神武天皇の史実と実在性

神武天皇東征の史実性と英雄時代論

 本稿で101話目投稿になります。メモリアルな回(?)ということで、本稿ではついに神武天皇について取り上げてみます。

 迂闊に取り上げると左右両方からクレームが来そうで正直に言って大変メンドクサイテーマなのですが、ここまでお読みになられた方でしたら、つまないイデオロギー的なツッコミはなさらない大人な方々だと信じていますので、宜しくお願い致します。


 なお、あまりにも負担なことと冗長になりがちな為、最近は記紀の引用文に概略と称した現代語訳を付していませんが、お手持ちの現代語訳テキストをご参考になさるか自力で解読してください(マテ)

 或いは『古事記』に関しては初の近代的な注釈書と言われていた以下の書の利用をお勧めします。


・『古事記新講 改修5版』次田潤 明治書院(著作権切れ)

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1920824


 原文・訓読文・訳が揃い、内容が古く文献批判も現代のものと比べれば緩いとは言え、喜田貞吉や白鳥庫吉、そして津田左右吉等の説の引用もあるなど、当時(初版の大正時代末頃?)の歴史学・考古学・民俗学的な見解が反映され、注はかなり充実しており研究史の一環として古い説の概要を知るには便利ですし、索引もありと、とにかく何でもありの内容の爲、かなりお勧め(というかこの充実ぶりは戦後のどの注釈書にもありません)なので、『古事記』の注釈書や現代語訳をお持ちでない方はダウンロードしておくと便利かと思います。


 語句に関しては以下の辞典も参考になるかと思います。


・『日本古語大辞典 : 続訓詁』松岡静雄 編 刀江書院 昭4

https://dl.ndl.go.jp/pid/1176550

・『日本古語大辞典 [正] (語誌篇) 増補版』松岡静雄 編 刀江書院 1937

https://dl.ndl.go.jp/pid/1870643

・『新編日本古語辞典』松岡静雄 刀江書院 昭12

https://dl.ndl.go.jp/pid/1207239


 地名については多くの学者が使用していた『大日本地名辞書』が便利かと思います。


・『大日本地名辞書 上巻 二版』吉田東伍 著 冨山房 1907/10/17

https://dl.ndl.go.jp/pid/2937057

・『大日本地名辞書 中巻 二版』吉田東伍 著 冨山房 1907/10/17

https://dl.ndl.go.jp/pid/2937058

・『大日本地名辞書 下巻 二版』吉田東伍 著 冨山房 1907/10/17

https://dl.ndl.go.jp/pid/2937059




 それでは前置きが長くなりましたが、『古事記』の神武東征伝承と諸説を見ていきましょう。




⑴『古事記』中巻 神武天皇即位前記

神倭伊波禮毘古命。〈自伊下五字以音。〉与其伊呂兄五瀬命〈上。伊呂二字以音。〉二柱。坐高千穂宮而議云。坐何地者。平聞看天下之政。猶思東行。即自日向発。幸行筑紫。故到豊國宇沙之時。其土人。名宇沙都比古。宇沙都比売〈此十字以音。〉二人。作足一騰宮而。献大御饗。自其地遷移而。於竺紫之岡田宮一年坐。亦從其國上幸而。於阿岐國之多祁理宮七年坐。〈自多下三字以音。〉亦從其國遷上幸而。於吉備之高島宮八年坐。故從其國上幸之時。乗亀甲為釣乍。打羽挙来人。遇于速吸門。爾喚帰問之。汝者誰也。答曰。僕者國神。又問汝者知海道乎。答曰能知。又問從而仕奉乎。答白仕奉。故爾指度槁機。引入其御船。即賜名號槁根津日子。〈此者倭國造等之祖。〉故從其國上行之時。経浪速之渡而。泊青雲之白肩津。此時。登美能那賀須泥毘古。〈自登下九字以音。〉興軍待向以戦。爾取所入御船之楯而下立。故號其地謂楯津。於今者云日下之蓼津也。於是與登美毘古戦之時。五瀬命。於御手負登美毘古之痛矢串。故爾詔。吾者為日神之御子。向日而戦不良。故負賎奴之痛手。自今者行廻而。背負日以撃期而。自南方廻幸之時。到血沼海。洗其御手之血。故謂血沼海也。從其地廻幸。到紀國男之水門而詔。負賎奴之手乎死。為男建而崩。故號其水門謂男水門也。陵即在紀國之竃山也。(中略)


