『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣まとめ

 長くなりましたが、各時代の主な大連・大臣について纏めてみました。尚、本文には書いてない事も若干追記しています。



◇4世紀(大和王権初期)

物部十千根大連もののべのとおちねのおほむらじ

 『先代旧事本紀』巻五「天孫本紀」によれば饒速日尊7世の孫で、伊香色謎命いかがしこめのみことの第2子。

 『日本書紀』で登場する初の大連。

 第11代天皇垂仁の時代に大連に任命され、出雲国の神宝の検校を行った他、物部連が石上神宮の神宝を治める縁起譚がある。(この話自体は説話に過ぎなくても出雲を大和王権勢力下にする際、物部氏が関与した可能性がある。『出雲国風土記』には物部氏の氏神フツヌシに関わる伝承が複数伝わっている)

 『古事記』にはその名が見えず、後世、石上麻呂が台頭後、石上神宮に関わった頃に創作された人物という説が有力。

 又、5世紀頃からの部曲発生以降に物部氏が誕生したという直木孝次郎氏の説に従えば、それ以前の時代に登場する十千根の実在は怪しいと言わざるを得ない。



◇4世紀末~5世紀中頃(三韓出兵以降)

武内宿禰大臣たけしうちのすくねのおほみ

 屋主忍男武雄心命やぬしおしおたけおごころのみことの子。第12代天皇景行から第16代天皇仁徳まで、4代(神功を含めると5代)に仕え300年以上生きたと伝わる。

 主に大臣・近侍の臣として忠実に奉仕する話・神事に関わるおかんなぎ的役割を担った話・稀有な長寿の人である話が伝えられている。

 津田左右吉の唱える七世紀に蘇我氏により創作された人物という説か、七世後半に活躍した「内臣」の中臣鎌足との関係を見るべきという岸俊男による説が一般的。自論だが、仁徳天皇紀五十年三月と古事記の仁徳天皇条の違いを比較し、『日本書紀』では素朴な伝承になっている事から、『旧辞』でも既に武内宿禰について書かれていたのではないかと思うが、神功皇后紀以降は比較的『日本書紀』の記述に寛容な平林章二氏ですら存在を否定しているので実在性は疑わざるを得ない。

 但し、秋津遺跡の様に、実在性が高い葛城襲津彦以前の葛城氏の遺構と思われるものも発掘されており、主に在野の研究者の説となるが、武内宿禰のモデルが複数実在したという説もある。



葛城円大臣かつらぎつぶらのおほみ

 実在が確認出来る最古の豪族と言われている葛城襲津彦かつらぎそつひこの孫(或いは子とも伝わる)である玉田宿禰たまだのすくねの子。第17代天皇履中天皇から第20代天皇安康迄仕える。

 『日本書紀』履中天皇二年の条では圓大使主と記されており、共に国政にあたった三人と元の資料が違い、氏が記されていない古い表記である事から実在性が高い人物か?

 安康天皇を殺害した眉輪皇子と大泊瀬皇子(後の雄略)に疑われていた黒彦皇子を匿い、大泊瀬皇子と戦い、皇子等と共に焼き殺される。

 極楽寺ヒビキ遺跡では日本書紀の眉輪皇子と円大臣達が焼き殺されたという記述を裏付ける可能性がある遺構が見つかっている。



◇5世紀中頃~6世紀中頃(雄略天皇による独裁政権~大王家混乱期の継体天皇擁立以降)

物部目大連もののべのめのおほむらじ

 『先代旧事本紀』巻五「天孫本紀」によれば饒速日尊11世の孫で、物部伊莒弗連公もののべいこふつむらじきみの第3子。

 第21代天皇雄略に仕える。

 朝日郎討伐などで活躍。他にも目の功績では無いが、吉備下臣前津屋の誅殺など物部の活躍が雄略天皇紀から増えて来る事から、目が創作の人物だとしても、部曲が発達してきた時期と重なり、この頃から物部氏が台頭した可能性は高い。

