壬申の乱③ 大乱の勃発

 当エッセイでは度々「近江朝廷」という表現が登場します。田中卓氏のように大友皇子の政府を「近江朝廷」と呼ぶことに異議を唱える識者の方も居られるようですが、本エッセイでは基本的に『日本書紀』に従い「近江朝廷」或いは省略して「近江朝」と表記することにしていますが、ご了承ください。



◇大海人皇子の決意

⑴『日本書紀』巻二八天武天皇元年(六七二)五月是月

是月。朴井連雄君奏天皇曰。臣以有私事獨至美濃。時朝庭宣美濃。尾張兩國司曰。爲造山陵。豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲。非爲山陵。必有事矣。若不早避。當有危歟。或有人奏曰。自近江京至于倭京。處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。天皇惡之。因令問察。以知事已實。於是詔曰。朕所以讓位遁世者。獨治病全身。永終百年。然今不獲已應承禍。何默亡身耶。


(是の月。朴井えのいのむらじきみ天皇に奏して曰く、「やつかれ私の事有るを以て獨り美濃にまかる。時に朝庭みかど、美濃、尾張のふたつのくにのみこともちに宣りて曰く、『みささぎを造くらむが爲めに、あらかじ人夫おほむたからを差し定む』とのたまふ。則ち人別ひとごとつはものらしむ。やつかれ以爲おもへらく、山陵みささぎの爲めにはらず。必ず事有らむ。し早く避けずば、まさに危きこと有らむと」とまうす。或いは人有りてまうしてまうさく、「あうみのみやこやまとのみやこに至るまで、處處ところどころうかみを置く。道守橋じのはしもりに命じて、皇大弟まうけのきみの宮のねり私粮わたくしのくらひものを運ぶ事を遮らしむと。天皇すめらみこと惡之はばかる。因りて問ひあきらめしめて、以て事のすでまことなるを知る。是に於ひてみことのりしてのたまはく、「われみくらゐを讓りて世をがるる所以ては、獨り病を治めて身を全くして、永く百年ももとせを終へむとなり。然るに今、むことをずして、さにわざはひを承く。何ぞ默して身をうしなはむや」とのたまふ。)


朴井えのいのむらじきみ……大海人皇子の舎人。『續日本紀』一巻に「榎井連小君」とあり、榎井=朴井は物部氏と同族。『舊事紀』に「守屋子物部雄君連公。天武帝時。賜氏上内大紫冠位。按守屋被」とある。

*天皇……ここでは後に即位する大海人皇子を指す。

うかみ……斥候ないし、間諜のこと。


⑴解説

 六七二年五月。朴井えのいのむらじきみが美濃に赴いた時、近江の朝廷が美濃・尾張の国司に命じて天智天皇の山陵を造るために人夫を徴発し、人毎に兵器を執らせている事を知り、これは山陵を造るためではなく事を起こす前触れだとし、大海人皇子に報告しました。


 この文に関して記紀で同様の事例を探すと、神功皇后紀に神功が応神を擁立し、征西から帰ろうとした時、麛坂王かごさかのみこ忍熊王おしくまのみこが仲哀天皇の陵をつくると偽り播磨の明石で、人毎に兵器を取らせて皇后を待伏せしようとしたことがみえますが、農民に課する労役と兵役とは未分化であったと考えられる為、労役のために徴発された人夫が、そのまま兵士に転用されることは、この時代には大いにありえたとし、山陵造りが兵を集める偽装になりえたであろうことを直木孝次郎氏が指摘されています。⑵


 直木氏の説を補足すれば、過去の稿で触れた有真皇子の変でも、「率造宮丁圍有間皇子於市經家(宮を造る丁を率て有間皇子を市經いちふの家にかくましむ)」とあり、宮を造る丁を率い、兵士として有間皇子を囲んだことが記録されているように、この頃はまだ労役と兵役とは未分化であったことは確かかと思います。


