小ネタ 怨霊となった蘇我入鹿?(たまには在野の研究者を斬ってみた)

 「臣不知罪オレ、何か悪い事したっけ?」と言いながら殺されてしまった蘇我入鹿ですが、『日本書紀』のある記事を基に、後世彼の祟りの話が伝わっています。以下にその内容を見ていきます。


⑴『日本書紀』巻二六斉明天皇元年(六五五)五月庚午朔

夏五月庚午朔、空中有乘龍者、貌、似唐人、著青油笠、而自葛城嶺馳、隱膽駒山、及至午時、從於住吉松嶺之上西向馳去。

夏五月庚午朔なつさつきのかのえうまのついたちのひおほそらの中にたつに乘れる者有り、かたち唐人もろこしびとに似たり、青き油笠あぶらぎぬのかさて、葛城嶺かつらぎのたけよりせて、膽駒山いこまやまに隱る、うまの時に及至いたりて、住吉の松のいただきの上より西に向ひて馳せぬ。)


⑴概略

 夏五月一日、空中に龍に乗る者が現れた。容貌は、唐人もろこしびとに似ている。青い油塗りの雨衣を着て、葛城嶺かつらぎのたけからかけて、膽駒山いこまやまに隠れた。正午前後に至って、住吉の松嶺まつのみね(大阪府)の上から西に向かって駆け去った。


⑴解説

 戸谷学氏によれば、「これを入鹿の怨霊と巷で考えられていたようで、笠で顔を隠す者は「鬼」であるという思想とも関わっているのであろう。入鹿が斬られ皇極天皇(斉明天皇)に向かって「私に何の罪があるのか」(補足。原文:臣不知罪)と叫んだ時に天皇が狼狽してすぐに引っ込んでしまい、助けようともしない天皇を見て、入鹿は、天皇が承知した上で実行されたものと思ったに違いない。」⑵と述べられています。


 『扶桑略記』によれば斉明天皇条に「七年辛酉夏。群臣卒爾多死。時人云。豊浦大臣霊魂之所爲也」⑶、つまり「群臣が多く死に、時の人は豊浦(蘇我入鹿)大臣の霊のしわざであると噂した」と書かれています。



◇戸谷氏の説の欠落。


 上記の話を補足すると、⑴の記事との関係を思わせる記事も天皇崩御後に見られます。


⑷『日本書紀』巻二六斉明天皇七年(六六一)八月甲子朔

八月甲子朔、皇太子、奉徙天皇喪、還至磐瀬宮。是夕、於朝倉山上、有鬼、著大笠、臨視喪儀、衆皆嗟恠。

八月甲子朔はつきのきのえねのついたちのひ皇太子ひつぎのみこ天皇すめらみことみも奉徙ゐいまつりて、かへりて磐瀬宮いはせのみやに至ります。是の夕に、朝倉山あさくらのやまの上に於いて、鬼有りて、大なるかさて、みもよそほひを臨み視る、ひとみな嗟恠あやしむ。)


⑷概略

 八月一日、皇太子ひつぎのみこは、天皇すめらみことの亡骸を移して磐瀬宮いはせのみやに帰り着いた。是の日の夕方に、朝倉山あさくらのやまの上に鬼が現れ、大きなかさをつけて、喪儀を見ていた。人々はこれを皆怪しんだ。


⑷解説

 笠を着けた鬼が天皇の喪儀を眺め、これを人々が怪しんだという記事で、これが⑴の笠を着けた鬼と同じ存在とは限りませんが、状況から想像すると⑴と同じく蘇我入鹿の怨霊と結び付けて考えられ、『扶桑略記』のような話に展開していった可能性も想像できます。


