中大兄皇子・中臣鎌足の密談

・『前賢故実. 巻之2』より藤原(中臣)鎌足の肖像画

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 前回は蘇我入鹿・蝦夷の専横を取り上げてみましたが、本稿ではそれに対する反蘇我氏勢力の動きを追ってみます。


⑴『日本書紀』巻二四皇極天皇三年(六四四)正月乙亥朔

三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連拜神祗伯。再三固辭不就。稱疾、退居三嶋。于時輕皇子患脚不朝。中臣鎌子連曾善於輕皇子。故詣彼宮而將侍宿。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸、容止難犯、乃使寵妃阿倍氏淨掃別殿高、鋪新蓐、靡不具給。敬重特異。中臣鎌子連便感所遇、而語舎人曰、殊奉恩澤過前所望、誰能不使王天下耶。〈謂宛舎人爲駈使也。〉舎人便以所語陳於皇子。皇子大悦。中臣鎌子連爲人忠正、有匡濟心。乃憤蘇我臣入鹿失君臣長幼之序、侠韜隕社稷之權、歴試接於王宗之中、而求可立功名哲主。便附心於中大兄。疏然未獲展其幽抱。偶預中大兄於、法興寺槻樹之下、打鞠之侶、而候皮鞋隨鞠脱落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄對跪敬執。自茲相善倶述所懷。既無所匿。後恐他嫌頻接、而倶手把黄卷、自學周孔之教於南淵先生所。遂於路上徃還之間、並肩潜圖、無不相協。於是中臣鎌子連議曰、謀大事者、不如有輔。請納蘇我倉山田麻呂長女爲妃而、成婚姻之眤。然後陳説欲與計事。成功之路、莫近於茲。中大兄聞而大悦、曲從所議。中臣鎌子連即自徃、媒要訖。而長女所期之夜、被倫於族。〈族。謂身狹臣也。〉由是、倉山田臣憂惶仰臥不知所爲。少女恠父憂色、就而問曰、憂悔何也。父陳其由。少女曰、願勿爲憂、以我奉進、亦復不晩。父便大悦、遂進其女。奉以赤心、更無所忌。中臣鎌子連、擧佐伯連子麻呂、葛木稚犬養連網田於中大兄曰、云々。


三年やよひの春正月はるむつきの乙亥きのとのゐのついたちのひ中臣鎌子連なかとみのかまこのむらじを以て神祗伯かむつかさのかみす。再三しきり固辭いなびてつかまつらず。やまひまをして、退まかりて三嶋にはべり。時に輕皇子かるのみこ患脚みあしまゐりたまはず。中臣鎌子連 むさきより輕皇子とうるはし。故に彼の宮にまうで宿とのゐはべらむとす。輕皇子深く中臣鎌子連の意氣こころばへ高くすぐれて、容止犯すがたながたきここをりて、すなは寵妃めぐみたまひしひめ阿倍氏あべのうじをしてこと殿とのきよはらひ、高く新蓐にひしきねどころかしめ、つぶさかすといふことく。ゐやまあがめたまふことことなり。中臣鎌子連便ちめぐまるるにかまけて、舎人とねりに語りていはく、「こと恩澤みうつくしびうけたまはることさきよりねがひし所に過ぎたり、たれ天下あめのしたきみとましまさしめざらむ」。〈舎人を充てて駈使つかひと爲すを謂ふ。〉舎人 便すなはち語らふる所を以て皇子にまをす。皇子 おほきに悦びたまふ。中臣鎌子連は人と忠正ただしく、たすすくふ心有り。乃ち蘇我臣入鹿が君臣きみやつこらまこのかみおとついでを失ひ、社稷くにをうかがふはかりごとわきばさむことをいくひて、王宗きむたちみなか歴試接つたひまじはりて、功名いたはりを立つべき哲主さかしききみを求む。便すなはち心を中大兄なかのおひねく。疏然さかりて未だ其の幽抱ふかきこころぶることをず。たまさか中大兄なかのおひねに、法興寺ほふこうじ槻樹つきのきもとに、打鞠くゑまりともがらまとりて、皮鞋みくつまりままげ落つるをまもりて、掌中たなうら取置とりもちて、すすひざまずつつしみて奉る。中大兄 むかひざまずきてゐやまりたまふ。茲より相善むつびてともおもふ所を述ぶ。既にかくす所無し。のちひとしきりにまじはることをうたがはむことを恐れて、ともに手に黄卷ふみまきりて、自ら周孔しうこうのり南淵先生みなみぶちせむしやうもとに學ぶ。遂に路上徃還之間みちのあひだかよふころほひに於て、肩を並べて潜かにはかりたまへり、相協あひかなはずといふこと無し。是に中臣鎌子連 はかりて曰く、「大事おおきなることはかるには、たすけ有るにかず。請ふ蘇我倉山田麻呂そがくらやまだのまろ長女えひめめしいれてひめと爲して、婚姻むこしふとむつびを成したまへ。しかうして後にきてともに事を計らむと欲す。いたはりを成す路、これより近きはし」。中大兄聞きて大に悦び、つまびらかはかる所に從ひたまふ。中臣鎌子連即ち自ら徃きて、媒要なかだちかたむることをはりぬ。しかるに長女えひめ所期ちぎりし夜に、やからぬすまれぬ。〈やから身狹臣むさのおみを謂ふ。〉是にりて、倉山田臣くらやまだのまろ憂へかしこまり仰ぎ臥して所爲せんすべ知らず。少女おとむすめ父の憂ふるいろあやしみて、きて問ひて曰く、「憂へゆること何ぞ也」。父其のゆゑぶ。少女曰はく、「願はくば勿憂なうれへたまへそ、おのれを以て奉進たてまつりたまふも、亦復おそからじ」。かぞ便すなはち大に悦びて、遂に其のむすめたてまつる。つかまつるに赤心きよきこころを以てし、更にむ所無なし。中臣鎌子連、佐伯連子麻呂さへきのむらじこまろ葛木稚犬養連網田かつらぎわかいぬひのむらじあみだを中大兄にすすめて曰く、云々しかじか。)


