古代の地政学

大ヒット本『サクッとわかる ビジネス教養 地政学』の古代日本史観へのツッコミ①

 最近のウクライナ情勢などもあって俄かに地政学が注目されて来た事からなのか、青山学院大学講師・奥山真司氏の『サクッとわかる ビジネス教養 地政学』(新星出版社)が20万部を超える大ベストセラーになったそうです。


 古代史分野では有り得ない部数に感嘆しますが、実際に読んでみると成程解りやすい。内容はトランプ大統領時代が対象で数年前の物とは言え、現状にも通じており、ベストセラーになるのも納得しました。


 ですが、惜しむらくは日本の地政学について、特に古代に関する歴史観について疑問に思わざるを得ない点があったので、古代史を取り扱う当エッセイでツッコミを入れる事にしました。


◇本書における要「ランドパワー」と「シーパワー」とは?

 先ずは前提知識として「ランドパワー」と「シーパワー」という地政学の基礎的な概念があり、「ランドパワー」とは、ユーラシア大陸にある大陸国家で、ロシアやフランス、ドイツなどが分類されており、「シーパワー」とは国境の多くを海に囲まれた海洋国家のことで、日本やイギリス、大きな島国とみなされるアメリカなどの事を指します。


 人類の歴史では、大きな力を持ったランドパワーの国がさらなるパワーを求めて海洋へ進出すると、自らのフィールドを守るシーパワーの国と衝突する、という流れを何度も繰り返しており、大きな国際紛争は常にランドパワーとシーパワーのせめぎ合いであると言います。


 また、本書では「ランドパワーとシーパワーは両立出来ない」ことをポイントとして挙げており、古くは、ローマ帝国がランドパワーの大国でしたが、海洋進出をして国力が低下し、崩壊。また、日本の敗戦も太平洋の支配に加え、中国内陸部への進出をもくろみ、シーとランドの両立を目指して失敗したと地政学では考えます。近年でもベトナム戦争でアメリカが撤退したのは、シーパワーの国が大陸内部に進みすぎた為と考えられるとのことで、国際情勢を読み解く際、関係する国がシーパワーかランドパワーのどちらかを考えるのは、非常に重要な考えであると言います。


 これは従来からよく言われている「資本主義VS社会主義」「自由主義VS覇権主義」とも違った視点で参考になる考え方だと思います。



◇本書における日本の地政学の歴史

 本書において、日本を地政学的に見ると、


①江戸時代後期まではランドパワー国家

②明治~昭和初期は海洋へ進出し、ランドパワーとシーパワーの両立を目指すも失敗

③第二次大戦後、アメリカの傘のもと、大きな力を持つ(シーパワー)

 という経緯を述べています。


 ①に関しては白村江の戦や元寇、朝鮮出兵以外ではほぼ外国との衝突が無く、②は太平洋の覇権を巡ってアメリカと対立し、中国には満州国をつくるなど、海と陸の両方に進出。③は敗戦後、アメリカの同盟国として、一時的に世界でもっとも裕福な国になるなど、勢力を拡大したと、簡潔に書かれています。



◇日本は「白村江の戦い」「元寇」「朝鮮出兵」以外は諸外国との衝突はほぼなかった。という主張の誤り。


 本書では江戸時代よりも前、海外との衝突はたったの3回であり、建国以来2500年以上とも言われる歴史のなかで、飛鳥時代の「白村江の戦い」と鎌倉時代の「元寇」、安土桃山時代の豊臣秀吉による「朝鮮出兵」というたったの3回のみという事が書かれています。


 地政学的に見ると、島国でありながら内向きのランドパワーの国であったという主張を強調したいのでしょうが、古代史の観点から見れば、これは誤りであると言わざるを得ません。以下に代表的な出来事を取り上げながら白村江の戦い以前から古代日本が「ランドパワーとシーパワー」の両立を目指した国であった事を述べてみたいと思います。



