考古学入門にどうぞ『通論考古学』重要用語と注意点

 おかげさまで本稿で100話目を迎え、9月18日20時現在、PVも15000まで秒読み段階です。初期は津田史観やトンデモを軽くディスる程度に考えて投稿していたのですが、まさかこんなに長く続ける事になるとは思いませんでした。ですが、今のところ大津皇子ぐらいしか扱っていない飛鳥時代後半にまで手が伸びてない一方、神武天皇や日本武尊の話もまだやっていないし、自分が好きな所謂謎の4世紀についてまだまだ足りないなと思いつつ、初期の内容と知識の薄っぺらさに愕然とし、過去の稿も大分修正しないと駄目かなと思ってますが、こんな思い付きのコンテンツに付き合って下さった皆様に感謝を申し上げます。100話目の区切りで考古学の話とか我ながら何考えているんだとか思いますが、今後も宜しくお願い致します。



 さて、前稿でご紹介させて頂きました浜田耕作氏の『通論考古学』について、考古学の入門に最適な内容なのですが、現代人が読むと若干分かりずらいことと、現在そのままでは通用しない内容が含まれているので、今でも考古学においても重要と思われる内容を、少しでも分かりやすく漢字や言葉を現代的表現に言い換えて抜粋するとともに、現在では使われていない用語、本書の実例で説が古くなったものに関しては現状をご説明致します。又、本文に即し、現在の研究成果による具体例も幾つか取り上げてみます。(あと、言うまでもなく本書は著作権切れです。)


 考古学についてそれ程明るい訳ではないので、本書からもっと重要なものがあるのに抜けている場合等あるかも知れませんが、何卒ご了承ください。測量や発掘方法に関しては読むと面白いと思いますが、発掘現場に直接関わる機会はそんなにないかと思うので割愛します。又、前稿で取り上げた考古学と歴史学との関係や、本書で多く取り上げられている西洋についての事例は考古学の定義で取り上げる以外割愛します。


*引用部(現代風に修正)は『』で囲い、囲われていない部分が当方の説明で付け加えたものとなります。




〇考古学の定義(9~12頁)

『イギリスの学者ニュートン(Sir Charles Thomas Newton, 1811-1894)がその論文「考古学の研究に就いて」(On the Study of Archaeology.1850)に考古学的資料を分類して

➀口述的(oral) 風俗・習慣・口碑等

②記載的(written)文書文献

③記念物的(monumental)遺物遺跡

の三者となし、これらに依って人類の一切の過去を研究する学(The science of all human past)である。しかし、これは考古学の範囲をarchéologie (考古学)なる言葉の定義の如く、最も広く解釈しようとするものにして、分化発達する多額の範囲を侵そうとするものがあるを以て、以上三種の資料中③の遺物遺跡を資料とするもののみを以て、考古学に属するものとして欲しい。かくして私は新学を定義して「」(Archaeology is the science of the treatment of the material remains of the human past)

と呼ぶ様にして欲しい。

然らば則ち人類の物質的遺物とは何か、これ過去人類の残した一切の空間的延長を有する物件を指すものにして、史学の主として取り扱うところの文献的資料と対するものである。即ち自然科学と対立するべき文化科学(Kulturwissenschaft)の研究方法中、文献学的方法(die philologische Methode)と共に、田の一半をなすべきもの、即ちこの(die archäologische Methode)に他ならない。

考古学の定義をニュートンの如く広義に解するものを所謂「大考古学」(The greater archaeology)といい、私(浜田)の定義の如く狭義に解するものを或いは称して「小考古学」(The lesser archaeology)という。しかもドイツ語のAltertumskundeなる語は、今主として文献学的研究をも包括する「大考古学」の義に使用される』




〇考古学の時代的区分(16頁)

『「先史考古学」と「歴史考古学」に区分され、前者は文献資料の全くない時代の考古学研究で石器時代や海外で言う青銅器時代の文化の研究で、後者は文献が伝わる時代における物質的遺物を探る研究。両者の間に文献が希少な時代を「原始考古学」というが、普通は「先史考古学」以外の言葉は用いられない。』