 背景としては葛城氏・吉備氏と言った有力豪族達による連立政権的な性格から、雄略天皇の代に独裁政権を目指し、大王家に忠誠深い伴造層を重視した可能性がある。

 その中で台頭したのが物部氏と大伴氏であり、両氏の記事が雄略天皇紀前後から急速に増加する。



大伴室屋大連おほとものむろやのおほむらじ

 天忍日命の後裔、道臣命の9世孫か? 但し現代に伝わる大伴氏の諸系譜に混乱が見られるため、どの系譜が正式なものであるのか判断し難い。

 『日本書紀』では第19代天皇允恭から第25代武烈天皇の代まで室屋の名が見られるが、武烈の代の記事は大伴金村のことであるという説が一般的。

 允恭天皇紀で藤原部を定めた事を始め、清寧天皇即位前紀では吉備氏系の星川皇子を征討した事など様々な話が伝えられている。また、直接名がみえないが雄略天皇のライバルである眉輪王、市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこなどを討ったのも大伴氏のサポートがあったと考えられる。

 日本初の独裁政権を築いた雄略天皇だが、室屋に子の清寧天皇を託し、清寧も短命であった事から独裁政権は雄略一代で終わり、以降の王権が不安定な時期に大伴氏が力を伸ばして行った事が推測される。



平群真鳥大臣へぐりまとりのおほおみ

 武内宿禰の子、 平群木菟宿禰の子であると伝わるが世代的に疑わしい。

 第21代天皇雄略から第24代仁賢まで仕える。葛城氏に代わり大臣に就任するが、史実でないと言われている。

 日本の王になろうとしたり、天皇と歌垣で争うなど天皇と比肩する巨大な力を持つ人物として描かれているが、記紀の間で伝承が大きく異なる。

 日本書紀では息子の鮪が影媛という物部氏の娘を犯しており、「一本云」という形で影媛の家、つまり物部麁鹿火の家に宿っていたら殺されたことが伝えられており、物部氏と平群氏が結びついていた可能性も示唆されている。

 真鳥大臣が今わの際に呪いをかけ、敦賀の海の塩だけ忘れて呪われなかった逸話は敦賀の塩が天皇家に献上されていた史実を示し、敦賀の石棚が付設されている古墳が製塩集団と関係があり、平群氏が関わっていたという説があるが、石棚設置が古墳時代末期なので真鳥の時代よりも後世の遺構である。

 又、平群氏の本拠地に真鳥の時代の古墳が無い事から、考古学的に見ると記紀に見られる鮪や真鳥の権勢が怪しい。



巨勢男人大臣こせのおひとのおほおみ

 武内宿禰の子、巨勢小柄宿禰の三男乎利の孫と伝わる。

 第26代継体天皇の時代の大臣。事績は殆ど記されておらず、『古事記』『続日本紀』の記述により、その実在を怪しまれているが、『古事記』の継体天皇条は石井磐井の乱についての記事なので『日本書紀』でも鎮圧に関わっておらず、翌年死亡した男人が載っていないのは当然のことであり、『続日本紀』の記事も「巨勢」が「省部」であったことの誤りを正した事を以て、男人の非実在に結びつけるのは強引すぎると言わざるを得ないと個人的には思う。

 市尾墓山古墳はその造営時期と規模から男人が葬られた遺跡の可能性がある。



物部麁鹿火大連もののべのあらかひのおほむらじ

 『先代旧事本紀』巻五「天孫本紀」によれば饒速日尊14世の孫で、物部麻佐良連公の第1子だが、物部守屋と同じ世代である系譜は疑問を持たれている。

 第25代武烈天皇から第28代宣化天皇まで大連を務める。これまでの大連・大臣の中で最も実在性が高い人物である。但し、この頃に至っても大連が敬称に過ぎないという説もあるが、確たるエビデンスも無いので、この説の提供者がどうやってそんな事を確かめられたのか疑問。