◇記紀や「広開土王好太王碑」にもみられる古代日本(倭国)の海外進出。

 白村江の戦いよりも遥か以前、4世紀後半から5世紀初頭に倭人が海を渡り東アジアの強国・高句麗と大規模な戦争が行われた記録があります。


 当時の朝鮮半島の情勢について、中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する『広開土王好太王碑文』では「而倭以幸卯年年来渡海、破百残■■新羅、以為臣民」⑴と、倭国が海を渡り百済と新羅を破り、属国とした事が書かれています。


 この碑文に関しては、拙稿「広開土王碑文の帝国陸軍捏造説という虚構(激辛注意)」で取り上げた様に、酒匂景信が参謀本部に持ち帰った資料に、広開土王碑の拓本が含まれており、これを酒匂本と言い、この資料を日本在住の韓国・朝鮮人考古学、歴史学者の李進熙イジニが、1970年代に大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えましたが、2005年と2006年に中国で発見された酒匂本以前の拓本と酒匂本が一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は完全に否定された事は過去の稿で述べましたが、記紀にも神功皇后の時代辺りから朝鮮半島への進出する記事が登場し、旧辞的な描写はとにかくとして、少なくても倭国が朝鮮半島へ進出して大きな影響力を持ったことは史実とみて良いかと思います。


◇朝鮮侵攻の理由

 倭国が朝鮮半島へ進出した理由ははっきりしませんが、最大の理由として考えられるのは鉄資源の入手かと思われます。鉄は恐らく現代の石油の様な価値があったと思われ、国内では砂鉄など細々とした鉄資源しか入手出来ず、『魏志』東夷伝の韓伝弁辰(任那の前身)条では「國出鐵韓濊倭皆従取之」⑵つまり、「弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊・倭は皆これを取る」と書かれており、弥生時代には既に朝鮮半島から鉄を輸入していました。原始大和王権としては、この鉄資源に対する利権を得る事は他豪族に対してイニシアティブを握り、王権を維持するためにも死活問題だったのかも知れません。



◇新羅と熊襲は大差が無かった。

 4世紀頃の倭国が朝鮮半島に進出する力など無いと思われそうですが、新羅や百済は当時九州の半分程度の国土しかなく、つまり当時の熊襲や隼人と同程度の規模でしかありませんでした。以下に当時は熊襲と同程度としか考えられていなかったのかと思われる記述を取り上げます。



⑶『日本書紀』巻八仲哀天皇八年(己卯一九九)九月 己卯五日

秋九月乙亥朔己卯、詔群臣以議討熊襲。時有神託皇后而誨曰、天皇何憂熊襲之不服。是膂完之空國也。豈足擧兵伐乎。愈茲國而有寶國。譬如處女之睩有向津國。〈睩、此云麻用弭枳。〉眼炎之金銀彩色多在其國。是謂栲衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刄、其國必自服矣。復熊襲爲服。其祭之以天皇之御船及穴門直踐立所獻之水田名大田、是等物爲幣也。天皇聞神言有疑之情。便登高岳遥望之、大海曠遠而不見國。於是天皇對神曰、朕周望之、有海無國。豈於大虚有國乎。誰神徒誘朕。復我皇祖諸天皇等盡祭神祇。豈有遺神耶。時神亦託皇后曰、如天津水影、押伏而我所見國、何謂無國、以誹謗我言。其汝王之、如此言而遂不信者、汝不得其國。唯今皇后始之有胎。其子有獲焉。然天皇猶不信、以強撃熊襲。不得勝而還之。


