『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(14) 蘇我蝦夷・蘇我入鹿② 蘇我氏の滅亡
本稿では所謂「大化の改新」の先駆けとなった蘇我入鹿殺害と蘇我蝦夷の死亡の記事(乙巳の変)を取り上げます。
⑴『日本書紀』巻二四皇極天皇四年(六四五)六月
六月丁酉朔甲辰、中大兄密謂倉山田麻呂臣曰、三韓進調之日、必將使卿讀唱其表。遂陳欲斬入鹿之謀。麻呂臣奉許焉。
(
・⑴概略
六月八日、中大兄は密に
⑵『日本書紀』巻二四皇極天皇四年(六四五)六月
戊申、天皇御大極殿、古人大兄侍焉。中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣爲人多疑、畫夜持劔、而教俳優方便令解。入鹿臣咲而解釼、入侍于座。倉山田麻呂臣進、而讀唱三韓表文。於是中大兄戒衞門府、一時倶鏁十二通門勿使徃來。召聚衞門府於一所、將給祿。時中大兄即自執長槍、隱於殿側、中臣鎌子連等持弓矢而爲助衞。使海犬養連勝麻呂、授箱中兩劔於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田曰、努力努力、急須應斬。子麻呂等以水送飯、恐而反吐。中臣鎌子連嘖而使勵。倉山田麻呂臣恐唱表文將盡、而子麻呂等不來、流汗沃身、亂聲動手。鞍作臣恠而問曰、何故掉戰。山田麻呂對曰、恐近天皇、不覺流汗。中大兄、見子麻呂等畏入鹿威、便旋不進、曰咄嗟、即共子麻呂等、出其不意、以劔傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂運手、揮釼傷其一脚。入鹿轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也。臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄伏地奏曰、鞍作盡滅天宗、將傾日位。豈以天孫代鞍作耶。〈蘇我臣入鹿、更名鞍作。〉天皇即起入於殿中。佐伯連子麻呂、稚犬養連網田、斬入鹿臣。是日雨下、潦水溢庭。以席障子覆鞍作屍。古人大兄見、走入私宮、謂於人曰、韓人殺鞍作臣。〈謂因韓政而誅。〉吾心痛矣。即入臥内杜門不出。中大兄即入法興寺、爲城而備。凡諸皇子、諸王、諸卿大夫、臣連、伴造國造、悉皆随侍。使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。於是漢直等總聚眷屬、擐甲、持兵、將助大臣處設軍陣。中大兄、使將軍巨勢徳陀臣、以天地開闢、君臣始有、説於賊黨、令知所赴。於是高向臣國押謂漢直等曰、吾等由君大郎應當被戮、大臣亦於今日明日、立俟其誅决矣。然則爲誰空戰、盡被刑乎。言畢解劔、投弓捨此而去。賊徒亦随散走。
(
・⑵概略
十二日、天皇は大極殿にお出ましになり、
倉山田麻呂臣は上表文を読み上げるのがまさに終わろうとすると、子麻呂等が(中々)出てこないことを恐れて、流れ出る汗で身を濡らし、声が乱れて足が震えていた。
「何故震えているのだ」と聞いた。
山田麻呂は「天皇のおそば近くにおりますことの恐れ多さに、不覚にも汗をかいてしまっています」と答えた。
中大兄は、子麻呂等が入鹿の威勢に畏れて、ぐずぐずして進まないのを見て、「
入鹿は驚いて立ち上がり、子麻呂も剣を振るって片足を傷つけた。入鹿は転がる様にして御座にすがりついて、請い願って言った、
「まさに皇位にあられるべきお方は
天皇は大いに驚かれ、中大兄に
「このような事は知りません、何故この様な事をしたのですか」とお尋ねになった。
中大兄は地に伏して、「
天皇は直ちに席をお立ちになり宮殿の中にお入りになった。
「韓人が
そのまま寝室に入って門を閉ざして出ようとしなかった。
中大兄はすぐに法興寺に入り、砦として備えた。凡そ
是に
