ヤマトタケルの伝承の起源③ 英雄時代論

 前稿でヤマトタケルの説話で主に建部が関与したのではないかという説とそれに関する批判を取り上げましたが、もう一つ、かつてヤマトタケルに関して大きな議論を呼んだ説として、英雄時代論を欠かすことは出来ません。既に神武天皇の稿では英雄時代論は取り上げましたが、論点が久米歌に関してのみだった爲、おさらいも兼ねて概念から見ていきましょう。


◇英雄時代論とは?

 先ず、西洋の解釈に於いて、英雄とは英語のヒーローの訳語として広く知られていますが、元来はギリシア神話等に登場する半身半神の勇者を指し、西欧においては早くよりホメロスの英雄叙事詩を対象に文学史的問題として、更に美学的、歴史的問題としても論及され、英雄及び英雄時代の性格が明確にされるに至りました。それによれば、英雄時代は原始社会から階級社会への過渡的時代、または闘争の時代として想定され、英雄は集団を統率、指導するが支配者ではなく、集団を代表する個性を持つ人物であるとする。このような西欧における概念が日本においても適用できるかどうかを巡って、一時活発に議論されたのが英雄時代論でした。⑴


 日本で最初に英雄時代論について口火を切った 高木市之助氏によれば、「英雄時代とは畢竟、各文化民族がその原始未開の域から文化時代へ成長する中間において経験する一種の過渡期であり、それは原始社会の等質的(homogeneous)な状態を脱して、既に階級、主従階級を持ち、民族意識も発達しているものであるが、しかも一方において、後の文化時代(叙事詩の英雄時代はよくロマンスの封建時代に比較されるが、例えばそうした封建時代のような文化時代)のように、階級や職業が判然として文化確立しているわけではなく、首長と部下との間には日常万般の風儀習俗において何ら異なる所なくその思想感情精神においても、双方の些かの区別も対立もない。既に貴族制ではあるが、この貴族制たるや後代のそれとはことなり、貴族(則ち英雄)だからと言って、民衆(則ち部族)と何ら違った生活を営む訳でもなく、又別の考え方や感じ方を持っている訳でもない。彼らも亦、自ら舟を漕ぎ、羊を飼うのであるが、唯その熟練、知識、計画などにおいて部下を凌駕し、代表するのみである。これ等のてんは後のもっと複雑化し習俗化した、いわば本格的な文化社会においては見られないところであって、要するに英雄時代とは一種の過渡期なのである。もっとも過渡期と言っても、それは決して中間的な生温い時代ではなく、却って文化の結成されて行く諸段階中、最も熱があり、輝かしい時代である」と西欧の概念を取り上げ、「我が国の歴史上又は伝説史上にこうした英雄時代を推測する事、詳しくは記紀の記述内容をなす、例えば素戔嗚尊とか神武天皇とか日本武尊とかいったような時代を、或いは史実として或いは伝説として考え、そこに当時の、或いは社会機構の上に、或いは主従関係の上に、その他の習俗の上に、英雄時代を求めるのは不可能ではない筈である」と主張しました。⑵


 又、高木氏の英雄時代論を引き継いだ石母田正氏は『古事記』の歌謡の中にみられる久米歌や倭建命の歌は、古代ギリシアの英雄にまつわる叙事詩と共通の性格を持つと評価し、そのような叙事詩は氏族制度が成熟し、専制国家がつくりだされる直前につくられるものであるから、日本でも4、5世紀にギリシアの叙事詩がつくられる背景になったような英雄時代の段階を経験したという説を唱え、神武天皇を散文的英雄、久米歌にみえる「われ」を共同体全体の意志の体現者としての叙事詩的英雄、倭建命を浪漫的英雄とし、英雄の三類型を抽出しました。⑶


 この説による久米歌の解釈に関する批判と肯定材料に関しては過去の稿(「神武東征の史実性と英雄時代論」)をご覧頂ければと思いますが、ヤマトタケルに関しては決着をみぬまま、この論争自体が消えてしまったようです。