於是亦高木大神之命以。覺白之。天神御子。自此於奥方莫使入幸。荒神甚多。今自天。遣八咫烏。故其八咫烏引道。從其立應幸行。故随其教覺。從其八咫烏之後幸行者。到吉野河之河尻時。

(中略)


自其地幸行。到忍坂大室之時。生尾土雲訓云具毛。八十建。在其室待伊那流。〈此三字以音。〉故爾天神御子之命以。饗賜八十建。於是宛八十建。設八十膳夫。毎人佩刀。誨其膳夫等曰。聞歌之者。一時共斬。故。明将打其土雲之歌曰。

意佐賀能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 

久夫都々伊 伊斯都々伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀久夫都々伊。伊斯都々伊母知。伊麻宇多婆余良斯如此歌而。抜刀一時打殺也。

然後将撃登美毘古之時歌曰。

美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曽泥賀母登 曽泥米都那芸弖 宇知弖志夜麻牟

又歌曰。

美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇恵志波士加美 久知比久々 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟

又歌曰。

加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟

又。撃兄師木。弟師木之時。御軍暫疲。爾歌曰。

多。那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比多々加閉婆 和禮波夜恵奴 志麻都登理 宇加比賀登母 伊麻須気爾許泥

故爾邇藝速日命參赴。白於天神御子。聞天神御子。天降坐故。追參降来。即獻天津瑞以仕奉也。故邇藝速日命。娶登美毘古之妹。登美夜毘売生子。宇麻志麻遅命。〈此者物部連。穂積臣。婇臣祖也。〉

故。如此言向平和荒夫琉神等。〈夫琉二字以音。〉退撥不伏之人等而。坐畝火之白檮原宮。治天下也。


神倭伊波禮毘古かみやまといはれびこの命、其の同母兄いろせ五瀬いつせの命と二柱、高千穂の宮にましまして議りたまひしく、『いづれのところのまさばか、天の下の政をば平けく聞しめさむ。猶東に行かなと思ふ』とのりたまひて、やがて日向よりたして、筑紫つくしに幸でましき。かれ豊國の宇沙に到りまし時に、其の土人くにびと名は宇沙都比古・宇沙都比売二人、足一騰あしひとつあがりの宮を作りて、大御饗おほみあへ献りき。其地そこより遷らして、竺紫つくしの岡田の宮に一年ましましき。また其の國より上り幸でまして、阿岐あぎの國の多祁理たけりの宮に七年ましましき。また其の國より遷り上り幸でまして。吉備の高嶋の宮に八年ましましき。かれ其の國より上り幸でます時に、亀のに乗りて、釣しつつ打ち羽振り来る人、速吸はやすひに遇ひき。かれ喚びよせて、『いましは誰そ』と問はしければ、『僕は國つ神なり』とまをしき。『また汝は海つを知れりや』と問はしければ、『能く知れり』とまをしき。『またみともに仕へまつらむや』と問はしければ、。『仕へまつらむ』とまをしき。かれすなはちさをを指しわたして、其の御船に引き入れて、槁根津日子さをねつひこといふ名を賜ひき。〈こは倭國造等が祖なり〉。かれ其の國より上り行でます時に、浪速なみはやわたりを経て、青雲の白肩の津にてたまひき。この時 登美とみ能那賀須泥毘古ながすねびこ、軍を興して、待ち向ひて戦ひしかば、御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。かれ其の地をなづけて楯津と謂ひき。今に日下くさかの蓼津というへり。ここに登美毘古と戦ひたまひし時に、五瀬の命、御手に登美毘古が痛矢串いたやぐしを負はしき。かれここに詔りたまひしく、『吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふことふさはず。かれ賎奴やつこが痛手を負ひつ。今より行き廻りて、日を背に負ひて撃たむ』と、ちぎりたまひて、南の方より廻り幸でます時に、血沼ちぬの海に到りて、其の御手の血を洗ひたまひき。かれ血沼の海とはいふなり。其地より廻り幸でまして、紀の國のの水門に到りまして、詔り給ひしく、『賎奴が手を負ひてや、命すぎなむ』と、男建をたけびしてかむあがりましき。かれ、其の水門を男の水門といふ。みはかはやがて紀の國も竃山かまやまにあり。

(中略)