 補足すると、歴史考古学について、ヨーロッパにおける古典考古学と対比させ、飛鳥~平安時代を対象とするのが「古代考古学」、「中世考古学」は鎌倉~室町時代、「近世考古学」は江戸時代の考古学と言います。物質的な資料を主対象とする考古学の立場では本来的に矛盾する語ですが、三時代区分法を否定されながらも歴史考古学の名称が慣用されているのが実情とのこと。⑴

 因みに「原始考古学」という言葉は現在殆ど使われていません。



〇考古学の目的(20-21頁)

『考古学は一つの纏まりの内容を有する科学と称するよりは、寧ろ物質的資料を取り扱う科学的研究方法と言うのを妥当として、この方法によってその研究をする所は如何なる方面でも可能である。美術史家は美術の様式、製作の方式等を研究すべく、宗教史家は宗教的観念、儀礼の変遷等を研究すべく、社会学者、文明史家その他百般の専門学者各々この方法によって、その資料に適用すべきである。漠然と人類の過去を研究するものと定義するところはこれに在す。』



〇各学科との関係(22頁)

『凡そ人文に関する科学にして、他の人文科学と何らかの関係を有しないものは無くして、研究し得ることは無い。ことさらに考古学の如きは物質的資料を取り扱う性質上、単に他の人文諸学のみならず、自然科学などの方面にも渡って密接な関係を有する事によって、これら関係諸学の知識を要する事を最も大きい。もとより一人で各種の学科に深い造詣があることは難しく、その特殊の研究は各専門家に委託する他ないと言えど、ある程度までの知識とこれに対する興味と共有することを要する。』


 本書では関係のある学科として具体的に化学・地質学・人類学・史学を取り上げています。高等教育以降、通常は理系と文系で隔てられる現代の教育ではこれら全てを理解するのは難しいと思います。私もこれらの中で化学と地質学については恥ずかしながら殆ど見識がありません。とはいえ、研究員でもなければそこまで深い理解を求められるものでもなく、取り敢えず本書に書かれている様な最低限の理解で良いのかと思います。特に地質学を利用した重要な研究法(層位学的方法)や人類学と関連する土俗学(現在の民族・民俗学)については後程取り上げます。


 なお、今日では考古学に利用されている分野は本書で取り上げられているものよりも更に広がりを見せ、例えば森浩一氏は『日本神話の考古学』(朝日新聞社)において考古学・人類学・民俗学以外にも歴史地理学や神話学も活用しておられました。又、天照=卑弥呼説論者に依る日食の有無や、吉野ケ里遺跡付近の日吉神社跡地の発掘で発見された石棺の蓋に刻まれた印を天の川とする説など、邪馬台国関連の研究では近年、天文学の利用が目立ちます。


 但し、別分野を安易に利用する事で解釈の幅が広がり過ぎ、都合よく自由に解釈することに繋がり、まさしく天照=卑弥呼説の如き推理小説のような奇をてらった説を幾らでも輩出する危険性も孕んでいます。又、考古学者の姿勢として、文献に対しては比較的研究しやすい事もあり批判が厳しいようですが、文献史学者ですら批判する放射性炭素年代測定の結果を安易に受け入れる辺りは、他学問に明るいとは決して言えない現状を示すのではないでしょうか? 別分野を取り入れる場合は付け焼刃的な知識による主観に頼らず、複数の専門家の意見を見聞し、より客観的な結論を導き出す必要が生じるかと思われます。


 余談ですが、当時の歴史学者の権威である坪井九馬三の『史学研究法』⑵によれば、史学の補助学科については言語学、古文書学、地理学(歴史地理学・政治地理学)、年代学、考古学、系譜学、古泉古銭学を取り上げています。



〇土器と考古学(61頁)

