壬申の乱➁ 乱前の状況と大友皇子即位説

 本稿より壬申紀について解説を行いたいと思いますが、壬申の乱に関する解説を行う前に、乱前の状況及び、かつて議論された大友皇子即位説に関して取り上げてみたいと思います。


◇乱前の状況

⑴『日本書紀』巻二七天智天皇一〇年(六七一)十月 庚辰十七

庚辰。天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥内。詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。云々。於是再拜稱疾固辭不受曰。請奉洪業付屬大后。令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家脩道。天皇許焉。東宮起而再拜。便向於内裏佛殿之南。踞坐胡床剃除鬢髮。爲沙門。於是天皇遣次田生磐送袈裟。


庚辰かのえたつのひ天皇すめらみこと疾病みやまひ彌留おもし。みことのりして東宮まうけのきみを喚て臥内おほとに引めし入て。みことのりしてのたまはく、「われやまひはなはだし。後の事を以ていましく」と云々しかしかのたまふ。是に於て再拜をがみやまひと稱して固辭いなみめいじて受けずして曰く、「請ふ洪業ひつぎあげて大后に付屬さずけまつり、大友王を令てもろもろまつりごとを宣はしめ奉らむ。つか請願ふ。天皇の奉爲みために出家いへで脩道おこなはむ」とまうしたまふ。天皇許したまふ。東宮まうけのきみ起て再拜をがみす。便ち内裏おほうち佛殿ほとけのみあらかの南にいでまして、胡床あぐら踞坐しりうたげて鬢髮ひげ剃除そりたまひて。沙門ほふしと爲りたまふ。於是ここ天皇すめらみことすきひはを遣して袈裟けさを送りたまふ。)



⑵『日本書紀』巻二七天智天皇一〇年(六七一)十月 壬午十九

壬午。東宮見天皇、請之吉野脩行佛道。天皇許焉。東宮即入於吉野。大臣等侍送至菟道而還。


壬午みずのえうまのひ東宮まうけのきみ天皇見たまひて、吉野に佛道ほとけのみち脩行おこなはむまかりて請ふ。天皇許したまふ。東宮まうけのきみ即ち吉野に入る。大臣等おほまへつきみたち侍り送りて菟道うぢに至りてかへる。)



⑶『日本書紀』巻二八天武天皇即位前紀天智天皇一〇年(六七一)十月 庚辰十七

四年冬十月庚辰。天皇臥病以痛之甚矣。於是。遣蘇賀臣安麻侶。召東宮引入大殿。時安摩侶素東宮所好。密顧東宮曰。有意而言矣。東宮於茲疑有隱謀而愼之。天皇勅東宮授鴻業。乃辭讓之曰。臣之不幸。元有多病。何能保社稷。願陛下擧天下附皇后。仍立大友皇子。冝爲儲君。臣今日出家。爲陛下欲修功徳。天皇聽之。即日出家法服。因以收私兵器。悉納於司。


(四年 冬十月ふゆかむなづき庚辰かのえたつのひ天皇すめらみこと臥病みやましまたひ以ていたみはなはだし。於是ここに、賀臣安がのおみやす麻侶まろを遣して、東宮まうけのきみを召さ大殿みあらかに引めし入らしむ。時に安摩侶は素より東宮まうけのきみよみしたまふ所なり。密に東宮まうけのきみを顧みて曰く、「有意こころしらひしてたまへ」とまうす。東宮まうけのきみ於茲ここに隱せるはかりごと有るを疑ひて愼みたまふ。天皇すめらみこと東宮まうけのきみに勅て鴻業あまつひつぎのことを授く。乃ち辭讓いなびりて曰く、「やつかれ不幸さいはひなきより元よりさはの病有り。何ぞ能く社稷くにいへを保たむ。願は陛下きみ天の下を擧て皇后きさきけよ。仍ち大友皇子を立てり。まうけの君としたまへ。臣は今日けふ出家いへで陛下きみの爲めに功徳のりのことおこなはんとおもふ」とまうしたまふ。天皇すめらみことゆるしたまふ。即日そのひ出家いへでして法服のりのころもをきたまふ。因て以て私の兵器つはものを收めて、ことごとくおほやけに納めたまふ。)