ここにまた高木の大神の命もちて、さとし白したまひしく、『天つ神の御子、ここより奥つ方にな入りたまひそ。荒ぶる神いと多かり。今天より八咫烏やあたからすおこさむ。かれ其の八咫烏やあたからす導きなむ。其の立たむしりより幸でますべし」と、かれ其の御教みさとしまにまに、其の八咫烏の後よりでまししかば、吉野よしぬ河尻に到りましき。

(中略)


其地より幸でまして、忍坂の大室に到りましし時に、尾ある〈訓みてぐもと云ふ。〉八十建やそたける、其の室にありて待ちいなる。かれここに天つ神の御子の命ももちて、八十建に御饗みあへを賜ひき。ここに八十建に宛てて、八十膳夫やそかしはでを設けて、人毎にたち佩けて其の膳夫どもに『歌を聞かば、一時もろともに斬れ』と誨へたまひき。かれ其の土雲を打たむとすることを明せる歌、

忍坂の 大室屋に

人多さはに 入り居り

人多さはに 入り居りとも

みつみつし 久米の子が

頭椎くぶつつい 石椎いしつついもち

撃ちしてやまむ

みつみつし 久米の子等が

頭椎くぶつつい 石椎いしつついもち

今撃たばらし。


かく歌ひて、刀を抜きて、一時に打ち殺しつ。

然る後、登美毘古を撃ちたまはむとせし時、歌ひ給ひしく、


みつみつし 久米の子等が

粟生あはふには 臭韮かみらもと

其根そねもと 其根芽そねめつなぎて

撃ちてしやまむ。


また歌ひ給ひしく、


みつみつし 久米の子等が

もとに 植ゑしはじかみ

口疼く 吾は忘れじ

撃ちてしやまむ。


また歌ひ給ひしく、


神風の 伊勢の海の

大石おひしに はひもとほろふ

細螺しただみの いはひもとほり

撃ちてしやまむ。


また兄師木えしき弟師木おとしきを撃ちたまひし時に、御軍 しまし疲れたりき。かれ歌ひ給ひしく。


楯竝たたなめて 伊那佐の山の

樹の間よも い行きまもらひ

戦へば 吾はや

島つ島 鵜養うかひとも

すけに來ぬ。


かれここに邇藝速日にぎはやひの命まゐ来て、天つ神の御子にまをししく、『天つ神の御子。天降りましぬとききしからに、追ひてまゐ降り来つ』とまをして、すなはち天つしるしたてまつりて仕へまつりき。かれ邇藝速日にぎはやひの命、登美毘古とみびこいも登美夜毘売とみやびめにに娶ひて生める子。宇麻志麻遅うましまぢの命。〈こは物部連。穂積臣。婇臣のおやなり。〉


かれかくのごと、荒ぶる神等かみども言向ことむけやはし。まつろはぬ人ども退け撥ひて、畝火の白檮原かしはらの宮にましまして、天の下 らしめしき。)




⑴解説

 神武天皇の東征の記事を一部取り上げましたが、ご覧の通り様々な問題を含んでいる為、現在は歴史的な事実とは考えられていません。津田左右吉氏は『古事記及び日本書紀の新研究』で皇室の発祥地がヒムカであるという事に対して、後世までクマソとして知られ、逆族の占領地として見られ、長い間国家組織に加わっていないかった日向、大隅、薩摩地方、またこういう未開地、物質の供給も不十分で文化の発達もひどく後れている僻陬へきすうの地であることに疑問を呈し、天つ神の御子は故郷は高天原であり、地にあっては日の出づる法に向かう国でなくてはならず、その宮は「朝日のたださす國、夕日の日てる國」に無くてはならない為、日の御神みづからの出生地が、そもそも日に向かうというヒムカで無くてはならなかったのである⑵と記事の史実性を否定した主張は戦後の歴史学で見直され、基本的な認識になりました。


 この説話を樋口清之のように部分的に史実の核を認めようとする立場や、王朝交代から話の形成を論じる林家友次郎、水野裕など、魏志倭人伝のヤマト国を北九州に比定した上で、それが畿内のヤマトの名称と一致するのを単なる偶然ではなく、北九州の勢力が東漸して大和朝廷の起源となったとする和田清・植村清二の見解や、神武天皇東征説話の根幹に歴史的事実を認めようとする見解もありますが、大和朝廷の九州からの東遷の想定に異論がある他、仮にその想定を前提とするにしても、それを神武天皇東が実在の人物であったこと及び東征記事が史実の伝承であったことを意味する訳でもなく、関晃は古代において、朝廷で神武天皇を特別に尊重する儀礼・慣例等がみいだされないことを理由に、その実在性を消極視している様に、否定的な見解が一般的に有力です。⑶


