壬申の乱④ 大伴氏の活躍

 おはこんばんにちは。メインバンクのシステムが五月六日迄メンテナンス中だということも忘れ、紐づけしてあるバーコード決済で何回も失敗した麗玲です。(マテ)


 それはとにかくとして、電子書籍でも読める良い記紀の研究書が無いか探していたところ、壬申の乱について取り扱ったと思われる如何にもトンデモなタイトルのある漫画を怖いもの見たさで試し読みしたところ、アーネスト・フェノロサと岡倉天心が法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開扉し、救世観音に巻かれた布をほどくと現れた光背が大きな釘で頭に直接打ち付けられていたことから、僧侶が厭魅を連想したという、冒頭からいきなり海原猛氏による伝説のトンデモ本『隠された十字架』をネタとしたと思われる内容に吹きましたが、一方で、もしも、こういった作品が好んで読まれているとしたら一寸笑えないと空寒い気分にもなりました。タイトルに「新説」等と冠する前に、梅原説のような批判が多く、極めて奇抜な説は迂闊に取り入れず、先ずは説に対する各種批判や、哲学者という部外者(和辻哲郎氏のような歴史家からも評価が高い方は例外ですが)による胡散臭い珍説に飛びつくのではなく、マトモな専門の学者の説もよく調べるべきだと思うのですがね……。まぁ、漫画ですし、それに戦国や幕末に比べて人気が無い時代ですから、こういった奇抜な内容の作品でも無ければ中々読まれないというのは分からなくも無いですが、私個人としてはこのような作品は試し読みだけでお腹いっぱいですけどね。


 さて、話を変えます。本稿では少し視線を変えて、乱で実績を上げ、壬申紀の記事にも大きな影響を与えたと思われる大伴氏にスポットライトを当ててみます。



◇大伴氏の吉野方への加担

⑴『日本書紀』巻二八天武天皇元年(六七二)六月 丙戌廿六

(前略)當是時。大伴連馬來田。弟吹負並見時否。以稱病退於倭家。然知其登嗣位者必所居吉野大皇弟矣。是以馬來田先從天皇。唯吹負留謂。立名于一時欲寧艱難。即招一二族及諸豪傑。僅得數十人。


(是の時にたりて、おほ伴連とものむらじ馬來田まぐたいろどふけ並びに時のよくもあらぬを見て、以て病とまうし倭の家に退る。然て其の登嗣位あまつひつぎしらしむは必ず吉野に所居まします大皇弟まうけのきみならむこと知れり。是を以て馬來田まぐた先づ天皇に從ひて。唯しふけ留りておもはく。名を一時ひとときに立てて艱難わざはひやすめむとおもふ。即ち一二ひとりふたりやから及びもろもろ豪傑いさをしを招きて、僅かに數十とをあまりのひとを得たり。)


⑴解説

 大伴氏は大化5年(649年)には大紫位・右大臣に任じられていた大伴長徳の死以降、逼塞していたようですが、この頃、おほ伴連とものむらじ馬來田まぐた、弟のふけは時勢が思わしくない事を察し、病気と偽り(近江朝を脱し)倭の家に引きこもっていましたが、一気に名を上げて事変を鎮めてみせようと決意し、大海人皇子の側に立って挙兵しました。蘇我氏が赤兄や果安らが近江朝で顕官である一方、安麻呂が密かに大海皇子と通じていたのと違い、大伴氏は一族丸ごと吉野方に味方しました。


 ですが、「僅得數十人(僅かに數十とをあまりのひとを得たり)」と最初は軍勢を集めることもままならなかったようです。集解職員令左衛士府条所引弘仁二年十一月二十八日付官符には「室屋大連公。領靱負三千人。」とある様に、史実性はとにかくとして、祖の大伴室屋が靱負三千人を率いたと伝えられていた時代からすると、かつての名族大伴氏も落ちぶれ果てた様に思えますが、吉野方からすると、大伴氏が味方をすることは勝利の必須条件でした。以降、壬申紀の記事において、大伴氏は活躍を見せる事になります。



