書評 名著『通論考古学』(浜田耕作)による考古学と歴史学の関係

◇『通論考古学』とは?

 『通論考古学』は京都帝国大学において日本ではじめて考古学の研究室を創設し、黎明期の考古学会で大きな功績を残された浜田耕作氏の著書です。


 かつて江上波夫氏も名著として取り上げた本書は、初版が大正11年と古い書籍であり、当然のことながら使われている用語も古い場合が多い為、現在との違いも留意する必要もありますが、考古学の基本的な考え方や手法を知るには現在でも充分に参考になる書であり、現代の下手な入門書よりも参考になる事が多いかも知れません。


 浜田氏は序論「考古学とは何ぞや」において「考古学は過去人類の物質的遺物により人類の過去を研究する学なり」と定義したように、考古学は過去の人類が残した物質文化を中心に、それぞれの時代の生活環境を復原できるあらゆる資料を駆使して、その時代の人類の生活環境を全般的に復原を試みるのを最終目標の一つであるという事かと思われます。


 本エッセイはあくまでも文献資料、特に記紀とその周辺文献により上代史を紐解くのが目的の為、考古学的な手法の詳細については必要最低限しか取り上げないので、詳細は本書をご覧頂ければと思いますが、本書による考古学と歴史学(文献学)の関係については取り上げてみます。



◇考古学と歴史学の関係

 本書において考古学と関係が深い学科として化学・地質学・人類学そして史学を取り上げています。


 中でも史学については、先史考古学の研究において、地質学や人類学が最も重要な関係を有するが如く、史後の考古学において密接な関係を有するのは言うまでもなく史学もしくは文献学であり、物質的遺物を以て人類の過去を研究する学なれば、広義の史学の一分科と見るべく、又、狭義の史学は主として文献的資料を以て、同じく人類の過去を研究することを目的とするのを以て、原義の考古学の一部面と見るべきであり、この両者が相依り相助て、その両方面の研究を総合して初めて人類の過去の研究をまっとうするとあるように、歴史学においても考古学的な知見は無くてはならないものとのことです。


 歴史考古学(現在の考古学では原始考古学・先史考古学・歴史考古学という区分法に問題があることと、本来物質資料を主な研究対象とする考古学と言葉に矛盾がある為、受け入れられていない言葉らしいですが)において、遺物遺跡の絶対年代を明らかにし、其の製作者の人名種族名国名等を知るには必ずこれを文献の証左にすることはたず、その関係は親密であると言います。


 文献についてはミハエリスの「主として主観的要素より成れる様式論の盛んなるに従ひ、文献学的金石学的研究の助を借り、その節制を受くる必要を生じ、また之によりて堅実の度を増すに至るべし」とプーレの「文献学的基礎無くしては、考古学者は殆ど一歩も進むることは能はず」と両氏の言葉を引用し、「歴史時代の考古学に於いて全くあたれるを覚ゆ」と賛同なさっています。


 但し、浜田氏は手放しで文献の価値を認めていた訳ではありません。同時代の文書記録と、後世の編纂物或いは稗史小説の類にはその差があり、考古学者が文献を利用とする際には先ず文献の性質を批判し、根本史料として価値のあるものを以て、絶対年代決定等の材料となすべきであり、然る資料が無く、後世の編纂物等を有するのみの時は、これを利用して決定する絶対年代また其の確実性に欠けるところが多いと主張なさっています。


 これは本エッセイで取り扱うような文献で具体的な例をあげれば、前者が七支刀・稲荷山古墳鉄剣・江田船山古墳出土鉄刀や広開土王碑といった所謂一次資料と呼ばれる物で、後者は記紀や風土記のような二次資料ということになります。(如何に二次資料であっても一次資料か、或いは二次資料が引用した文献等から古い用字を調べることで史実性をある程度検証する事も可能な場合もありますが)この考え方は歴史学でも取り入れられており、例えば戦後盛んに行われた郡評論争などは、藤原京跡から発掘された一次資料の木簡により論争の終止符を打たれたという出来事もある様に、現在でも基本的な認識となっています。