「吾等は
と言い終わると、剣を外し、弓を放り出して去ってしまった。賊徒もまた散り散りに逃走した。
・⑴⑵解説
中大兄皇子を弁護する意見に、宮廷で我が物顔に振舞った蘇我入鹿は。自分に都合の良い蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を大王にしようと企み、そこで、中大兄皇子は王位に就くために蘇我氏を打ったと言う説を、武光誠氏は当時の王家のあり方から見て、この説は正しくないとしています。
理由として古人大兄皇子が王家の嫡流では無い事、その為、古人が中大兄に接近し、娘を大后にすることにより、いずれ大王の外戚になる道を選んだのこと。だから、中大兄皇子は蘇我入鹿や古人大兄皇子と争わなくても、母である皇極天皇の没後に大王に成れたはずであり、中大兄皇子が蘇我入鹿を討った理由を明らかにすることは難しい⑶と述べておられますが、単純に考えれば、古人大兄皇子の事よりも、蘇我氏の血筋であるにも関わらず山背大兄皇子が蘇我入鹿により殺された事が中大兄皇子の念頭にあり、蘇我氏の排除は避けられない情勢だったのかと思います。
なお、古人大兄皇子の「韓人殺鞍作臣」という言葉は古くから解しがたい語であったらしく、複数の解釈があり、①「三韓の貢調に託して殺したことを諱んで言ったもの」とする説、②「古人大兄が禍の身に及ぶことを恐れて、韓人を下手人とした」と解く説、③「三韓貢調はもともと作意でにせの韓人を作っていたが、それも立って共に殺害に与ったからか」と見る説など、解釈は多岐に渡り、真意は不明とのこと。⑷
ですが、原文注釈に〈謂因韓政而誅。〉とあるので、②③の様な本文に無い拡大解釈をせず、率直に①の説で良いのかと思います。
⑸『日本書紀』巻二四皇極天皇四年(六四五)六月
己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅、悉燒天皇記、國記、珍寶。船史惠尺即疾取所燒國記而奉献中大兄。是日、蘇我臣蝦夷及鞍作屍許葬於墓、復許哭泣。是日、或人説第一謠歌曰、其歌所謂、波魯波魯爾、渠騰曾枳擧喩屡、之麻能野父播羅、此即宮殿、接起於嶋大臣家、而中大兄與中臣鎌子連、密圖大義、謀戮入鹿之兆也。説第二謠歌曰、其歌、所謂烏智可施能、阿婆努能枳枳始、騰余謀佐儒、倭例播禰始柯騰、比騰會騰余謀須、此即上宮王等、性順都無有罪、而爲入鹿見害。雖不自報、天使人誅之兆也。説第三謠歌曰、其歌所謂、烏縻野始爾、倭例烏比岐以例底、制始比騰能、於謀提母始羅孺、伊弊母始羅孺母也、此即入鹿臣忽於宮中爲、佐伯連子麻呂、稚犬養連網田所斬之兆也。
(
といふは、此れ即ち
といふは、此れ即ち
小林ニ、我ヲ引キ入レテ、
といふは、此れ即ち入鹿臣が
・概略
13日、蘇我臣蝦夷達は誅殺されるにあたり、ことごとく
其の歌の、
「
と言うのは、
第二の
「
と言うのは、
第三の謠歌を説明して言った、其の歌の
「小林ニ、我ヲ引キ入レテ、
と言うのは、入鹿臣が突然宮中で、佐伯連子麻呂、稚犬養連網田のために斬られる前兆である。
⑸解説
本文で最も注目すべきところは「蘇我臣蝦夷等臨誅、悉燒天皇記、國記」という文でしょうか。菅野雅雄推氏によると、「推古天皇二十八年条に本朝最古の修史事業とされた天皇記・国記を指し、この史書が蘇我氏の邸宅に在したことが不審であり、聖徳太子と蘇我馬子とが共に議してと書かれており、当時、聖徳太子は皇太子で摂政の任にあったのであり、完成したらまず公に、つまり天皇の手許に届けられ、そして摂政聖徳太子のところへおかれるべきであり、そしてもし正福二部を作ったとするならば、一部は馬子の手許、蘇我の邸宅に置かれていても良い。ところが下文によると、船史恵尺が「焼かるる国記を取りて、中大兄に奉献る」と記されていて、天皇記以下が、皇室に無く、蘇我氏宅だけに伝来していることを示している。天皇記以下が中大兄の手許にあったとすれば命がけで国記を取り出した恵尺の行動が意味がない」⑹と述べられています。これは恐らく、天皇記・国記は草稿程度の物は出来ていたのかも知れませんが、完成していなかった為に蘇我氏の邸宅に止められていた可能性があるのではないかと思います。