 神武東征は伝承の中で前半部の日向から難波にまでいたる伝承は具体的な内容が非常に乏しく、速水之門と菟狭宇佐とについて少しばかり内容をもった伝承がみられるものの、他については航路もしくは停泊地の地名・宮号・人名や滞在年数などが羅列されるばかりで伝承らしい伝承が記されておらず、伝承という観点からみると、地名や人名と言った固有名詞や滞在年数などの数詞はもっとも伝わりずらく、フィクションが強く感じられる事から、この部分は後になってから作られたと考えられるそうです。又、後半部の内容についても疑問を持たれており、大和へ至る経路に八咫烏が現われた際、大伴氏の遠祖、日臣命が皇軍の先導の役目を果たしていますが、壬申の乱の際に大伴氏の活躍が顕著であること、或いは壬申の乱で大友皇子側であった物部麻呂が後に天武朝で仕えたことは、大和統一伝承において物部氏の祖である饒速日命が、はじめは仲間であった長髄彦を後に殺害して神武に帰順したことと類似性がみられるし、神武も大海人皇子もともに大和統一の翌年に即位するという共通性から、神武の大和統一伝承は壬申の乱の時の大海人皇子をモデルにしているという説⑷はよく知られています。


 或いは、直木孝次郎氏は津田説を参照し、継体朝の歴史に関する記憶のまだ薄れていない六世紀前半ないし中葉、継体から欽明に及ぶ時代に、当時伝えられていた継体朝の歴史をモデルとして形を整えたものと考えられると主張し⑸、二十年間大和入りを果たせなかった継体天皇に擬える見解もあり、こちらもよく知られていますが、いずれにせよ後世の出来事の反映として神武東征説話が作成されたという見方が有力であり、史実とは見なされていないのが現状だと思います。


 一方、保守系の方による意見でよくあるのが宮崎県の旧地名「狭野」(現在の宮崎県西諸県郡高原町辺りか)という神武天皇の幼名を根拠に実在説を展開している方も居ますが、そもそも『古事記』には登場しない名であり、『日本書紀』でも正伝ではなく「一書」第一に紹介されているに過ぎません。この程度の根拠に依存し過去の識者達の所見を否定し、天皇家を南九州発祥とするのも無理があります。


 南九州で大和王権との繋がりを示す前方後円墳が造営されるのは、生目古墳群に存在する、四世紀前半(後半と言う説もあり)に造営された生目1号墳が最古のものであり、被葬者は景行天皇の皇子である豊門別命とよとわけのみこととも言われており、大和王権が南九州に影響力を及ぼすのはどんなに早くても景行天皇以降の時代かと思われ、日向諸県君牛諸井の娘、髪長媛が応神天皇に嫁ぎ服従(豪族が天皇に娘を嫁に出す話は一般的に天皇家への服従譚と解される)し、血族的にも繫がりが出来た後か、遅ければ七世紀末から八世紀に相次いだ隼人の反乱を正当化・懐柔する為に天皇家の祖がこの地に存在したとする伝承を創作した可能性も考えられます。いずれにせよ神武天皇が存在したと想定される時代に遡って繋がりを証明するのは困難かと思われます。


 中国文献を参考にした場合、『旧唐書』倭国伝では「倭國者古倭奴國也」つまり、「倭國はいにしえ倭奴國わのなこくなり」という記述なので、これを信じれば大和王権は『後漢書』の伝える倭奴國から発祥し、北九州(福岡県福岡市・春日市か?)から東遷した事になりますし、『隋書』倭国伝の「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」つまり、「邪靡堆やまとに都す。則ち『魏志』のう所の邪馬臺やまとなる者なり」もヤマト=北九州のヤマトと畿内のヤマトの名称の一致を北九州の勢力が東漸して大和朝廷の起源となったとする説に絡めて解釈すれば北九州の奴国→北九州の邪馬臺やまと→畿内の大和王権へ移動したと考えれば部分的には整合性がとれなくありません。


