文献から見る「大王」から「天皇」への変遷

 前稿で「天皇」の称号が使われ始めたのは天武朝辺りと言うのが通説というお話をさせて頂きましたが、もっと文献から推定できる事がないか、調べてみました。


◇『日本書紀』巻第二十九・天武天皇下 八年 正月戊子むつきつちのえのひ(西暦六七九年一月七日)

詔曰、凡當正月之節、諸王諸臣及百寮者、除兄姉以上親及己氏長、以外莫拜焉。其諸王者、雖母、非王姓者莫拜。凡諸臣亦莫拜卑母。雖非正月節復准此。若有犯者随事罪之。


みことのりしてのたまはく。おほよそ正月のときあたりて、諸王おほきみたち諸臣及おみたちおよ百寮つかさつかさは、兄姉このかみいろねより以上かみつかたうから及び己が氏長うじこのかみを除きて、以外このほかをがむことまな。其の諸王おほきみたちは、いろはいふともおほきみかばねあらずはをがむことまな。凡そ諸臣おみたちは、また卑母ひききいろはをがむことまな。正月のときあらずいへどまたこれならへ。おかす者有らば、事にしたがひてつみせむ。)


*『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 414・148ページより引用。


 上記は正月の節会せちえの礼について定めた内容ですが、諸臣及び百寮は兄姉以上の親族及び自分の氏上以上を除いて拝礼をする事を禁止し、諸王は母であっても王のかばね(新王を除き5世孫まで)の者でなければ拝礼してはいけない事、諸臣もまた卑母ひききいろは(自分より出自の低い母)を拝礼してはならない事、正月の節会以外の時もこれに習い、もし違反すれば罰せられるという内容です。


 節会の礼に関しては今回のテーマと趣旨が違う為、深くは触れませんが、上記詔では天武天皇八年(西暦六七九年)の頃に至っても「王」「諸王」という言葉が使われていたので、まだ「大王」号が使われていた事を示唆するのではないかと思います。


 では、どの時期から「天皇」号が使われ始めたのか? 『日本書紀』からこれ以上推察するのは難しそうですが、ヒントは『万葉集』にありました。



◇『万葉集』二巻 一六七番歌

日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]

天地之 <初時> 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命] 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而] 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴 [一云 神登 座尓之可婆] 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 [一云 食國] 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 [一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為]


(日並皇子尊の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首[短歌をあはせたり]

天地あめつちの 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万やほよろづ 千万神ちよろづかみの 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女ひるめの命 [一云 さしのぼる 日女の命] 天をば 知らしめすと 葦原あしはら瑞穂みずほの国を 天地あめつちの 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲あまくもの 八重かき別きて [一云 天雲の八重雲別きて] 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の きよみの宮に 神ながら 太敷ふとしきまして 天皇すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ [一云 神登り いましにしかば] 我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の たふとくあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて あまつ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言みこと問はさぬ 日月ひつき数多まねくなりぬれ そこゆゑに 皇子みこ宮人みやひと ゆくへ知らずも [一云 さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす])


*日本古代史料本文データ「万葉集」より引用。

http://ifs.nog.cc/kodaishi-db.hp.infoseek.co.jp/



 日並皇子とは天武天皇と持統天皇の間に生まれた草壁皇子の事です。天武天皇十年(六八二年)に立太子しますが、即位する事無く持統天皇三年(六八九年)四月十三日に二十八歳の若さで死亡しました。


 この時に柿本人麻呂が殯宮に際して詠んだ歌であり、彼が詠んだ歌で年代が確認できる最初の歌です。


 つまり、持統天皇三年(六八九年)の頃には上記の歌にある様に「天皇」という称号が使われていた証左となります。


 なお、『万葉集』一巻二十九番歌の「過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌」にも歌中に「天皇」の用例がありますが、『万葉集を知る事典』(櫻井満【監修】尾崎富義・菊地義裕・伊藤高雄【著】東京堂出版)によると「持統初年(四年)春、(つまり西暦六九〇年頃)人麻呂一行は近江の荒れ果てた宮跡を通り過ぎて行った」との事で、この時に歌われた物だとすると前述の『万葉集』二巻一六七番歌よりも新しい歌という事になります。



 しかし、「天皇」を称する時代になっても「大王」と言う言葉は無くなる事無く使われ続けたようです。



◇『万葉集』二巻 百五十九番歌

天皇崩之時大后御作歌一首

八隅知之 我之 暮去者 召賜良之 明来者 問賜良志 神岳乃 山之黄葉乎 今日毛鴨 問給麻思 明日毛鴨 召賜萬旨 其山乎 振放見乍 暮去者 綾哀 明来者 裏佐備晩 荒妙乃 衣之袖者 乾時文無


(天武天皇崩御の時、大后(持統天皇)御作歌一首

やすみしし 我が大王おほきみの 夕されば 見したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見したまはまし その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさび暮らし 荒栲の 衣の袖は 干る時もなし)


*日本古代史料本文データ「万葉集」参照

http://ifs.nog.cc/kodaishi-db.hp.infoseek.co.jp/



 天武天皇が崩御し、それを悲しんだ大后の持統天皇が悲しんだ持統天皇が詠んだ歌で、天皇が生きていたら夜明けにはきっと聞いて来るだろう、神の山の黄葉を、もしも生きておられたら、今日もまた尋ねてきて、明日もまた見るだろう、その山を見ながら夕方になると悲しくなって衣の裾は(涙で)乾く事も無いと言う歌です。


 通説では「天皇」称が使われ始めた天武朝は上記の歌が詠まれた時は既に終焉を迎えていますが、この頃に至っても「大王」の称も使われていた用例となります。

 

 他にも年代が分かるもので「八隅知之 我大王之」という用例であれば『万葉集』六巻一〇〇五番歌の山部赤人の天平八年(西暦七三六年)六月の歌がありますし、それ以降の時代でも大伴家持の歌等には「大王」の用例が多く見受けられます。


 小説などの創作で古代などを舞台にした場合、『日本書紀』がアテにならない為、「大王」と「天皇」どちらの表現が相応しいか迷う事もあるかと思いますが、万葉歌人の歌をヒントに登場する人物や創作の舞台に近い時代の表現を探すのも良いかも知れません。



◇参考

『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

『万葉集を知る事典』櫻井満【監修】尾崎富義・菊地義裕・伊藤高雄【著】東京堂出版

日本古代史料本文データ

http://ifs.nog.cc/kodaishi-db.hp.infoseek.co.jp/


◇関連項目

「天皇」の称号について

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452220233799364

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