『土器の材料である粘土は年所を経ても消滅する事なく、金属大理石の様に他に利用する事は殆どなく、土器は完全なもの及び破片の状態において、今日遺存する分量がもっとも多く、形状が多様で、変化が急激な事は考古学的資料として最も価値がある由縁で、人種と時代によって、その形状、紋様、製作などが異なるのを以て、これによって土器そのもの及び伴出遺物の年代人種等を推定するのに屈強な資料をなす。』


 ご存じの通り、縄文土器・弥生土器は時代区分にまで使われる様になりましたが、この様な認識が時代区分の名称決定に大きく影響したのかも知れません。

 因みに本書にある祝部土器とは現在では須恵器のことを指します。



〇金属器(63~65頁)

『金属を利器にして使用する事は土器の発明についで人文史上の一大転機となった。金属製の利器が鋭利で永久的使用(恐らく木器や石器に比較してとの意味)に耐え、戦争においても狩猟においても、この利器の所有者が常に石器利用者に比して優勢な位置を占めていた。

 金属中人類の文化に最も関係の有するものを「文化金属」(Kultur metalle)と称する。銅、鉄及び青銅(銅と錫との合金)の三者がこれである。黄金の如き貴金属は純粋の状態を以て自然に産出するので、早くより人類の装飾品として使われ、人文の発展の興るのに大きく貢献した。銅は文化金属中もっとも古く知られ、次いで青銅の合金法が発見され、鉄は最後にその使用が著しくなった。金属は考古資料としての価値は石器に比して遥かに大きく、器具と武器の分化もこの材料の使用時代より起こった。

 本邦においては銅剣銅鉾銅鐸などの発見があるが、特に青銅器時代を置くほどの事も無く、直に鉄時代に入った。』


 「文化金属」なる言葉が現存するか不明ですが、取り上げられた三種の金属が特に重要な研究対象であることは言うまでもありません。



〇装飾品(66~67頁)

『今日野蛮未開の民族が身体に彩色し、或いは羽毛その他を以て頭髪を装飾する様に、古代の人民もまたこの種の装飾をしていたが、その材料は性質上遺存するものは稀である。ただ、体に付着している赤色塗料は今なお遺骨の上に残存するものを見る。この他動物の牙歯、その他珠玉、金属の装飾品を用いたものは墳墓の中より遺骸と共に発見す。凡そこれ等の装飾品は、生前身辺を離さない利器、その他の日常什器と共に副葬させられ、その装飾させられた部位において発見されることを以て、特にこれを注意する事は古墳発掘者の要するところである。石器時代においては、角牙土製の装飾品を常とするも、金属時代に入ると黄金その他貴金属などを用いてこれを作り、その製作意匠は民族によっては異常な発達を呈する。

 各民族の装飾品は各々相同じからざるものあれど、またその間相類するものなきに非ず、即ち狩猟生活を反映する角牙の懸垂物はこれであり、我が国の勾玉の如きもまた獣牙より発生するものである事は坪井博士(坪井正五郎1863~1913年・人類学者)の創唱せられし所なり。』



〇墳墓と考古学(70~71頁)

『考古学的資料中遺跡の最も一般的なものを墳墓とする。ことさら日本の石器時代の貝塚などを除いて、墳墓の他重要な遺跡は無い事を以て「墳墓の考古学」(Archaeology of sepulchre)の語、エトルスキ(イタリア北部の民族)などの場合と同様に適切な適切であると感じる。生時住居の経営に何ら見るべきもの無き人民にあっても、死後の住居である墳墓において、却って経営を厳かにし、その遺跡の今日にみるべきもの少なからず。即ち我が国の如きもその一例である。私は先ず墳墓の構造において住居のそれを類推し、その内に包蔵する遺物によって、生活の状態、技術の程度などを窺うべく、宗教を研究し美術考察するもの、その他百般の研究者を宝庫としなければならない。(中略)

我が日本の古墳石室の平面は、ある程度において住吉造、大島造、大社造などの構造を反映するものという。石棺の形状の家屋建築を摸せるものまたエトルスキその他欧州諸国にその例多く、我が国においても見え、横穴内部に建築の構造を示せるもの又往々にしてこれあり』


