ヤマトタケルの伝承の起源② 建部

 前稿に引き続き、ヤマトタケルについて説明したいと思います。本稿ではヤマトタケルの伝承の起源として最も有力視されている建部による付会説を取り上げてみます。



◇建部に関する記述

⑴『日本書紀』巻七景行天皇四〇年(庚戌一一〇)是歳

(前略)時日本武尊化白鳥。從陵出之。指倭國而飛之。群臣等因以開其棺槻而視之。明衣空留。而屍骨無之。於是。遺使者追尋白鳥。則停於倭琴彈原。仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河内。留舊市邑。亦其處作陵。故時人號是三陵曰白鳥陵。然遂高翔上天。徒葬衣冠。因欲録功名。即定武部也。


(時に日本武尊、白鳥しらとりなりたまひて、みささぎ從出よりいで、倭國やまとのくにを指して飛ふ。まへつ臣等きみたちよりて以て其の棺槻ひつぎを視れば、明衣みそむなしくとどまりて、屍骨みかはねは無く、於是ここ使者つかひを遺て白鳥を追ひ尋ぬれば、則ち倭の琴彈ことひきの原に停れり。仍ち其のところに陵を造り、白鳥しらとりた飛れて河内かふちに至て、舊市邑ふるいちむらに留る。また其のところみささぎを作る。かれ時人ときのひと、是のみつのみささぎなづけて白鳥しらとりみささぎと曰ふ。しかうして遂に高くて天にのぼりき。ただ衣冠みそつものはぶる。因て功名みなつたへむとて、即ち武部たけるべを定むなり)



⑵『日本書紀』巻二五孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年(六四五)六月 庚戌十四日

(前略)輕皇子不得固辭升壇即祚。于時。大伴長徳〈字馬飼。〉連帶金靭立於壇右。犬上建部君帶金靭立於壇左。百官臣連。國造。伴造百八十部羅列匝拜。


輕皇子かるのみこ固辭いなふを得ず、たかみくらのぼりて即祚あまつひつぎをしろしめす。時に大伴長徳連おほとものながとくのむらじあざな馬飼うまかひ。〉こがねゆきを帶びてたかみくらの右に立つ。犬上建部君いぬかみのたけるべきみこがねゆきを帶びてたかみくらの左に立つ。百官つかさつかさ臣連おみむらじ國造くにのみやつこ伴造とものみやつこ百八十部ももあまりやそとものを羅列つらなかさなりてをがみたてまつる。)



⑶『続日本紀』巻卅八延暦三年(七八四)十一月 戊午廿一日

戊午。武藏介從五位上建部朝臣人上等言。臣等始祖息速別皇子。就伊賀國阿保村居焉。逮於遠明日香朝廷。詔皇子四世孫須珍都斗王。由地錫阿保君之姓。其胤子意保賀斯。武藝超倫。足示後代。是以長谷旦倉朝廷改賜健部君。(以下略)


戊午つちのえうま。武藏の介從五位上 建部たけべの朝臣人上等言す、「臣等おみら始祖はじめのおや息速別いきはやわけの皇子は、伊賀の國阿保の村に就て居す。とほつ明日香あすか朝廷みかどに逮て、みことのりし皇子四世の孫 須珍都斗すねつとみこに、地によりて阿保の君のかばねたまふ。其の胤子いんし意保賀斯おほかし、武藝倫に超て、後代のちのよに示すに足り。是を以て長谷旦倉はつせあさくら朝廷みかど改て健部の君を賜ふ。)


