古代の地政学
大ヒット本『サクッとわかる ビジネス教養 地政学』の古代日本史観へのツッコミ①
最近のウクライナ情勢などもあって俄かに地政学が注目されて来た事からなのか、青山学院大学講師・奥山真司氏の『サクッとわかる ビジネス教養 地政学』(新星出版社)が20万部を超える大ベストセラーになったそうです。
古代史分野では有り得ない部数に感嘆しますが、実際に読んでみると成程解りやすい。内容はトランプ大統領時代が対象で数年前の物とは言え、現状にも通じており、ベストセラーになるのも納得しました。
ですが、惜しむらくは日本の地政学について、特に古代に関する歴史観について疑問に思わざるを得ない点があったので、古代史を取り扱う当エッセイでツッコミを入れる事にしました。
◇本書における要「ランドパワー」と「シーパワー」とは?
先ずは前提知識として「ランドパワー」と「シーパワー」という地政学の基礎的な概念があり、「ランドパワー」とは、ユーラシア大陸にある大陸国家で、ロシアやフランス、ドイツなどが分類されており、「シーパワー」とは国境の多くを海に囲まれた海洋国家のことで、日本やイギリス、大きな島国とみなされるアメリカなどの事を指します。
人類の歴史では、大きな力を持ったランドパワーの国がさらなるパワーを求めて海洋へ進出すると、自らのフィールドを守るシーパワーの国と衝突する、という流れを何度も繰り返しており、大きな国際紛争は常にランドパワーとシーパワーのせめぎ合いであると言います。
また、本書では「ランドパワーとシーパワーは両立出来ない」ことをポイントとして挙げており、古くは、ローマ帝国がランドパワーの大国でしたが、海洋進出をして国力が低下し、崩壊。また、日本の敗戦も太平洋の支配に加え、中国内陸部への進出をもくろみ、シーとランドの両立を目指して失敗したと地政学では考えます。近年でもベトナム戦争でアメリカが撤退したのは、シーパワーの国が大陸内部に進みすぎた為と考えられるとのことで、国際情勢を読み解く際、関係する国がシーパワーかランドパワーのどちらかを考えるのは、非常に重要な考えであると言います。
これは従来からよく言われている「資本主義VS社会主義」「自由主義VS覇権主義」とも違った視点で参考になる考え方だと思います。
◇本書における日本の地政学の歴史
本書において、日本を地政学的に見ると、
①江戸時代後期まではランドパワー国家
②明治~昭和初期は海洋へ進出し、ランドパワーとシーパワーの両立を目指すも失敗
③第二次大戦後、アメリカの傘のもと、大きな力を持つ(シーパワー)
という経緯を述べています。
①に関しては白村江の戦や元寇、朝鮮出兵以外ではほぼ外国との衝突が無く、②は太平洋の覇権を巡ってアメリカと対立し、中国には満州国をつくるなど、海と陸の両方に進出。③は敗戦後、アメリカの同盟国として、一時的に世界でもっとも裕福な国になるなど、勢力を拡大したと、簡潔に書かれています。
◇日本は「白村江の戦い」「元寇」「朝鮮出兵」以外は諸外国との衝突はほぼなかった。という主張の誤り。
本書では江戸時代よりも前、海外との衝突はたったの3回であり、建国以来2500年以上とも言われる歴史のなかで、飛鳥時代の「白村江の戦い」と鎌倉時代の「元寇」、安土桃山時代の豊臣秀吉による「朝鮮出兵」というたったの3回のみという事が書かれています。
地政学的に見ると、島国でありながら内向きのランドパワーの国であったという主張を強調したいのでしょうが、古代史の観点から見れば、これは誤りであると言わざるを得ません。以下に代表的な出来事を取り上げながら白村江の戦い以前から古代日本が「ランドパワーとシーパワー」の両立を目指した国であった事を述べてみたいと思います。
◇記紀や「
白村江の戦いよりも遥か以前、4世紀後半から5世紀初頭に倭人が海を渡り東アジアの強国・高句麗と大規模な戦争が行われた記録があります。
当時の朝鮮半島の情勢について、中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する『
この碑文に関しては、拙稿「広開土王碑文の帝国陸軍捏造説という虚構(激辛注意)」で取り上げた様に、酒匂景信が参謀本部に持ち帰った資料に、広開土王碑の拓本が含まれており、これを酒匂本と言い、この資料を日本在住の韓国・朝鮮人考古学、歴史学者の
◇朝鮮侵攻の理由