 古くは日向神話のヒコホホデミとホスセリの争いについて九州の二大勢力とみなし、北九州のヒコホホデミは九州北部を表し、ホスセリは南部の隼人国を表しているとみなしました白鳥庫吉の説⑹もありますが、近年、邪馬台国畿内説派からも2世紀頃は北九州が文化の中心であったのが、三世紀になってから畿内に移動したという主張⑺もみられます。


 又、和辻哲郎氏は津田氏の説に対して、「国家を統一する力が九州から来た」という物語の中核は作者の中核であろうかと疑問を呈し、鏡をはじめとする古墳の副葬品の組み合わせが、すでに北部九州で成立していることを根拠に、後の大和を中心とする国家をつくる勢力が西方からやって来たという記憶が、この説話を産み出したであろうとする仮説を提起しました。⑻


 考古学的な視点で、鉄器を指標にした場合、経済の中心は古墳出現直前の二世紀頃の段階で、集落からの鉄器出土量は九州北部が群を抜き、古墳時代に入ろうとする頃、九州北部・博多湾岸の博多遺跡群に新しい技術を持った鉄の工房があらわれ、それは大陸から入手した鉄の原材料を加工し、道具を作るための鍛冶へと振り向ける工程を担う為の大規模な施設ができ、鉄のあり方に反映する限りでは経済活動の中心は、古墳出現の時点では畿内でなく九州北部にあったと考えなければならないそうです。⑼


 弥生時代、九州北部が中国文化の受け入れ口であり、そこから九州一円やほかの地域にもたらされました。これは経済や文化の資源がまだ列島内で十分にまかなえなかった時期にその地の利を生かして、中心に立ちました。しかし、外来の文物や資源がしだいに行き渡り、列島内各地で新しい社会がおこって広域流通の経済が成立すると、列島西端の九州北部は、それらの中心となるには、あまりにも片寄った位置にありすぎ、瀬戸内海ルートから東海道・東山道ルートに至る東西交通の中間点に位置し、なおかつ北陸道など日本海沿岸へのルートの起点ともなり、さらには安定した平野や盆地が連なって農業生産や人口の重心ともなった畿内が、次の新しい社会体制の中心となるべく成長しました。⑽


 つまり九州→畿内に日本の中心が移動したことを、神武東征がこの事実を反映していると考えれば、整合性がみられなくもないですが、それでも神武一行が北九州とは別文化圏である九州の日向から出立する記紀の記述と乖離があり、どうやっても辻褄を合わせることは出来そうにありません。七世紀末から八世紀初頭に頻発した隼人の反乱を鎮めるために、皇祖伝承に隼人の伝承を組み込んだ可能性もありますが、だとすれば史実性は低いと言わざるを得ません。


 ですが、「於吉備之高島宮八年坐」という記述が個人的に気になるところです。(吉備之高島宮とは『日本書紀通釈』によれば、「小寺清之備中式内神名考云。小田郡神島神社(小)所祭神武天皇。島人語る傳云。昔は高島のワウノ泊におはせしか。〈王泊は高島の南にあり。神島につける島に近し〉」⑾とあり、現在の岡山県笠岡市神島外浦にある神島神社あたりを指します。)奈良県桜井市の纏向遺跡には吉備系の古式特殊壺形・特殊器台形(埴輪の元祖)を持つ箸墓古墳を始め、初期の王墓に吉備的な要素が確認出来ることは、吉備との関係の深さを示し、必ずしも神武東征の説話が虚構ばかりではない事を示すのかも知れません。つまり、邪馬台国東遷説の様な長距離な移動ではなく、吉備の支配者が大和に東遷し、それが大和王権の曙であった可能性位は認めても良いのかと思います。 吉備は瀬戸内海の海路を通じて、中国・四国・九州、更には海外へも繋がる為、大和王権が西日本を抑えるには、地理的に欠かせない重要な場所であったことは間違えありません。


 しかし、大和と吉備の考古物の繋がりの強さの割に、文献上では崇神天皇記以前で両者を結びつける記事は意外と少なく、『古事記』中巻孝霊天皇条に天皇の子である大吉備津日子命おおきびつひこのみこと若日子建吉備津日子命わかひこたけきびつひこのみことが針間(播磨)の氷河之前(兵庫県加古川市加古町の加古川沿いの氷丘か)に忌瓮いわいべをすえ、針間を道の口として吉備を平定した記事がありますが、『日本書紀』には記載されておらず、史実性も乏しそうです。後の雄略天皇と吉備氏の対立・衰退により後の『旧辞』に載せられるべき吉備に関わる伝承すらも消されてしまったのか、或いは記紀編纂時には大和王権初期の吉備との関りが忘れ去られてしまっていた可能性も推察されますが、想像の域を超えません。