*蘇賀臣安麻侶……『續日本紀』天平元年八月丁卯に「左大辨從三位石川朝臣石足薨。淡海朝大臣大紫連子之孫。少納言小華下安麻呂之子也。」とあり。

*皇后……『日本書紀通釈』本文には「大后」とあり、注に「大后は皇后なり」とある。倭姫王のこと。舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子の娘。叔父にあたる天智天皇の皇后。



⑷『日本書紀』巻二八天武天皇即位前紀天智天皇一〇年(六七一)十月 壬午即位四年

壬午。入吉野宮。時左大臣蘇賀赤兄臣。右大臣中臣金連。及大納言蘇賀果安臣等送之。自菟道返焉。或曰。虎著翼放之。是夕。御嶋宮。


(壬午みずのえうまのひ。吉野の宮に入る。時に左大臣ひだりのおほまへつきみ賀赤兄臣がのあかえのおみ右大臣みぎのおほまへつきみなか臣金連とみのかねのむらじ。及び大納言おほきものまうすつかさ賀果安がのはたやすのおみたち送りまつりて。菟道うぢより返る。或はふ、「虎に翼をつけて放てるなり」といふ。是のゆふべ嶋宮しまのみやおはす。)


*右大臣中臣金連……『公卿補任』に「可多能古連之孫。糠手子連之子也。」とあり。

*大納言蘇賀果安臣……『日本書紀通釈』によれば天智紀には、「紀大人臣。巨勢人臣と共に爲御史大夫」とあるに。此の紀にはみな大納言と換へ書されており、これは前紀とは採給する記錄が異なるとのこと。

*嶋宮……高市郡島庄村。現在の奈良県高市郡明日香村島庄。



⑸『日本書紀』巻二八天武天皇即位前紀天智天皇一〇年(六七一)十月 癸未廿即位四年

癸未。至吉野而居之。是時聚諸舍人謂之曰。我今入道脩行。故随欲修道者留之。若仕欲成名者還仕於司。然無退者。更聚舍人而詔如前。是以。舍人等半留。半退。


癸未みづのとのひつじのひ。吉野に至り居ます。是時にもろもろ舍人とねりあつめてかたりて曰く、「我今 入道脩行おこなひせむとす。故れしたがひ修道おこなはんおもふ者はとどまれ。つかへて名を成さむと欲ふ者はかへりておほやけに仕へよ」とのたまふ。然に退まかる者無し。更に舍人とねりあつめてみこと前の如し。是を以て、舍人とねりたち半ば留り。半ば退まかりぬ。)



⑹『万葉集』巻一 二五 天皇御製歌

三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留 間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 思乍叙来 其山道乎


(三 えしの みがねのたけに 時なくぞ 雪は降りける 間なくぞ 雨は降りける 其の雪の 時なきがごと 其の雨の 間なきがごと 隈も落ちず 思ひつつぞ来る 其の山道を)




〇⑴~⑹解説

 これ以前の天智天皇と大海人皇子の不仲を推測させる日本書紀以外の史料は前稿「壬申の乱➀ 記紀以外の壬申の乱の基礎資料」で取り上げた『藤原氏家伝上』(大織冠伝)や、現在では否定されているものの、『万葉集』巻一 20・21首の天皇遊猟蒲生野時額田王作歌に既出なので、そちらを参考にしてください。


https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16818023213822862074


 天智天皇一〇年(六七一)十月十七日、天皇は弟の大海人皇子を病床に呼び、皇太子だった大海人皇子に後事を託し、皇位の継承を勧めようとします。しかし、その年の正月、天皇は宅子やかこのいらつめとの間に生まれた大友皇子を官職上の最高官である太政大臣に任命しており、天皇に代わって国政を統括することを職務としており、大友皇子は太政大臣として天皇を補佐する立場にあり、皇位の継承上、二人は微妙な関係にありました。大海人皇子は、兄の陰謀を疑い、病弱である事を理由に天皇の勧めを辞退して出家しました。その後、近江を出て宇治まで、左大臣蘇賀赤兄臣、右大臣中臣金連、大納言蘇賀果安臣といった要人に見送られた際に、或る人に「虎著翼放之(虎に翼をつけて放てるなり)」と警戒されました。


