厩戸皇子(聖徳太子)③ 太子にまつわる歌

⑴『上宮聖徳法王帝説』巨勢三杖の歌

上宮薨時、巨勢三杖大夫歌。

伊加留我乃、止美能乎何波乃、多叡婆許曾、和何於保支美乃、弥奈和須良叡米。


(上宮薨ずる時、巨勢こせ三杖みつえ大夫まへつきみの歌。


 斑鳩いかるがの、とみ小川おがはの、えばこそ、我が大王おほぎみの、御名みな忘らえめ)


*巨勢三杖大夫……『南京遺響』によれば「伝詳ナラズ」とある。尚、原文には「臣」の字が使われえていますが、大抵の注釈書では「巨」の誤りとして校訂されています。

*富……富は斑鳩付近の地名。現在でも富雄川が流れている。

*弥奈和須良叡米……『南京遺響』によれば「御名将所忘(御名みなわすら所将えめ)なり、ワスラレをワスラエと云は、古言の常なり」とある。



・⑴解説

 『上宮聖徳法王帝説』が伝える太子の崩御を悼む歌で、「斑鳩の富の緒川の流れに絶えたのであれば、我が王(聖徳太子)の御名を忘れることだろう」という歌意です。

 同書には巨勢三杖なる人物による歌が三首ありますが、上記の歌以外の二首は意味の通じ難い事があり、割愛しています。この歌は和歌としての体裁が整っていますが、太子死去の時の作かどうか判断し難いそうです。⑵


 只、次代の天皇である舒明天皇の時代から、初期万葉の時代が始まると言われている事や、推古十八年三月に高句麗の僧、曇徴どんちょうが墨と製紙法を日本に伝えた事の影響(但し、考古学的には弥生時代中期には福岡県糸島市の潤地頭給うるうじとうきゅう遺跡では未完成品の硯と工具の石鋸、佐賀県唐津市の中原なかばる遺跡でも未完成品の硯と石鋸、墨まで発見されている事から、墨はとっくに使われていた可能性が高いです。)、推古朝の頃から断片的ながらも文献史料が増えて来る事などから、推古朝から上記の様な歌が作られ始めていた可能性も充分考慮して良いのではないかと思います。


*追記

 『懐風藻』の序文によれば「逮乎聖徳太子、設爵分官、肇制礼儀。然而専崇釈教、未遑篇章(聖徳太子におよんで、爵を設け、官を分かち、はじめて礼儀を制す。然れどももつぱ釈教しやくけうを崇めて、いまだ篇章へんしやういとまあらず。)」つまり、「聖徳太子が官位(冠位十二階)を設けられ、初めて礼と義の法を制定された。しかし、主力は釈迦の教え(仏教)に注がれ、詩文を作られる暇が無かった」とあり、同書では多くの詩人が輩出するのが天智天皇以降であったことを示唆しており、推古朝の時点では当然和歌も作る余裕もなかったかも知れません……。



⑶『万葉集』三巻 四一五 挽歌

上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首 [小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古]

家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人阿怜


(上の宮の聖徳の皇子の、竹原たかはらの井に出遊いでましし時、龍田山のみまかれる人を見て悲傷かなしみて作りませる御歌一首 [小墾田の宮に天の下しらしめしし天皇の代、小墾田の宮に天の下しらしめししは、豊御食炊屋姫とよみけかしきやひめの天皇なり。ただのみなは額田謚は推古と申す。]


 いへにあらば  いも手纒てまかむ 草枕 旅にこやせる 旅人たびとあはれ)


・⑶概略

 上宮聖徳皇子、竹原たかはら出遊いでます時、龍田山の死人を見て悲しまれてお作りになれた御歌一首


 家に居るなら妻の手を枕としているであろうに、草を枕の度の空に伏している旅人よ。ああ


・⑶解説

 単なる行路死者を憐れむ歌ですが、以下の⑷の記事が元になった歌かと思われ、そちらには詳しい伝承が記載されています。




⑷『日本書紀』巻二二推古天皇二一年(六一三)十二月庚午朔

十二月庚午朔、皇太子遊行於片岡。時飢者臥道垂。仍問姓名而不言。皇太子視之與飲食。卽脱衣裳、覆飢者而言、安臥也。則歌之曰、

斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屢 諸能多比等阿波禮

於夜那斯爾 那禮奈理雞迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜那祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮


十二月しはすの庚午かのえうまのついたちのひ皇太子ひつぎのみこ片岡かたをか遊行いでます。時にゑたるひと道のほとりこやせり。りて姓名かばねなを問ひたまふ。しかるにまをさず。皇太子視て飲食をしものあたへたまふ。卽ち衣裳みけしを脱ぎて、飢者におほひのたまはく、「安く臥せよ」。則ち歌よみて曰く、


級照しなてる片岡山かたおかやまいひて、こやせる、旅人たびとあはれ、親無しに、なれりけめや、刺す竹の、君はや無き、いひて、こやせる旅人たびとあはれ)