 遺物自身に記銘が存在する場合、考古学者の研究は先ず自己の発掘に関わる層位学的(地質学的の地層塁重の法則、つまり古い層程下で、新しい層程上。遺物が発見された地層により年代を推定する。)な方法で相対的な年代を決定し、型式学的(同形式と認め得る資料を取り上げ、その中における相違点と類似点を摘出し、共通の要素を持つ幾つかの形式に分類する)方法で型式様式の順列を作るべく、この間は敢えて文献資料の援助を借りず、ただ純粋に物質的資料に依る研究を遂行し、その相対的年代の決定が終わり、型式順列の推定されるに至り、始めてこれを他の文献資料に依る研究の結果と適合するか否かを検査すべしとのこと。


 もし適合する場合は考古学的、文献学的研究の両方に誤りのない事を証明するものになるが、相反する場合は両者いずれかに誤謬があることを意味し、この際考古学者はその文献的資料に依る研究が果たして正確か否かを検討し、幾何のユトリ(意味が分からなかったので原文ママ)をその決定に取り扱うべきか明らかにすると同時に、その考古学的な研究の方面にも何らかの誤謬が無いか、幾何のユトリその相対的年代型式の順列に見出せないか検査を要する。もし文献が根本的資料に属し価値が最も大きい場合は、この順列が可能的(possible)の範囲内において、文献と合致すべき移動を試みるべく、しかも不可能(impossible)な範囲に及ぶに要せず。しかる場合においてはその文献的資料を疑うことが可能であり、もしこれに反して文献的資料の価値が少ない場合にあっては型式順列を最も真実らしい(most probable)程度に止めて、それ以上の返還を行う事を要せず、直にその文献の価値を疑問とすべし。また両者共に一方を制御するだけの価値が無い時は両説を立して其の決定を将来の資料の発見に待つべきであるとのことです。


 上記引用は若干現代風に言い換えましたが、正直この文だと分かりずらいかと思います。ですが、本書では具体的に当時活発だった法隆寺の再建非再建の議論を取り上げており、この例で見ていくと少しは理解しやすくなるかと思います。以下に該当する天智天皇紀を引用し、続けて本書を要約していきます。



⑴『日本書紀』巻二七天智天皇九年(六七〇)四月 壬申卅日

夏四月癸卯朔。壬申。夜半之灾法隆寺。一屋無餘。大雨雷震。

夏四月なつうづきの癸卯みづのとのうのついたち壬申みづのえさるのひ夜半之後あかつき法隆寺ほふりうじひつけり。一屋ひとつのいへもあまる無し。ひさめふる雷震いかつちなる。)


 上記の様に『日本書紀』では天智九年に法隆寺が焼失した事が書かれていますが、推古朝の遺物が多数金堂に保存されており、大火の存在をprobable(有り得べき)であるとしなくても、impossible(不可能)とすることは出来ず、これと同時に書紀の記事はこれを信じるべしとするにも「一屋無餘」なる文字を文字通り採用するべきかは疑問である。様式論より見れば、非焼失とするを以てmost probable(最も真実らしい)となすも、天智の時代に焼失後に再建されたとするのも、必ずしもimpossibleには非ざる。非消焼論者は更に強力なる考古学的資料を境内発掘の方法などによって提出しなければ、火災存在のimpossibleなるを立証する事は出来ないとのことです。


 つまり、法隆寺が焼失したら金堂に保存されている推古朝の遺物も焼失したのではないかと書紀の記述を疑うことが出来ても、必ずしも大火が無かったと(impossible)する事は出来ず、かと言って書紀の記述を信じるにも様式論から見れば非焼失が最も可能性が高い(most probable)が、天智の時代に再建されたことを必ずしも否定(impossible)できず、非焼失論者はこの件に関してはもっと有力な考古学的資料が必要であると述べられています。


 本書では法隆寺の廻廊附近の発掘結果から関野貞氏による非消失の新資料を提出したという伝聞を取り上げており、本書でいう「火災存在のimpossible」を立証すべき動きが実際にあった様です。


 この後、主に建築様式から非焼失説を掲げる関野貞氏等と文献重視の立場から焼失説を掲げる喜田貞吉氏等によって論争が盛んになりますが、結論から言えば、1939年に行われた若草伽藍址の調査により、法隆寺が再建されたものである事が証明され、論争に終止符を打ちます。詳細は以下の資料などで概要を知ることができます。