 その後、吉野に隠棲し、天智天皇の崩御後、皇子の大友皇子が即位したことで危険を迫った事を知り、吉野を逃れます。⑹の歌は吉野を逃れた時に歌われたものではないかとも言われています。


 吉野は、もともと大和王権にとって聖地と言うべき土地であったらしく、神武天皇が吉野を経由して大和入りを果たすことが出来、神話的な観想では山野に囲繞いにょうされた吉野の自然には再生を促す神秘的な力が宿されるとされ、吉野川流域には水銀鉱床が広く分布し、道教思想においては、水銀は不老不死の仙薬の大事な原料だった為、『懐風藻』の詩が吉野を神仙鏡としてたたえているのも、そこに理由があり、大海人皇子が吉野を選んで隠棲したのは、その神話的な意味を十分に承知していたからに違いなく、自身の行動を神武天皇と重ねようという意識もあったろうとも言います。⑺


 大海人皇子側は以上のような状況でしたが、一方の近江朝廷の立場で考えると、天智天皇の崩御後、問題となるのは大友皇子の即位についてですが、この事に関しては江戸時代以降、様々な議論を呼ぶことになります。



*追記1

 天智天皇が有力豪族の勢力を抑圧する方針をとっていたのに、後に蘇我・中臣・巨勢などの旧勢力を登用したのは、出自の高くない大友皇子を擁護し輔弼するための措置であったとの説があります。天智天皇が近江朝廷の旧豪族たちから、大友皇子体制への樹立と協力を得たという事であり、場合によって彼らは、皇太子大海人皇子の立場を孤立させかねなかったと言います。➀


 これは後世、豊臣秀吉が五大老五奉行に後事を託した時と状況が似ているかも知れません。家康を警戒して五大老五奉行が成った様に、大海人皇子を封じ込めるために天智天皇が有力豪族を引き立てたのは想像に難くありません。


 当時の通例では基本的に天皇の座を引き継ぐのは天皇の弟の役割でした。天智天皇は通例通り大海人皇子が天皇位を引き継ぐことは認めても、大海人皇子の後に大友皇子を継がせる意図があったらしく、その意図を悟った大海人皇子が身を引き天智に「請奉洪業付屬大后。令大友王奉宣諸政。」のごとき提案をおこなったとも言います。「請奉洪業付屬大后」に関しては後に取り上げる倭姫王称制説の根拠にも繋がっています。






◇大友皇子即位論

 天智天皇の崩御後、順当に考えれば大友皇子が即位することになりますが、『日本書紀』では以下の⑻でみられる様に、大友皇子が即位した記述はありません。ですが、⑼の『扶桑略記』など他の文献では大友皇子即位を記載するものもあり、江戸時代から大友皇子即位論が活発になります。大友皇子即位論の研究史に関しては星野良作氏の『研究史 壬申の乱 増補版』(吉川弘文館)に概ね網羅されており、詳細はそちらをご覧下さればと思いますが、本書を参考に主要な説を取り上げながら、私見を交えてみて行きます。



〇天武天皇即位前紀と『扶桑略記』の差異。

⑻『日本書紀』巻二八天武天皇即位前紀天智天皇一〇年(六七一)十二月即位四年

十二月。天命開別天皇崩

十二月しわすあめみことひらかすわけの天皇すめらみことかむあがりましぬ。)


⑼『扶桑略記』第五 天智天皇

十二月三日。天皇崩。同月五日。大友皇太子。。〈生年廿五〉

(十二月三日。天皇すめらみことかむあがりましぬ。同月五日。大友皇太子、即ち帝位に爲りぬ。〈生年廿五〉)



〇⑻⑼解説及び江戸時代の大友皇子即位論

 寛治8年(1094年)以降に編纂されたと言われている『扶桑略記』の⑼の記事によれば⑻の天武天皇即位前紀では十二月としか記されていない天武天皇の崩御を十二月三日とし、同月五日に大友皇太子が帝位に就いたことが記されています。