秋九月あきながつきの乙亥きのとのゐのついたち己卯つちのとのうのひ群臣まへつきみたちみことのりして以て熊襲を討つことをはからしめたまふ。時に神 して皇后きさきかかりてをしへまつりて曰く、「天皇すめらみこと何ぞ熊襲のまつろはざることを憂ひたまふ。是れ膂完そしし空國むなしくにぞ。あにいくさを擧げて伐つに足らむや。茲の國にまさりてたから國有り。たとへば処女をとめまよびきの如くて向津むかつ國に有り。〈睩、此をマヨビキと云ふ。〉炎耀かがや金銀こがねしろがね彩色多うるはしきいろに其の國に在り。是を栲衾たくぶすま新羅國しらきのくにと謂ふ。若し能く吾を祭りたまはば、則ちかつやきはに血ぬらずして、其の國 ふつおのまつろひなむ。た熊襲もまつろひなむ。其の祭には天皇すめらみこと御船みふね及び穴門直あなとのあたひ踐立ほむたちの獻れる水田みた名は大田おほたといふ、是等の物を以て爲幣まひなひたまへ」。天皇神のみことを聞きてうたがひ情有みこころまします。便すなはち高きをかに登りてはるかおせりたまふに、大海おほみひろく遠くして國も見えず。是に天皇神にこたへまつりて曰く、「われ周望みめぐらすに、海のみ有りて國無し。あに大虚おほぞらに國有らむや。なにの神のいたづらに朕をあざむきたまふ。た我が皇祖みおやもろもろの天皇すめらみこと等盡たち神祇あまつかみくにつかみいはひたてまつりたまふ。あにのこれる神 らむや」。時に神 また皇后きさきかかりて曰く、「天津あまつ水影みかげの如く、押伏おしふして我が見る所の國を、何ぞ國無しとのたまひて、以てこと誹謗そしりたまふ。其れ汝王いましみこと、かくのたまひて遂にけたまはずば、いまし其の國を得たまはじ。ただし今皇后始めて有胎はらみませり。其のみこ獲たまふことあらむ」。しかれども天皇すめらみことなほけたまはずして、以てあながちに熊襲を撃ちたまふ。え勝ちたまはでかへります。)


⑶解説

 仲哀天皇が神の熊襲よりも新羅を服属させよと言うお告げを軽視した為、強引に熊襲を攻めて勝利を得られなかったという話です。無論、内容自体は説話に過ぎませんが、注目すべきは「是謂栲衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刄、其國必自服矣。復熊襲爲服」とあるように新羅と熊襲が並べて語られているのは案外当時のリアルな新羅観だったのではないかと思います。


 また、『日本書紀』巻十応神天皇九年四月の記事に武内宿禰に関する讒言として「獨裂筑紫招三韓令朝於己、遂將有天下」、つまり、「筑紫を割って取り、三韓を従わせれば天下を取ることが出来る」と書かれているのは、三韓と筑紫(九州)を従えて、ようやく大和王権と渡り合えると言う事なので、割と現実的な感覚だと思います。



◇『日本書紀』にみられる朝鮮遠征の記述。


⑷『日本書紀』巻九神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)十月 辛丑三日

冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯擧浪、海中大魚悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波不勞㯭楫、便到新羅。時隨船潮浪達逮國中。即知、天神地祇悉助歟。新羅王於是戰戰栗栗、厝身無所。則集諸人曰、新羅之建國以來、未甞聞海水凌國。若天運盡之國爲海乎。是言未訖間、船師滿海、旌旗耀日、鼓吹起聲山川悉振。新羅王遥望以爲、非常之兵將滅己國。讋焉失志。乃今醒之曰、吾聞、東有神國、謂日本。亦有聖王、謂天皇。必其國之神兵也。豈可擧兵以距乎、即素旆而自服。素組以面縛。封圖籍、降於王船之前、因以叩頭之曰、從今以後、長與乾坤、伏爲飼部。其不乾船柁而春秋獻馬梳及馬鞭。復不煩海遠、以毎年貢男女之調。則重誓之曰、非東日更出西且除、阿利那禮河返以之逆流、及河石昇爲星辰而、殊闕春秋之朝、怠廢梳鞭之貢、天神地祇共討焉。時或曰、欲誅新羅王。於是皇后曰、初承神教將授金銀之國、又號令三軍曰、勿殺自服。今既獲財國。亦人自降服。殺之不祥、乃解其縛爲飼部、遂入其國中、封重寶府庫、收圖籍文書。即以皇后所杖矛樹於新羅王門、爲後葉之印。故其矛今猶樹于新羅王之門也。爰新羅王波沙寐錦、即以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾羅縑絹、載于八十艘船、令從官軍。是以新羅王常以八十船之調貢于日本國、其是之縁也。於是高麗百濟二國王、聞新羅收圖籍降於日本國、密令伺其軍勢。則知不可勝、自來于營外叩頭而款曰、從今以後、永稱西蕃不絶朝貢。故因以定内官家。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。


