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壬申の乱➀ 記紀以外の壬申の乱の基礎資料

 これから壬申の乱について言及していこうと思いますが、最初に基礎資料を整理していこうと思います。古事記の序文にも若干記事がありますが、最も重要なのは、日本書紀であることは言うまでもありません。ですが、基礎資料に関しては日本書紀以外にも意外なほど豊富なので、先ずはそれらを取り上げてみたいと思います。



⑴『釈日本紀』巻十五 述義十一

望拜天照大神。

〈私記曰。案安斗智徳日記云。二十六日辰時。於明朝郡迹大川而拜禮天照大神。〉

發東山軍

〈私記曰。案安斗智徳日記云。令發信濃兵〉

磐鍬見兵起。乃逃還之。

〈私記曰。案 調連従五上淡海。安斗 宿禰従五下斗智徳日記云。石次見兵起。乃逃還之。既而天皇聞唐人等曰。汝國數戰國也。必知戰術。今如何矣。一人進奏言。厥唐國先遣者覩者以令視地形険平及消息。方出師。或夜襲、或晝撃。但不知深術。時天皇謂親王云云。〉

庚寅。初向乃樂

〈私記曰。(中略)但案。和邇部尼君手記云云。六月是小月也。早可消六月之庚寅。云云。〉


天照大神あまてらすおほむかみたよせにをがみたまふ。

〈私記に曰く。とのとこ日記を案ずるに云く。二十六日 たつの時。明朝あさけのこほり迹大とほかはに於ひて天照大神をやまひたまふ。〉

東山やまのみちいくさを發つ

〈私記に曰く。安斗智徳日記を案ずるに云く。信濃兵に發令す〉

磐鍬いはすきいくさおこるを見て。乃ち逃還にげかへる。

〈私記曰く。調連従五上淡海。安斗 宿禰従五下斗智徳日記を案ずるに云く、石次 いくさおこるを見る。乃ち逃還にげかへる。既にして天皇 もろこしびとたちに聞かれてのたまふ、「いましの國數戰國なり。必ず戰術を知る。今如何や」とのたまふ。一人進みてまうして言く、「唐國もろこし先にる者遣わし以て地形険平及び消息視しむ。方師出で、或は夜襲、或はひる撃、但し深術を知らず」とまうす。時に天皇親王謂く云云しかしかのたまふ。〉

庚寅かのえのとら乃樂ならに向ふ。

〈私記に曰く、(中略)但し、和邇部尼君手記に案ずるに云云しかしかのたまふ。六月是小月なり。早六月の庚寅かのえのとらに消べく。云云しかしかのたまふ。〉)


⑵『釈日本紀』巻第二十一 秘訓六

(上略)天皇雖獨

〈私記曰。案安斗智徳日記。雖獨下有居字〉


天皇すめらみことひとりましますといふとも。

〈私記曰く。安斗智徳日記に案ずるに、雖獨下に居字有り。〉)


◇⑴⑵解説

 『釈日本紀』は鎌倉時代に卜部懐賢による日本書紀の注釈書で、『風土記』の逸文や『上宮記』などをはじめ、今日散逸した古書を多く引用しており、貴重であると評価されています。壬申の乱後四十年を経て日本書紀が撰上された時、当時大海人皇子側に従軍した舎人たちの手記を材料にしたらしく、本書からその内容が伝えられており、例えば、⑴の「案安斗智徳日記云。二十六日辰時。於明朝郡迹大川而拜禮天照大神」という記事は『日本書紀』巻二八天武天皇元年(六七二)六月 丙戌廿六日の「丙戌。旦於朝明郡迹太川邊望拜天照太神(ひのえいぬあさ朝明あさけのこほり迹太とほかはに於ひて天照太神をたよせにをがみたまふ)」⑶という記事と対応しており、この記事は安斗智徳の日記を基にした可能性が高いと言えます。