 歴史学における経緯を大雑把に言えば、邪馬台国大和説論者の上田正昭・直木孝次郎の両氏は邪馬台国を専制国家の初期のものとみてこれを否定し、邪馬台国を小国の連合と見る井上光貞、そして石母田氏の盟友である藤間生大の両氏らは石母田説をほぼ受け入れました。カール・マルクスの唯物史観に影響を受けている石母田氏の説を、唯物史観を批判するマックス・ウェーバーの影響を受けている井上氏が概ね支持するというのも意外に感じますが(但し、石母田氏が6、7世紀頃の日本書紀の記述も信用していないのに対し、井上氏は少し柔軟な姿勢が見られ、その頃の記述を悲観的なものと見ていなかったというスタンスの違いはありました。⑷)、それはとにかく、一時期の考古学的な成果から井上氏等の主張が有力とされて来たようですが、そもそも『古事記』の歌謡の原型を4、5世紀に遡らせる方法には無理があるとして、英雄時代という言葉は殆ど使われなくなってきたという経緯は過去の稿に述べた通りです。


 又、過去の稿(「ヤマトタケルの伝承の起源➀ 祖禰」)引用の『常陸国風土記』の記事などから、荻原千鶴氏の「ヤマトタケルは記紀定着以前に天皇として扱われていた形跡があり、或いは記紀の雄略天皇は、オホハツセワカタケルの名、荒々しい行動、神との対決など、ヤマトタケルとの共通点が多く、『宋書』倭王伝の父祖の代からみずから東西平定に奔走した倭王武が雄略天皇に比定されているが、そうするとヤマトタケルの英雄伝説も「英雄時代」ではなく専制権力を樹立した五世紀の王の事績を、そのモデルとして吸収しているのではないか⑸」という主張は部分的には頷けるものもあり、二人の「タケル」の類似性は他からもよく指摘されている事ですが、雄略をはじめとして、五世紀頃の天皇が東西に遠征した記録はありません。


 具体的に言えば、安康や雄略が自ら軍を起こし、ライバルの皇子等を攻め滅ぼす描写はありますが、あくまでも皇位継承争いの中の話で、ヤマトタケルや景行天皇の如く外敵を滅ぼす為に僻地まで遠征を行った訳ではありません。又、過去の稿「ヤマトタケルの伝承の起源➀ 祖禰」で述べた様に『宋書』にヤマトタケルを彷彿とさせる祖禰の話があらわれる事から、寧ろヤマトタケルの説話の幾らかは五世紀後半の頃に作成されていたことを推定すると、原型となる史実の核は当然それよりも古い時代、即ち四世紀の出来事であるはずなので、英雄時代論も然程的外れではない様に思えます。又、過去の稿「景行天皇紀と神功皇后摂政前紀は邪馬台国末期の状況の反映か?」で当方が描いた大和王権と九州の各勢力における連合の分布を考慮すると、中央集権的な専制国家の前段階として英雄時代があった事は充分想定可能だと思います。



◇現代と全く違う古代の英雄観

 さて「英雄時代論」とは言うけど、現代人の感覚では記紀の伝えるヤマトタケルの行為はとても褒められたものではなく、とても英雄とは言えないと感じると思いますが、それは古代人との価値観の違いであり、現代人の基準で理解しようとすると本質を見誤る事になります。


 ヤマトタケルの行為は騙し討ちに、残虐行為、そして敗者に対する嘲笑は、現代人の想像する英雄像とは程遠いですが、土橋寛氏によれば「記紀の物語においては、こうした英雄の属性は、もちろん賛美の意味で語られている。つまり、騙し討ちは優れた知謀として、残虐性は剛勇性として、嘲笑は天衣無縫の戦闘的意欲として語られているのであり、。このような英雄像は恐らく三・四世紀の小国家分立時代に形作られたものであろうと思われる。この時代は、魏志倭人伝や宋書倭国伝によっても推定されるように、他の部族国家との激しい戦闘が繰り返されていたわけだから、英雄の概念を構成する要素は専ら、外敵を滅ぼす力と技術に関係するものであり、従って我々におけるように、欺瞞と知謀、残虐と剛勇、嘲笑と意欲は、まだ分化していない。云いかえると、そういう社会においては、社会内部における人間関係よりも、対外的関係の方が重視され、それによって英雄の価値概念が形作られるのである。それが大きな統一国家に至ると、それが人間観唯一の基礎になり、そうして形作られた倫理観が、対敵態度にまで拡大されるようになる。騙し討ちや残虐をもっとも強く戒めたのは、もっとも厳格であった封建社会の武士道であった⑹」又、古代社会の伴う英雄観・人間観の変化に仏教や儒教の倫理が拍車をかけたであろうことを推測しています。


