日本武尊

「日本武(ヤマトタケル)」の正しい訓みは「ヤマトタケ」?

◇冒頭から蛇足的な紹介(日本語おかしいか?)

 本稿からヤマトタケルについて取り上げていく予定ですが、ヤマトタケルと関連した私の創作は結構古く、折角なのでご紹介します。


 7年程前に作成し、YouTubeに動画が上げたアオイシロという百合伝奇作品の二次創作ゲーム「アオイシロWKS~秘曲剣巻草薙篇」(著作権は許可されています)では原作のモチーフとなった椿説弓張月やケルト神話や日本神話、他にもタイトル通り平家物語や源平盛衰記、そして原作の麓川智之氏が得意とした民俗学の元ネタ解説的な要素を多めにしていますが、当方が追加した独自の要素としてヤマトタケルやその周辺人物に関する伝承を多分に取り入れています。(特にルートBのラスボスの正体は結構驚くかも知れません)


過去に当方が作成したYouTubeチャンネル

https://www.youtube.com/channel/UCI2hJNDTLX0dY_ofSaSbwDA/videos


 又、カクヨムでは「ヤンキー女子高生といじめられっ子の俺が心中。そして生まれ変わる?」をはじめとした異種格闘技ラブコメシリーズでは当方の格闘技経験と知識を活かしたバイオレンスなラブコメ(苦笑)を描きましたが、登場人物の名前が主人公は小碓武おうすたける、ヒロインは美夜受麗衣みやずれいい、先輩は織戸橘姫野おとたちばなひめの、そして敵役に景行天皇紀に登場する土蜘蛛達の名前使うなど、ヤマトタケルや周辺の人物を意識したネーミングを使用しました。まぁ、こちらの方はアオイシロの二次創作と違い、名前のモチーフとしただけでストーリーとは何も関係ないのですけどね。(因みに元K-1ファイターの武尊選手のリングネームがヤマトタケルをモチーフとしていた事を知ったのは、これらの作品を書いた大分後だったりします。小碓君のモチーフが武尊選手と勘違いされそうですが、この様な経緯の為、関係無かったりします。)



◇「日本武」の訓は「ヤマトタケル」じゃなくて「ヤマトタケ」?

 この様にヤマトタケルと関連した創作を幾つか行ってきた経緯から、知識もそれなりに積み重ねがあるので、本稿からヤマトタケルについて解説を行おうと思いますが、歴史や文学的な話を語る前に、広く親しまれた「ヤマトタケル」という呼び方からして問題があることは御存じでしょうか?


 何気に使っている「ヤマトタケル」という訓みですが、最近はこの訓義に疑問を持たれており、近年の注釈書、例えば中村啓信氏の『新版 古事記 現代語訳付き』(角川文庫)では通称化している「ヤマトタケル」の訓を批判し、「ヤマトタケ」の訓になっています。確かに本居宣長の『訂正古訓古事記』では「ヤマトタケ」の訓であり、古くは「ヤマトタケ」と読まれていた事実が伺えますが、何故一人の人物に二通りの訓が存在するのか? 原因を探ってみました。



◇「ヤマトタケル」の訓を広げたのは伴信友。

 現在広く親しまれている「ヤマトタケル」の訓を広げたのは江戸時代の学者・伴信友ではないかと言われています。


 伴氏は古事記のヤマトタケルが熊襲建兄弟を殺した時、弟建の最期の言葉から、

「於西方除吾二人。無建強人。然於大倭国。益吾二人而。建男者坐祁理。是以。吾献御名。自今以後。応稱倭建御子。(中略)故自其時稱御名。謂倭建命。」と見え、建がたたえ申せる意は、この西の方の国々に、己等二人は熊襲建と呼ばれて、世に並び無き、猛勇者タケルなりと思っていたのに、大倭国の皇子は、己等に勝る猛勇者タケルに坐せば、皇子こそは、真に、大倭のタケルと称え奉るべきと、今わの際の真心に、恐れ多い事に褒め称え奉る事を憐れにも喜ばしくも思い、即ち御名とし給える趣であるとしました。⑴


 又、『日本書紀』景行天皇二七年十二月条の川上梟帥かわかみたける誅殺の記事から「皇子の御名は、川上梟帥に対して、日本タケルと訓むのが真訓である」と提言し、其の証として皇子の御名代を武部といい、この武部の訓は、日本書紀の傍訓に「タケルベ」とあり、倭名鈔には多介無倍タケムベとあるが、此れは多介留倍タケルベの音便である。即ち日本 タケルの尊と申す御名になりしが故に、其の御名代を「タケ」なのであると主張しました。⑵



◇飯田季治による伴信友の批判

 一方、飯田季治氏⑶はこの説を妄説であると批判し、先ずは多くの古典にみえる訓を検討し、日本紀竟宴歌に『也未度多介ヤマトタケ』とみえ、古事記にも寛永刻本を始め、あらゆる諸本(伴信友校本及び明治以降刊行の諸本を除く)がことごとく『倭建命ヤマトタケノミコト』とあり、古語拾遺の傍訓もまた然りであり、いかなる古典にも『也未度多介留ヤマトタケル』と傍訓よめる書は無い事を指摘しました。


 又、日本武尊の御名代をタケと申すという伴氏の主張に対し、日本書紀景行天皇四三年条の「因欲録功名。即定武部也。」とあり、この武部の訓が倭名鈔によれば「伊勢国阿濃郡・建部(太介無倍タケムベ)」と書かれているのは、当時の読癖を記し置かれたもので、太介無倍タケムベの「無」は接尾語であり、同書には『信濃国高井郡・日野ひの比無乃ヒムノ)』『越前国坂井郡・海部あまべ安萬無倍アマムベ)』『因幡国高草郡・刑部おさかべ於無左加倍おむさかべ)』など記されたものと同じで、太介無倍タケムベは決して多介留倍タケルベでは無いと断言しました。