 本書では墳墓の例として高塚が取り上げられていますが、現在で言う古墳を指します。




〇層位学的方法(143~144頁)

『考古学的研究方法の最も直接かつ基礎的なものを層位学的方法(Stratigraphical method)という。地質学において地史の研究に用いられる方法と同一で、遺物の発見された層位の上下の関係より該地層(layer)が後世撹乱させられない(つまり工事や開拓などで掘り起こされたりしていない状態)限り、同一地点においても、その連積する層位、もしくは同一性質の層位より発見された遺物は、同様の関係を有するものであるとする原則によって研究することを言う。この同一空間に二個以上の物体が占有されず、後より置かれたものは必ず先に置かれたものの上に来るべき理により発足し、地表上に有機物その他の事情によって構成される土壌は、同一比例を以て進行するにおいては時間の経過が大きくなるのに従いその厚さが増す事実を基礎とする。

 しかし同一比例を以て土壌が構成されない場合、層位の同一深さは必ずしも同一時間の経過を意味するものではない。上下の関係において只時間的経過の前後を示すに過ぎない。また物体が自然的に置かれていない場合は、全くこの原則を破るものがあるのを以て、学者は常に遺物がその層位に存在する状態に就いて、精細な注意を要する。』


『通論考古学』より「遺物の層位研究」(著作権切れ)

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817330663911040706


 layerはフォトショップの様な画像加工ソフトを使った事があれば概念が分かりやすいかも知れません。それはとにかく、かつて藤村新一氏が引き起こした旧石器捏造事件発覚要因の一つとしては、ローム層から遥かに後世の石器が見つかったこと(石器を金属で削った痕跡などが発見された事から、事件当時は江戸時代の層位でコンピューターが発見された様なものと例えられていました)を疑念に持たれたのもきっかけの一つでしたが、これはまさしく浜田氏の言う「物体が自然的に置かれていない場合」「学者は常に遺物がその層位に存在する状態に就いて、精細な注意を要する」という基本から来た当然の疑念かと思います。最も毎日新聞社にスクープされるまで考古学会では藤村氏を疑う声を黙殺していたらしいですが……。



〇型式学的方法(146頁)

『層位学的研究を試みる事が出来ない場合、第一に用いる方法は型式学的方法(Typological method)な方法である。是は人類の製作品は生物界の現象と同じく、一つの新しい型式(type)は必ず古い型式より変化して来るもので、年月とともに簡単自然的なものより複雑人為的なものとなるという進化論的原則より出発するものである。この方法により一つの型式と他の型式との先後を相対的に推定することができる。もとより型式の発展は物品の種類によりその遅速を異にし、或いは時に退歩堕落の傾向を取る事がある。新しい型式において、或いはそれ以前のものに比較して簡単に見える事がある。』


 極端な例で想像して頂くと、縄文土器と弥生土器、遮光器土偶と埴輪などを比較すれば分かりやすいかと思います。(実際は明らかに時代が異なるこれらで比較する事は無いかと思いますが、モノの例えです)岡本太郎氏に影響を与えた様に、見た目の芸術性や複雑さという面では縄文時代の方が後世のものより明らかに優れています。とはいえ、以下の文から、造形が美しいからと言って、それが順序を定める全ての基準とはならないようです。


『しかし、それは外見に止まり、根本的なものではない。或いは一方的に止まり、他の方面においては洗練進歩の傾向を認め得る。型式学的研究において、簡単なものよりは複雑なものに至る順序を定める事は、比較的困難ではないが、その順序を実年代に議定する方向に置いて、度々反対の結果が生じる事があるのを戒心(用心)すべきである。型式の最も簡単で最古のものを原型式(Prototype)と名づく。』


 因みに「型式」と同音の「形式」(form)という考古資料の分類基準があります。例えば土器における壺と甕。石器における石斧と石鏃は「形式」の差となります。形式の多くは特定地域に限定されず、型式の枠を越えて広範囲に広がる事が多く、こうした形式を捉える事によって、各地域における人間集団の生産活動や文化内容を知ることが出来ます。日本においては型式と形式が同音語であることもあって、従来両者を曖昧にして使うことがありましたが、小林行雄による『弥生式土器研究』の中で理論的に深められ、形式と型式が別概念である事を確認されていきました。⑶