 継体天皇や当時最大の実力者である大伴金村からの信頼も厚く、磐井の乱鎮圧で活躍し、国家の分断を防ぐという偉大な功績を立てた。背景には九州在地の物部氏勢力による助成の可能性が高い。

 また、屯倉(皇室領)の籾を新家連を遣わして運ばせるなど大王家同等の役割を果たした。



大伴金村大連おほとものかねむらのおほむらじ

 大伴室屋の孫。第25代天皇武烈から第29代天皇欽明まで大連を務めるが、『古事記』継体天皇条では大伴金村連と表記され、大連では無かったという説もある。

 平群真鳥討伐を始め、継体天皇擁立でも手腕を振るい、断絶寸前だった大王家の血統を繋いだことで、本日まで続く天皇家の礎を築いた。

 金村の逸話は多数存在し、名代制定の他、屯倉献上に大伴氏が関わる事で国造と小豪族の間の緩衝的な役割を担ったと推定される記事がある。

 天皇4代に渡り、長い間権勢を振るったと思われるが、任那四県の割譲を推し進め、物部尾輿にその失政を責められ失脚する。

 私見だが、金村失脚の原因は、新羅が力をつけて来た事による南朝鮮経営の失敗の他、屯倉となる土地や田部と言った人員の献上を要求された豪族達から強い反発を抱かれており、その受け皿として物部尾輿が対抗勢力として台頭した為かと思う。

 金村失脚後、大伴氏から大連を輩出する事は無かったが、その後も文武に秀でた人物を輩出し続け、古代の日本文化面で大きく寄与するのみならず、最も天皇に寄り添い続け、後裔の伴氏に至るまで長い間栄えた一族でもある。



◇6世紀中頃から6世紀末。(仏教政策による対立の時代。)

物部尾輿大連もののべのおこしのおほむらじ

 『先代旧事本紀』巻五「天孫本紀」によれば饒速日尊13世の孫で、物部荒山連公の第1子。

 第27代天皇安閑から第29代天皇欽明時の大連を務める。

 廬城部連枳莒喩の娘、幡媛という女性に盗まれた首飾りが春日皇后に献上されたため、罪が自分に及ぶのを恐れ、十市部、伊勢国来狭狭・登伊の贄土師部と筑紫国の胆狭山を献上した。

 同じ大連である大伴金村を任那四県割譲の件で責め立て失脚させた後、大臣の蘇我稲目とも仏教政策で対立し、失脚を謀るが、成長著しい蘇我氏の勢力を抑えるには至らなかった。



蘇我稲目大臣そがのいなめのおほおみ

 武内宿禰の子、蘇我石川(宿禰)の4世孫。蘇我高麗の子と伝わる。

 第28代天皇宣化から第29代天皇欽明時の大臣を務める。

 物部麁鹿火大連等と同様に屯倉の穀を運ばせ大王と同等の役割を果たした蘇我氏中興の祖。

 屯倉の開拓、渡来人との結託を通して勢力の拡張、岐多斯比売きたしひめの入内等により大和王権内の発言権を増加したと思われる。

 仏教を取り入れた事で物部尾輿と対立し、その争いは互いの子、蘇我馬子・物部守屋の代にまで続く事になる。



物部守屋大連もののべのもりやのおほむらじ

 『先代旧事本紀』巻五「天孫本紀」によれば饒速日尊14世の孫で、物部尾輿連公の第2子。

 第30代天皇敏達から第31代天皇用明時に仕えた歴史上最後の大連。

 廃仏派に近い立場である敏達天皇の元、仏教に弾圧を加えるが、敏達天皇の死後、穴穗部皇子あなほべのみこに協力し、同じ廃仏派の三輪君逆を殺害する。この事で炊屋姫皇后かしきやひめのきさき(後の推古天皇)と蘇我馬子が穴穂部皇子と対立するきっかけになる。