倭国が朝鮮半島へ進出した理由ははっきりしませんが、最大の理由として考えられるのは鉄資源の入手かと思われます。鉄は恐らく現代の石油の様な価値があったと思われ、国内では砂鉄など細々とした鉄資源しか入手出来ず、『魏志』東夷伝の韓伝弁辰(任那の前身)条では「國出鐵韓濊倭皆従取之」⑵つまり、「弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊・倭は皆これを取る」と書かれており、弥生時代には既に朝鮮半島から鉄を輸入していました。原始大和王権としては、この鉄資源に対する利権を得る事は他豪族に対してイニシアティブを握り、王権を維持するためにも死活問題だったのかも知れません。
◇新羅と熊襲は大差が無かった。
4世紀頃の倭国が朝鮮半島に進出する力など無いと思われそうですが、新羅や百済は当時九州の半分程度の国土しかなく、つまり当時の熊襲や隼人と同程度の規模でしかありませんでした。以下に当時は熊襲と同程度としか考えられていなかったのかと思われる記述を取り上げます。
⑶『日本書紀』巻八仲哀天皇八年(己卯一九九)九月
秋九月乙亥朔己卯、詔群臣以議討熊襲。時有神託皇后而誨曰、天皇何憂熊襲之不服。是膂完之空國也。豈足擧兵伐乎。愈茲國而有寶國。譬如處女之睩有向津國。〈睩、此云麻用弭枳。〉眼炎之金銀彩色多在其國。是謂栲衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刄、其國必自服矣。復熊襲爲服。其祭之以天皇之御船及穴門直踐立所獻之水田名大田、是等物爲幣也。天皇聞神言有疑之情。便登高岳遥望之、大海曠遠而不見國。於是天皇對神曰、朕周望之、有海無國。豈於大虚有國乎。誰神徒誘朕。復我皇祖諸天皇等盡祭神祇。豈有遺神耶。時神亦託皇后曰、如天津水影、押伏而我所見國、何謂無國、以誹謗我言。其汝王之、如此言而遂不信者、汝不得其國。唯今皇后始之有胎。其子有獲焉。然天皇猶不信、以強撃熊襲。不得勝而還之。
(
⑶解説
仲哀天皇が神の熊襲よりも新羅を服属させよと言うお告げを軽視した為、強引に熊襲を攻めて勝利を得られなかったという話です。無論、内容自体は説話に過ぎませんが、注目すべきは「是謂栲衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刄、其國必自服矣。復熊襲爲服」とあるように新羅と熊襲が並べて語られているのは案外当時のリアルな新羅観だったのではないかと思います。
また、『日本書紀』巻十応神天皇九年四月の記事に武内宿禰に関する讒言として「獨裂筑紫招三韓令朝於己、遂將有天下」、つまり、「筑紫を割って取り、三韓を従わせれば天下を取ることが出来る」と書かれているのは、三韓と筑紫(九州)を従えて、ようやく大和王権と渡り合えると言う事なので、割と現実的な感覚だと思います。
◇『日本書紀』にみられる朝鮮遠征の記述。
⑷『日本書紀』巻九神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)十月
冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯擧浪、海中大魚悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波不勞㯭楫、便到新羅。時隨船潮浪達逮國中。即知、天神地祇悉助歟。新羅王於是戰戰栗栗、厝身無所。則集諸人曰、新羅之建國以來、未甞聞海水凌國。若天運盡之國爲海乎。是言未訖間、船師滿海、旌旗耀日、鼓吹起聲山川悉振。新羅王遥望以爲、非常之兵將滅己國。讋焉失志。乃今醒之曰、吾聞、東有神國、謂日本。亦有聖王、謂天皇。必其國之神兵也。豈可擧兵以距乎、即素旆而自服。素組以面縛。封圖籍、降於王船之前、因以叩頭之曰、從今以後、長與乾坤、伏爲飼部。其不乾船柁而春秋獻馬梳及馬鞭。復不煩海遠、以毎年貢男女之調。則重誓之曰、非東日更出西且除、阿利那禮河返以之逆流、及河石昇爲星辰而、殊闕春秋之朝、怠廢梳鞭之貢、天神地祇共討焉。時或曰、欲誅新羅王。於是皇后曰、初承神教將授金銀之國、又號令三軍曰、勿殺自服。今既獲財國。亦人自降服。殺之不祥、乃解其縛爲飼部、遂入其國中、封重寶府庫、收圖籍文書。即以皇后所杖矛樹於新羅王門、爲後葉之印。故其矛今猶樹于新羅王之門也。爰新羅王波沙寐錦、即以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾羅縑絹、載于八十艘船、令從官軍。是以新羅王常以八十船之調貢于日本國、其是之縁也。於是高麗百濟二國王、聞新羅收圖籍降於日本國、密令伺其軍勢。則知不可勝、自來于營外叩頭而款曰、從今以後、永稱西蕃不絶朝貢。故因以定内官家。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。