⑵『日本書紀』巻二八天武天皇元年(六七二)六月 己丑廿九

己丑(中略)是日。大伴連吹負密與留守司坂上直熊毛議之。謂一二漢直等曰。我詐稱高市皇子。率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家。自南門出之。先秦造熊令犢鼻。而乘馬馳之。俾唱於寺西營中曰。高市皇子自不破至。軍衆多從。爰留守司高坂王。及興兵使者穗積臣百足等。據飛鳥寺西槻下爲營。唯百足居小墾田兵庫運兵於近江。時營中軍衆聞熊叺聲悉散走。仍大伴連吹負率數十騎劇來。則熊毛及諸直等共與連和。軍士亦從。乃擧高市皇子之命喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰百足乘馬緩來。逮于飛鳥寺西槻下。有人曰。下馬也。時百足下馬遲之。便取其襟以引墮。射中一箭。因拔刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝。物部首日向。俄而赦之置軍中。且喚高坂王。稚狹王而令從軍焉。既而遣大伴連安麻呂。坂上直老。佐味君宿那麻呂等於不破宮。令奏事状。天皇大喜之。因乃令吹負拜將軍。是時。三輪君高市麻呂。鴨茂君蝦夷等。及羣豪傑者。如響悉會將軍麾下。乃規襲近江。因以撰衆中之英俊爲別將及軍監。庚寅。初向乃樂。


己丑つちのとうし(中略)是の日。大伴連吹負密にとどまりまもるつかさ坂上直あかのうへのあたひくまはかりして、一二ひとりふたりあやあたひ等に謂ひて曰く、「われいつはりて高市皇子と稱して、數十騎を率いて飛鳥寺の北路より出でていほりに臨まむ。乃ちいまし内應なかだちせよ」といふ。既にして兵を百濟の家につくろひ、南門より出づ。先づはだのみやつこくま犢鼻たふさぎせしめて、馬に乘りて馳て、寺の西のいほりうちめていはく、「高市皇子、不破より至り、軍衆多く從ふ」といふ。こことどまりまもるつかさたかさかのおほきみ、及び兵を興す使者つかひづみのおも百足ももたり等、飛鳥寺の西の槻の下に據て、いほり爲す。唯だ百足ははりの兵庫に居りて、兵を近江に運ぶ。時にいほりの中の軍衆熊のさけこへを聞きて悉く散り走る。仍りて大伴連吹負、數十騎を率いてにわかに來り、則ち熊毛及びもろもろあたひ等と共に連和うるはし軍士いくさのひとどもた從ふ。乃ち高市皇子の命を擧げて、づみのおみ百足ももたりはりの兵庫にす。ここに百足馬に乘りておそく來れり。飛鳥寺の西のつきの下に逮て、人有り曰く、「馬よりおりよ」といふ。時に百足馬下遲し。便ち其のきぬのくびを取りて以て引き墮して、ゆみい一箭ひとさをて、りて刀を拔きて斬りて殺しつ。乃ちづみのおみ五百枝おほえもののべのおびとむかとらふ。しばらくにし赦していくさの中に置く。高坂たかさかのおほきみ稚狹わかさのおほきみして、軍に從はしむ。既にしておほとものむらじやす麻呂まろ坂上直老さかのうへのあたひおきな味君みのきみ宿すく麻呂まろ等をはのみやに遣して、事のかたちまうさしむ。天皇すめらみことおほきに喜びたまふ。因りて乃ち吹負を將軍に拜せしむ。是の時に、輪君わのきみ高市たけち麻呂まろ茂君ものきみ蝦夷えみし等、及びまへつきみ豪傑いさをしきひとども、響の如く悉に將の軍麾下に會ふ。乃ち近江を襲わむことをはかる。因りて衆中の英俊すぐれたるひとえらびてすけのいくさのきみ及び軍監まつりごとひとと爲す。かのえとらのひ乃樂ならに向ふ。)