・概略

 三年春正月一日、中臣鎌子連なかとみのかまこのむらじ神祗伯かむつかさのかみに任命した。頻りに辞退して仕えず。病と称して、退出して三島(大阪府)に住んだ。この時、輕皇子かるこのみこ(後の孝徳天皇)は足の病気で参上しなかった。中臣鎌子連は以前から輕皇子の覚えがめでたかった。それ故に彼の宮殿に参上して宿居しようとした。輕皇子は深く中臣鎌子連の気高い心と、容貌も犯し難い気品がある事を知って、寵愛していた阿倍氏あべのうじの妃に命じて、別殿を掃い浄め、新しい寝床をそろえ、つぶさに世話をさせ、尊敬し崇める事は他と違った。


 中臣鎌子連は知遇に感激して、舎人とねりに「特別に恩沢を奉わること、以前から願っていた以上である。誰が天下の王としてお迎えせずにいられよう」と言った。〈(輕皇子が、みずからの舎人を(鎌子連の)使い走りに供していたことを言う。〉

 舎人がこの事を皇子に申し上げたところ、皇子は大いに喜んだ。


 中臣鎌子連は忠誠な人柄で、世を助けて救おうと言う心があった。それゆえ、蘇我臣入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、国をわがものにする野望を抱いている事に憤り、次々と皇族の人と交わって試し、企てを成し遂げられる賢い主を求めた。そして中大兄なかのおひねに心を寄せたが、近づいて心中を打ち明ける機会が無かった。


 たまたま中大兄に、法興寺(飛鳥寺)の槻樹つきのきもとで蹴鞠が行われた時、その仲間に加わり、皮鞋が打った鞠とともに脱げ落ちたのを拾い、手に取り持ち、進み跪き、つつしんでたてまつった。中大兄も向かい合って跪き、恭しくそれをおとりになった。これより二人は相親しみ、心に抱いている事を隠す事は無かった。後に他人が二人がしきりに会うことを疑われることを恐れ、共に手に書物を手に取り、自ら周孔の教え(儒教)を南淵先生(南淵請安)のもとで学んだ。そして往復の路上で、肩を並べて潜かに相談したが、見解が異なる事は無かった。


 そこで中臣鎌子連は、「大事をはかるには、助けが必要です。蘇我倉山田麻呂そがくらやまだのまろが長女をひめとして召されて、婿と舅で親しくなさって下さい。そして後に事情を述べて説き伏せて共に事をはかってはいかがでしょうか。これより成功の近道はありません」と申し上げた。