 つまり、、ヤマトタケルなど記紀の伝える英雄達は、古代の生々しいまでの倫理観を剥き出しに伝えているということになります。



◇西郷信綱氏の「英雄時代」論

 英雄時代論は識者によってその形を変えて、主張されました。例えば西郷信綱氏の場合、アフリカの原始宗教を研究したJohn Middletonという人類学者のLugbara Religionの図式を手直しして転用し、『古事記』の上・中・下巻について、上巻を「神々の時代」、中巻を「英雄の時代」、下巻を「その子孫の時代」と区分し、更に上巻を創造からはじまる「神話」「非社会」、神武天皇からはじまる中巻を「神話~系譜」「非社会~社会」、仁徳天皇からはじまる下巻を「系譜」「社会」と分類しました。つまり、「英雄の時代」とは神と人間の狭間の世代とでも解釈すればよいでしょう。


 西郷氏は「上巻と中巻との間に一つの大きな仕切りがあるのは誰の目にも明らかである。しかし、それを神の代から人の代への転換とみるだけでは充分ではなく、古代人の意識では、神々の時代が人間の時代へとじかに接するという形にはなっておらず、前者を後者に媒介するのが英雄の時代であった。英雄先祖ヒーロー・アンシスターとか文化英雄カルチュア・ヒーローとか呼ばれるものは、どの民族にもほとんど普遍的である。神々が創造したとすれば、これら英雄たちはを作ったと言ってよく、そしてそれが範疇化されたのが英雄たちの時代にほかならない。いうならば彼らは半身半神であった。それにたいし人の代らしいものが始まるのが下巻、つまり仁徳以降になってからで、少なくとも下巻では神武天皇の如き、あるいは神功皇后の如き半神半人は出てこない⑺」と説明なさっています。

 

 又、恐らく西郷氏の影響を受けたと思われる前之園亮一氏は王朝交代説を批判する際に『日本書紀』などの記事を神代、中ツ代、英雄的人代、本格的人代に区分し、信用できるのは本格的人代である仁徳朝以降の記事だけとし、半神半人の名だからと言って崇神天皇、垂仁天皇等の存在を否定し、更には応神天皇に関して神や運命に左右され、いまだ人としての主体性をもちえない仮の人代の人間であるので実在したとは考え難いなどと主張しましたが⑻、王朝交代説の方がまだマシだと思える程稚拙極まりないこの説に関する批判は過去の稿で指摘したとおりです。(「オワコントンデモ学説。王朝交代説の趣旨と批判」)


 余計な話を挟みましたが、西郷氏の時代区分に話を戻すと、確かに下巻から神話的な話はほぼ消滅しますが、それでも安康天皇記の目弱王は目が見えない代わりに神の声を聴くことが出来たという解釈もありますし⑼、葛城山で雄略天皇が天皇と同じ姿をした一言主の神と対面する話も描かれており、関本みや子氏によれば「神が人の姿をもって登場する、特にここで注目しなければならないのは、そのあらわれた神の姿が天皇とまったく同じ姿形であったことである。至高の存在として君臨する王者・天皇と神とが、それは同じ趣旨においてであることを認めようといういとにもとづくか⑽」と推察される事から、彼らも英雄時代論的に言えば「半神半人」であると解釈出来ます。又、中巻でも欠史八代の御代と成務天皇記にはごく簡単な記事しかなく、半神半人らしきエピソードは伝わっていません。これは『古事記』が西郷氏の主張する様な区分を単純に当て嵌める事は出来ないと言えるのではないでしょうか? それに一見、西郷氏の時代区分の様に綺麗に別れている様に見えるのは、旧辞的な説話が武烈天皇記から無くなることから生じた尺によるもの、いわば偶然の産物に過ぎないのではないでしょうか。