⑵解説

 大伴吹負は一計を案じ、留守司である坂上直さかのうへのあたひくま等と密議し、兵を整えると、はだのみやつこくまに褌一丁で馬に乗り、急ぎ馳せ参じた格好で飛鳥寺の西の槻の樹の下の屯所に入り、「高市皇子が不破から大軍でやってきたぞ」と声高に叫ばせると、高坂王らが集めていた兵は熊の叫ぶ事を聞き、逃散しました。そこに吹負は数十騎を率い、奇襲しました。予め密約していた坂上直熊毛等は密約通り内応し、他の兵士たちを降伏しました。飛鳥の古宮を計略で陥れた吹負は次は乃樂(奈良)に向かいます。




⑶『日本書紀』巻二八天武天皇元年(六七二)七月 壬辰

壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。古京是本營處也。宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。


壬辰みずのえたつ。將軍吹負、乃樂なら山上に屯す。時に荒田尾直赤麻呂將軍にまうまうさく、「古京は是れ本のいほりの處なり。固く守る宜し」とまうす。將軍從ふ。則ち赤麻呂、忌部首子人を遣して、古京をまもらしむ。是に於ひて、赤麻呂等古京に詣りて道路みちの橋の板をこほち取りて、楯に作るを京の邊のちまたに堅めて以て守る。)


⑶解説

 謀略により飛鳥を攻略した大伴吹負は、更に近江を攻略する為に北上し、三日に奈良山に陣取ります。奈良山は奈良市の北につらなる丘陵地で、山城・近江方面にせめこむ要衝にあたります。その時、荒田尾直赤麻呂なるものが「古京こそは本営の地、固く守るべし」と進言し、吹負はこれに従います。赤麻呂等は古京に行き、橋を破壊して楯を造り、古京の道々に立てて守りました。




⑷『日本書紀』巻二八天武天皇元年(六七二)七月 癸巳

癸巳。將軍吹負與近江將大野君果安戰于乃樂山。爲果安所敗。軍卒悉走。將軍吹負僅得脱身。於是。果安追至八口仚而視京。毎街竪楯。疑有伏兵。乃稍引還之。


癸巳みずのとみ將軍いくさのきみふけ近江あふみいきさのきみ大野君果安おほののきみはたやす乃樂ならやまに戰ふ。果安が爲めに敗られ、いくさひと悉く走ぐ。將軍いくさのきみふけ僅かに身をまぬかるること得たり。是に於ひて、果安追ひて八口の岳に至り京を視るに。ちまた毎に楯を竪つ。伏兵有らむことを疑ひ、乃ち稍に引きて還る。)


⑷解説

 七月四日、大伴吹負は奈良山で近江朝の将軍の大野君果安おほののきみはたやすと戦い、敗走し、将軍の吹負自身が辛うじて脱出しました。軍事的氏族としても著名な大伴氏の軍勢を撃ち破った大野君果安とは何者なのか気になるところですが、『新撰姓氏録』(右京皇別上)によれば、「大野朝臣、豊城入彦命と同じ、四世孫、大荒田別命之後也(大野おほぬのあそとよいり彦命びこのみこと四世孫よつぎのひこ大荒おほあら別命ふけのみことすえなり)⑸」とあり、豊城入彦命や大荒田別は上毛野氏の祖であり、上毛野氏が朝鮮出兵や蝦夷征討で幾度も出兵したのは過去の稿(笠原小杵を援助した上毛野氏は独立勢力だったのか? 武蔵国造の「反乱」論批判)でご紹介させて頂いた通りで、この軍事的氏族と同祖である大野君も同様の軍事的氏族の性格を引き継いでいたのか、果安の子、東人は蝦夷征伐に功を残し、のちに鎮守府将軍、陸奥按察使を歴任し、更に藤原広嗣の乱には大将軍としてこれを平定します。吹負を撃ち破った果安は子の東人ほど著名では無いとはいえ、幾たびも戦を重ねた経験を持つ毛野氏の性格を受け継いでいた剛の者であったことは想像に難くありません。