 本文の「私記」とは奈良時代、平安初期に朝廷で日本書紀の講読が行われた時の講談録であり、安斗智徳・調連淡海・和邇部尼君なる人物の日記の内容を伝えています。因みに、日記が提出された時期に関して、淡海は七一三年に従五位上、七二三年に正五位上に二階級特進しており、従って本書に「調連従五上淡海」とある淡海がに日記を提出したのは七一三年から、書紀が完成する七二〇年までの間であることが推察されます。乱発生から年月を経ているとはいえ、壬申の乱当時に従軍した兵による日記の資料性はそれなりに高いものであることが想定されます。




⑷『藤原氏家伝上』(大織冠伝)

(上略)七年正月、即天皇位。是爲天命開別天皇。朝廷无事、遊覧是好。人无菜色、家有餘蓄。民咸稱太平之代。帝召羣臣、置酒濱樓、酒酣極歡。於是、太皇弟〈一作皇太子弟下同〉以長槍、刺貫敷板。帝驚大怒、以将執害。大臣固諌、帝即止之。太皇弟初忌大臣所遇之高。自茲以後、殊親重之。後〈一有値壬申之乱五字〉從芳野向東土、歎曰。若使大臣生存。吾豈至於此困哉。人之所思、略此類也。


(七年 正月むつき。天皇の位に即く。是れを天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみことと爲す。朝廷みかどく、遊覧ゆうらんを是れ好み、人に菜色さいしょくく、いへあまたくわへ有り。民はみな太平の代を稱す。みかど羣臣まへつきみを召して、濱樓ひんおうに置き酒し、さけたけなわにしてよろこび極む。是於ここに、太皇弟〈一皇太子弟作る下に同じ〉以て長槍、敷板を刺し貫く。帝驚きて大ひにみいかり、以て執へて害せんと将に、大臣おほおみ固くいさめ、帝を即ち止めむ。太皇弟初め大臣遇せるの高きを忌ましむ。茲に自り以て後、ことさらに親重す。後〈ある値に壬申の乱の五字有り〉芳野從りひむがしのくにに向ふ。なげきて曰く、「若し大臣をして生存せしめば、吾はに此のりに至らんと」とのたまふ。人の思ふ所、たばかり此のたぐひなり。)



◇⑷解説

 大化から大宝まで、七世紀後半の歴史は殆ど『日本書紀』の記述のみを頼らざるを得ませんが、七五〇年代の曾孫仲麻呂の書いた『藤氏家伝上巻』(大織冠伝)は、例えば本文ならば「若使大臣生存。吾豈至於此困哉。(若し大臣をして生存せしめば、吾はに此のりに至らんと)」等と本当に言われたのか疑わしい内容など、藤原鎌足の業績を誇張したきらいはありますが、多少『日本書紀』を補うことが出来ます。


 本文の「天命開別天皇」は天智天皇。「太皇弟」は大海人皇子であり、「大臣」は藤原鎌足を指します。遊覧は『万葉集』や『懐風藻』から宴会の酒盛りであることが解るそうです。かような酒宴の席で、大海人皇子が槍を持って暴れ、敷板を刺し貫いて暴れたところ、天智天皇が激怒し、捕えて殺そうとしたところ、鎌足に窘められたという内容ですが、背景としては天智天皇と大海人皇子との関係が円満ではなかったであろうことが推察されています。


 背景としては、天智天皇と大海人皇子とは同母の兄弟であり、天智天皇が帝位につきましたが、天智には皇后所生の息子がなく、大友皇子の母が伊賀の采女で家柄が低い為、大海人皇子が皇太子の位につきました。大海人皇子は斉明天皇と中大兄皇子が百済救済の為に九州に赴いた際、大和にとどまって留守をあずかったと考えられ、政治的地位も高かったと考えられますが、息子の大友皇子を即位させたい天智天皇としては苦々しい存在だったのでしょうか、本書の内容は天智天皇と大海人皇子との対立を窺わせます。