 別の見方としては、黛弘道氏は神武天皇東征の説話と海人に関連した地名を丁寧に対比し、これらの地に海人が分布した事実を土台にして物語が組み立てられたと推測しました。⑿


 ⑿の事実を以て神武東征を史実とみる事は黛氏も否定なさっていますが、⑷の説の様に都合よく日本書紀の文面を切り貼りし、無理矢理後世の出来事と重ねた解釈よりは説得力があると思います。


 個人的に支持する意見と、私見も含めて纏めると


➀神武が日向出身というのは虚構であり、七世紀末から頻発する隼人の反乱を懐柔する意図もあった。

②考古学的にみれば大和地域初期の王墓が吉備からの影響を色濃く受けている為、「於吉備之高島宮八年坐」に関しては吉備から大和へ移動した勢力が大和王権の母体となったという史実を伝えている可能性がある。

③神武東征の説話は海人の分布を反映したものであり、の史実を語っているものではない。


 この様になりますが、➀に関しては既に独立性が死に体であった隼人の懐柔が如きの為に、皇祖の起源を設置する意味があるのかという新たな疑問も生じる為、今後の課題として更なる検討が必要になって来ます。(*追記参照)


 これまで見てきたように、アカデミズムな領域では神武東征に関する史実性は否定的に捉えられていますが、森浩一氏は考古学者でありながら日本神話にも長けた知識をお持ちの方で、「『古事記』や『日本書紀』、『風土記』、『万葉集』についての現代人の注釈のほうが対象としている土地の様子、特に土地の変遷についての知識不足で、見当はずれの解釈をしていることがある。そして、そのことが古典の内容は概して曖昧だという先入観を与え、いつしか考古学では神話や伝説とは一線を画し、それについては言及しないことが”科学的”だという逃避的な現象を起こさせている遠因の一つとなっている」⒀と述べられ、考古学の立場から堂々と神武東征の史実性を解き明かそうとなさっておられました。森氏の主張には必ずしも全面的には同意しかねるものの、戦後常識となり、無意識の内に刷り込まれている津田史観的な手法(というよりも思考)を暗に批判なさっている森氏の警告には気付かされるものがありました。


*追記

 西郷信綱氏は大嘗祭と天孫降臨の関連性を研究し、大嘗宮の門前で隼人が歌舞を奏する祭式に着目し、天孫降臨の場所が隼人の棲む南九州という辺境の地でなされたのかを、「奈良朝になっても所謂「王化」にまだ充分にはまつろはず、反乱を起こすことさえあったこの隼人の印象は、それほど強烈でもあり異様でもあったわけであり、すなわち、隼人は「王化」にもっとも遠い存在であるが故に、神話的には逆にもっとも近しいものとして語られねばならなかった」⒁と述べられており、これには納得させられました。


 大和王権の文化を受け入れる事を王化とすれば、まだまだ王化の徳を受け入れず、中央からすれば特殊な文化を保っていた隼人は未開に見えると同時に、神秘性も感じていたということでしょう。現代人が原住民族の風習(アニミズム等)を神秘的に感じることと似通っているのかも知れません。


 個人的解釈も加え図にすると以下の様な感じになるでしょうか?


https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817330664275196415


 つまり、史実として皇祖が南九州に存在したとするのは誤りであって、「神話」にもっとも近しい隼人と言う存在に皇祖を寄せなければならなかったということに他なりません。これは、辿かと思います。『古事記研究』において、西郷氏が津田氏を始めとする本稿で取り上げているような歴史学者や考古学者の説に対して辛辣な評価であるのはもっともであると理解するとともに、自己への反省としなければならないと思いました。




◇英雄時代論

 ⑴に登場する「意佐賀能~」ではじまる歌謡を久米歌と言いますが、かつて、久米歌やヤマトタケルの歌等が高木市之助の「日本文学における叙事詩時代」(『吉野の鮎』所収)や石母田正の「古代貴族の英雄時代論」(『論集史学』)に取り上げられ、所謂「英雄時代論」が大きく取沙汰されることがありました。