(
⑷解説
本文に関しては多くの潤色・虚飾がある事は言うまでもありません。また、歴史学会において神功皇后の実在(例えば西暦661年に新羅征討の為に博多まで出航した斉明天皇の事である等)や応神天皇以前の記紀の記述が否定気味に捉えられている事から、事実ではないとされていましたが、先述した「而倭以幸卯年年来渡海、破百残■■新羅、以為臣民」という広開土王碑の記述があり、広開土王碑文が日本軍人による改竄では無い事がハッキリしている事から、説話的な内容はとにかくとして、少なくても倭国が新羅に攻め入って朝鮮半島南部に影響力を持った事の裏付けにはなるかと思います。
◇中国文献からみた倭国の朝鮮半島への関り
第三国的な立場からみた史料としては中国文献が欠かせませんが、『宋書』『梁書』『南史』などには5世紀頃の倭国が朝鮮半島に対して大きな影響力を有していた事実を反映する記事が見受けられます。所謂「倭の五王」に関する文献で、朝鮮半島進出に関わる資料を見ていきましょう。
⑸『宋書』帝紀・東夷伝(倭国条)
讃死、弟珍立。遣使貢献、自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王、表求除正。詔除安東将軍倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔国将軍号。詔並聴。
(讃死し、弟の
・⑸解説
この記事の以前、倭国王讃が遣使しても中国から称号を授からなかった為、次代の倭国王珍は自ら「使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を称し、使者を遣わしました。しかし、認められず、「安東将軍・倭国王」としました。
鳥越憲三郎氏によるとこれは当然の事で、「使持節」は晋の時代からの官名、「都督」は魏の時代に置かれた官名で、その「都督中外諸軍事」の「中外」とは、そこに領有する地名を挿入するものであったらしく、同じく東夷に属する百済・高句麗の場合、列伝にみる元嘉二年(四二五)の記事では自国の領地を記入しています。
したがって倭国は「使持節・都督倭諸軍事」とすべきであったが、他国の朝鮮半島中・南部の地名を加えていたのは神功皇后の朝鮮遠征があったからなのかも知れないと推測しています。⑹
私も神功本人が遠征したか如何かはとにかくとして、四世紀後半に倭国が朝鮮半島に大々的に進出した事実により、このような文面になった可能性は高いと思います。解説書の類ではこの時、自称した称号が認められなかった事ばかり注目されていますが、『日本書紀』の朝鮮遠征の記述を裏付けるものである可能性についても充分考慮すべきであると思います。
因みに「秦韓」は新羅、「慕韓」は百済の旧国名であり、とっくに国名が代わっていたにも関わらず、古い国名を使った理由は不明です。もしかすると後世、清国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を満州国の皇帝に仕立て上げた様に、秦韓・慕韓時代の旧王族でも取り込んで正当性を訴える腹積もりでもあったのかも知れませんが、想像の域を出ません。
⑺『宋書』帝紀・東夷伝(倭国条)
二十年、倭国王済、遣使奉献。復以為安東将軍倭国王。二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、并除所上二十三人軍郡。
(二十年、倭国王の済、使いを遣わして奉献す。
二十八年、使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事加え、安東将軍は
・⑺解説
元嘉二十年(四四三)倭王珍の後に登場する済は珍と同じく「安東将軍倭国王」しか認められませんでしたが、元嘉二八年、珍が自称したものと共通している「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事」が認められています。
⑸では認められなかった称号が何故か容認されたのは、中国にとって一時期150年も国交が無かった、言わば新参者に近い倭国の影響力を後になってから知ったという事なのでしょうか。
しかし、「六国諸軍事」の中で「百済」は抜け、代わりに「加羅」が入っています。これは百済が以前から中国に朝貢していた為に認められなかったようです。