冬十月ふゆかむなづきの己亥つちのとのゐのついたち辛丑かのとのうしのひ和珥津わにのつよりちたまふ。時に飛廉かぜのかみ風を起し、陽侯うみのかみ浪を擧げ、海中うみのなか大魚おほいをことごとくに浮びて船をたすく。則ち大風おほきなるかぜおひかぜに吹きて、帆舶ほつむ波のまにまに㯭楫かぢかいいたつはず、便ち新羅に到る。時に隨船潮浪ふななみ達く國中にちぬ。「即ち知る、天神地祇あまつかみくにつかみことごとくに助けたまふか。」新羅王しらきのこきし是に戰戰栗栗おぢわななきて厝身無所せむすべしらず。則ち諸人もろもろのひとつどへて曰く、「新羅の國を建てしより以來このかた、未だ甞て海水うしほ國にのごることを聞かず。若し天運よのかぎりきて國海と爲るか。是の言未こといまをはらざる間に、船師ふないくさ海に滿ちて、旌旗みはた日に耀き、鼓吹つづみふゑこゑを起して山川 ことごとくに振ふ。新羅 こきし遥に望みて以爲おもへらく、非常おもひのほかつはもの將に己が國を滅さむとす。讋焉おぢて失志こころまどひぬ。乃今いましめて曰く、「吾れ聞く、東に神國かみのくに有り、日本やまとと謂ふ。また聖王ひじりのきみ有り、天皇すめらみことと謂ふ。必ず其の國の神兵みいくさならむ。豈兵あにいくさを擧げて以てふせぐべけむといひて、即ち素旆しろきはたあげて自らまつろひぬ。素組しろきつなして以て面縛みづからとらはる。圖籍しるしへふむだゆひかため、王船みふねの前に降りて、因りて以て叩頭みて曰さく、「今より以後、長く乾坤あめつちともに、したがひて飼部うまかひと爲らむ。其れ船柁ふねかぢさずして春秋はるあき馬梳うまぐし及び馬鞭うまのむちたてまつらむ。復た海の遠きにいたつかずして、以て年毎としごと男女をとこをみな調みつぎたてまつらむ」。則ち重ねて誓ひて曰く、東にいづる日更に西より出づるはしばらく、阿利那禮ありなれ河のかへりて以てさかさまに流れ、及び河の石の昇りて星辰あまつみかぼしに爲るに非ずして、こと春秋はるあきゐやき、怠りて梳鞭くしむちみつぎめば、天神地祇あまつかみくにつかみ共につみなへたまへとまをす。時に或ひとの曰く、新羅王しらぎのこきしころさむと欲ふ。是に皇后きさき曰く、「初め神のみことけて將に金銀こがねしろかねの國を授からむとし、又三軍またみたむろのいくさ號令のりことして曰く、「自服まつろはむをな殺しそと」。今既にたからの國をつ。亦人 自降服まつろひしたがひぬ。之を殺すは不祥さがなしとのたまひて、乃ち其のゆはひつなを解きて飼部みむまかひと爲し、遂に其の國の中に入りまして、重寶府庫たからのくらゆひかため、圖籍文書しるしのふみとりをさめたまふ。即ち皇后きさきけるみほこを以て新羅王の門に樹てて、後葉のちのよしるしと爲す。故れ其のみほこ今猶いまなほ新羅王しらきのこきしかどてり。ここ新羅王しらきのこきし波沙寐錦はさむきむ、即ち微叱己知波珍干岐みしこちはとりかむきを以てむはかりて、仍りてこがねしろがね彩色うるはしきいろ及び綾羅縑絹あやうすはたかとりのきぬもたらし、八十艘船やそかはらに載せいれて、官軍みいくさに從はしむ。是を以て新羅王しらきのこきし常に八十やそ船の調みつきを以て日本國わがみかどたてまつる、其れ是のことのもとなり。是に高麗百濟こまくだらふたつのくにのこきし新羅しらき圖籍しるしへふむたとりをさめ、日本國に降りぬと聞き、密に其の軍勢みいくさのいきほひうかがはしむ。則ち不可勝えかつまじきことを知り、みづかいほりのほかに來りて叩頭みてまをして曰く、「今より以後のち、永く西蕃にしのみやつこくにひつつ朝貢みつぎたてまつることを絶たじ」。故れ因りて以て内官家うちのみやけを定む。是れ所謂いはゆる三韓みつのからくになり。皇后新羅よりかへりたまふ。)