 江戸時代にかつしょの『帝王歴数図』(叙文のみ『活所遺稿』所収)が大友皇子即位説の近世最初の提唱者と言われていますが、残念ながら今に伝わっておらず、内容を明らかにしえません。以降、彰考館総裁であるひとでんが『大日本史』において「天皇大友本紀」を創立するなど、様々な学者により大友皇子即位説が唱えられるようになります。江戸時代末期になると、伴信友は『比古婆衣』⑽で『日本書紀』の原本には壬申年を大友天皇紀に立てられた後、壬申年を天武天皇の元年に改刪かいさんされたという説を唱え、更に伴は壬申紀の注釈書『長等の山風』⑾で『懐風藻』に大友皇子が「皇太子」と記されていること(前稿参照)や、⑼の『扶桑略記』の記事の他にも『水鏡』『大鏡』に即位したことが記されている事などを取り上げ、大友皇子の天皇即位説を述べました。


 明治政府はこの様な大友皇子即位説を取り入れ、皇子に弘文天皇と追諡し、歴代天皇の中に加えました。しかし、『懐風藻』では「皇太子」とあっても、「天皇」と記載した訳では無く、他の大友皇子即位を記すのがいずれも平安中期以降の後代の史料であり、信憑性に疑問が持たれます。



〇明治期以降の大友皇子即位説批判

 喜田貞吉氏は推古、皇極・斉明、持統、元明、元正、孝謙・称徳の六天皇八代の女帝が殆ど一代おきに現れた事実に注目し、当時の男帝の次に殆ど女帝が立つべき習慣があったという根拠などから、天智天皇の皇后倭姫王が即位したという説を唱え⑿、喜田氏は他にも『大日本古文書』所収の「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」縁起文にみえる「仲天皇」を倭姫王に擬し、「二帝御治世の中間」と解釈し⒀、更に『萬葉集』(巻一 - 三一〇)に見える「中皇命ナカツスメラミコト」を「中天皇」と解し、『懐風藻』智藏伝の「太后天皇」をともに倭姫を指している事を考証し、「中天皇」を「先帝と後帝を取り次ぐ天皇」として解釈し⒁、自説を補強しました。


 これに対し黒坂勝美氏は喜田氏の大友皇子非即位説には賛成するものの、倭姫王は即位したのではなく称制であったという説を唱え、物部守屋討伐のおり、敏達天皇の皇后である後の推古天皇の先例や天智天皇の初世六年、持統天皇の初世三年が称制であったこと、神功皇后紀で神功が摂政とし、飯豊青尊を臨朝乗政としたこと、また「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」縁起文は称制と即位を厳密に区別していなかったのであり、この資財帳が天武天皇以来五朝を経過した聖武天皇時代の文献であることなどを根拠に、喜田説を批判しました。⒂


 因みに、「称制」とは天皇の没後、皇太子や后が即位しないままに政務を執る事で、中国の制度に由来し、記録の上では中大兄皇子( 天智天皇 )と鸕野讚良皇后( 持統天皇 )の2例があります。ただし、『日本書紀』では、いずれも称制期間を天皇の在位期間に通算しています。⒃


*追記2

 現在の研究では「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」縁起文にみえる「仲天皇」、『萬葉集』(巻一 - 三一〇)に見える「中皇命ナカツスメラミコト」、更にちゅう(大阪府羽曳野市)弥勒像の台座に鐫刻せんこくされた「中宮天皇」を孝徳天皇の皇后である間人皇后はしひとのひめみことし、間人は正式に即位しなかったものの、天皇位を代行するような役割を果たしていたという見解も出されているそうですが、それぞれの史料や鐫刻には疑問点や不自然な点があって、その解決は容易ではないが、最大の問題は『日本書紀』に間人皇后に即位の記載がないということであると言います。②


 この問題は倭姫称説に立ったとしても同様の事がことが言える為、これらは決定的な判断材料にはなり得ないということになります。



〇戦後の研究

 この様に大友皇子即位説に対する批判もみられ、特に黒坂説は戦前に至るまで長い間強い影響を与え続け、坂本太郎氏をもってしても『大化改新の研究』⒄で「ほぼ議論も定まった感がある」として論及を避けられるほど倭姫王称制説が定着していた時期があるようですが、戦後、田中卓氏は日本書紀以外の懐風藻・大安寺縁起・万葉集等を理由に倭姫即位説を唱える喜田説を「一も必須の論拠に立たない想像説であって、これらをもって日本紀の記事を覆し、新たに『後淡海宮御宇天皇』御一代を加え奉ることは不可能と云わねばならない」とし、黒坂説の「重要な半身」を喜田説と解する田中氏は黒坂説も否定し、『日本書紀』の記載どおり帝位は天智より天武に伝えられたこと、安易な曲筆改刪論の批判などを行いました。⒅