また、百済に代えて加羅を入れた事に関してもおかしく、鳥越憲三郎氏によると「加羅」と「任那」は同じ国であり、「加羅」は前漢時代から知られた国であり、「任那」はわが国で名付けたものである。使者は上手く誤魔化して追加させ、六国を維持しようとしたのであろう⑻。と推測しています。持論を述べれば、恐らく加羅の中でも倭国の支配領域が「任那」で独立を保っていた地域を「加羅」と呼んでいただけではないかと思います。
⑼『宋書』帝紀・東夷伝(倭国条)
興死、弟武立。自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王。順帝昇明二年、遣使上表曰、封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歲。<中略>
詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王。
(興死し、弟武立つ。自ら使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。
順帝の昇明二年、使いを遣わして
・⑼解説
倭国王興の後、弟の武が倭国王となり、⑺で認められた六国諸軍事に百済を加えた「七国諸軍事」を自称しますが、「安東大将軍」の称号を得られたものの「六国諸軍事」のままで百済を加えた「七国諸軍事」は認められませんでした。
武は通説では雄略天皇と言われており、『日本書紀』では雄略天皇紀八(四六四)年二月の高句麗軍撃破、同九(四六五)年三月の新羅征討、同二十年(四七六)冬の百済の都滅亡に伴い、同二一年(四七七)春三月の百済援助など朝鮮半島に関わる記事が多く見受けられます。
特に二〇年、二一年春の記事が百済を加えた「七国諸軍事」に拘った理由に繋がるかと思うので、該当の記事を取り上げてみます。
(余談ですが、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」は『隋書』倭国伝の「軍尼一百二十人」とほぼ等しく、「軍尼」は「国造」の事であると言う説もあります。つまり、既に雄略朝の頃には推古朝とほぼ同じ支配領域があった事が推測されます。)
⑽『日本書紀』巻十四雄略天皇二十年(丙辰四七六)冬
廿年冬、高麗王大發軍兵、伐盡百濟。爰有少許遺衆、聚居倉下、兵粮既盡、憂泣茲深。於是高麗諸將言於王曰、百濟心許非常。臣毎見之、不覺自失。恐更蔓生。請遂除之。王曰、不可矣。寡人聞、百濟國者、爲日本國之官家、所由來遠久矣。又其王入仕天皇、四隣之所共識也。遂止之。〈百濟記云、蓋鹵王乙卯年冬、狛大軍來攻大城七日七夜、王城降陷。遂失尉禮國。王及大后、王子等皆沒敵手。〉
(
⑾『日本書紀』巻十四雄略天皇二一年(丁巳四七七)三月
廿一年春三月。天皇聞百濟爲高麗所破。以久麻那利賜汶洲王。救興其國。時人皆云。百濟國雖屬既亡聚夏倉下。實頼於天皇。更造其國。〈汶洲王蓋鹵王母弟也。日本舊記云。以久麻那利賜末多王。蓋是誤也。久麻那利者任那國下哆呼唎縣之別邑也。〉
(廿一年春三月、天皇、百濟高麗の爲に破られぬと聞きしめし、
・⑽⑾解説
⑽は高句麗の侵攻で百済の首都が陥落して事実上滅亡した事が描かれています。脚色もあり、高句麗の王が同じ事を言ったとは思えませんが、肝心なのは当時の倭国が百済を「
⑾の
⑾の記事以外にも『日本書紀』巻九神功皇后摂政紀四九年春三月に平定した
(余談ですがNHK BSプレミアムで放送中の『英雄たちの選択』というトンデモ番組の過去の放送で、この頃、雄略が高句麗を恐れて争いを避けたという雄略の選択が出て来ましたが、国内外の文献でその様な記述は一切存在せず、寧ろ雄略天皇紀二三年に高句麗を討った記事がありますが、この記事に対する批判の根拠すら碌に説明せずに雄略が高句麗を恐れたと言う結論に誘導していました。磯野道史氏の話を聞いていると、本筋と関係のないイデオロギー的な権力批判に終始しており、この人は日本書紀すら読んだ事が無いのが分かります。学者を名乗るのであれば例えば「〇〇という文献に××という記述があるが、これに対して近年の考古学的な成果で発掘された□□により、△△が証明された事で××という記述は否定されている」と言った話し方を最低限すべきではないでしょうか? 古代史研究で著名な歴史学者の森公章氏への取材では雄略天皇紀二三年の記事を取り上げ、五百人程度の軍勢は派遣したのではないかという見解でしたが、番組の構成からすると結論ありきで、森氏の意見ですら軽く扱っている感じが拭えませんでした。以降、この番組の視聴を止めました。)