⑷解説

 本文に関しては多くの潤色・虚飾がある事は言うまでもありません。また、歴史学会において神功皇后の実在(例えば西暦661年に新羅征討の為に博多まで出航した斉明天皇の事である等)や応神天皇以前の記紀の記述が否定気味に捉えられている事から、事実ではないとされていましたが、先述した「而倭以幸卯年年来渡海、破百残■■新羅、以為臣民」という広開土王碑の記述があり、広開土王碑文が日本軍人による改竄では無い事がハッキリしている事から、説話的な内容はとにかくとして、少なくても倭国が新羅に攻め入って朝鮮半島南部に影響力を持った事の裏付けにはなるかと思います。



◇中国文献からみた倭国の朝鮮半島への関り

 第三国的な立場からみた史料としては中国文献が欠かせませんが、『宋書』『梁書』『南史』などには5世紀頃の倭国が朝鮮半島に対して大きな影響力を有していた事実を反映する記事が見受けられます。所謂「倭の五王」に関する文献で、朝鮮半島進出に関わる資料を見ていきましょう。


⑸『宋書』帝紀・東夷伝(倭国条)

讃死、弟珍立。遣使貢献、自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王、表求除正。詔除安東将軍倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔国将軍号。詔並聴。


(讃死し、弟のちん立つ。使いを遣わし貢献し、自ら使持節しじせつ都督ととく倭・百済・新羅・任那・秦韓しんかん慕韓ぼかん六国諸軍事・安東あんとう大将軍・倭国王と称し、ふみにて除正じょせいを求む。みことのりして安東将軍・倭国王に除す。珍また倭隋等十三人を平西へいせい征虜せいりょ冠軍かんぐん輔国ほこくの将軍の号に除正せられんことを求む。詔して並聴みなゆるす。)


・⑸解説

 この記事の以前、倭国王讃が遣使しても中国から称号を授からなかった為、次代の倭国王珍は自ら「使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を称し、使者を遣わしました。しかし、認められず、「安東将軍・倭国王」としました。


 鳥越憲三郎氏によるとこれは当然の事で、「使持節」は晋の時代からの官名、「都督」は魏の時代に置かれた官名で、その「都督中外諸軍事」の「中外」とは、そこに領有する地名を挿入するものであったらしく、同じく東夷に属する百済・高句麗の場合、列伝にみる元嘉二年(四二五)の記事では自国の領地を記入しています。


 したがって倭国は「使持節・都督倭諸軍事」とすべきであったが、他国の朝鮮半島中・南部の地名を加えていたのは神功皇后の朝鮮遠征があったからなのかも知れないと推測しています。⑹


 私も神功本人が遠征したか如何かはとにかくとして、四世紀後半に倭国が朝鮮半島に大々的に進出した事実により、このような文面になった可能性は高いと思います。解説書の類ではこの時、自称した称号が認められなかった事ばかり注目されていますが、『日本書紀』の朝鮮遠征の記述を裏付けるものである可能性についても充分考慮すべきであると思います。


 因みに「秦韓」は新羅、「慕韓」は百済の旧国名であり、とっくに国名が代わっていたにも関わらず、古い国名を使った理由は不明です。もしかすると後世、清国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を満州国の皇帝に仕立て上げた様に、秦韓・慕韓時代の旧王族でも取り込んで正当性を訴える腹積もりでもあったのかも知れませんが、想像の域を出ません。



⑺『宋書』帝紀・東夷伝(倭国条)

二十年、倭国王済、遣使奉献。復以為安東将軍倭国王。二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、并除所上二十三人軍郡。