 崇仏派の用明天皇が即位後、守屋と中臣勝海連は用明天皇の姿勢に反対するが、大夫まへつきみ層から支持を得られず、それらより立場が低い伴造とものみやつこ層からしか支持を得られず孤立化し、逆に蘇我氏側に大伴氏を始め、有力豪族の支持を集める情勢の中、腹心と言える中臣勝海連は裏切った挙句、迹見赤梼とみのいちいに殺される。

 劣勢に立たされる情勢の中、遂に「丁未の乱」では歴代の大連・大臣に名を連ねた大豪族や有力豪族(群卿層)と蘇我氏の連合軍に渋川の邸宅を攻められ、迹見赤梼とみのいちいに射殺される。


 現在の歴史学では物部・蘇我の対立の軸となる崇仏廃仏論争が虚構であるとの説が有力で『日本書紀』の記述が否定されているが、歴史学者等が主に主張の根拠とする渋川廃寺の遺構は奈良時代後半に再建されたものであり、再建前は物部守屋敗死以前の物であるという証明が出来ない。

 地方の物部氏と仏教を結びつける遺構も守屋敗死以降の後世の物である上、守屋第二子と伝わる真福寺創建者である物部真福なる人物も「天孫本紀」に名が見えず、他の伝承では物部片野目なる守屋第二子という別人も伝わる為、実在が疑わしい。

 また、海外でも活動していた物部氏が仏教を知らなかった訳が無いという有力な説にしても、豊臣秀吉のキリスト教に対する態度を思い起こせば理解できるが、知っている事と崇拝する事は全く違うので論外と言える。せいぜい武内宿禰の子孫を称するだけで大した祖神伝承も無い蘇我氏と違い、天孫降臨に匹敵する伝承を有する物部氏が易々と宗旨替えするとは考えられず、自らの優位性を進んで放棄するとは思えない。故に虚構説は杜撰な理論と言わざるを得ない。



◇6世紀末から7世紀半頃(蘇我氏最盛期から滅亡まで)

蘇我馬子大臣そがのうまこのおほおみ

 蘇我稲目の子。

 第30代天皇敏達から第33代天皇推古まで大臣を務める。

 物部守屋が指示していた穴穗部皇子あなほべのみこ宅部皇子やかべのみこを殺害させ、厩戸皇子等と共に物部守屋を攻め滅ぼす。

 崇峻天皇に疎まれ、それを知った馬子が東漢直駒やまとのあやのあたひこまに暗殺させ、駒も馬子に殺される。

 以降、推古朝で暫く政治の表舞台で目立つ活躍は無かったものの、推古二十年あたりから復権。厩戸皇子とともに天皇記・国記の編纂事業を開始、外交や仏教の統制機関創立などで手腕を振るう。

 当時は大王家の直属領であった葛城県を推古天皇に譲るよう願うなど晩年には横暴も見られる。

 評価が極端に分かれる人物だが、仏教文化面で残した功績は大きく、馬子らが編纂を進めていた『国記』は『先代旧事本紀』の「国造本紀」にその面影を残している可能性がある。



蘇我蝦夷大臣そがのえみしのおほおみ蘇我入鹿大臣そがのいるかのおほおみ

 蘇我馬子の子、蝦夷は第33代天皇推古から第35代天皇皇極まで大臣を務める。

 蘇我蝦夷の子、入鹿は第35代に仕え、大臣を自称したと伝えられている。

 祖廟を葛城かづらき高宮たかみやに立てて、八佾やつらの舞を行う。また、舒明天皇と蘇我馬子の娘の間に生まれた古人皇子の擁立を企て、山背大兄皇子を滅ぼした後、甘梼岡あまかしのおか宮門みかどを称した家を建て、子供たちを王子みこと称する等、専横を極めた様子が伝わっており、これらは造作であるとも言われているが、蘇我氏の権勢と政界の不安の情勢を窺う事が出来る。