⑸『万葉集』巻一 20・21

天皇遊猟蒲生野時額田王作歌

 茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流〔20〕


皇太子答御歌 〈明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇〉

 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方〔21〕


紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日縦猟於蒲生野于時大皇弟、諸王、内臣及羣臣皆悉従焉。



天皇すめらみことかま生野ふのに遊猟する時、ぬかたのおほきみの作る歌

 あかねさす紫 行きしめ行き野守は見ずや君が袖振る

〔20〕


皇太子の答ふる御歌

 むらさきのにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも

〔21〕


紀に曰く、天皇七年 丁卯ひのとうなつつき五日いつかのひかま生野ふのにて縦猟かりす。時に大皇弟、諸王おほきみたちうちつまへつきみ及び羣臣まへつきみたちみなことごとくに従ふ。)


◇⑸解説

 「天皇」は天智天皇で、「皇太子」は大海人皇子を指します。〔20〕の歌を詠んだ額田ぬかたのおほきみに関しては天武天皇紀二年二月 癸未廿七日条に、「天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女(天皇初め鏡王かがみのおほきみの女、額田姫王を娶して、十市皇女を生みたまふ)」つまり、天武天皇が鏡王かがみのおほきみの娘である額田王をして、十市皇女とおちのひめみこを産んだという記事のみ存在します。


 本歌は蒲生野で狩猟が催された後宴の席で唱和された歌である事が推測され、大意は以下の様になります。


 朝日が茜色に照り映えている紫草園をあちらに行き、こちらに行きしながらまあ、野の番人が見るではありませんか、あなたが袖を御振りになるのを。〔20〕


 大海人皇子がお答えになった歌


 紫の色のようにあでやかで美しいあなたを憎く思うのならば、どうして人妻と知りながらこんなに恋い焦れたりするのでしょうか(恋焦がれたりはしません)。〔21〕


 歌の解釈に関しましては古来より諸説あり、この唱和から額田王をめぐる天智天皇・大海人皇子の兄弟の確執、さらに壬申の乱にまで結び付けて説く向きもあったそうですが、額田王はこの頃すでに四十歳前後と推測され、とても「にほへる妹」と言えるような年齢ではない事、秘すべき恋のやり取りは、大いに戯れを含むものであり、もしそれが真実の恋の唱和ならば、二首は当然、巻二相聞部におさめられていたはずであるが、これが巻一雑歌部におさめられているということは、『万葉集』編者が二首を儀礼歌とみなしていたということにほかならないそうです。⑹


 他にも壬申紀と係わる万葉歌は幾つかありますが、万葉集を人類学を始め、史学を含めた諸学問の視角から分析した西村真次氏によれば、「壬申亂に伴ふ諸事件の如きは、たゞ『日本書紀』だけでは到底詳しいことはわからないが、『萬葉集』第一卷及び第二卷に、天智天皇、額田姫王、天武天皇などの御製及び御歌が多く收められてゐるので、色々の細事までが手に取るやうに知られて來る。此一點から觀ても、古代文學、特に『萬葉集』は史料として重要の價値を有つてゐる。」⑺と、取り分け壬申の乱における万葉集の史料性の高さを主張している様に、文献批判を交えながらも万葉集の利用は壬申紀の研究において欠かせません。



⑻『懐風藻』淡海朝大友皇子 二首

皇太子者。淡海帝之長子也。魁岸奇偉。風範弘深。眼中精耀。顧盼煒燁。唐使劉徳高見而異曰。此皇子風骨不似世間人。實非此國之分。嘗夜夢。天中洞啓朱衣老翁捧日而至。擎授皇子。忽有人從腋底出來。便奪將去。覺驚異。具語藤原內大臣。歎曰。恐聖朝萬歲之後有巨猾間釁然臣平生曰。豈有如此事乎。臣聞。天道無親惟善是輔。願大王勤修懐。灾異不足憂也。臣有息女。願納後庭以克箕帚之妾。遂結姻戚以親愛之。年甫弱冠拜太政大臣。總百揆以試之。皇子博學多通有文武材幹。始親萬機。群下畏服。莫不肅然。年二十三立爲皇太子。廣延學士沙宅紹明塔季春初吉太尚許率母木素貴子等。以爲賓客。太子天性明悟雅愛博古。下筆成章。出言爲論。時議者歎其洪學。未幾文藻日新。會壬申年亂。天命不遂。時年二十五。