(二十年、倭国王の済、使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍・倭国王となす。

二十八年、使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事加え、安東将軍はもとの如く、ならびたてまつる所の二十三人を軍・郡に除す。)


・⑺解説

 元嘉二十年(四四三)倭王珍の後に登場する済は珍と同じく「安東将軍倭国王」しか認められませんでしたが、元嘉二八年、珍が自称したものと共通している「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事」が認められています。


 ⑸では認められなかった称号が何故か容認されたのは、中国にとって一時期150年も国交が無かった、言わば新参者に近い倭国の影響力を後になってから知ったという事なのでしょうか。


 しかし、「六国諸軍事」の中で「百済」は抜け、代わりに「加羅」が入っています。これは百済が以前から中国に朝貢していた為に認められなかったようです。


 また、百済に代えて加羅を入れた事に関してもおかしく、鳥越憲三郎氏によると「加羅」と「任那」は同じ国であり、「加羅」は前漢時代から知られた国であり、「任那」はわが国で名付けたものである。使者は上手く誤魔化して追加させ、六国を維持しようとしたのであろう⑻。と推測しています。持論を述べれば、恐らく加羅の中でも倭国の支配領域が「任那」で独立を保っていた地域を「加羅」と呼んでいただけではないかと思います。



⑼『宋書』帝紀・東夷伝(倭国条)

興死、弟武立。自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王。順帝昇明二年、遣使上表曰、封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歲。<中略>

詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王。


(興死し、弟武立つ。自ら使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。

順帝の昇明二年、使いを遣わしてふみたてまつりていはく、「封国ほうこく偏遠へんえんにして、藩を外に作る。昔より祖禰そでいみずか甲冑かっちゅうけて、山川を跋渉ばっしょうし、寧処ねいしょいとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷しゅういふくすること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国、王道は融泰ゆうたいし、土をひろげ畿をはるかにし、累葉朝宗るいようちょうそうにして、歳をたがえず。<中略>」

みことのりして武を使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す。)


・⑼解説

 倭国王興の後、弟の武が倭国王となり、⑺で認められた六国諸軍事に百済を加えた「七国諸軍事」を自称しますが、「安東大将軍」の称号を得られたものの「六国諸軍事」のままで百済を加えた「七国諸軍事」は認められませんでした。


 武は通説では雄略天皇と言われており、『日本書紀』では雄略天皇紀八(四六四)年二月の高句麗軍撃破、同九(四六五)年三月の新羅征討、同二十年(四七六)冬の百済の都滅亡に伴い、同二一年(四七七)春三月の百済援助など朝鮮半島に関わる記事が多く見受けられます。


 特に二〇年、二一年春の記事が百済を加えた「七国諸軍事」に拘った理由に繋がるかと思うので、該当の記事を取り上げてみます。


(余談ですが、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」は『隋書』倭国伝の「軍尼一百二十人」とほぼ等しく、「軍尼」は「国造」の事であると言う説もあります。つまり、既に雄略朝の頃には推古朝とほぼ同じ支配領域があった事が推測されます。)


⑽『日本書紀』巻十四雄略天皇二十年(丙辰四七六)冬

廿年冬、高麗王大發軍兵、伐盡百濟。爰有少許遺衆、聚居倉下、兵粮既盡、憂泣茲深。於是高麗諸將言於王曰、百濟心許非常。臣毎見之、不覺自失。恐更蔓生。請遂除之。王曰、不可矣。寡人聞、百濟國者、爲日本國之官家、所由來遠久矣。又其王入仕天皇、四隣之所共識也。遂止之。〈百濟記云、蓋鹵王乙卯年冬、狛大軍來攻大城七日七夜、王城降陷。遂失尉禮國。王及大后、王子等皆沒敵手。〉