 本文の解説に戻すと、雄君によれば、近江京から倭京に至るまで所々にうかみを置いており、宇治の橋守に命じて皇大弟(大海人皇子)の舎人らが私粮を運ぶのを遮断させているとあり、六国史では京に不穏なことが起きると宇治橋や山崎橋や淀の渡しを固めたことが見えますが、ここも宇治橋を軍事・交通上の要所として押え、吉野方を監視したと西郷信綱氏は言います。⑶


 雄君の話を聞いた天武は「われ世をのがるるは、病を治め百年の生を全うせんとしたためである。しかるに今、否応なく禍が迫って来ようとする。このまま身を亡ぼすわけにいかない」と決意を語りました。



◇説話にみえる壬申の乱

⑷『宇治拾遺物語』巻第十五 清見原天皇大友皇子と合戦の事

今は昔、天智天皇の御子に、大友皇子といふ人ありけり、太政大臣になりて、世のまつりごとを行ひてなんありける。(中略)

この大友皇子の妻は、春宮の御女にてましましければ、父の殺され給はんことを悲しみ給ひて、いかでこの事告げ申さんと思しけれど、すべきやうなかりけるに、思ひ侘び給ひて、 ふな包裹つつみ燒のありける腹に、ちひさくふみを書きて、押し入れて奉り給へり。(下略)


⑷解説

 この話は壬申の乱を説話化したものとして貴重なのですが、その一節に、吉野の大海人皇子を大友皇子が殺そうと謀ったとき、大友の妻・十市皇女は鮒の包み焼の腹に小さな文を入れて吉野の父・大海人皇子のもとに送り、近江の動向を伝えたという話が載っています。


 何やら戦国時代の金ヶ崎の戦いで、織田信長が妹のお市の方から両端を縛った小豆の袋を届けられ、これを見て浅井長政の裏切りを察し、難を逃れたという話を思い起こします。小豆の袋の話が俗説であると言われているように、鮒の包みの話も信憑性は疑われますが、この話は伴信友の『長等の山風』で「件の說は實なるべし」⑸というように史実性を認める、あるいは浜田清次氏のように「中国の『雁書』の故事や、文選の『鰹魚尺素』の故事の日本版ともいうべく、琵琶湖の風土性などとも相まって興味深いが、どうも多分に小説的な脚色が施されているようである」と伴信友のように単純に信用するわけにはいかないと断りながらも、「あるいは口コミにより、あるいはマスコミによって長く伝承せられ、ついにこういう形にまで発展するコア、中核といったものまでは否定したくないのであって、そこに伝説の歴史学的意義がある信ずる」⑹と話の核としては史実性を認める得る見解も見受けられます。


 浜田氏は十市皇女による関与を史実の核と見られていますが、十市皇女は大友皇子の妻であると同時に父は大海人皇子であり、どちらに加担しても不思議ではない立場なので、この時点では父を助けることが乱への発展に、ひいては夫の大友皇子の死に繋がるとまでは想像しておらず、ただ父を救いたいがために密告したということも推測は可能ですが、そもそも『宇治拾遺物語』が鎌倉時代前期の成立の説話集であることからして、そこに史実性を見出すのは難しいのではないでしょうか。



◇湯沐邑

⑺『日本書紀』巻二八天武天皇元年(六七二)六月 壬午廿二

六月辛酉朔壬午。詔村國連男依。和珥部臣君手。身毛君廣曰。今聞。近江朝庭之臣等。爲朕謀害。是以汝等三人急往美濃國。告安八磨郡湯沐令多臣品治。宣示機要。而先發當郡兵。仍經國司等差發諸軍。急塞不破道。朕今發路。


六月みなづきのかのとのとりついたち壬午みづのえうまのひむらくにのむらじより和珥わに部臣べのおみきみけのきみひろみことのりのたまはく、「今聞く。近江あふみのかどの臣等、が爲めに害を謀る。是を以て汝等三人急に美濃國往て、八磨はつまのこほり湯沐ゆのうながしたのおみの品治ほむでに告げて、はかりことのぬみのたまひ示して、先 そのこほりいくさおこせ。仍ち國司くにのみこともち等に經して諸の軍を差發さしおこして、急に不破の道をふせげ。朕今 いきたたむ」とのたまふ。)