 私見を一点付け加えると、大友皇子即位説にしても、喜田氏の倭姫即位説にしても根拠の一つとして『懐風藻』の記事を上げており、前者が大友皇子伝、後者が智藏伝を取り上げており、対象の記事は違うとはいえ、いずれも『懐風藻』を根拠としていることは、特に後に出された喜田説側に自己矛盾を感じざるを得ません。『懐風藻』を根拠とし、智藏伝を先に上げた諸説により補強できるのは理解するとしても、同書の大友皇子伝を否定する材料を十分に説明できているかと言えば、そうとは言えません。尚、智藏伝の「太后天皇」について、評価が高い注釈書である林古渓氏の『懐風藻新註』⒆によれば「持統天皇の御事を申し上げる。大后、即ち皇后(天武天皇の)でいらして、天位におつきなされたからである。持統天皇を大后天皇と申し上げること、霊異記などにもその例が見える」とあり、又、辰巳正明氏による近年(2019年)刊行の『懐風藻 古代日本漢詩を読む』⒇でも「太后天皇世」を「持統天皇の時代。夫の天武天皇の亡き後に皇位を継承した」とある様に、いずれの注釈書にも倭姫説に関しては触れられていないことから、倭姫王ではなく持統天皇と解釈するのが妥当かと思われます。


 その後の研究で、関晃氏は、「諸説に関していずれも決定的な根拠を欠き、正確には立太子・即位ともに不明というより他はない。元来これらの諸説が案出されたのは、その底に一日も空位あるべからずという一種の超歴史的な前提であるからであるが、そのような立論は順序が逆であるだけでなく、壬申の乱のごとき場合の皇位の所在を強いて決定しようとするのは、それ自体殆ど意味のないことであろう」(21)と諸説を切り捨て、それよりもこの乱の原因についての方が意義があるとして、後の研究に影響を与えました。


 関氏の主張に従えば、これ以上、大友皇子即位論に関する考察をしても無意味な気がしますが(苦笑)、それはとにかくとして、関氏の指摘により、壬申の乱研究におけるウェイトとしては、大友皇子即位・非即位説に関する議論はそれ程重視されなくなりました(その分壬申の乱に関する他の研究が進むきっかけとなりました)が、以降の展開としては田中氏が倭姫即位批判説に伴い大友皇子称制説の可能性をも指摘し、これを継承した宮田俊彦氏は(三種の)神器は何れにも名分が存在しないが、他の条件は殆ど甲乙なく、大海人皇子の吉野にまします間、短期間とは言え、大友皇子執政(外交)の事が明瞭に証拠立てられることから称制とすべきではあるまいかとし、即位以前、称制期間中の中大兄皇子を天皇と申し上げているのと同じ取り扱いが大友(弘文)天皇に対しても然るべきではなかろうかという説を唱え(22)、これを直木孝次郎氏が「政府の主導者が誰であるかという事実を重んずるならば、壬申年を大友皇子の称制の年と考え、天智や持統の例にならって、大友元年としても何ら不思議はないはず」と考え、又、大友皇子が即位の形跡が無いことを理由に即位を認めないというのは中世的な慣習や名分にとらわれた説であるとしながらも、七世紀ごろからは即位の式をあげて天皇となるという慣習が生じていたであろうことから、当時においては大友は天皇とは称されずに政治をとっていたかも知れず、この意味では壬申の年は大友称制元年とするのが穏当と思われると述べ、更に壬申の年が天武元年か大友元年かという詮索は形式論であって、壬申の年は大友皇子が天智のあとを継いで、近江朝廷で政治をとっていたという事実を確認すればよいと、宮田説を支持しました。(23)