 中大兄はこれを聞いておおいに悦び、詳しい計画に従った。中臣鎌子連は自ら徃き、仲立ちを終えた。ところが長女と契った夜に、一族の者に盗まれた。〈一族の者は身狹臣むさのおみと言う。〉これによって、倉山田臣はすっかり恐縮し、天を仰ぎ地に臥してどうすべきか分からなかった。その時、少女(石川麻呂の娘、遠智娘おちのいらつめ)は、父の心配している事を怪しんで、「何を心配しておられますのでしょうか」と尋ねた。

 父は理由を述べると、少女は、「ご心配ないさますな。私をおたてまつりなっても、まだ遅くありません」と言った。


 父は大変喜んで、その女をたてまつった。少女は真心をもって仕え、決してそれを厭う事が無かった。中臣鎌子連、佐伯連子麻呂さへきのむらじこまろ葛木稚犬養連網田かつらぎわかいぬひのむらじあみだを中大兄に推挙して、云々しかじかと言った。



◇解説

 中臣鎌子、後の中臣鎌足初見の記事です。中臣鎌足と中大兄皇子が結託する有名な逸話で、鎌足の伝記である『藤氏家伝』(大織冠伝)にも同様の話が載っていますが、そのきっかけが本当に法興寺(飛鳥寺)の蹴鞠であったのか、疑問を持たれています。


 また、文中に神祇の長官にあたる「神祗伯」(律令制下では従四位下相当の官)という言葉が出て来ますが、これも当時にその様な官名があったのか疑問を持たれています。⑵ただし、中臣氏の本宋として、鎌足が神祇を祀る職に就いていたのは事実かと言われています。⑶


 只、二人とも南渕先生、つまり南渕請安から学んでいた事は注目すべきで、南渕請安は推古天皇16年(608年)に小野妹子に随って隋に留学し、舒明天皇12年(640年)に高向玄理とともに新羅を経て帰国した経緯があり、留学30年余り、隋が滅び唐が興起するのを目の当たりに見聞してきました。


 高向玄理や僧旻が大化新政府の政治顧問となったことを考え合わせると、中大兄皇子らと留学生との結びつきは深く、かれらの新知識によって、改革の方向や具体的な方法が考えられたと言われています。⑷


 法興寺の蹴鞠の話が事実で有るか如何かはとにかくとして、この頃に鎌足や中大兄を中心に反蘇我勢力が集結してクーデターが企てられたのは事実でしょう。


 余談ですが、蹴鞠の話については『三国史記』「新羅本紀」の文武王即位前紀に似た様な逸話がある事から、金春秋=天智天皇などと言う信じがたいトンデモが存在しますが、妄想の飛躍も甚だしいです。


 例えるなら武烈天皇紀に描かれている残虐行為が殷の紂王がモデルだから武烈が紂王なのかという事になりますよね? 『日本書紀』が『藝文類聚げいもんるいじゅう』を始め、様々な海外文献を利用して話を潤色、今で言うところの二次創作をしているのは良く知られており、この逸話に限らず、海外の典籍によく似た話は至る所に見受けられます。(詳細は岩波文庫の日本書紀の脚注でも読めば、様々な箇所で漢籍を利用している事が分かります。)原典は不明ですが、恐らく蹴鞠のエピソードもその一つに過ぎないでしょう。成立年代の違いや、話がよく出来ている事から考えると、寧ろ十二世紀に書かれた『三国史記』の方が『日本書紀』を真似した可能性だってあります。


 この手の主張をなさっている方が何を参考にしていたのか確認したところ、どうやら歴史学者ではなく、小説家の影響を受けている様です。小説家が生活の為に想像を逞しくし、面白おかしく話を想像するのはある程度仕方の無い事かも知れませんが、薄っぺらい根拠のみを切り取り拡大解釈し、歴史上の人物の出自まで改変してしまう様な主張を読者に信じ込ませてしまうのは如何なものかと思いますが。


 次稿では蘇我蝦夷・入鹿の親子の滅亡の記事を取り上げたいと思います。



◇参考文献

⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/216

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/74


⑵⑷『史料による日本の歩み 古代編』 関晃・井上光貞・児玉幸多 編 吉川弘文館 67ページ


⑶『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 215ページ 注八



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