*村國連男依……此姓系詳らかではなく、『倭名類聚抄』に「大和國添下郡村國。美濃國各務郡村國。神名式。同郡村國神社」とあり。『續日本紀』三巻に「美濃國言。村國連等志賣一產三女」とあるに、男依は美濃人。なお、同書二十五に「美濃少掾正六位上村國連島主。坐逆黨。類史八十七」。延曆十七年二月に「美濃國村國連惡人」なども見える。

*和珥部臣君手……孝昭紀に、「天足彥國押人命。此和珥臣等始祖也。」とあり。

*身毛君廣……景行紀に「身毛津君」とあり。『續日本紀』に牟宜都君比呂に作る。『古事記』に「大確命生子押黑弟日子王。此者牟宜都君等之祖。」とあり。



⑺解説

 六月二十二日、大海人皇子はむらくにのむらじより和珥わに部臣べのおみきみけのきみひろの三人に近江朝廷が自分を謀り、害しようとしていることを打ち明け、美濃に行き八磨はつまのこほりの湯沐令、たのおみの品治ほむでに告げて、郡の兵を起こし、美濃の不破関を塞ぐように命じます。


 湯沐令とは古代中国において天子諸侯の料地を湯沐邑といい、それはその地より得た賦税を湯沐の費用にあてる意味で言い、日本古代の用語も是に基づき、上代日本では禄令には中宮の湯沐二千戸、延喜春宮坊式、同民部式等には東宮湯沐二千戸がみえます。この湯沐邑は邦戸の一種であり、『続日本紀』では「天平応真仁王皇后崩、姓藤原氏……天平元年太夫人爲皇后湯沐之外更加別封一千戸」と湯沐が皇后の邦戸に用いられていたことが記されており、恐らく律令制においては、他の邦戸同様、各国軍の群里に割り当てられ、国司が徴税して、封をあたえられた中宮・東宮に送附する責任にあたっていたことが推測されますが、日本における湯沐邑の源流に遡る壬申紀においては、律令制度的な封戸とは趣が異なり、湯沐邑が大海人皇子方の重要な軍事的経済基盤となっていたことが推測されるとのことです。又、大海人皇子が美濃の国司に命令して兵を発させしめる前に何よりも先ず八磨はつまのこほりの湯沐令、たのおみの品治ほむでに対して郡兵を発せしめているのは、近江朝廷側が山陵を築くために美濃尾張に人夫を発せしめ、おのおのに兵を持たしめているのは、大海人皇子に備えて先手を打ったのであろうことに対し、大海人皇子は自分の湯沐邑の地がある事を憑んで、美濃尾張の兵力を己が手に収めようとしたのであろうとのことです。⑻


 湯沐邑は一応国に与えられると形をとりながら、湯沐令という直接派遣されたと思しき役の者がここにいては、私的・直接的支配権の強い点、律令制では封主が封戸から直接徴収することができなかったのと異なります。この湯沐令のことを直木孝次郎氏は「おそらく大海人皇子によって任命され、大海人皇子と個人的な隷属関係を持っていたのであろう」⑼と推測しています。



◇大海人皇子の東国入り

⑽『日本書紀』巻二八天武天皇元年(六七二)六月 甲申廿四是日

是日。發途入東國。事急不待駕而行之。黴遇縣犬養連大伴鞍馬。因以御駕。乃皇后載輿從之。逮于津振川。車駕始至。便乘焉。是時。元從者草壁皇子。忍壁皇子。及舍人朴井連雄君。縣犬養連大伴。佐伯連大目。大伴連友國。稚櫻部臣五百瀬。書首根摩呂。書直智徳。山背直小林。山背部小田。安斗連智徳。調首淡海之類廿有餘人。女孺十有餘人也。即日。到菟田吾城。大伴連馬來田。黄書造大伴。從吉野宮追至。於此時。屯田司舍人土師連馬手供從駕者食。過甘羅村。有獵者廿餘人。大伴朴本連大國爲獵者之首。則悉喚令從駕。亦徴美濃王。乃參赴而從矣。運湯沐之米伊勢國駄五十匹遇於菟田郡家頭。仍皆棄米而令乘歩者。到大野以日落也。山暗不能進行。則壌取當邑家籬爲燭。及夜半。到隱郡焚隱驛家。因唱邑中曰。天皇入東國。故人夫諸參赴。然一人不肯來矣。(下略)