 要は型式と形式の違いを考えるより、typeとformと言い換えた方が分かりやすいかも知れません。



〇共存関係(150頁)

『一遺物の先後を型式学的に順序しても、この過程は未だ安全とは言えない。単に型式としての先後を示すに過ぎず、相対的年代の新古を推定するには更に該遺物と共存(coexistence)する他遺物の型式学的順序が、これと並行するか否かを検証しなければならない。この並行的事実(parallelism)が多くなるに従って、漸く安全性を増加する。即ち型式学的配列の推定は、寧ろその性質が横的になるに、この共存関係における並行的事実を究めるに従い、縦的、則ち時間的先後を示すものとなる。またある種の遺物は型式学的順序を立て難い場合と云えども、この並行的事実により、型式の先後の順序を推定し得る。

 型式学的にある遺物が順序が定まったものをABCDEとして、他の共存遺物で型式的順序の不明なものをabcdeとした時、相互関係が次の様に相関関係がある。


(I)A-a B-b C-c D-d E-e

(Ⅱ)A-a B C-b D-c E-e


 中間或いは欠落があり、錯倒のない並行を重ねる事数多くあることに従い、その確実性を増す。(上記例ではⅡよりもⅠの方が確実性が高い)もしこの並行において


(Ⅲ)A B-b C-a D-d E-c

(Ⅳ)A B-c C-a D-e E-d


 の様な錯倒があれば、そのいずれかの型式順序の設定に誤謬があることを示す。

 型式学的研究は器物の形状紋様などの簡単であるものにおいて、その研究は容易且つ適切な結果を得られるが、型式の複雑な結合よりなる美術的作品における様式(style)に至りては作者個性その他の要素が加わり、その研究が一層困難になる。』



〇様式(151~152頁)

『考古学において、様式スタイルとは一つの美術作品において視識し得るべく多くの形式の総括的外観("Die Cesamterscheinung der

sichtbaren Formen eines Kunstwerkes"-Bulle)を言う。その型式中重なるものは材料(material)手法(technique)及び狭義の形式(form)などなり。』


 形式に関しては既出(型式学的方法の説明参照)。本書の様式の説明だと分かりずらいですが、様式(style)とは考古資料を分類する基準となる概念の一つで、本来は美術研究史で使われていました。中谷治宇太郎は型式よりも細かい変化を捉える概念として採用し、小林行雄は弥生時代の編年体系の作成に様式を使い、その方法論が確立しました。分類過程としては中谷氏は「形式→型式→様式」で小林氏の場合「様式→(形式)→型式」と異なり、様式そのものの捉え方が抽象的にならざるを得ないことも手伝い、様式の概念は各研究者の対象とする時期により異なり、統一されていないのが現状とのこと。⑷


 本書では型式様式による時代決定(166頁)を『考古学者が応用する時代決定の方法であるが、確実性は必ずしも一致せず』『危険を伴うものである』とも警告しています。



〇土俗学的方法(152頁)

『古代の遺物がその制作方法が明らかな場合等において、これを類推比較の方法により説明する事がある。しかも考古学の研究においては、現今同一文化程度にある民族間における土俗品中に、その比較資料を発見し、これが解釈の鍵鑰けんやく(出入りの要所)を発見することが多く、同一器具技術を有する現存民族中に、その使用方法の実際を髣髴ほうふつし得る。又同一民族間に在っても、一地方において既に絶滅した考古学的器具或いはその用途が、他の地方においてはなお土俗品として残存する場合がある。これらの方法により研究を称して土俗学的方法(Ethno graphical method)という。即ち同一境遇、同一文化の程度にある人類は、同一もしくは類似の技術を有し、もしくは器具を使用するとの推定により、発足するものにして、この方法の応用において、人類土俗学上の知識を借り、これら諸学の協力を俟つことが最も大きい。』