 これらの歌謡は、古代ギリシアの英雄にまつわる叙事詩と共通の性格を持ち、その様な叙事詩は氏族制度が成熟し、専制国家が作り出される直前につくられるものであるから、日本でも四、五世紀に、ギリシアの叙事詩がつくられる背景になったような英雄時代の段階を経験したとの説を提出しました。石母田氏は神武天皇を散文的英雄、久米歌にみえる「われ」を共同体全体の意志の体現者としての叙事詩的英雄、倭建命を浪漫的英雄とし、英雄の三類型を抽出しました。⒂


 海外の歴史・文化との比較で日本史の妥当性を検討する手法は当方も稚拙ながら、たまに行うので個人的には共感を覚えますが、残念ながら現在では英雄時代論も否定的に捉えられている様です。例えば、土橋寛は久米歌の「撃ちして止まむ」という詞章の有無に着目し、共同体内部に成立した戦闘歌謡、天皇に忠誠を誓う宮廷儀礼として成立したもの、その他に分けて、これらが同時的、同質的成立ではないとして、その相違を在位的、集団的歌謡から宮廷儀礼歌への展開のあらわれとして位置づけました。⒃


 又、西郷信綱氏は久米歌を大嘗祭の豊の明りにおいて歌われたものとして分析し、久米歌は饗宴歌であるとともに、戦闘歌であり、かつ舞踏歌でもあるという性格を持ち、生活性を背負っているという魅力がある一方、英雄歌としてはいささか展開に乏しいとの事です。⒄


 そもそも久米歌がそう古いものでは無く、六世紀ころにつくられたものであるらしく、『古事記』の歌謡の原型を四、五世紀まで遡らせる方法には問題があり、最近は英雄時代という用語が使われなくなり、近年の入門書などでも、あまり見かけなくなりました。


 確かに過去の稿(「綏靖天皇が何故高志国の王を名乗っているのか? 推測しました」)でも取り上げた津田左右吉氏が主張する様に、記紀の共通資料である『旧辞』が書かれたのが継体・欽明朝をさして遡らない時期⒅、即ち六世紀頃であるとすれば、四、五世紀頃の歌謡が伝わっている可能性は低いと言わざるを得ません。


 但し、谷川健一氏によれば、久米歌の一首には『日本書紀』巻三神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)十月癸巳朔条の「愛瀰詩烏毗儾利。毛毛那比苔。比苔破易陪廼毛。多牟伽毘毛勢儒(えみし一人ひだりももな人。人は云へども。抵抗たむかひもせず)」⒆という歌があり、田中勝也氏は『幻の日本原住民史』(徳間書店)の中で、この歌の原文に「一人ひだり」を「毗儾利ひだり」と明記してある事に着目し、ヒダリがヒトリになるまえのオリジナルの語であると述べており、『古事記』下巻の仁徳天皇記で天皇が八田若郎女やたのわきいらつめに贈った歌「夜多能。比登母登須宜波。比登理袁理登母。意富岐弥斯。与斯登岐許佐婆。比登理袁理登母。(八田の 一本菅ひともとすげは 獨居ひとりとりも 天皇おほきみし よしと聞こさば 獨居ひとりとりも)」⒇の中に「比登理ひとり」(独り)という表記が見られる事から、仁徳帝の時代を五世紀として、久米歌はそれ以前に作られたものではないかと推測されているそうです。(21)


 つまり、この久米歌は一人を指す意味の「ヒダリ」が「ヒトリ」になる以前の時代に作られたかも知れず、具体的に言えば仁徳帝の頃には既に「ヒトリ」という言葉に推移しているということは、それよりも古い時代の歌かも知れないという事です。


 ⒇の歌が五世紀当時から伝えられているという前提に、どの程度信を置いていいのか分かりませんし、仮に田中氏の説が妥当であるとしても、久米歌全てがその時期に作られたとは限りませんが、「ヒダリ」から「ヒトリ」に言葉が推移していった可能性は認められそうなので、この歌など一部の久米歌が一般的に考えられているよりも古くから伝わっている可能性は考慮すべきであり、だとすれば英雄時代論を再考する余地もあるのかも知れません。


 当方としては久米歌の起源に関しては何時頃作成されたのかという明確な答えはありませんが、英雄時代論でもう一人取沙汰されているヤマトタケルの伝承に関しては、通説に従わず、遅くても五世紀後半にはその原型が作成されていたという確信があります。英雄時代論に関しては後日、ヤマトタケルに関する内容を投稿した際に再度触れる予定なので、そちらもご覧になって下さい。又、次稿も引き続き神武天皇をテーマとした内容なので、宜しければお付き合い頂ければと思います。