 勝利した果安は、その後、八口の岳まで追い古京を臨むと、⑶で設置された楯が並べられており、これを見て伏兵を疑った果安は引き返します。


 西郷信綱氏によれば、橋板を剥いだのは、橋をこわして敵がせめてこめぬようにするとともに、その板で楯を作ったと解すべきであり、つまりこれは手楯ではなく置楯にほかならないと言います。平家物語「須俣合戦」の段に「さる程に、大将軍十郎蔵人行家、参河国に打ち越えて、矢作河の橋を引き、垣楯かいだてかいて待ち懸けたり」とあるのも参考となる。そして楯を街ごとにたてたとあるのも、中世の軍記にいう「垣(掻)楯」にほぼ等しいと思われる。カイダテは楯を垣のように並べ、人はその陰にかくれ隙間から敵に矢を射かけるしかけで、「垣楯かいだてかいて待ち懸けたり」とのいいかたは平家物語などで殆ど慣用句となっている。楯を並べ連ねての「たたなめて」が、「たたなめて、伊那佐の山の」(神武記)「楯並たたなめて、泉の河の」(万葉集十七巻・三九〇八)のごとく、弓を射ることからイの音にかかる枕詞に用いられていることによっても、その辺の消息を知る事ができる。この点、弓矢の戦術に関する限り古代と中世とは互いに通ずるものがかなりあったとの事です。⑹



⑺『日本書紀』巻二八天武天皇元年(六七二)七月 戊戌

戊戌。(中略)是日。東道將軍紀臣阿閇麻呂等。聞倭京將軍大伴連吹負爲近江所敗。則分軍以遣置始連菟。率千餘騎而急馳倭京。


戊戌つちのえいぬ。(中略)是の日。うみつみちの將軍紀臣阿閇麻呂等、倭の京の將軍大伴連吹負、近江の爲めに敗れる所を聞きて、則ち軍を分ち以ておきそめのむらじうさぎを遣わし、千餘騎を率ひて急に倭の京に馳せしむ。)


⑺解説

 七月九日「是の日」、東道將軍紀臣阿閇麻呂等は倭京の将軍大伴吹負が敗れたことを聞き、おきそめのむらじうさぎに千騎を率いさせて遣わしたとありますが、吹負が敗れたのは七月四日であり、下文によると吹負は敗走の途中、置始の救援軍に出会ったというので、従って置始連の発遣は以前であり、戊戌(九日)に係したのは誤りであろうと言われています。⑻


 この日数のずれは壬申紀が舎人らの日記や大伴氏の家記など、複数の記録や資料によったものであると思われ、それゆえに生じた混乱であり、時系列的に言えば置始の派遣はもっと以前の事であったのでしょう。何れにせよ、吹負はこの援軍により息を吹き返す事になります。


◇大伴氏参戦の意義。

 大伴氏が吉野方で大いに活躍したのは今まで見て来た通りですが、もし吉野方が敗北したとすれば、後の文化史に多大な影響を与えた可能性があります。吉野方が敗北した場合想定されることとして西郷氏によれば、「ほとんど一族こぞって吉野方についた大伴氏が滅亡がその際はおのずから予想されることから、現存万葉集を構成する一部は、あるいは残りもしたかも知れぬ。また万葉とは違うある集が、別の形で編まれることもありえたかも知れぬ。しかし大伴旅人や大伴家持が少なくともその中核にいないとすれば、歌というもののありよう、その歴史は大きく変わっていたはずである」と述べられ、その場合、漢詩つまり懐風藻的な世界が、ぐっと強く全面に出て来たであろうことを推測されました。⑼