*遠明日香朝廷……允恭天皇の朝廷。


*息速別皇子……垂仁天皇の皇子。『古事記』では伊許婆夜和気命。『日本書紀』では池速別命に作る。


*胤子……跡継ぎ。嗣子。


*長谷旦倉朝廷……雄略天皇の朝廷。



◇建部の付会説の詳細

 ヤマトタケルの説話は何者により広がったのかという事に関しては、よく知られた説として、上田正昭氏はヤマトタケルの物語の形成には諸国の建部集団の存在が大きな役割を果たしており、それが諸国の語部の存在を媒介として中央の旧辞世界に結合していったものとしており、また、大和朝廷を中心に一旦形成されたヤマトタケルの物語が、のち伊勢神宮の信仰と結びついて作為・潤色された可能性を上田正昭氏により指摘されています。⑷


 建部(武部)とは⑴の末文によれば「因欲録功名。即定武部也(因て功名みなつたへむと欲て、即ち武部を定むなり)」つまり、ヤマトタケルの功名を伝える為に定められた事が書かれており、本居宣長以来、御名代みなしろと解釈されてきましたが⑸、津田氏をはじめ、記紀に建部をヤマトタケルの後裔の如く記すのは建部の名から出た付会の説で、実際は武人であるがためにつけられた名であり、軍事的職業部の一つであるとの考え方が支配的であるそうで、上田正昭氏によれば、古代における建部の分布は東は常陸から西は薩摩に至る各地域に及ぶが、ことに吉備・筑紫・出雲・美濃・近江など、大和政権にとって軍事上重要であった地域に濃厚な分布が認められる。これらの建部は武部君によって管掌されており、⑵の孝徳天皇即位の儀に、犬上建部君が大伴長徳連と並んで金の靫を帯びて壇の左に立ったとあること、宮城十二門の門号に建部門(のちの待賢門)があることは建部氏が古来建部を率いて朝儀に奉仕し、宮門の警衛にあたったものと推測せしめるものと言います。⑹


 これらの事はある程度肯定し得るとは思いますし、建部がヤマトタケルの話の伝播に関わることもありえない事ではないかも知れませんが、だとすれば建部に関する話が記紀で殆ど登場しない事が引っかかります。例えば建部氏と同祖である犬上氏の祖、倉見別が神功皇后紀で敗者である忍熊王に味方をしたという一族にとって不利な話を残すのみで、その後は建部の人物は『日本書紀』では上記で紹介した皇極天皇四年(六四五)六月庚戌の犬上建部君まで登場しません。


 但し後世の文献まで見ていけば、『続日本紀』巻卅八延暦三年(七八四)十一月 戊午廿一日⑶に、息速別皇子の後で建部朝臣人上等の上言に、その祖先が「武藝超倫」の故をもって雄略朝に建部君の姓を賜ったという記事がありますが、史実は疑われています。


 建部君は正倉院天平勝宝九年四月文書に「近江国犬上郡火田郷戸主建部千万呂」を戴き、神名式、粟田郡に建部神社があり、つまり犬上郡と粟田郡の二カ所に建部があり、又、神埼郡にも建部村があり、これも建部の住居の地であったらしく、近江国の大族にして、建部の伴造の中で最も有力な氏でした⑺。ですが、『日本書紀』では後の右大臣である大伴長徳連と並んで壇に立ったと言っても、それ以外に目立って活躍をした話がありません。仮によくある歴史学者的な発想をし、日本書紀の古い記事は新しい出来事から創作されたという考え方で少し想像を働かせると、⑵の記事がヤマトタケルが大伴武日連を率いた伝承を連想させる爲、⑵を基にヤマトタケルが大伴氏を率いた記事が創作されたとも考えられなくもありませんが、大伴連と建部君では上下関係が逆なので、実際は関係なさそうです。


 単純な話、建部から発想してヤマトタケルの如き偉大な存在に付会させるにはあまりにも身分不相応ということです。津田氏は孝徳紀の建部君について「カバネが君であり、天武朝の八姓制置の際に朝臣にも宿禰にもならなかったのを見ると、地位の低いものであったらしい」⑻と述べています。