(是の日。たち東國に入たまふ。事 にはかにしておほむまを待たず行く。にはかあがたいぬかひのむらじ大伴おほとものくらおけるうまに遇ふ。因りて以てみのす。乃ち皇后は輿に載てみともにませしむ。ふり川に逮て、車駕おほむま始ていまし。便ちみのりす。是の時に、元より從へるひとは、草壁皇子、忍壁おさかべの皇子、及び舍人とねり朴井えのゐのむらじきみあがたいぬかひのむらじ大伴おほともへきのむらじおほおほ伴連とものむらじ友國ともくにわかさくらべのおみみい百瀬ほせふみのおびと根摩呂ねまろふみのあたひとこやましろのあたひばやし山背部やましろべの小田をだとのむらじとく調つきのおびとふみともがら廿有はたたり餘人あまり女孺めのわらはたり餘人あまりなり。

即日。菟田の吾城あきに到る。大伴連おほとものむらじむま來田くた、黄書造大伴、吉野宮從り追てまヰけり。此時に於ひて、たの司の舍人土師連馬手、駕に從ふ者のをしものを供ふる。かむの村を過ぎ、獵者かりびと廿はたた餘人あまり有り。大伴 朴本えのもとの連大國、獵者のひとごのかみ爲り。則ち悉く喚てみとせしむ。亦た美濃王を徴す。乃ち參赴まゐりておほみともにつかへまつる。湯沐の米運ぶ伊勢國のにおひむま五十匹いそぎ、菟田のこほり家のもとに遇ふ。仍て皆 よねを棄て歩者かちひとを乘らしむ。大野に到りてくれぬ。山暗くて進行みたすること能はず。則ちその邑家の籬ち壌ち取りて燭と爲す。夜半に及び、なはりの郡に到りて隱の驛家むまやを焚く、因て邑の中に唱へて曰く。天皇東國に入る。故れ人夫おほむたからもろもろまヰ。然るに一人も來肯きかへず。)


*莵田吾城……式大和國字陀郡阿紀神社(奈良県宇陀市 大宇陀迫間おおうだはさま)。『萬葉集』に安騎野とあり。

*甘羅村……『大和志』に「宇多郡有葛村疑此。」とあり。しかし、甘羅は吾城より莵田郡家まての間にあることから、飯田武郷は志の說は從ひかたしとし、葛村は、室生の方より、中山峠越にかかる道であると推測しています。

*美濃王……傳詳ならず。二年紀に「小紫美濃王云々。造高市大寺司」、十四年紀に「彌努王」、持統紀八年に「以淨廣卑三野王。拜筑紫大宰師」とある。



⑽解説

 六月二十四日、「事急にして駕を待たず行く」と急いで吉野を離れました。「おほむま」は貴人の馬の事ですが、大海人皇子は乗る馬も無くかちで吉野を発ったことになります。これは碌に仕度もなく、あわてて出立したからですが、大海人皇子の東国入り、また壬申の乱自体を大海人皇子の「計画」にもとづく行動とする説と、対する「非計画ないし偶発」による説がある為⑾、本文をそのまま信じる訳にはいかないようです。