以降、倭国は隋の時代に至るまで中国に朝貢する事がありませんでした。この間の第三国からの客観的文献を挙げると、『梁職貢図』
六世紀以降になると、継体天皇の時代、大伴金村による任那の四県を百済に割譲、そして新羅の国力が次第に上がって来た事により、徐々に朝鮮半島における倭国の影響力が弱まって行き、やがて任那の支配権を失いますが、その後も新羅・百済は倭国に朝貢を行っており、宿敵ともいえる高句麗は隋と敵対関係にあった事から、七世紀初頭の推古朝の頃には仏教などのソフト面を媒介として友好関係になります。当時の情勢については過去の稿の大伴金村や蘇我馬子の記事等で取り上げているので詳細はそちらをご確認ください。
この頃の第三者的立場の有力な文献である『隋書』倭国伝には「新羅百済皆以倭為大国多珍物敬仰之恒通使往来」⒁つまり、「新羅と百済は、倭を大国となし、珍しいものが多く、敬い畏み、常に使節の往来を行っていた」とあり、七世紀に至っても百済・新羅よりも優位に立っていた事を示しています。
この様にある程度朝鮮半島に影響力を保ち続けながらも、七世紀後半に入り、天智二年(六六三)に行われた白村江の戦いで倭国・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れた事で倭国はほぼ朝鮮半島における影響力を失い、地政学的な「ランドパワーとシーパワー」の両立は完全に終焉します。
長くなりましたので、次稿で解りやすく年表に纏めてみます。
◇参考文献
▪『サクッとわかる ビジネス教養 地政学』奥山真司 新星出版社
⑴『史料による日本の歩み 古代編』 関晃・井上光貞・児玉幸多 編 吉川弘文館 21ページ
⑵『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917919/27
⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/87
『日本書紀 : 訓読. 中巻』 黒板勝美 編 岩波文庫
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029096/56
56・57コマ
⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/90
『日本書紀 : 訓読. 中巻』 黒板勝美 編 岩波文庫
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029096/61
⑸『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917919/36
⑹『中国正史 倭人・倭国伝全釈』 鳥越憲三郎 中央公論新書 148~149ページ
⑺『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917919/36
⑻『中国正史 倭人・倭国伝全釈』 鳥越憲三郎 中央公論新書 151ページ
⑼『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917919/36
⑽『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/136
『日本書紀 : 訓読. 中巻』 黒板勝美 編 岩波文庫
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029096/122
⑾『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/136
『日本書紀 : 訓読. 中巻』 黒板勝美 編 岩波文庫
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029096/122
⑿『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 402ページ。
⒀『東アジア世界史と東部ユーラシア世界史 -梁の国際関係・国際秩序・国際意識を中心に-』 鈴木 靖民 専修大学東アジア世界史研究センタ一年報 第6号2012年3月 155ページ
⒁『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917919/59
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