 日本人であれば誰でも知っているであろうヤマトタケル程の人物の伝承と関わりを持つのであれば、建部君がヤマトタケルと時代が重なる武内宿禰の子孫と称する葛城・蘇我・平群・巨勢の如き中央政権に多大な影響力を持った政治家を輩出していなければおかしいと思いますが、これまで見てきたとおり記紀では僅かな記事しかなく、建部君の台頭が大化後だとしたら、ヤマトタケルの伝承の原型が出来たと思われる五世紀末(この根拠については前稿でも取り上げていますが、次稿でも述べる予定)まで遡らない事になります。だとすれば建部氏が古墳~飛鳥時代に於いて長期に渡り大した政治力があったとも思えず、そんな氏族を付会とした伝承が大々的に記紀編纂時に取り入れられ、誰からにも知られるようになるとはどうしても思えないからです。又、文量は然程では無いにせよ『高橋氏文』『古語拾遺』『先代旧事本紀』と言った他の氏族伝承にもヤマトタケルの名が登場することから、何も彼が建部だけにとっての特別な存在であったとは思えません。特に『高橋氏文』の高橋氏(膳氏)や『古語拾遺』の忌部氏は軍事的氏族でも無いのにも関わらず、ヤマトタケルの記事を載せていることから、ヤマトタケルの伝承が軍事的職業部であるかどうかに関わらず、一般的に広く親しまれ、知られていた伝承であったのだと思います。従って、上田氏等の建部による付会説は受け入れがたいと言わざるを得ません。


 但し、のちの伊勢神宮の信仰に結びつけられたという点に関しては、記紀の形の伝承になった時代はそう古くない事から考えれば認め得るかと思います。具体的に言えば、松前健氏は六世紀中葉の日祀部(日奉部)は皇祖神アマテラスの祭祀であったか分からないとし、その他日祀部の祭所の後裔と考えられる『延喜神名式』の大和の他田坐天照御魂をさだにますあまてるみたま神社は火明命(天照国照彦天火明命)を祀っていて、天照大神ではないので、六世紀中葉ごろは、宮廷には天照御魂神と言った程度の太陽神祭祀が行われていたとしても、まだ十分には皇祖神化していなかったのかもしれないことや、ヤマトヒメの遷幸伝説などは斎宮制度の固定した七世紀以降の産物である⑼。との説を取れば、ヤマトヒメと関わる説話などは後世に挿入されたものである可能性が高いと思います。


 では、現在伝わるヤマトタケルの説話とはどのようにもたらされたものなのか?

 かつて盛んに議論され、その論争に決着を見ぬまま消えていった英雄時代論にそのヒントがあるのかも知れません。


 その内容については次稿で具体的に見ていこうと思います。



◇参考文献

⑴『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/82

⑵『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/220

⑶『国史大系 第2巻 続日本紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991092/1/357

⑷『日本書紀㈡』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

374頁 補注26「日本武尊とその説話」

『日本武尊(人物叢書)』上田正昭 吉川弘文館

33-71頁「第二 軍事団と口誦詞章」72-119頁「第三 熊襲の平定」

⑸『古事記伝 : 校訂 坤 増訂版』本居宣長 著 吉川弘文館

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041637/1/170

⑹『日本書紀㈡』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

380頁 補注37「建部」

『日本上代史研究』津田左右吉 岩波書店

「伴造の勢力の変遷」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041707/1/335

『日本武尊(人物叢書)』上田正昭 吉川弘文館

33-71頁「第二 軍事団と口誦詞章」

⑺『姓氏家系大辞典 第4巻』太田亮 国民社

「建部」9項目[近江の建部]・30項目[建部君]

https://dl.ndl.go.jp/pid/1123910/1/34

https://dl.ndl.go.jp/pid/1123910/1/35

⑻『日本上代史研究』津田左右吉 岩波書店

「伴造の勢力の変遷」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041707/1/335

⑼『日本の神々』松前健 中公新書 

181頁「伊勢神宮とアマテラス」

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