皇太子ひつぎのみこふみのみかど長子えこなり。魁岸かいがん奇偉きい風範弘深ふうはんこうしんがんちゅう精耀せいようへんえふ。唐の使、りゅう徳高とくこう見て異として曰く、「此の皇子みこ風骨ふうこつ世間の人に似ず。じつに此の國の分に非ず」といわく。嘗て夜るいめむらく、てんちゅう洞啓どうけいしゅ老翁ろうおう、日をささげて至り。ささげて皇子に授く。忽ち人有り、腋底えきていり出來り、便すなわうばち去ると。さめて驚きあやし、つぶさに藤原の內大臣に語る。歎きて曰く、「恐くはせいちょう萬歲ばんざいの後、巨猾きょかつ間釁かんきん有らん。しか臣平生曰しんへいぜいいはく、『に此の如きの事有りや。臣聞く、天道てんどうは親無し。だ善く是れたすくと』といわく。願はくは大王おほきみつとめて徳を修めたまへて、さいは憂ふるに足らざるなり。臣に息女有り、願はくは後庭こうていれて、以てそうの妾にてんと」といわく。遂に姻戚いんせきを結んで、以て之を親愛す。としはじめて弱冠じゃっかんにして、おほきまつりごとのおほまへつきみす。ひゃっすべて以てこれを試む。皇子は博學はくがくつう、文武の材幹さいかん有り。始めてばんを親するや、群下ぐんか畏て服し、しゅくぜんたらざるはし。年二十三、立ちて皇太子ひつぎのみこと爲る。廣くがくたくしょうめい塔本とうほんしゅんしょ吉太きちたいしょうそつもく素貴子等そきしらいて、以てひんきゃくと為。太子は天性明てんせいめいもとよはくを愛す。筆を下せばしょうと成り、言をいだせば論と爲る。時に議する者其の洪學こうがくなげく、いくばくなら未だ文藻ぶんそう日にあらたなり。壬申の年の亂に會ひて、天命てんめいげず。時に年二十五。)


*淡海帝……近江の帝。即ち天智天皇。

*魁岸奇偉……秀でて逞しく、珍しく立派な体格。

*風範弘深……風格器量が広大深遠。

*眼中精耀……目が澄んで輝き。

*顧盼煒燁……ふりかえり見る目元が美しく輝く。

*劉徳高……唐からの使者。『日本書紀』巻二七天智天皇四年(六六五)九月 壬辰廿三の記事に「九月庚午朔壬辰。唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等」とある。

*巨猾間釁……とても悪賢い者が隙間を狙う。大海人皇子が天皇の位を狙う事を暗示しているのか。

*弱冠……二十歳。礼記に「二十日弱冠」とある。

*廣延學士沙宅紹明……沙宅紹明以下列挙される人物は全て百済滅亡時の帰化人。沙宅紹明は法律家、塔季春初は兵法家、吉太尚は医師、許率母は五経博士、木素貴子は兵法家。



◇⑻解説

 『懐風藻』は日本最古の漢詩集で、現存する典籍の中では『風土記』に次いで古い文献であり、漢詩だけでなく、序文で上古の文化史の概要を記すほか、大友皇子・大津皇子・河島皇子といった数名の詩人に対しては簡単な伝記も載せており、それは『日本書紀』だけでは知り得ない内容も含まれているため、大変貴重な資料と言えます。又、漢文固有の潤色によるものもありますが、大友皇子・大津皇子と言った敗者に対しても同情的な内容であるという特徴があります。


 本文では皇太子になったとありますが、日本書紀の記事には見えません。ですが、日本書紀が天武天皇の皇子である舎人親王を総裁として編纂されたものであることから、皇太子であった事実を隠していたという見方もあるようです。




