ヤマトタケルの伝承の起源➀ 祖禰
前稿に引き続き、ヤマトタケルについて取り上げてみたいと思います。本当は「ヤマトタケ」の訓みであり「ヤマトタケル」は伴信友によりもたらされた誤読であることは前稿でご説明しましたが、本エッセイでは広く使用されている「ヤマトタケル」の呼称を使用しますのでご了承ください。(但し引用元により、「ヤマトタケ」表記)
本稿よりヤマトタケルの伝承の起源をテーマとして➀
◇名の由来
⑴『古事記』中巻 景行天皇
於是天皇。惶其御子之建荒之情而詔之。西方有熊曾建二人。是不伏无禮人等。故取其人等而遣。當此之時。其御髪結額也。爾小碓命。給其姨倭比売命之御衣御裳。以劔納于御懐而幸行。故到于熊曾建之家見者。於其家邊軍圍三重。作室以居。於是言動爲御室樂。設備食物。故遊行其傍。待其樂日。爾臨其樂日。如童女之髪。梳垂其結御髪。服其姨之御衣御裳。既成童女之姿。交立女人之中。入坐其室内。爾熊曾建兄弟二人。見咸其嬢子。坐於己中而盛樂。故臨其酣時。自懐出剣。取熊曾之衣衿。剣自其胸刺通之時。其弟建。見畏逃出。乃追至其室之椅本。取其背皮。剣自尻刺通。爾其熊曾建白言。莫動其刀。僕有白言。爾暫許押伏。於是白言。汝命者誰。爾詔吾者。坐纏向之日代宮所知大八島国。大帯日子游斯呂和気天皇之御子。名倭男具那王者也。意禮熊曾建二人。不伏無禮聞看而。取殺意禮詔而遣。爾其熊曾建白。信然也。於西方除吾二人。無建強人。然於大倭国。益吾二人而。建男者坐祁理。是以吾獻御名。自今以後。応稱倭建御子。是事白訖。即如熟菰振析而殺也。故自其時稱御名。謂倭建命。然而還上之時。山神河神及穴戸神。皆言向和而參上。
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是の事
◇敵対者
⑵『日本書紀』巻七景行天皇四〇年(庚戌一一〇)七月
秋七月癸未朔戊戌。天皇詔群卿曰。今東國不安。暴神多起。亦蝦夷悉叛。屢參略人民。遣誰人以平其亂。羣臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言。臣則先勞西征。是役必大碓皇子之事矣。時大碓皇子愕然之。逃隱草中。則遣使者召來。爰天皇責曰。汝不欲矣豈強遣耶。何未對賊。以豫懼甚焉。因此遂封美濃。仍如封地。是身毛津君。守君二族之始祖。於是。日本武尊雄誥之曰。熊襲既平。未經幾年。今更東夷叛之。何日逮于大平矣。臣雖勞之。頓平其亂。則天皇持斧鉞。以授日本武尊曰。朕聞。其東夷也。識性暴強。凌犯爲宗。村之無長。邑之勿首。各貪封堺。並相盜略。亦山有邪神。郊有姦鬼。遮衢塞徑。多令苦人。其東夷之中。蝦夷是尤強焉。男女交居。父子無別。冬則宿穴。夏則住樔。衣毛飮血。昆弟相疑。登山如飛禽。行草如走獸。承恩則忘見怨必報。是以箭藏頭髻。刀佩衣中。或聚黨類。而犯邊界。或伺農桑。以略人民。撃則隱草。追則入山。故往古以來。未染王化。今朕察汝爲人也。身體長大。容姿端正。力能扛鼎。猛如雷電。所向無前。所攻必勝。即知之。形則我子。實則神人。是寔天愍朕不叡。且國不平。令經綸天業。不絶宗廟乎。亦是天下。則汝天下也。是位則汝位也。願深謀遠慮。探姦伺變。示之以威。懷之以徳。不煩兵甲。自令臣隷。即巧言而調暴神。振武以攘姦鬼。於是。日本武尊乃受斧鉞。以再拜奏之曰。嘗西征之年。頼皇靈之威。堤三尺釼。撃熊襲國。未經浹辰。賊首伏罪。今亦頼神祗之靈。借天皇之威。往臨其境。示以徳教。猶有不服之擧兵撃。仍重再拜之。天皇則命吉備武彦與大伴武日連。令從日本武尊。亦以七掬脛爲膳夫。
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時に
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「熊襲既に平けて、未だ
則ち
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是に於て、日本武尊乃ち