なお、『先代旧事本紀』は聖徳太子と蘇我馬子の国史編纂事業にかこつけた偽書ですが、第十巻「国造本紀」は古い趣があり、「国記」と関りがあるかと思われる個所もある⑺という主張もあります。この事については、いずれ稿を改めてご説明させて頂きたいと思います。
後半部にみられる童謡については、本来民間の歌謡であるものを、『漢書』『後漢書』の五行志の手法をまねて、時勢の推移を示すものとして『書紀』編者が用いたものと思われるそうです。⑻
なお、蘇我蝦夷がどの様に誅殺されたのか詳らかではないですが、『藤氏家伝』によれば「己酉、豊浦大臣自盡丁其第」⑼とあり、つまりその日の内に自殺したと書かれており、入鹿死後の蝦夷の状況を考えると、家伝は正しく伝えているのではないかと思います。
大王家を上回る権勢を誇った蘇我氏はこうしてクーデター後、一夜にして滅ぼされてしまいました。蘇我氏の打倒が案外容易に行われたのは、実際には事前の周到な計画と、君主制強化の一般的気運、それに蘇我氏の権力が独自の基礎よりも、不十分ながらもめばえてきていた官僚的機構の上に立っていたことによると考えられています。⑽
こうして蘇我蝦夷の死を以て、それ以降に
近年は蘇我氏に関して再評価の動きがあったり、特に出自に関して(葛城氏出身か? 渡来人か?)など様々な異説があったり、百家争鳴の状態であり、何を以って定説であるのか、中々断言が難しいと言わざるを得ない状態です。中には聖徳太子を引き合いに出した妄想豊かなミステリー小説の如き珍説も見受けられますが、そう言った情報に惑わされない様に、多様な文献資料にあたる事と、専門家の知見の確認、情報ソースが信頼できるか判断する知識を得る必要があります。(私の知る限りでは平林章仁・門脇禎二の両氏は蘇我氏研究でも著名な方です。特に平林章仁氏の『蘇我氏の研究』は一番のおススメです。)
残念ながら私の知識不足(一時期引っ越しを想定して大量の本を処分してしまい、研究者による専門書が手元にあまりありません。)や取れる時間にも限界があり、専門家の説は最小限で、代表的な資料の紹介に限られてしまいましたが、宜しければご自分でも私が過去にご紹介させて頂いたツールや手法、参考文献を元に専門書をお調べ頂くのも良いかと思います。
◇参考文献
⑴⑵⑸
『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/218
218・219コマ
『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/77
77・78コマ
⑶『古事記日本書紀を知る事典』 武光誠 東京堂出版 113ページ
⑷『現代語訳 日本書紀』【抄訳】菅野雅雄 新人物社 362ページ
⑹『現代語訳 日本書紀』【抄訳】菅野雅雄 新人物社 362・363ページ
⑺『現代語訳 日本書紀』【抄訳】菅野雅雄 新人物社 363ページ
⑻『日本書紀』(下)監訳者・井上光貞 訳者・笹山晴生 中公文庫 531ページ
⑼『群書類従 第四輯』塙保己一 編 経済雑誌社
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1879458/1/180
⑽『史料による日本の歩み 古代編』 関晃・井上光貞・児玉幸多 編 吉川弘文館 69ページ
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