 直木氏以来、大友皇子称制説が主流となり、以降は寧ろ皇位継承問題と「*かいじょうてん」の解釈の議論にシフトが移動し、大友皇子即位論に関しては1960年代には概ね議論も終息した様に思われましたが、2000年代に到り、倭姫王の即位を予定した段階での乱勃発を説いた、倉本一宏氏の中継ぎ女帝論による倭姫王称制説(24)が再度注目されています。


 余談ですが、倉本氏は大河ドラマ「光る君へ」の時代考証をなさっているそうです。全く観ていないので時代考証が妥当なのか解らないんですけれどね(マテ)


*不改常典……「かわるまじきつねののり」とも。即位宣命にみえる法。天智天皇が定めたという。七〇七年(慶雲四)元明天皇即位の詔に初見。皇位継承を正当づける法として、天智天皇に仮託されたものと考えられるが、内容については皇位継承にかかわる法だとする説、それ以外の法(たとえば近江令など)だとする説など、研究史上定まらない。(25)



◇大友皇子即位論に関する研究史のまとめと自分なりの結論

 大友皇子即位論に関して、主流の説は概ね以下の順に推移をしていった様です。


[江戸時代]

➀大友皇子即位説(伴信友等)

[明治]

②倭姫王即位説 ➀の批判(喜田貞吉)

③倭姫王称制説 ➀②の批判(黒坂勝美)

[昭和戦後]

④天武即位説 ②③の批判(田中卓)

⑤大友皇子称制説(宮田俊彦・直木孝次郎)

[平成]

⑥倭姫王称制説(倉本一宏)


 歴史学では以上のような流れで研究が推移しましたが、素人目にはどの説も決定的な根拠に欠け、一次文献でも発見されない限り、関晃氏の仰る通り、「立太子・即位ともに不明というより他はない」としか言いようが無い気がします。又、大友皇子にせよ、倭姫王にせよ、有力視されている称制説に関して言えば、日本書紀において通例では称制時は天皇の御世としてカウントされている為、即位しなければしないなりに、「神功皇后紀」の如く「大友皇子紀」なり「倭姫王紀」なりが存在したのではないかと思いますが、日本書紀には存在しませんし、如何なる文献にも称制を証明できる文言が存在しないのが称制説の致命的な欠点であると思います。


 個人的には『日本書紀』(岩波文庫)補注の、「大海人皇子が自ら位を辞して、天智天皇の皇后の倭姫に鴻業を授け、大友皇子を皇太子とすることを奏上したとあるのにもとづき、かつ大海人皇子の吉野入り以後、それが実現したとみる仮説に立ったものであり、従って、諸説も、その前提はたしかなものとはいえず、大友皇子は正式に即位したことは疑わしいが、事実上は近江朝廷の主であり、天皇としての大権をもっていた」(26)とする見方がもっとも妥当と判断しています。関氏の「一日も空位あるべからずという一種の超歴史的な前提」を廃した考え方に基づけば、大友皇子の治世時には空位であったとしても不思議ではないと言えます。そこに称制という考え方を挿し挟む余地はあるかも知れませんが、大友皇子・倭姫王のいずれの称制説をみても納得のいく説は見受けられませんでした。


 又、初期の天皇やヤマトタケル辺りであればとにかくとして、壬申の乱から五十年も経ていない養老四年(七二〇年)に日本書紀が完成した頃は、まだ乱当時の生存者もおり、前稿でも取り上げた様に「調連従五上淡海」とある淡海が日記を提出したのは七一三年から、書紀が完成する七二〇年までの間であることが推察されように、乱からかなり後の時期になってから提出されたと言われている舎人の手記のごとき記憶も残っている中で、改刪説の様に天皇の即位を無かったことにするのは余りにも無理があります。そう考えると、田中氏の「壬申の歳の皇位継承問題は、所謂曲筆の限界を超えた冷厳なる歴史的事件として、日本紀編纂当時の人々の脳裏に深く刻みつけられていたであろうと」(27)との推定は的を得ています。