 ですが、これら『日本書紀』の伝承は本来入鹿と関係のないものかと思います。


 ⑴の鬼を入鹿の怨霊とするのは『扶桑略記』などによる後世の付会で、戸谷氏は触れていませんが、以下の記事では斉明の死因は別にあると考えられていた事を示唆しています。



⑸『日本書紀』巻二六斉明天皇七年(六六一)五月 癸卯九日

五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時、斮除朝倉社木而作此宮之、故神忿壌殿。亦見宮中鬼火。由是、大舎人及諸近侍病死者衆。

五月乙未朔癸卯さつきのきのとのひつじのついたちのみづのとのうのひ天皇すめらみこと朝倉あさくら橘廣庭宮たちばなひろにはのみやに遷り居ます。是の時に、朝倉の社の木をはらひて此宮このみやを作る、故に神 忿いかりて殿おほとのこほつ。また宮中みやのうち鬼火おにびあらはれぬ。是に由りて、大舎人おほとねり及びもろもろ近侍ちかくはべるひと病み死ぬる者衆ものおほし。)


⑸概略

 五月九日、天皇すめらみこと朝倉あさくら橘廣庭宮たちばなひろにはのみやにお移りになり、是の時に、朝倉の社の木を伐り払ってこの宮を作った。それで神(雷神)が怒り殿舎を破壊した。また宮中に鬼火おにびが現れた。是に由って、大舎人おほとねり及や近侍ちかくはべるひと達が病死する事が多かった。


⑸解説

 朝倉社は三代実録・延喜神名式に麻底良布まてらめ神社。福岡県朝倉郡朝倉町山田にあり、朝倉宮背後の麻底良山を神体としたらしいのですが⑹、この地の木を伐採して宮を建ててしまった為、神(雷神)が殿社を破壊したり、鬼火が見えたり近習達が病死したという内容であり、斉明の死因は入鹿の怨霊によるものというよりも、寧ろ朝倉社の神による祟りと『日本書紀』が伝えたかった様に思えます。⑷の記事も一見⑴と共通していますが、時系列で並べれば明らかに朝倉山の神と関わる存在と言えるでしょう。


 その為、本来は朝倉社の神による祟りの伝承が、何時しか⑴の伝承と結びつき、『扶桑略記』の様に入鹿の怨霊によるものへと伝承が変遷していったと考えた方が良いと思います。


 戸谷氏は入鹿の怨霊云々よりも、寧ろ入鹿が中臣鎌足や中大兄皇子に祟る記事が無い事を書記編纂に関わった藤原不比等が削除し、それを隠しきれなかったことと「勝者が歴史を創るもの」という薄っぺらい主張を補完する趣旨で⑴の記事を利用していたようですが、過去に多数の著書をお書きになられている戸谷氏が⑸の記事を見落としていたとは思えず、敢えて無視したであろう姑息な手法と言わざるを得ません。そもそも不比等が『日本書紀』の都合の悪い事実を消そうとするならば、風見鶏的な態度を取った挙句殺された、一族の恥ともいえる中臣勝海の話も何故削除しなかったのか? と素朴な疑問を覚えますが……。


 戸谷氏は所謂歴史学者ではなく、かつての鳥越憲三郎氏の様に歴史学者に取り上げられる様な研究も無く、読者層も比較的ソフトかと思うので、こういった露骨な手法は読者をあまり『日本書紀』を読み込んでいない素人とみなして誘導する意図でもあるのかとでも疑いたくなります。


 戸谷氏に限らず、自分の主張部分のみ裏付けする文献を切り貼りし、都合が悪い部分を取り上げないのは在野の方が書いた著書に見られる傾向なのかも知れませんが、特に一般向けの書籍は鵜呑みにせず、イチイチ元の文献と取り上げた記事の前後も確認する必要があると痛感させられました。まぁ、こういう手法は歴史研究に限らないですけどね……。



◇参考文献

⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/236

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/101


⑵『怨霊の古代史』 戸谷学 河出書房新書 132ページ


⑶『国史大系. 第6巻 日本逸史 扶桑略記』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991096/266


⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/243

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/110


⑸『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/243

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/110


⑹『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 369ページ 注15

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