 『日本書紀』の寛文刻本に『武部タケルベ』と振り仮名が附けられているが、是は右の倭名鈔の太介無倍タケムベ太介留倍タケルベの音便であると誤解した者が、賢しらに振り仮名を付けたものであり、決して古訓ではなく、江家古黠、卜部秘訓、私記、假名日本紀の諸本、悉く『多介倍タケベ』とんであるのが正しいことや、延喜式神名張の『近江国粟田郡。建部タケベ神社』という古訓を取り上げ、建ル部神社とは言わない事など、建部タケベを正訓とする証は余りあると言います。


 以上の事から、飯田氏は伴氏等が紀の流布本に武部タケルベと記すことを妄訓と切って捨て、尊の御名は必ず『也未登多介之命やまとたけのみこと』と申し奉るべきであると主張しました。



◇中村啓信氏による「ヤマトタケル」訓の批判

 「日本武」は明治以降ヤマトタケルと訓まれてきましたが、近世までの訓は「ヤマトタケ」であることから、日本書紀の最新の注釈書『新釈全訳日本書紀』⑷では「ヤマトタケ」の訓に復しています。又、中村啓信氏⑸によれば、タケルの語は朝廷に敵対する側に用いられ、「梟帥」「魁帥」と表記されることから、『新版 古事記 現代語訳付き』(角川文庫)も「ヤマトタケ」の訓に復しています。



◇折衷説?

 溝口駒造氏は二様の訓について、ヤマトタケのような語尾のrは、古く大和語では低く発音されたので、容易に脱落したと述べています。⑹

 つまり、本来はヤマトタケルと伝えられていたものの「ル」が聞き取りにくく、ヤマトタケになったという事かと思いますが、自分の知る限り、溝口氏の根拠は不明で、文献上では証明出来ません。


 具体的に言えば、太安万侶は詠み方、声の上げ下げまで注意しており、『古事記』では尻上がりの声で読む時は「上」、逆に尻下がりの声で読む時は「去」と注に記されており⑺、例えば一番初めの時期に登場する神の御名で「宇比地邇〈上〉神」と記されている場合、尻上がりに読み、「邇」の部分が一番大きな声で発音され、次の「須比智邇〈去〉神」の場合は尻下がりに読み、先程とは逆に「邇」の部分が一番小さな声になります。溝口氏の説通りであれば、恐らく尻下がりに「ル」が発音され聞き取りずらいという事になり、だとすれば古事記本文中の「倭建」の語尾の注に「去」が付いているハズですが、自分が確認した諸本⑻⑼⑽等を見る限り、「倭建」の語尾に「去」は記されていません。つまり、古事記を見る限りでは溝口氏の主張を証明することは出来ないという事になります。


 又、カワカミタケ、クマソタケ達は正しくrの語尾が伝わっている理由の説明が出来ない為、無理がある主張ではないかと思います。(この辺の事情についてご存じの方は情報を下さい)



◇結論

 以上の経緯を簡単に纏めると


➀「ヤマトタケル」訓を広めたのは伴信友であり、日本書紀の寛文流布本などを通し、明治以降はこの訓が一般的になる。

②飯田季治が批判しても「ヤマトタケル」訓は直されずに誤読の書が広まり続けた。

③近年になりようやく、中村啓信氏により、「ヤマトタケ」訓への回帰の機運がみられる様になる。


 これまで見てきたとおり、「ヤマトタケル」が誤訓であることは間違えなさそうですが、今となっては「ヤマトタケ」と言っても一般的には通じない為、本エッセイでは止むを得ず「ヤマトタケル」の通称を使い続けることにします。多分PVにも影響しそうですし(マテ)。冗談(本音?)はとにかく、殆どの論文が「ヤマトタケル」表記なので、それらから説を引用する際に「ヤマトタケ」表記では改竄になってしまいますし、それを避ける為にイチイチ説明するのも面倒なので、誤訓であることを承知の上で「ヤマトタケル」と呼ぶことをご了承ください。

 


参考

⑴『高橋氏文考注』伴信友 大岡山書店

https://dl.ndl.go.jp/pid/1175589/1/11

⑵『古語拾遺新講』飯田季治 明文社

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1685317/1/113

⑶『古語拾遺新講』飯田季治 明文社

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1685317/1/113

⑷『新釈全訳 日本書紀 上巻(巻第一~巻第七)』神野志隆光 金沢英之 福田武史 三上喜孝・著 講談社 459頁 注一〇

⑸『古事記の本性』中村啓信 おうふう

⑹『古語拾遺精義』溝口駒造 著 中文館書店

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1233224/1/188

⑺『古事記概説』山田孝雄 中央公論社

https://dl.ndl.go.jp/pid/1047104/1/14

⑻『古事記 3巻』太安萬侶 [編]出版年月日[江戸時代]

https://dl.ndl.go.jp/pid/2533573/1/91

⑼『訂正古訓古事記 3巻 [2]』太安萬侶 [編], 本居宣長 [訓], 長瀬真幸 [校]

出版者 河南儀兵衞 [ほか3名]出版年月日 享和3 [1803]

https://dl.ndl.go.jp/pid/2578741/1/50

⑽『古訓古事記 訂正』出版者 永田調兵衞 出版年月日 1870.4

https://dl.ndl.go.jp/pid/3460051/1/129

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