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*大碓皇子……景行天皇の息子で日本武尊の兄。『古事記』中巻景行天皇条では会食にやってこない大碓を呼ぶため、天皇が小碓(倭建)に兄を”ねぎ(らえ)”と命じたところ、意味を取り違えた小碓により手足をもぎとり”ねぎ”して
◇記紀以外の記載。
⑶『常陸國風土記』常陸國司解。申古老相傳舊聞事
(中略)或曰。倭武天皇巡狩東夷之國。幸過新治之縣所遣國造毗那良珠命。新令堀井。 流泉淨澄。尤有好愛。時停乗輿翫水洗手。御衣之袖垂泉而沾。便依漬袖之義。以為此国之名。風俗諺曰。筑波岳黒雲挂衣袖漬國是也。
(常陸の
(中略)或は曰く、
⑷『宋書』巻九七 蛮夷 倭国
(前略)順帝昇明二年、遣使上表曰、封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處、東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿(以下略)
(順帝の昇明二年、使いを遣わして上表せしめて曰く、
◇解説
ヤマトタケルに関しては様々な伝承が存在し、また解釈迄含めて全てを紹介するのは困難なので、⑴名の由来⑵敵対者⑶⑷記紀以外の記載。と、代表的なものに関してテーマを別けて一部の記事を取り上げました。(尚、代表的な歌に関しては別稿で取り上げる予定です)特に本稿の題名の「祖禰」について載せる⑷に関しては何故ヤマトタケルと関係があるのか疑問に持たれた方も居られるかも知れませんが、後程ご説明いたします。
ヤマトタケルの伝承については記紀の間で大きく異なり、典型的なのが⑴と⑵の記事があげられ、⑴では天皇に恐れられ、⑵では逆に天皇に愛されており、両者で正反対の事が描かれており、一般的な評価としては古事記の方が文学性が高いと言われています。又、⑶では倭武天皇と呼ばれており、我々が解釈するヤマトタケル像を一層ややこしくしています。
さて、ヤマトタケルの史実性について、一言で言えば、戦後の歴史学では創作された人物であるという主張が通説と言わざるを得ません。戦前の津田左右吉氏の批判を基本として、特に景行天皇の実在を否定する王朝交代説論者からは当然のことながらヤマトタケルの存在についても創作された人物であるとされてきました。他者の学説は次稿以降で取り上げるとして、本稿では主に津田氏の説をご紹介致します。
津田氏によれば⑴のヤマトタケルの名義について「お噺であってヤマトタケルと言う語はクマソタケル、または古事記の此の物語のすぐ後に出てゐるイヅモタケルと同様の言い表し方である。即ちクマソの勇者イヅモの勇者に対してヤマトの勇者という意味であり、それがヤマト朝廷の物語作者によって案出させられたものである事は言うまでも無かろう」「そしてクマソタケル、イヅモタケルは地名をそのまま人名とした一例であって、実在の人物の名とは考えられない。実在の人物ならば、こんな名がある筈は無いから、これは物語を組み立てる必要上、それぞれの土地の勢力を擬人し、或いは土地から思いついて人間をつくったのである。そうしてそれは、よし実際そこに何かの勢力があった場合にしても、時と所とを隔てて、即ち後世になって、又ヤマト朝廷に於いて、物語製作者の頭から生まれたこととしなければならぬ。だからこの物語もまた、決してそのままに歴史的事実として見る事は出来ないものである」⑸と主張しました。
これは一見説得力があるように見えます。津田氏も指摘していますが、『日本書紀』では一丈(約3メートル)と大柄な男に描写されているヤマトタケルが女装してクマソの首領に近づくなど可笑しなものであることは言うまでもありません。女装した大男が剣で尻を貫いて相手に褒められるって、腐女子さん垂涎の現代のBL小説ビックリな設定で(いや、栗本薫の『真夜中の天使』をBL小説と知らずにうっかり読んでしまった黒歴史がある位で本当は知りませんがw)、これが北斗の拳ならば「お前みたいなデカイババアがいるか」と言われてケンシロウにひでぶさせられるのがオチでしょうねぇ。ハイ話がズレましたゴメンナサイ。待ってください、ブラウザバックしないでください。どうしてもこのネタ言いたかったのです(オイ)。