廿二十年冬、高麗王こまのこきしおほき軍兵いくさおこして、ちて百濟をほろぼす。ここ少許すこしばかり遺衆のこりのともがら有りて、倉下へすおと聚居いはみをり、兵粮かて既にきて、憂泣いさつることここに深し。是に於て高麗の諸將もろもろのいくさのきみこにきしに言ひて曰く、「百濟の心許こころばへ非常あやし。臣毎に見るに、自ら失はむことを覺えず。恐らくは蔓生むまはりなむか。こひねがおひはらはむ」。こにきし曰く、「不可矣よくもあらず寡人おのれ聞く、百濟國は、日本國の官家みやけとて、所由來遠久ありくることひさし。又其の王入りて天皇に仕ふること、四隣よもの共にる所なり」。つひに之を止めき。〈百濟記に云ふ、蓋鹵王こふろわうの乙卯きのとのうのとし年の冬、こま大軍いくさ來りて大城こにさしを攻むること七日七夜、こきしのさしる。遂に尉禮くたら國を失ふ。こきし及び大后こにおくる王子せしむ等皆らみなあたの手にしぬ。〉)




⑾『日本書紀』巻十四雄略天皇二一年(丁巳四七七)三月

廿一年春三月。天皇聞百濟爲高麗所破。以久麻那利賜汶洲王。救興其國。時人皆云。百濟國雖屬既亡聚夏倉下。實頼於天皇。更造其國。〈汶洲王蓋鹵王母弟也。日本舊記云。以久麻那利賜末多王。蓋是誤也。久麻那利者任那國下哆呼唎縣之別邑也。〉


(廿一年春三月、天皇、百濟高麗の爲に破られぬと聞きしめし、久麻那利くまなりを以て汶洲もむすわうに賜ひて、其の國を救ひ興つ。時人ときのひと皆云ふ、百濟國、屬既やからに亡びて、倉下へすおといはみ憂ふといへども、まこと天皇すめらみことのみたまのふゆりて、更に其の國をしきと。〈汶洲王もむすわう蓋鹵王かふろわう母弟ははのはらからなり。日本舊記にほんくきに云ふ、久麻那利くまなりを以て末多まつた王に賜ふ。けだし是れ誤なり。久麻那利くまなり任那國みまなのくにの下哆呼唎あるしたこりこほり別邑わかれのむらなり。〉)


・⑽⑾解説

 ⑽は高句麗の侵攻で百済の首都が陥落して事実上滅亡した事が描かれています。脚色もあり、高句麗の王が同じ事を言ったとは思えませんが、肝心なのは当時の倭国が百済を「官家みやけ」と認識していた記述です。「官家」とは日本に対する貢納国の意味で用いられており、朝廷直轄領の「屯倉みやけ」と区別するために南朝鮮諸国のミヤケに「官家」を当てていたという説があります⑿。これが倭国が認識だとすれば諸国軍事に百済を追加する事に執着を見せていた理由の証左となります。


 ⑾の久麻那利くまなりは韓国の忠清南道公州の古称、熊津くまなりの地を指すと言われており、亡国の憂き目にあった百済はこの地を分け与える事で百済は復興します。(『三国史記』巻二十五百済本記第四によれば蓋鹵在位二十一年(四七五)、高句麗が一万の兵で侵攻して漢城を包囲し、城を破り王を殺した事と、十月に熊津に都を移した事が書かれています。)


 ⑾の記事以外にも『日本書紀』巻九神功皇后摂政紀四九年春三月に平定した忱彌多禮とむたれ(耽羅=済州島)を百済に譲ったり、同書巻十七継体天皇六年冬十二月に大伴金村等の意見で任那の地を百済に割譲するなど、百済に南朝鮮における倭国の支配地をしばしば割譲することがありましたが、倭国側の狙いとしては百済に恩を売るだけでなく、緩衝地を設ける事で高句麗との直接対決を避ける意図があったのかも知れません。百済がこの事で倭国に大きな借りを作り、倭国からすれば百済を支配下とまで言わなくても大きな影響力を持ったと思われますが、更に諸国軍事に百済を加える事で、実効支配を目論んでいたのかも知れません。ですが、以前から百済の朝貢を受けていた宋はこれを認める事はありませんでした。