 この「土俗学」という言葉は今日使われていませんが、要は現在の民族学あるいは民俗学の事です。考古学でこの学問を利用した事例を一つあげると、正倉院宝庫室に保管されている矢じりの材料として、竹の鏃とともに骨の鏃が使われており、『魏志倭人伝』によれば竹や鉄とともに骨も鏃が使われている事が伝わる他、『隋書倭国伝』でも骨の矢鏑が使われていたことが書かれています。東北地方では古墳時代だけでなく、多賀城の時代に至るまで骨の鏃が使われていた可能性があるそうです。これは一般的に革の鎧が使われていた為に骨の鏃が長い間使われる要因になったらしく、N=S=ローリー氏はアメリカ北西海岸で、各種の鎧、弓矢、矢じりで実験を行い、打製・磨製石器の矢じりは皮鎧を貫通せず、骨の矢じりは皮鎧を貫通し、骨の矢じりの貫通力の高さを証明したという民俗例を紹介されていました。⑸

 他に中国正史に登場する倭人の記事と中国や東南アジアの少数民族との民俗を比較する事例を多く紹介している著書としては、文化人類学者の鳥越憲三郎氏の『中国正史 倭人・倭国伝全釈』(中央公論社)が挙げられ、他の倭人伝の注釈書類とは一線を画した内容になっています。(物部・葛城王朝云々だけはスルーすべきですが倭人伝関連の書籍では一番のおススメです。)


 なお、過去に取り上げました様に、江上波夫氏は民俗学を騎馬民族説の補強に利用しましたが、西郷信綱氏は江上氏が点と点を結び付けて推理的に図形をつくりあげようとしていることに疑問を抱き、その寛大な解釈に甘えず、それぞれの学問に要求されるはずの禁欲と自制の枠を踏み越えた節々がみえると警告を発しています。⑹



〇相対的年代と絶対的年代(156頁)

『考古学的研究において、最も重要にして、且つ殆ど最終の目的とするものは、その資料の時代決定(Dating, Zeitbestimmung)である。層位的方法、型式学的方法の如きも、畢竟ひっきょうこの最終目的の爲に使用されるものに他ならない。

 時代決定には相対的年代(Relative chronology)と絶対的年代或いは実年代(Absolute chronology)の二別があり、前者は各遺物間における新古先後の関係を示すもので、その決定は層位学研究、又は型式学的研究により、これを明らかにすべきだが、その間に何ら正確な時間的標準が無く、今より何年以前に属するか等について語る所が無い。絶対年代はこれに反して新古の順序以上に、今より何年以前になるかを紀年により明らかにするものを言う。

 考古学上時代の決定に際して、実年代といえども何年と言う確実な年を挙げる事は、困難な場合が普通である。或いは文化的時代(奈良朝平安朝の如き)或いは紀元何世紀の如き大きな年数の単位によりこれを決定することは多々ある。我が国の考古学研究においては、これを支那、その他諸国のそれとの比較上、西暦世紀を用いて表すを頼りとす。』


 例えば、層位学的研究で、地層の上の層と下の層では一般的には上の層の方が年代が新しいので、上の層から出土した遺物の方が下の層の遺物より、相対的年代があたらしくなります。この様に、相対的年代とは遺物同士の新旧に過ぎません。

 それに対し、絶体的年数は例えば七支刀なら「泰和四年」の記銘からほぼ実年代(東晋海西公の泰和四年・西暦三六九)が分かりますが、この様な例は極めて稀で、殆どの遺物では何世紀のいつ頃という表現にとどまる場合が多いです。

 しかし、例えば箸墓古墳の場合、築造時期が三世紀中頃~後半とも言われていますが、邪馬台国畿内説論者の様に『魏志倭人伝』の卑弥呼死亡時期の記事を利用する事で、より近い実年代を導き出そうとする研究もあります。



〇記銘文献による年代決定(161頁)