◇後世の説話・注釈書・研究書類

 宇治拾遺物語所収の「清見原天皇と大友皇子と合戦の事」は壬申の乱を題材にした数少ない説話として知られています。


・『日本文学大系 : 校註 第10巻』国民図書

所収「清見原天皇と大友皇子と合戦の事」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1018049/1/183



 壬申の乱の研究・注釈書として著名なものは、伴信友の『長等ながらの山風』があります。大友皇子即位説が有名ですが、附録に「壬申紀」の詳しい註釈も載せており、こと壬申の乱のみで言えば、『日本書紀通証』や『書紀集解しょきしっかい』と言った評価の高い日本書紀の注釈書以上に評価されています。但し、自分が確認した限りでは物部連麻呂に関する記事にある「從之」を「殉死」と解釈する(史実の物部連麻呂は後に石上氏に改名し、左大臣にまで昇格する。)など明らかな誤りも見受けられる他、飯田武郷の『日本書紀通釈』でも伴の説が厳しく批判されており注意も必要です。


・『伴信友全集 第4 (国書刊行会刊行書)』国書刊行会 明治40

所収『長等ながらの山風』附録一「壬申紀證註」

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/991315/1/265


・『日本書紀通釈 第5 増補正訓』飯田武郷 著 日本書紀通釈刊行会 昭15

所収「日本書紀通釈巻之六十五」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1115865/1/259



 現代の注釈書であれば西郷信綱氏の『壬申紀を読む 歴史と文化と言語』(平凡社選書)を上げることが出来ます。西郷氏としては珍しく他の研究領域にまで踏み込んだ注釈書であり、同氏の著書『古事記注釈』でみられるような偏りは比較的少なく、様々な学者の研究成果も積極的に取り入れており、参考になります。又、浜田清次氏は壬申紀について過去には歴史学的な研究しかなされておらず、『平家物語』のような文芸学的な研究を成されていないことから、『壬申紀私注』(桜楓社)で文芸学的な考察を試みられています。私見を言えば、浜田氏の主観による憶測が過ぎるきらいがある様に見えます。『古事記』序文については、倉野憲司氏の『古事記序文註釈』が詳しいです。


 入門的な内容であれば、川崎庸之氏の『天武天皇』(岩波新書)が分かりやすいかと思います。歴史学分野の研究書は多数ありますが、直木孝次郎氏の『壬申の乱』(塙選書)、亀田隆之氏の『日本歴史新書 壬申の乱』(至文堂)、星野良作氏の『研究史 壬申の乱』(吉川弘文館)等が著名で、六十年程前の直木・亀田両氏の著書辺りで既に大方の説が出尽くしたとも言われていますが、近年では倉本一宏氏の『壬申の乱』(吉川弘文館)の様に旧説を批判した新たな見解も見受けられます。




◇参考文献

⑴『国史大系 第7巻』経済雑誌社 編

所収『釈日本紀』巻十五 述義十一

https://dl.ndl.go.jp/pid/991097/1/369


⑵『国史大系 第7巻』経済雑誌社 編

所収『釈日本紀』巻第二十一 秘訓六

https://dl.ndl.go.jp/pid/991097/1/426


⑶『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/302


⑷『群書類従 第四輯』塙保己一 編 経済雑誌社 350-351頁

所収「家伝上」

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1879458/1/181


⑸『日本古語大辞典 : 続訓詁』松岡静雄 編 刀江書院

所収「萬葉集」巻第一

https://dl.ndl.go.jp/pid/1176550/1/106


⑹『万葉集を知る事典』櫻井満【監修】尾崎富義・菊地義裕・伊藤高雄【著】東京堂出版 263-264頁

「万葉人と名歌 額田王」


⑺『万葉集の文化史的研究 増訂版』西村真次 東京堂

「附録 萬葉集研究の二先要條件 (二) 史學的視角」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1127442/1/229


⑻『新撰名家詩集』塚本哲三 編 有朋堂書店

所収「懐風藻」

https://dl.ndl.go.jp/pid/977945/1/261

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