(余談ですがNHK BSプレミアムで放送中の『英雄たちの選択』というトンデモ番組の過去の放送で、この頃、雄略が高句麗を恐れて争いを避けたという雄略の選択が出て来ましたが、国内外の文献でその様な記述は一切存在せず、寧ろ雄略天皇紀二三年に高句麗を討った記事がありますが、この記事に対する批判の根拠すら碌に説明せずに雄略が高句麗を恐れたと言う結論に誘導していました。磯野道史氏の話を聞いていると、本筋と関係のないイデオロギー的な権力批判に終始しており、この人は日本書紀すら読んだ事が無いのが分かります。学者を名乗るのであれば例えば「〇〇という文献に××という記述があるが、これに対して近年の考古学的な成果で発掘された□□により、△△が証明された事で××という記述は否定されている」と言った話し方を最低限すべきではないでしょうか? 古代史研究で著名な歴史学者の森公章氏への取材では雄略天皇紀二三年の記事を取り上げ、五百人程度の軍勢は派遣したのではないかという見解でしたが、番組の構成からすると結論ありきで、森氏の意見ですら軽く扱っている感じが拭えませんでした。以降、この番組の視聴を止めました。)


 以降、倭国は隋の時代に至るまで中国に朝貢する事がありませんでした。この間の第三国からの客観的文献を挙げると、『梁職貢図』斯羅新羅国条に「或属韓、 或属倭園」⒀と書かれており、新羅が倭国の支配下である時期があった事を示唆しています。


 六世紀以降になると、継体天皇の時代、大伴金村による任那の四県を百済に割譲、そして新羅の国力が次第に上がって来た事により、徐々に朝鮮半島における倭国の影響力が弱まって行き、やがて任那の支配権を失いますが、その後も新羅・百済は倭国に朝貢を行っており、宿敵ともいえる高句麗は隋と敵対関係にあった事から、七世紀初頭の推古朝の頃には仏教などのソフト面を媒介として友好関係になります。当時の情勢については過去の稿の大伴金村や蘇我馬子の記事等で取り上げているので詳細はそちらをご確認ください。


 この頃の第三者的立場の有力な文献である『隋書』倭国伝には「新羅百済皆以倭為大国多珍物敬仰之恒通使往来」⒁つまり、「新羅と百済は、倭を大国となし、珍しいものが多く、敬い畏み、常に使節の往来を行っていた」とあり、七世紀に至っても百済・新羅よりも優位に立っていた事を示しています。


 この様にある程度朝鮮半島に影響力を保ち続けながらも、七世紀後半に入り、天智二年(六六三)に行われた白村江の戦いで倭国・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れた事で倭国はほぼ朝鮮半島における影響力を失い、地政学的な「ランドパワーとシーパワー」の両立は完全に終焉します。


 長くなりましたので、次稿で解りやすく年表に纏めてみます。



◇参考文献

▪『サクッとわかる ビジネス教養 地政学』奥山真司 新星出版社


⑴『史料による日本の歩み 古代編』 関晃・井上光貞・児玉幸多 編 吉川弘文館 21ページ


⑵『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917919/27


⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/87

『日本書紀 : 訓読. 中巻』 黒板勝美 編 岩波文庫

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029096/56

56・57コマ


⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/90

『日本書紀 : 訓読. 中巻』 黒板勝美 編 岩波文庫

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029096/61


⑸『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917919/36


⑹『中国正史 倭人・倭国伝全釈』 鳥越憲三郎 中央公論新書 148~149ページ


⑺『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917919/36


⑻『中国正史 倭人・倭国伝全釈』 鳥越憲三郎 中央公論新書 151ページ


⑼『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917919/36


⑽『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/136

『日本書紀 : 訓読. 中巻』 黒板勝美 編 岩波文庫

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029096/122


⑾『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/136

『日本書紀 : 訓読. 中巻』 黒板勝美 編 岩波文庫

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029096/122


⑿『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 402ページ。


⒀『東アジア世界史と東部ユーラシア世界史 -梁の国際関係・国際秩序・国際意識を中心に-』 鈴木 靖民 専修大学東アジア世界史研究センタ一年報 第6号2012年3月 155ページ


⒁『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917919/59

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