 

・『法隆寺 : 大和路』新井和臣 編 近畿観光会

https://dl.ndl.go.jp/pid/1055701/1/10

・法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告

https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14502


 本書よりも後世の出来事であり、本書の筋と外れるので興味をお持ちの方は上記をご覧頂ければと思いますが、極々簡単に経緯を述べれば、明治年間に法隆寺近くに住んでいた北畠男爵家が搬出した心礎が様々な人を経て、1939年に法隆寺に返還されることになり、心礎を本来の位置に据える希望を持っていた法隆寺の期待に応えるべく行われた発掘調査がこの論の決着をつけるきっかけとなりました。奇しくも本書にある「両者共に一方を制御するだけの価値が無い時は両説を立して其の決定を将来の資料の発見に待つべき」機会がこの時に訪れたようです。なお、再建非再建論自体は終止符を打ちましたが、近年の調査によれば法隆寺が焼けたのは西暦670年以前との結果であった事により、別の論点から天智天皇紀の記述が疑念を抱かれている様です。当初の論点とは変わってしまいましたが、考古分野による文献批判により一つの史実を解き明かした一つの好例になったと言えます。


 因みに、本書よりもずっと後の話になるかと思いますが、考古学会では「峻別派*」と言い、考古学的な立場から文献を軽視、或いは一切無視する学者のグループがあるらしく、当方も記紀を「利用せざるを得ない」「全く信用できない」と言った調子で見下した著書を幾らか拝見したことがあります。本書の手法を取れば、かと思いますが、文献に頼らなければ本書の引用したミハエリスがいう「」に陥る可能性も自覚すべきかと思います。(考古学的な立場からすれば考古学を文献学の傍注的な扱いとすることを良しとしない自尊心もあるのかと思います。まぁ、文献学の大家の津田左右吉先生が記紀を始めとする上古文献を片っ端から否定した影響で考古学が必要以上に持て囃されたという面もあるので、ある意味文献史学側の自業自得とも言えますが……。)


 当方の様なアマチュアが敢えて無責任な提言をするのであれば、文献だろうが考古物だろうが、史実を解き明かす為であれば、使えるものは全て使ってしまえと思います。考古学と文献学を無理に結びつける危険性も叫ばれていますが、折角残されている貴重な文献資料を使用しないのは寧ろ怠慢の様に思えます。伝統的なアカデミズムに縛られている部分もあるのでしょうし、外野が言う程容易くはいかないでしょうが。と、余計な話が多くなりました。


 本稿ではエッセイの性質上、主に歴史学(文献学)との関係にのみフォーカスしましたが、他学との関り(個人的には人類学が興味深いです)や研究方法・分類など他にも参考になる事が多く、是非とも本書をお勧めしたいと思います。



*峻別派……峻別派に関しては本文参照。白石太一郎氏によれば、「峻別派」に対して考古学と文献学を総合する立場を「総合派」と言い、誤解を恐れずに大胆に言えば、東大系の考古学の先生方には「峻別派」が多く、京大系の先生方には「総合派」が多く、これは東大で明治の初めのエドワース・S・モースの大森貝塚の発掘にはじまる考古学研究は理学部の人類学教室に受け継がれ、縄文時代を中心とする石器時代の研究に大きな役割を果たしていた為であり、これに対し京大では、考古学は文学部の史学科に置かれ、史学科の先生方は近畿各地の史跡の調査などでも、文献史学と考古学の協議をはやくから実践しておられたとの事。⑵


 何やら邪馬台国畿内説派と北九州説派による不毛な学閥争いを思い起こさせます。それはとにかく、東大でも文献資料にも明るかった後藤守一氏の様な例外の方は居られたようですが、こうした事情を見た限り、文献資料が登場し始める古墳時代以降の実績は総合派の方に分があるのではないかと思われても仕方がないのではないでしょうか。




◇参考

『通論考古学』浜田耕作 大鐙閣 大正11

https://dl.ndl.go.jp/pid/964457


⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/250


⑵『考古学と古代史のあいだ』白石太一郎 ちくま学術文庫 29-30頁

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