『絶対的年代決定の最も確実な場合は遺物そのものに記銘があり、実年代を語るもの、及び該遺物の年代を確実な文献により、これを証明することを得る時を以て第一と為す。前者においては記銘そのものが果たして当初より存在するものであるか否かを確かめることを要すべく、後者においてはその文献の確実性を明らかにしなければならない。この類の記銘に往々にして偽造後刻あり、文献の価値はまた一つではないからである。又、記銘ありと言えども、年代を記する事無く、単に字体文章の体裁を以て時代を推知する場合は、一種の様式学的方法に近いものになるを以て、その決定の妥当性は自ら同じにならざるを知るべきである。』


 前稿では取り上げていませんでしたが、これも考古学と歴史学(文献学)を結びつける重要な手法と言えるでしょう。前項(相対的年代と絶対的年代)の説明で、当方が挙げた七支刀の銘文が典型的な例と言えます。本書では具体例の一つとして、『法隆寺金堂薬師像がその背銘により、推古天皇十五年(六〇七)のものを知るが如きは、遺物それ自身の記銘が実年代を語るものの例なり』とありますが、現在は後世の追刻説や西暦六二三年説などもあり、実年代がはっきりしていません。


 なお、金石文・紀年銘に関しては後藤守一の『日本歴史考古学』⑺に詳しく載っています。



〇遺物の存在場所に依る年代決定(162~164頁)

『遺物そのものに記銘なく、これに関する文献の記載が存在しなくても、遺物存在の場所の時代が、文献記録その他の証明された場合に、その場所、その地層より発見された遺物を以て、その場所の年代に当て嵌める事で得る事が可能。即ち層位学的研究結果を文献と照合する場合に他ならない。勿論この際該地層位の年代決定に何らの異論なく、遺物が始めより該所に存在して、少しも攪乱させられたことが無いことを要す。共存遺物が年代決定に最も有力にしてしかも簡単な場合は、記銘のある貨幣の伴出である。』


 記銘のある貨幣とは、例えば和同開珎といった所謂「皇朝十二銭」等がこれに当たります。中国の古銭を利用した事例は次項(絶対的年代決定の可能と不可能)を参照。


『奈良大安寺の境内に在する前方後円墳(杉山古墳)は天平19年の資材帳及び古図により、また奠都てんと(都を定めること)以来この如き墳墓を平城京内に営む事を以て、少なくてもその存在位置より奈良時代以前のものたるを知る、この種の時代決定の一例である。』


 因みに杉山古墳は、史跡の説明板によれば古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定されるとのこと。



〇絶対的年代決定の可能と不可能(168頁)

『絶対的年代の実数は、凡そ記銘その他の文献的資料が一方に存在する場合においてのみ、これを層位学的・型式学的などの研究結果と照合して知り得るべきものであれば、文献的資料が全く欠如する場合においてはもとよりこれを明らかにすることが不可能である。但し文献資料は直接に存在しなくても、絶対年代もまた間接的に推定し得る。例えば一国において文献を欠くも、これと関係のある他国において文献を用いて確証可能な遺物があれば、その伴出関係により時代を決定するのは必ずしも不可能ではない。

 我が石器時代もしくは金石併用時代(現在で言う弥生時代)の年代は、我国に文献を欠くも筑前丹波などの遺跡より発見させられる王莽の貨泉によりその絶対年代推定の一資料を得たり。又、記銘のある支那鏡の存在によりてこれを推測し得る。即ち他国の遺物より間接的に決定し得る場合の一例である。』


 例に挙げられている「貸泉」とは中国の新(AD8~23年)の王莽(おうもう)が制定し、⻄暦14年(もしくは20年)~40年の間に鋳造された円形⽅孔の銅銭。⽇本の弥生時代後期後半~古墳時代初頭の遺跡から出⼟することが多く、鋳造年代が限られていることから、弥⽣時代の年代を決める定点を与えている。ただ、中世に中国から大量に輸入された銅銭に混入している場合もあり、出土品の全てが弥生時代に日本にもたらされたとは限らないそうです。⑻