 なお、(下略)の部分は天武天皇が天文遁甲の知識を利用して兵士を鼓舞する内容ですが、過去の稿『上古文献にみる道教の歴史』の「天武天皇による道教の利用」の⒁に本文と解説で既出なので、そちらも合わせて参考にしてください。


https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16818023214178894123



天照大神あまてらすおほむかみ望拜たよせにをがみたまふ

⑿『日本書紀』巻二八天武天皇元年(六七二)六月 丙戌廿六

丙戌。旦於朝明郡迹太川邊望拜天照太神。是時。是時、益人到之奏曰。所置關者非山部王。石川王。是大津皇子也。便随益人參來矣。大分君惠尺。難波吉士三綱。駒田勝忍人。山邊君安摩呂。小墾田猪手。泥部胝枳。大分君稚臣。根連金身。漆部友背之輩從之。天皇大喜。將及郡家。男依乘驛來奏曰。發美濃師三千人得塞不破道。於是天皇美雄依之務。既到郡家。先遣高市皇子於不破。令監軍事。遣山背部小田。安斗連阿加布。發東海軍。又遣稚櫻部臣五百瀬。土師連馬手。發東山軍。

是日。天皇宿于桑名郡家。即停以不進。(下略)


丙戌ひのえいぬ。旦に朝明あさけのこほり迹太とほかはに於て天照太神を望拜たよせにをがみたてまつる。益人えきひと到て奏して曰く、「せきにははべる所の山部王、石川王に非ず。是れ大津皇子なり。便ち益人えきひとまだしてまう來たまへり。大分君 さか難波なにはの吉士きしつな駒田こまだのすぐり忍人おしひとやまのへのきみやす摩呂まろ墾田はりたの猪手。はせつかべの胝枳しきおほきだのきみわかねのむらじかね漆部友ぬりべのともともがらおほむともつかまつる。天皇すめらみこと大きに喜びたまふ。こほりのみやけいたらんとするに、よりはゆまに乘りて來りまうまうさく、「美濃のいくさ三千みちたりを發して不破の道を塞ぐことを得ず」とまうす。是に於て天皇、雄依がいさをめ。既にこほりのみやけに到りて、先づ高市皇子を不破に遣して、いくさの事をしむ。山背部やましろべの小田をだを遣して、とのむらじ阿加布あかふを遣して、東海うみつぢいくさおこす。又、わかさくらべのおみ五百瀬いほせじのむらじうまを遣して、東山やまのみちいくさを發す。

是の日。天皇、桑名くはなのこほりのみやけに宿りたまふ。即ちとどまりて以ていでまさず。)


*望拜天照太神……以下⒀の『釈日本紀』引用私記参照。

*東山軍……以下⒀の『釈日本紀』引用私記参照。



⒀『釈日本紀』巻十五 述義十一

望拜天照大神。

〈私記曰。案安斗智徳日記云。二十六日辰時。於明朝郡迹大川而拜禮天照大神。〉

發東山軍

〈私記曰。案安斗智徳日記云。令發信濃兵〉


天照大神あまてらすおほむかみ望拜たよせにをがみたまふ。

〈私記に曰く。安斗智徳日記を案ずるに云く。二十六日辰時。明朝あさけのこほり迹大とほかはに於ひて天照大神を拜禮はいらいす。〉

東山やまのみちいくさを發つ

〈私記に曰く。安斗智徳日記を案ずるに云く。信濃兵に發令す〉)


⑿⒀解説

 六月二十六日、朝明あさけのこほり迹太とほかはにおいて天照太神を拝みたて祀る記事ですが、『釈日本紀』引用の「私記」による安斗智徳などの日記は壬申の乱を経験した従軍者の記録に元となったと想定される記事があり、乱後かなり経ってから朝廷に提出され、日本書紀編纂の材料となったと考えられています。⒁


 詳細は過去の稿(「壬申の乱➀ 『日本書紀』以外の壬申の乱の基礎資料」)の⑴の解説でも触れているのでそちらもご覧下さい。


https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16818023213822862074

 


◇近江朝廷の動揺

⒂『日本書紀』巻二八天武天皇元年(六七二)六月 丙戌廿六

丙戌。(中略)是時。近江朝聞大皇弟入東國。其群臣悉愕。京内震動。或遁欲入東國。或退將匿山澤。爰大友皇子謂羣臣曰。將何計。一臣進曰。遲謀將後。不如。急聚驍騎乘跡而逐之。皇子不從。則以韋那公磐鍬。書直藥。忍坂直大摩侶遣于東國。以穗積臣百足。及弟五百枝。物部首日向遣于倭京。且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。


仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王。與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國授苻之日。紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。男至筑紫。時栗隈王承苻對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子三野王。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還之。東方驛使磐鍬等將及不破。磐鍬獨疑山中有兵。以後之緩之行。時伏兵自山出。遮藥等之後。磐鍬見之知藥等見捕。則返逃走僅得脱。當是時。大伴連馬來田。弟吹負並見時否。以稱病退於倭家。然知其登嗣位者必所居吉野大皇弟矣。是以馬來田先從天皇。唯吹負留謂。立名于一時欲寧艱難。即招一二族及諸豪傑。僅得數十人。


丙戌ひのえいぬ。(中略)是時に、近江あふみのみかど大皇弟まうけのきみ東國に入りますと聞きて、其の群臣まへつきみたち悉くおぢて、みさとうち震動さわぐ。或はのがれてあづまのくにに入らむとおもほす。或は退て山澤やまさわかくれむとす。爰におほともの皇子みこ羣臣まへつきみたちかたりてのたまはく、「將さに何をか計らむ」とのたまふ。ひとりの臣進てまうさく。「遲く謀らばおくれなむ。如かず、急に驍騎ときむまいくさあつめて跡に乘りてはんには」とまうす。皇子みこしたがはず。則ち那公なのきみ磐鍬いはすき書直藥ふみのあたひくすりおし坂直さかのあたひおほ摩侶まろを以て東國に遣す。づみのおみ百足ももたり、及びおとと五百枝いほえもののべのおびとむかをを以て倭の京に遣す。またへきのむらじをとこを筑紫に遣し、くすの使主おみ盤磐手いはてを吉備國に遣して、並にふつくいくさおこさしむ。


仍て男と磐手とに謂りてのたまはく、「其の筑紫の大宰おほみこともちくるくまのおほきみ、吉備國のかみ當摩公廣嶋たぎまのきみひろしまと二人、元より大皇弟まうけのきみ有隷つきまつる。疑は反くこと有らむか。不服色まつろはぬおもへり有らず即ち殺せ」とのたまふ。是に於て、磐手吉備國に到りておしてのふみたまふ日、廣嶋を紿あざむきて刀を解かしむ。磐手乃ち刀を拔きて以て殺しつ。男筑紫に至る。時にくるくまのおほきみおしてのふみけてこたへてまうさく、「筑紫國は元よりほかの賊のわざはひまもるなり。其の城をたかくし、みぞを深くし海に臨みてまほをするは、豈に内の賊の爲めならむや。今命を畏みし軍をおこさば、則ち國空けむ。若し不意おもひの外に倉卒にはかなる事有らば、ひたふるに社稷くに傾きなむ。然る後、ももたび臣を殺すといふとも、何のしるしかあらむ。豈に敢ていきほひに背かむや。たやすく兵を動かさざるは、其の是のよしなり」とまうす。時にくるくまのおほきみふたりみこののおほきみ武家たけむへのおほきみ。劔を佩て側に立ちて退く無し。是に於て男劔をとりしばりて進ましとおもふも、かへりてころされむはことを恐れ、故、事を成すこと能はずを空しく還る。東方ひがしのかた驛使はいまづかい磐鍬いはすきたち不破に及ばんと將に、磐鍬いはすき獨り山中にいくさ有ることを疑ひ、以て後れてやうやくに行く。時にかくいくさ山より出で、藥等が後を遮る。磐鍬見て藥等捕はるを知り。則ち返さ逃げ走りて僅に脱るることを得たり。


*大皇弟……大海人皇子。『日本書紀通釈』に、「大皇弟は、當時の稱に依て書たりしものの。其ままにて改められさりしなり」とあり。



⒂解説

 こちらは近江朝廷側の記事となりますが、大海人皇子の果断な行動に対し、近江朝廷の態度は驚き恐れる者もあって分裂しており、その対策も順調に進まず、この時、東国・筑紫・吉備に遣わされた募兵の使者はその目的を達成することが出来ませんでした。