 

 法興寺(飛鳥寺)の槻樹つきのきもとで蹴鞠が行われた時、中臣鎌子連が中大兄皇子が結託し、蘇我倉山田麻呂そがくらやまだのまろを巻き込んでクーデターを企てられ、皇極天皇四年六月八日、三韓調からひとみつぎ(高句麗・百済・新羅)の調がたてまつられている間に佐伯連子麻呂さへきのむらじこまろ稚犬養連網田わかいぬかひのむらじあみだ等によって入鹿が殺され、蝦夷も殺される(藤氏家伝によれば自害)。



◇まとめ

 以上の様に伝承の時代を除けば、葛城→平群(創作か?)→大伴→物部→蘇我の流れで時の最高権力者が変遷していきましたが、蘇我氏等の物部守屋征伐で大連が無くなり、唯一の最高権力者となった大臣も中臣鎌足等の蘇我氏誅滅で終焉を迎えます。


 大王の子等が時の大連・大臣より目立って活躍した例は日本武尊(但し、実在性は疑われている)か厩戸皇子(晩年は馬子の記事の方が目立ち失脚した可能性もある)ぐらいであり、発言権が強かったと思われる穴穗部皇子あなほべのみこは蘇我馬子に、山背大兄皇子やましろのおおえのおうじは蘇我入鹿により殺されている様に、大連・大臣等は時の皇太子等よりも権力が強かったのかも知れませんが、古代の特徴としてはある氏族が力を持ちすぎると他の氏族により失脚させられているので、あくまで大王を中心とした連立政権の仕組みの中で、パワーバランスを保とうとしていた様子が伺えます。


 蘇我蝦夷・入鹿親子滅亡以降は古代日本の最高権力者の姓を終わらせた中臣鎌足の子孫達が藤原氏を称し、長い間権勢を振るう事になります。

 

 『日本書紀』が天皇中心の史観であることは言うまでもありませんが、そのタイトルどおり国家の遍歴にも重きを置き、基本的に歴代天皇が主人公である『古事記』には名が見られない人物にもよく触れられています。『日本書紀』によれば各時代に有力な大臣・大連が登場し、天皇を支えながら時には天皇を超える権勢を誇り、時の政権を動かしてきました。古代氏族を知ることは古代日本史を理解する事にも繋がりますが、その為には先ずは比較的研究論文の多い、大連・大臣について調べるのが近道なのかと思います。


 物部・蘇我・藤原と言った大豪族の研究書に関しては、在野の方や小説家、宗教家、それに大して学会に研究論文を出しておらず、評価の低い学者(遠やm……ゲホゴホ)が一般人向けに書いたタイトル詐欺のトンデモ本類も多いので注意が必要で、極力歴史学会界隈で著名な専門家が書いたものを確認しましょう。


 古代氏族研究で最もお勧めの書としては雄山閣の「日本古代氏族研究叢書」シリーズがあります。大連と大臣に関しては物部氏と蘇我氏しかありませんが、同時期に活動した別氏族の動向についてもよく触れられており参考になります。(雄山閣さん。紀氏やワニ氏の本があるぐらいだから、せめて大伴氏と葛城氏ぐらい出版してくださいよ。お願います)値が張りますし、研究者向けの内容なので難解かも知れませんが、本格的に古代氏族について調べたい方には推奨します。平林章仁氏はとにかくとして、こちらで散々取り上げた篠川賢氏や加藤謙吉氏の様に眉に唾をつけながら読まないと駄目な場合もありますが、(只、篠川賢氏の『物部氏の研究』第一章の第二節「連」のカバネ成立についての論考は大変優れていると思います。)専門の歴史学者による様々な説を纏めて確認出来るので、便利かと思いますし、お偉い先生方の諸説を疑う事も新たな探求心をくすぐるエネルギーとなります。(私が当エッセイを書き続けるエネルギーは正にこう言った物から得ていました)

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