 又、上記の「記銘のある支那鏡」とは恐らく1909年以降に発掘され始めた三角縁神獣鏡のことで、「□和元年陳是作鏡」から始まる銘文が刻まれています。本書の時代では西晋の「泰和たいわ」(265年)或いは南宋の「泰始たいし」(465年)説を取っていたらしいですが、国文学研究者の山田孝雄が三国時代の魏の「正始せいし」(240年)に当て嵌め、大正末年から昭和初年には殆ど「正始」説に転向し⑼定説になりましたが、現在、三角縁神獣鏡に関しては国内で製造されたという説や、一九八六年に「景初四年五月丙午日」という実在しなかった可能性がある年号を冒頭に掲げた銘文が刻まれた鏡が発見された事などにより、様々な議論があります。



◇纏め

 前稿の内容(考古学と歴史学の関り)も踏まえ、研究の手順を並べると以下になります。


〇順列及び相対的年代を決定する手順

➀層位学的研究

②型式学的研究

③共存関係

④土俗学(民族・民俗学)

*➀が使えない場合は②から行う。

*型式(type)・形式(form)・様式(style)があり、順序は学者により異なるそうです。

*この時点では敢えて文献資料は使用しません。


〇絶対的年代を決定する方法

➀記銘文献、古銭(一次資料)

②編纂史、碑史小説(二次資料)

③遺存物の場所

④型式様式

*これ以外に化学的手法なども含まれます。

*本書にはありませんが、➀②に関しては、「資料の等級」といい、文献学においてはもっと細かい分類を行います。坪井九馬三の『史學研究法』⑽に詳しいのでそちらをご覧ください。


 又、研究手順の具体例として『日本考古学大系』⑾では晝象鏡の研究において、型式分類→年代の推定→相対的年代→絶対的年代で推定が行われているので参考にしてください。



 以上、重要そうなものや、現在訂正すべき用語や事例、現在の成果による具体例を取り上げてみました。

 考古学的な知見を利用する際、どうしてもその結論ばかりに囚われがちですが、どの様な研究手法により導き出されたものであるのか改めて確認し、信頼に足るか確認することも必要かもしれません。


 本書は本稿で取り上げた以外にも、測量や発掘方法など多岐に渡る内容なので、興味をお持ちになられた方は是非ともご覧ください。


 え、歴史学の方の研究方法や専門用語解説もこの位詳しくやれって?


 その様なご希望の方は参考文献にある坪井九馬三の『史學研究法』を読んでください(マテ)





◇参考

『通論考古学』浜田耕作 大鐙閣 大正11(著作保護期間満了)

https://dl.ndl.go.jp/pid/964457


⑴『日本考古学小辞典』江坂輝彌・芹沢長介・坂詰秀一 ニューサイエンス社

「歴史考古学」330頁

⑵『史學研究法 改訂増補3版』坪井九馬三 京文社

https://dl.ndl.go.jp/pid/1886173/1/42

⑶『日本考古学小辞典』江坂輝彌・芹沢長介・坂詰秀一 ニューサイエンス社

「形式」102頁

⑷『日本考古学小辞典』江坂輝彌・芹沢長介・坂詰秀一 ニューサイエンス社

「様式」321~322頁

⑸『魏志倭人伝の考古学』佐原真 岩波文庫

⑹『古事記研究』西郷信綱 未来社 111~112頁

⑺『日本歴史考古学』後藤守一 四海書房

https://dl.ndl.go.jp/pid/1918046/1/18

⑻兵庫県立考古博物館 公式サイト「13.貨泉(かせん)」より引用

https://www.hyogo-koukohaku.jp/modules/info/index.php?action=PageView&page_id=66

⑼『集英社版 日本の歴史② 倭人争乱』田中 琢 (著) 集英社 224頁

⑽『史學研究法 改訂増補3版』坪井九馬三 京文社

https://dl.ndl.go.jp/pid/1886173/1/182

⑾『日本考古学大系 第2期 第1巻』雄山閣

https://dl.ndl.go.jp/pid/1020256/1/98

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