・⑷概略

十二月一日、皇太子が片岡かたをか(奈良県北葛城郡)に遊ばれた。時に飢えた人が道端に倒れていたので、寄って姓名かばねなをお尋ねになったが、ものを言わなかった。皇太子はその様子をご覧になって、着ている衣服を脱いで、その飢得た人におかけになり、「安らかに眠れ」と言われて。歌を詠まれた、


級照しなてる片岡山かたおかやまいひて、こやせる、旅人たびとあはれ、親無しに、なれりけめや、刺す竹の、君はや無き、いひて、こやせる旅人たびとあは


(片岡山で食べ物を与えて倒れている、可哀そうなこの旅人。お前は親無しに育ったのか。いたわってくれる恋人もいないのか。食べ物に飢えて倒れているこの旅人は可哀そうな事だ。)



・⑷解説

 この話には後日譚があり、この飢えた人の様子を使者に見に行かせたところ、既に死んでおり、そこに埋葬をして土をつき固めて墓を造った数日後、皇太子が「先日飢えた人は只の人ではなく、恐らく真人(仙人になり得た人)であろう」と言われ、使いを遣わして見させたところ、屍骨が無くなっており、衣服だけが畳んで棺に置かれていました。そこで皇太子はその衣服を取って来させ、再びその服を着るようになり、人々はその事を奇異に思い、「ひじりが聖を知るとはこの事だ」と言って、恐れかしこんだという説話が伝わっています。


 『日本霊異記』では巡幸に出かけた太子が片岡の村にさしかかると、道端に毛むくじゃらの乞食が倒れており、輿を降りた太子が乞食と語らい、病気の事などを尋ね、衣を脱いで乞食に着せて立ち去り、後日再びそこを通りかかると、乞食に着せかけた衣は木の枝にかかっており、乞食は居なくなっていました。太子はその衣を取ってお召しになり、臣下が「賤しい人に触れて穢れた衣を何の不足があって、またお召しになるのでしょうか」と尋ねたところ、太子は「お前には分かるまい」と言って臣下の言を制しました。


 その後、乞食は他の場所で死に、それを聞いた太子が使いを遣わして殯をし、岡本の村の法林寺の東北にある守部山に墓を作り、埋葬し、入木墓と名付けられました。その後また使いを遣わして墓をみさせたところ、墓の入り口は開かれていないのに、墓の中の乞食の死体は無くなっており、ただ歌が一首墓の戸口にかけてありました。


 いかるがの富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘れらめ


 いかるがの富の小川の流れがもしも絶えるときがあるなら、大君の御名を忘れることもありましょう。しかし、流れが絶えるはずも無く、お名前を忘れる事など有り得ません。


 使いは帰って報告し、太子はそれを聞き、口を閉ざして何も言われなかった。この不思議によって、人々は聖人は聖人を知り、凡人にはそれとわからず、凡人の肉眼には賤しい人と見えても、聖人の通眼には隠身であることが見分けられるという事を知った。とあります。


 同じ伝承でも『日本書紀』『万葉集』『日本霊異記』の中で地名に齟齬がありますが、犬飼公之氏は「何より、書紀が「飢ゑたる者」万葉集が「みまかれる人」だという違いを無視できない事に思われるとしながら、書紀が「姓名を問ひたまへど言さず」というのも、行路死人歌に「名を問へど名だにも告らず」というのにも等しい。思うに、書紀にいう「飢ゑたる者」は事実は死人であったのではないか。だとすると、太子が歌いかけたまま、置き去りにした事も納得出来る」⑸という指摘は同意できます。また、同氏が「何故死人を「飢ゑたる者」として伝えたか。それは古代の死の観念の事であり、山野の道頭に果てた旅人は、誰に看取られる事も無く、蘇生の祈りを受けることなく、死を確認されることもなく、放擲されているのであって、ちょうど殯の期間が生と死の重層する時間であったのと同じように受け止められたのであろう。そのような観念の裏打ちの上に、その飢餓苦界を彷徨して果てたあるがままの姿をも表現したのが。「飢ゑたる者」なのであろう。日本霊異記は、それを文字通り生者としてとらえて展開しているのであろう」⑹という推測している様に、古代における死生観が時代の流れとともに変遷して行く事により伝承に齟齬が生じていく様が伺えます。




⑴『上宮聖徳法王帝説新註』金子長吾 注 吉川半七

https://dl.ndl.go.jp/pid/780769/1/75


*追記参考文献

『懐風藻』 全訳注 江口孝夫 講談社学術文庫 28・29ページ。


⑵『史料による日本の歩み 古代編』 関晃・井上光貞・児玉幸多 編 吉川弘文館 63ページ


⑶『日本歌学全書. 第9編 万葉集 巻第1−巻第6』佐々木弘綱, 佐々木信綱 共編並標註 博文館

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993409/95

『新定万葉集. 上』武田祐吉 著 有精堂

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1127423/59


⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/201

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/55


⑷解説における『日本霊異記』のあらすじ及び、⑸⑹『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 227~229

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