、弓に矢をつがえ膝に射当てた。万は直ぐに矢を抜き、弓を張って矢を放ち、地に伏して叫んで言った、「万、
河内國司は其の犬を怪しみ、朝庭に報告した。朝庭は哀れに思い称えて、「この犬、世にも珍しい。後世に知らすべきだ。万の同族に墓を作らせてほうむらせよ」。これによって万の一族は墓を
◇解説
射る矢は全て当たり、三十人を斬り殺したという何やらランボーの様な洋画の主人公を思わせる捕鳥部万の奮闘譚です。『日本書紀』では天武天皇紀の壬申の乱の勇士である
また、主人の屍を墓まで運び、万の後を追って飢え死にしたと言う万の飼い犬のいじらしさも泣ける話なのですが、当然の事ながら説話扱いされており、史実とはみなされていないようです。
まぁ剣押し曲げるって、どれだけ力が居るのかという話ですし、磐などに叩きつけて折る方が寧ろ出来るのではないかと疑ってしまいますが。。。因みに格闘家などがパフォーマンスでフライパンを曲げたりするのは百円ショップで買う安いフライパンを使うらしく、アレならば曲げやすいそうなので、年末の飲み会で一発芸を所望された場合や普段嫌味ばかり言う上司を威圧する小道具に使いましょう。(マテ)
あまり意味がないかも知れませんが、後世の豪傑と比較してみると、戦国時代の首取りレコードは可児才蔵こと「笹の才蔵」が十七の首級を上げたのがトップだったかと思うので、矢を悉く当てた上に三十人斬り殺した万は才蔵以上の武人という事になりますね……史実であれば、の話ですが。
話が若干どころかかなりずれましたが、この話は以下の三つの部分に別けられます。
①反乱の意思を持っていなかったにも関わらず、朝廷の追討を受け、悲劇の死を迎える捕鳥部万の武勇・奮戦を記し、朝廷の異変が起こった。
②死後も主人に仕え忠誠を尽した万の飼い犬に対して朝廷が顕賞した。
③主人に対して忠実な犬は他にも居た。
*③に関しては万と関係ない記事なので本稿では省略しています。
飯島一彦氏によると、悲劇の死を遂げた人物を異例とも思われるほど詳しく記し、その死体の処置に当たって異変が起こったとする叙述ぶりは、後世の御霊信仰にまつわる種々の説話を思わせる。②の部分で朝廷の万に対する態度が急に変わった様にみえるのも、おそらく万の異常な死に対する恐れがあったとみられよう。万の忠実な飼犬の記事が挿入しているのも、一見国史としては不釣り合いにみえるが、朝廷として恐怖を抱いた事の反映とみれば納得できる。⑵としています。
御霊信仰とは怨霊の活動によって疫病が流行すると怖れられた信仰形態の事で、奈良時代末から平安時代にかけて貴族の対立抗争の為に失脚した権力者の霊魂が祟ると信じられていました。平将門や菅原道真などがよく知られていますが、御霊は転訛して五郎(鎌倉源五郎景政・大人弥五郎など)となり、英雄譚と結合した説話を成立せしめた場合も多いとの事です。⑶
御霊信仰が明確に生まれたのが奈良時代末とは言え、出雲の国譲りの神話から三輪山の神話へのオオナムチの変遷は御霊信仰の走りとも言えるかも知れませんし、死後の祟りを恐れられた人物としては捕鳥部万が初めてかも知れません。(『源平盛衰記』の「守屋啄木鳥となること」一条の様に物部守屋が啄木鳥の怨霊と化する伝承もありますが、これは後世に創作された物)非業の死を遂げた御馬皇子や、日本の王になれなかった平群真鳥は強力な呪詛をかけながらも万の様に葬られた記事が無いので、御霊信仰の萌芽は古墳時代中期までは遡らずとも、奈良時代よりも以前の飛鳥時代直前(古墳時代末期)までは遡るという事を示唆するのかも知れません。
なお、篠川賢氏はこの記事をそのまま事実の伝えとみることはできないとしながらも、万が守ったという「難波宅」は実際に守った拠点の一つであったと考えてよいであろうし、また万が逃れて戦ったと言う「
◇参考文献
⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/191
『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/43
⑵『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 225ページ
⑶『民俗学辞典』 財団法人民俗学研究所編 東京堂出版 217ページ
⑷『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 202ページ
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