◇附録 『令集解』四巻 職員令 雅楽寮条

(前略)大屬尾張浄足説、今有寮儛曲等如左、久米儛、大伴弾琴、佐伯持刀儛、即斬蜘蛛、唯今琴取二人、儛人八人、大伴佐伯不別也

(大 さくわむ尾張浄足の説、今寮の有る儛曲等左の如し、久米儛、大伴琴を弾き、佐伯刀を持ち儛、即ち蜘蛛を斬り、唯今琴取二人、儛人八人、大伴佐伯 わかれず)


◇附録解説

 『令集解』が伝える尾張浄足の説によれば、久米舞が在した事とその構成が記されており、平安期にも大嘗祭に奏せられたことを辿る事が出来ます。この久米舞は久米歌を参考に作られたものかと思われます。


 『古事記』上巻の神代条における天孫降臨の際には大伴氏と同等の扱いだった久米氏は、『日本書紀』では大伴連の遠祖にひきゐられる形となっており、更に上記の『令集解』によれば「大伴弾琴、佐伯持刀儛」や「大伴佐伯不別也」と記されている事から、本来久米舞を舞うべき久米氏が佐伯氏に取って変わられており、時の流れと共に久米氏の衰退を推測させるものとしても知られています。


 尚、応仁の乱の影響により、一時期は断絶した久米舞ですが、文政元年(1818)に再興され、現在に至るまで続いています。(但し、人数が異なるなど古来の久米舞を伝えるものではありません。)その様子はYouTube等で視聴できます。私事ですが昔、二次小説で久米舞の映像を参考にして呪術的な戦闘を描いた事もありましたねぇ。(遠い目)




◇参考文献

⑴『古事記 : 新訂要註 (高等国文叢刊)』武田祐吉 編 三省堂

https://dl.ndl.go.jp/pid/1036263/1/69

⑵『古事記及び日本書紀の新研究』津田左右吉 洛陽堂 495-518頁

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1918863/1/264

⑶『日本書紀㈠』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 補注4 391-392頁

⑷『日本書紀の世界』中村修也編著 思文閣出版 19-21頁

⑸『日本古代国家の構造』直木孝次郎 青木書店 249-268頁

「継体朝の動乱と神武伝説」

⑹『古事記新講 改修5版』次田潤 明治書院 251-252頁

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920824/1/145

⑺「クローズアップ現代」webサイト―邪馬台国どこに?九州説・近畿説/吉野ヶ里遺跡の最新発掘の成果は?専門家が読み解く

https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/R7Y6NGLJ6G/blog/bl/pkEldmVQ6R/bp/pO2WWvpMR8/

⑻『新稿日本古代文化』和辻哲郎 岩波書店 60-82頁

https://dl.ndl.go.jp/pid/2983658/46

⑼『古墳とはなにか 認知考古学からみる古代』松木武彦 角川選書 131頁

⑽『古墳とはなにか 認知考古学からみる古代』松木武彦 角川選書 139-140頁

⑾『日本書紀通釈』飯田武郷 著 日本書紀通釈刊行会

https://dl.ndl.go.jp/pid/1115817/1/218

⑿『古代学入門』黛弘道 筑摩書房 41-84頁

⒀『日本神話の考古学』森浩一 朝日新聞社 9頁

⒁『古事記研究』西郷信綱 未来社 157頁

⒂『論集史学』三省堂 所収「古代貴族の英雄時代論」71頁 石母田正

⒃『古代歌謡の世界』土橋寛 塙書房

「第二章 宮廷歌謡 三 大嘗会の歌謡 ― 来目歌」156-169頁

「第六章 文学としての古代歌謡 ― 五 宮廷寿歌の表現技術」432頁

⒄『古事記研究』西郷信綱 未来社 205-213頁

⒅『津田左右吉全集』別巻第一 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/pid/2941381/1/119

⒆『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/51

⒇『古事記 : 新訂要註 (高等国文叢刊)』武田祐吉 編 三省堂

https://dl.ndl.go.jp/pid/1036263/1/146

(21)『白鳥伝説』谷川健一 集英社 174頁


附録

『令集解 苐一 (国書刊行会刊行書)』国書刊行会 編 国書刊行会

https://dl.ndl.go.jp/pid/1878424/1/66

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