真面目な話に戻しますと、津田氏の主張は一見もっともの様ですが、具体性が無く根拠に欠けます。そもそもその主張自体が津田氏の頭の中(だけ)で考えられた話であるとブーメランが返って来るのではないかと思います。過去の稿で取り上げた様に、地名を人物とした例は葛城ソツヒコの様に実在性の高い人物にもありますし、こんな名前がある訳が無いと仰りますが、一種の和風諡号のようなものと解釈すれば、和風諡号に「ヤマト」を冠する天皇は複数存在するため、決して大袈裟な名称ではありません。事実、⑶で見られる様に天皇扱いされていた時期もあるらしいですから、歴代天皇(本来天皇にカウントされていたが、記紀の時代には除外された皇子を含む)に和風諡号が制定された時にヤマトタケルの諡号が送られ、何時しか実名の様に扱われるようになったのでしょう。つまり、この呼び方は早くても和風諡号が制定された後(恐らく欽明天皇以降)の世のものであり、⑴の話が実話ではない事には同意します。実在したとすれば、オウスというシンプルな名前だった事でしょう。
又、津田氏の「そういう英雄の説話は、その基礎には多人数の力によって行われた大い歴史的事実があるにしても、その事実そのままに一人の行為として語ったものではなく、事実に基づきながら、それから離れた概念を一人の行動に託して作ったのが普通である」⑹という主張は多くの著書に引用されており、歴史学会ではどうやら通説となってしまっている様ですが、何を以って普通なのか、具体的な例が上げられていません。「普通」であるならば世界史の誰か具体的な人名を複数上げてしかるべきだと思いますが誰も取り上げていないのに、一つの具体例も無く「普通」と言い切るのは傍から見れば只の思い込みと指摘されても仕方がないでしょう。
確かに⑴の記事の如く女装して(呪術的な意味があるらしいですが、本質から外れそうなので本稿では取り上げません)個人の力で殺したなど荒唐無稽としか言いようがありませんが、事実はクマソやイヅモを征討した一人の「将軍」であった可能性は否定できません。(門脇禎二氏あたりの歴史観ならば、この国家が未成熟な時代に「将軍」などという言葉は無いなどと否定しそうですが、呼び方は違うとしても軍団を纏める長ならば古い時代から必ず存在した筈です。)
ナポレオンしかり、カエサルしかり、アレクサンダーしかり、チンギス・ハーンしかり、如何に英雄と呼ばれた人達でも一人では戦争は出来ませんが、戦記を紐解く時、先ず名が挙がるのが、軍を率いた将軍、又は王であり、リーダーであることは言うまでもありません。⑵の文中に「日本武尊乃受斧鉞」とあり、これは後に節刀という天皇が出征する将軍に太刀を与える儀式の原型と言えますが、『日本書紀通釈』によれば、この様な事は無く、史記殷本紀(事実は周本紀)に「賜弓矢斧鉞。使得征伐。爲西伯」又、礼記にもあることを引用し、この記事を漢文の潤色であるとし、古事記では比々羅木之八尋矛とあり、『古事記伝』にある様に、神代巻が伝える大穴牟遅神の廣矛を給わったという趣旨の事⑺が書かれています。弥生時代~古墳時代の遺跡では鉾が多く発掘されている事から、私見でも斧鉞ではなく矛(鉾)を賜わったのかと思いますが、それはとにかく、この記事は節刀以前の古い儀礼を伝えるとともに、ヤマトタケル(実名オウス)、或いはモデルとなった人物が征討軍の将であった事実を物語るのかと思われます。
又、ヤマトタケルの痕跡は記紀や⑶など風土記の記述だけでなく、⑷の様に中国文献でもその面影をかいま見る事が出来ます。⑷では「(倭国王の)先祖は自ら甲冑を纏い、山川を歩き回り、落ち着く暇もない。東の方は毛人五十五國を征し、西の方は衆夷六十六國を服属させ、海を渡って北の九十五國を平定し、皇帝の徳は豊かに、領土は遠くまで広がった」とありますが、何やら『古事記』の景行天皇条の「自其入幸。悉言向荒夫琉蝦夷等。亦平和山河荒神等而(自ら