 西郷信綱氏は近江陣営の弱点として、吉備の當摩公廣嶋たぎまのきみひろしまと筑紫の栗隈王の両人を大海人に「元より」従っているものとここにいうのは、かねて大海人に心を寄せるものの多かったことをものがたる。その点、天智なきあとの近江朝廷側はかなり苦しい立場に追い込まれていたと考えられると言います。⒃


 白村江の大敗などで権威が地に落ちていたと思われる天智朝において、後継ぎは天文・遁甲に通じ、乱中でも卜占を行い士気を高める効果を狙ったと思われる行為の様に、人を惹き付ける能力が高かったことが伺える、大海人皇子を望む声が多かったことが推定されるのに対し、近江朝廷が有間皇子を謀略で陥れた蘇我赤兄の如き胡散臭い人物を左大臣に据えており、年若い大友皇子に不安を覚える豪族が多かったことは想像に難くありません。


 初動で大友皇子がどうしたらいいのかと群臣に問うた時、一人が進み出て「遲謀將後。不如。急聚驍騎乘跡而逐之(遲く謀らばおくれなむ。如かず、急に驍騎ときむまいくさあつめて跡に乘りてはんには)」つまり、「ぐずぐすしてはいけない。急いで精強な騎兵を集めて、後を追跡するのが最上の策だ」という意見に大友皇子が従わなかった理由はハッキリと分かりませんが、この様な大友皇子の姿勢にも近江朝廷の群臣たちは不安に感じざるを得なかったということでしょうか。後から見れば、近江朝廷の勝機は、まだ大海人皇子の軍勢が寡兵であったこのタイミングが最大のチャンスだったのですが、群臣の意見を聞かなかった大友皇子の運命はこの好機を逸したことで決まってしまったようです。


*追記

 直木孝次郎氏は大友皇子が大海人皇子追跡の策を採用しなかったことから、➀近江朝廷は騎兵よりなる若干の親衛隊を有していた。②しかしその戦力はそれほど強力なものではなかったことを推定し、近江側の募兵に失敗の多い原因を大海人皇子の声望の故と考えられました。⒄




◇参考文献

⑴⑺⑽『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/300


⑵『壬申の乱 (塙選書)』直木孝次郎 塙書房

「前篇 反乱まで 第三章 吉野の皇子」


⑶『壬申紀を読む 歴史と文化と言語』西郷信綱 平凡社選書 70頁

「五 大海人皇子たちあがる」


⑷『日本文学大系 : 校註 第10巻』国民図書

所収「宇治拾遺物語 巻第十五 清見原天皇と大友皇子と合戦の事」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1018049/1/183


⑸『伴信友全集 第4 (国書刊行会刊行書)』国書刊行会

所収「長等の山風」上之巻

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/991315/1/245


⑹『壬申紀私注 上巻』浜田清次 桜楓社 171頁

「第四章 大海人皇子決起」


⑻『日本古代の政治と文学』記紀万葉を語る会 編 青木書店 109-111頁

所収「壬申の乱における大海人皇子の勢力について 一 湯沐邑」


⑼直木、前掲書

「中篇 乱の経過 第一章 挙兵命令」


⑾『研究史 壬申の乱』星野良作 吉川弘文館 221-241頁

「第三 壬申の乱の本格的研究の展開 三 乱の計画・非計画説」


⑿『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/302


⒀『国史大系 第7巻』経済雑誌社 編

所収『釈日本紀』巻十五 述義十一

https://dl.ndl.go.jp/pid/991097/1/369


⒁『史料による日本の歩み 古代編』 関晃・井上光貞・児玉幸多 編 吉川弘文館 88頁

「第一節 大化の改新 (71)大乱の勃発」


⒂『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/302


⒃西郷、前掲書 129頁

「十二 近江朝側の動揺」


⒄『壬申の乱 (塙選書)』直木孝次郎 塙書房 139-157頁

「中篇 乱の経過 第四章 戦機熟す」

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