◇纏め

 私見としては「英雄時代」は確かに存在したと思います。それは勿論、西郷・前之園氏等が想定した、半神半人の架空の英雄による、いわば概念的な時代という解釈ではなく、或いは、その時代にギリシアの如く壮大な叙事詩が作成されたというわけでもなく、実在の人物による時代でした。『イリアス』の描く神々が人間を駒として、一種の代理戦争を行う話は虚構であったとしても、神話とされていたトロイ戦争が実際に行われていた可能性があることが発掘により明らかになった様に、ヤマトタケルの話には多くの潤色や虚構が含まれていますが、『イリアス』の如く、その話の核には史実が含まれているはずです。


 英雄時代に実在した将軍を基に、『宋書』にあるように遅くても五世紀後半にはヤマトタケルのモデルとなる話が作成されており、それは『宋書』が伝える名も無き「祖禰」と伝えられるものの如き単純な内容だったのが、話は誇張され、神格化され、『常陸国風土記』或いは『万葉集註釈』巻7所引『阿波国風土記』逸文では天皇扱いされていた事から推察すると、歴代天皇に和風諡号が制定される頃に至り、他の天皇同様に和風諡号が贈られ、「祖禰」=「オウス」は「ヤマトタケル」の名を冠するようになり、やがて我々が知るヤマトタケル像へと変遷していったのかと思います。


 同じヤマトタケルの説話でも、記紀の間で大きく内容が異なっている事は、それだけ長い年月の間伝えられていたからに他ならないのかと思います。『平家物語』巻第十一「剣巻」が記紀神話をベースにしながらも内容がアレンジされ、記紀と話が似て非なるものになっていること(例えば伊吹山の大蛇の正体がヤマタノオロチである等)を思い起こせば伝承は時代によって変遷していくことは当然のことと理解しやすいかと思います。


 しかし、記紀の間で伝承が大きく異なるとはいえ、話の核の部分、即ち「騙し討ち、残虐行為、そして敗者に対する嘲笑」という旧時代的な英雄像は記紀で共通しており、記紀が書かれた頃、即ち既に仏教や儒教が取り入れられた社会の中で、


 ヤマトタケルの説話の上辺の部分の馬鹿らしさをあげつらい、話の奥にある事実まで追求しないことを「科学的」と称するのは、現代人の常識に捉われた、一種の傲慢とも言えるのではないでしょうか。


 



◇参考文献

⑴『古事記事典』尾畑喜一郎 桜楓社 62頁「英雄譚」

⑵『吉野の鮎』高木市之助 岩波書店 105-108頁「日本文学に於ける叙事詩時代」

⑶『論集史学』三省堂 71頁「古代貴族の英雄時代論」石母田正

⑷『日本古代国家の研究』井上光貞 岩波書店 539頁「三 英雄時代論」

⑸『上代説話事典』乾 克己 大久間 喜一郎 編 雄山閣 375頁「英雄伝説」荻原千鶴

⑹『古事記大成 2巻 文学篇』平凡社 284頁「記紀歌謡の諸問題」土橋寛― 

⑺『古事記注釈 第七巻』西郷信綱 ちくま学術文庫 20-23頁「上・中・下という区分」

⑻『古代王朝交代説批判』前之園亮一  吉川弘文館

⑼『口語訳古事記』三浦佑之 文藝春秋

⑽『上代説話事典』乾 克己 大久間 喜一郎 編 雄山閣 171頁「葛城之一言主」 


◇関連稿

・ヤマトタケルの伝承の起源➀ 祖禰

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330663966958364

・ヤマトタケルの伝承の起源② 建部

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330664854327545

・神武天皇東征の史実性と英雄時代論

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330657747570713

・景行天皇紀と神功皇后摂政前紀は邪馬台国末期の状況の反映か?

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330661616902616

・オワコントンデモ学説。王朝交代説の趣旨と批判。

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330657198382518

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