なお、祖禰に関する他説を挙げると、本来は「祖彌」と書かれていたものを中国人が間違えて「祖禰」と書いてしまったのであり、倭彌王という人物が存在し、それは雄略天皇の祖父の仁徳天皇であるという説⑼もありましたが、「自昔」という語句から「祖禰」を普通名詞とすべきである⑽と否定されています。
つまり「
当方の語彙力ではこの程度しか説明できませんので、識者の意見を参考にすると、風巻景次郎氏はヤマトタケルについて「この武者ぶりはすべて、一騎打ちの勝負として描かれるが、『好太王碑』に見える倭の侵攻のことから、『宋書』夷蕃伝の倭王武の上表に見えた日本統一のことに至るまで、すべて大軍を動員しての功伐であることが当然考えられなければならないのであって、決して果し合いといったようなスケールの小さい一個人の行動ではない。そして、日本島の上のこととして言えば、大古墳時代の築かれつつあった時代の大国家建設、部族小国家群の併呑という事実を象徴的に表現しているものと見られるのではないだろうか。倭建の人格は一個の人間としての整理心理的主体でありながら、実はその時代の国家の膨張力の象徴である面を持っている。と同時に倭建と大碓命との人間的力量の、質的並に量的な差異、父天皇の倭建に対する心理的な警戒、恐怖といったものは、これも個人的問題であるというよりは、膨張期における大和朝廷内での政治力に対する軍事力の跳梁、またそれに対する警戒の事実のあった事の反映とみられるかも知れず、その背後には、大和朝廷が精鋭な武器の製法を手に入れ、自給自足的にそれを充実していったという社会文化的な歴史進展の事実が在した事の繫栄であったかも知れぬ。武器は石器だけではなくて、鋼鉄の太刀や短剣や鏃が出来つつあり充足されつつあったのであろう。その軍備兵器の長足な生長進歩に対する讃嘆と畏怖とが、倭建の兇暴な膂力に対する畏怖という形に結晶することは、この時代の事として在り得る事のように思われる⑾」との推定は中々的を得たものであると思います。
現在の歴史学会においてはヤマトタケルの存在を認めていない事は先述の通りです。次稿では歴史学会で最も有力視されている建部の伝承説を取り上げます。
◇参考文献
⑴『古事記新講 改修5版』次田潤 明治書院
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1920824/1/385
⑵『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/79
⑶『標註古風土記 : 常陸』栗田寛 著, 後藤蔵四郎 補註 大岡山書店
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1192442/1/18
⑷『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/pid/19179191/36
⑸『古事記及日本書紀の研究』津田左右吉 岩波文庫
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1085727/1/118
⑹津田、前掲書
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1085727/1/117
⑺『日本書紀通釈 第3 増補正訓』飯田武郷 著 日本書紀通釈刊行会
https://dl.ndl.go.jp/pid/1115832/1/130
⑻『古事記新講 改修5版』次田潤 明治書院
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1920824/1/386
⑼『オリエンタカ』1
「応神天皇といふ時代」前田直典
⑽『史学』26-3・4
「日本国建設について」橋本増吉
⑾『古事記大成 5巻 神話民俗篇』平凡社
「古事記における社会 英雄」風巻景次郎 279頁
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