 現代人にとって八十年程前に起きた大東亜戦争(第二次世界大戦)がもっとも大きな出来事として記憶されていることと同等とまでは、古代とは教育や情報手段の差から単純に比較できないとしても、御生存の方により戦争体験が今でも語り継がれている他、当時の社会や政治情勢に関して令和現在に至っても一般的によく知られている様に、古代社会においても、最大の内乱である壬申の乱の記憶は薄れておらず、ましてや時の権力者や書紀編纂者の意向程度で天皇の即位を無かったことにするが如き行為は、不可能だったのではないかと考えるのが合理的であると思います。


 かといって、例え帝位が空位であろうと天武天皇元年春 三月壬辰みずのえたつついたち 己酉一八日のような外交の記事も残されている事から、政治的空白が許される状況ではなかったことが伺え、天智朝の政治体制を受け継いだ大友皇子は即位するまでもなく、事実上天皇の同等の役割を果たしていた状況が推定されますが、その時に称制であったかどうかなどは、現状では証明するのは難しいと言わざるを得ないのではないでしょうか?


 



◇参考文献

⑴⑵『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/298


⑶前掲書

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/299


⑷⑸前掲書

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/300


⑹『日本古語大辞典 : 続訓詁』松岡静雄 編 刀江書院

https://dl.ndl.go.jp/pid/1176550/1/107


⑺『万葉集 ハンドブック』多田一臣【編】 三省堂 25頁

「第一期の和歌 天武天皇と壬申の乱」


*追記1

➀『持統天皇 壬申の乱の「真の勝者」』滝浪貞子 中公新書 

電子書籍版 205頁


⑻『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/300


⑼『国史大系 第6巻 日本逸史 扶桑略記』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/991096/1/269


⑽『伴信友全集 第4 (国書刊行会刊行書)』国書刊行会

所収「比古婆衣 一の巻」

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/991315/1/10


⑾伴、前掲書

所収「長等の山風上之巻」

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/991315/1/236


⑿『歴史地理 六-一〇』日本歴史地理学会 編 吉川弘文館 19-28頁

「女帝の皇位継承に関する先例を論じて、大日本史の大伴天皇本紀に及ぶ(上)」

『歴史地理 六-十一』日本歴史地理学会 編 吉川弘文館 27-47頁

「女帝の皇位継承に関する先例を論じて、大日本史の大伴天皇本紀に及ぶ(下)」

『国史之教育』喜田貞吉 三省堂書店

https://dl.ndl.go.jp/pid/993472/1/69


⒀『歴史地理 七-四』日本歴史地理学会 編 吉川弘文館 24-34頁

所収「天智天皇の皇后倭姫は果たして即位したまうか」喜田貞吉


⒁『芸文 六-一』京都文学会 編 内外出版印刷 26-37頁

所収「中天皇考」喜田貞吉


⒂『更訂国史の研究(各説上)』黒坂勝美 岩波書店 144-147頁


⒃『山川 日本史小辞典(新版)』日本史広辞典編集委員会 編 山川出版 478頁

「称制」


*追記2

②『持統天皇 壬申の乱の「真の勝者」』滝浪貞子 中公新書 

電子書籍版 155-156頁


⒄『大化改新の研究』坂本太郎 至文堂 511頁

「第一章 改新の結果」註


⒅『藝林 二-二』藝林会 編 藝林会 81-100頁

所収「疑われたる天武天皇前紀―倭姫皇后即位論の批判」田中卓


⒆『懐風藻新註』林古渓 著, 林大 編 明治書院 42頁

「釈智蔵二首」註・「太后天皇」


⒇『懐風藻 古代日本漢詩を読む』辰巳正明 新典社 67頁

「釈智蔵」【注釈】「太后天皇世」


(21)『新日本史大系 第2巻』朝倉書店 29頁

所収「律令支配層の成立とその構造」関晃


(22)『大日本史の研究』日本学協会 編 立花書房 302頁

所収「弘文天皇―壬申の亂に就いて―」宮田俊彥


(23)『壬申の乱 (塙選書)』直木孝次郎 塙書房 68-89頁

「第三章 吉野の皇子」


(24)『壬申の乱』倉本一宏 吉川弘文館


(25)『山川 日本史小辞典(新版)』日本史広辞典編集委員会 編 山川出版 838頁

「不改常典」


(26)『日本書紀㈤』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

補注(巻二十八)三「大友皇子の即位の有無」


(27)田中、前掲書

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