 近江朝廷による亡命百済人の重用や唐的律令制の取り入れ(但し、近江令は実存しなかった可能性も指摘されています)、『懐風藻』が大友皇子の漢詩からはじまる事や、万葉の歌で大友皇子の歌が伝わっていない事などから考慮すると、西郷氏の推測は正鵠を射ていると言えます。『懐風藻』は「如何にも幼稚で、さつぱり面白くない。その故、他なし」⑽といった塙保己一の評が尾を引いているのか、大津皇子の詩以外は一般的に然程評価が高くありません。日本初の漢詩集であるのだから稚拙であったとしてもそれは仕方ないですし、李白や杜甫といった唐の詩人などと比べて、何も低く評価することも無いのではないかとも思いますが、万葉集の評価と比べると、やはり日本人には懐風藻的な詩歌よりも、万葉集のような和歌の方が向いていると言わざるを得ません。こういったことを鑑みると、文化史的には吉野方の勝利は極めて影響が大きく、それは単なる唐の模倣文化ではなく、日本文化の独自性を強めるきっかけにもなったと言えるのかも知れません。


*追補 大伴家伝の作者と形成時期

 これまで見て来たのは、記紀に用いられた大伴氏の家伝と言われており、菅野雅雄氏によれば、壬申紀に特筆大書されているのは大和における吹負の軍功であり、兄馬來田は大海人皇子陣中にあって、その目は大和古京の戦場まで届かなかったであるとすれば、これまで見て来た「家記」は、吹負の覚書がその基礎となったものであると容易に考えられると言います。しかし、馬來田と吹負の卒伝を比較すると、馬來田が大紫位(13階中5階。紫冠は旧冠位十二階で制度の上に超越した大臣の冠)であるのに対し、吹負は大錦中位(26階中8位)であり、「壬申紀」記載の功績が華々しく読者の目に移るのに比して、吹負への贈位が大錦中と意外と低いのは、家記―壬申紀にかなりの潤色が施されていることを窺わせ、又、大伴氏の系図の上では咋子が長男であり、馬來田は次男、吹負が三男と想定されることから言えば、吹負のみならず馬來田も大伴氏本流とは言えず、傍流である彼らを「家記」筆録者に多少のためらいを感じるとのことで、寧ろ「家記」の編述者として適任として考えられるのは長徳の長子御行を取り上げられています。この根拠につきましては別稿で解説予定です。


 又、大伴氏は、天武十三年(684)十二月に他の四十九と共に宿禰姓を賜っており、その家記成立が、天武十三年十二月の宿禰賜姓より後のことであるとしたら、歴史的事実ではない天孫降臨の物語など宿禰姓を用いるべきであろうに、「連」姓のままで語られているのは、大伴氏の家記が天武十三年以前に成立したものと認めざるを得ないとのことです。


 菅野氏の主張が正しいとすれば、過去の稿(壬申の乱➀ 記紀以外の壬申の乱の基礎資料)でも触れましたが、「壬申紀」の資料となる日記を提出した調連淡海が713年に従五位上、723年に正五位上に二階級特進しており、従って本書に「調連従五上淡海」とある淡海が日記を提出したのは713年から、書紀が完成する720年までの間であることが推察されており、大伴氏の家記が淡海の日記を遡る古い資料である事が想定されます。




◇参考文献

⑴⑵『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/303


⑶前掲書

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/304


⑷⑺前掲書

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/305


⑸『新撰姓氏録考証 巻之1−10』栗田寛 吉川弘文館

https://dl.ndl.go.jp/pid/991614/1/162


⑹『壬申紀を読む 歴史と文化と言語』西郷信綱 平凡社選書 170-171頁

「Ⅲ 十七 将軍吹負の敗北 楯作戦」


⑻『日本書紀㈤』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 95頁 頭注十


⑼西郷、前掲書 140頁

「Ⅱ 十三 大伴氏の賭 大伴氏の言立て」


⑽『新校群書類従 第6巻 (装束部(二)・文筆部・消息部)』塙保己一 編 内外書籍 12頁

「解題 文筆部 懐風藻一巻」


*追補『大伴氏の伝承 旅人・家持への系譜』菅野雅雄 桜風社 114-116頁

「第三 大伴氏の祖先伝承 七 大伴家伝の形成と定着」

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