古代の格闘術

人気漫画『バキ道』に登場する野見宿禰と関わる相撲と埴輪の起源。

・『前賢故実. 巻之1』より野見宿禰の肖像画

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816927863308535496


 『週刊少年チャンピオン』に連載中の板垣恵介氏による大人気格闘技漫画、『バキ道』に野見宿禰が登場していましたが、22+23号には『日本書紀』では宿禰のライバルであった蹶速なる人物も登場。殺生石叩き壊すの関係無いだろ、どうせやらせるなら玄翁和尚だろうがというツッコミはとにかくとして、格闘技好きの私としては取り上げざるを得ないテーマなので、野見宿禰と蹶速が『日本書紀』ではどの様に書かれているのか、古代史エッセイらしからぬ(笑)技術的な考察も踏まえ見て行きましょう。



⑴『日本書紀』巻六垂仁天皇七年(戊戌前二三)七月 乙亥七日

七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言、當麻邑有勇悍士、曰當麻蹶速。其爲人也強力、以能毀角申鈎。恒語衆中曰、於四方求之、豈有比我力者乎。何遇強力者、而不期死生、頓得爭力焉。天皇聞之詔羣卿曰、朕聞、當麻蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。一臣進言、臣聞、出雲國有勇士、曰野見宿禰。試召是人欲當于蹶速。即日、遣倭直祖長尾市喚野見宿禰。於是野見宿禰自出雲至。則當麻蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立、各擧足相蹶。則蹶折當麻蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之。故奪當麻蹶速之地悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田之縁也。野見宿禰乃留仕焉。


(七年 秋七月あきふみづきの己巳つちのとのみのつちたち乙亥きのとのゐのひ左右もとこひとまうして言く、「當麻邑たきまのむら勇悍士いさみこはきひと有り、當麻蹶速たきまのくゑはやと曰ふ。其の人と強力ちからこはくして、以てつのかぎぶ。つねひとに語りて曰く、「四方よもに求めむに、あに我が力にならぶ者有るらんや。いか強力者ちからこはきものに遇ひて、死生しにいくることはず、ひたぶる爭力ちからくらべをすることを得む」。天皇聞きて羣卿まへつきみたちみことのりして曰く、「朕聞く、當麻蹶速は天下あめのした力士ちからびとなり。し此にならぶ人有るか」。ひとりまへつきみ進みて言さく、「やつかれ聞く、出雲國いづものくに勇士いさみびとはべり、野見宿禰のみのすくねと曰ふ。こころみに是の人を召して蹶速くゑはやあはせむとおもふ」。即日そのひ倭直やまとのあたひおや長尾市ながをちを遣して野見宿禰をす。是に野見宿禰出雲よりまういたれり。則ち當麻蹶速と野見宿禰とに捔力すまひとらしむ。二人相對ふたりあひむかひて立ち、各足おのおのあしを擧げて相蹶あひふむ。則ち當麻蹶速の脇骨あばらぼね蹶折ふみさく。亦其の腰を蹈折ふみくじきて殺しつ。れ當麻蹶速のところりてことごとくに野見宿禰にたまふ。是れ其のむら腰折田こしをれた有ることのもとなり。野見宿禰 すなはとどまつかへまつる。)


◇概略

垂仁天皇七年七月。側近が奏して、

当麻邑たきまのむらに勇敢な人が居て、当麻蹶速たきまのくえはやと言います。その人となりは、力が強く、よく角を壊し、鈎(兵器の名。剣に似て屈曲し、人を鈎殺するもの)を伸ばしてしまい、何時も衆人の中で語って、『四方を探しても私の力に匹敵するものは居まい。何とかして強い人に出会って、生死を賭けて力比べをしたいものだ』と言っています」

と申し上げた。天皇は此れをお聞きになって群卿に詔して、

「私は、当麻蹶速が天下の力持ちだと聞いた。あるいは、これに匹敵する者は居ないのだろうか」

と仰せられた。一人の臣が進み出て

「私は出雲の国に野見宿禰という勇士が居るとことをうけたまわっております。試しにこの人物を召して、蹶速と取り組ませたらと思います」

と申し上げた。

 その日、倭直の祖である長尾市を遣わして、野見宿禰を召しだした。こうして野見宿禰が出雲からやって来た。そこで当麻蹶速と野見宿禰とに相撲を取らせた。二人は相対して立ち、それぞれ足を挙げて蹴り飛ばした。まもなく野見宿禰は、当麻蹶速の肋骨を蹴り飛ばして圧し折り、彼の腰も踏み折って殺した。そこで、当麻蹶速の土地を奪って、ことごとく野見宿禰に賜った。これが、その邑に腰折田のあるいわれなのである。野見宿禰は留まって朝廷にお仕えした。


・⑴解説

 バキ風に言えば「敗北を知りたい」風の台詞を発した時に既に蹶速には敗けフラグが立っていたという事でしょうか(違)

 『類聚国史』歳時部、相撲条にはまずこの条を上げ、七月七日の相撲節会の起源とし⑵、本文が文献で見られる日本最古の相撲の記事と解釈されています。

 原文に「相撲」という文字が無い事や、我々のイメージする相撲と違い、足を止めて蹴り合いをすると言う現代相撲とは程遠い内容の為、これを相撲の起源とするのは個人的には疑問ですが、一般的には相撲の起源と言われています。


 実際に「相撲」と言う文字が登場する初見の記事は『日本書紀』巻十四雄略天皇十三年(己酉四六九年)九月秋九月の猪名部眞根いなべのまねの記事であり、「使脱衣裙而著犢鼻露所相撲⑶」つまり、雄略天皇が猪名部眞根に「衣服を脱がせ、犢鼻たふさぎ(褌)をさせて人が見ているところで相撲すまひをさせた」と記されており、こちらの方が我々の想像する相撲に近いです。


 キックボクシングを経験している私から言えば、本話の蹴りはムエタイのティープと呼ばれる足裏で踏むようにして蹴る前蹴りに近いのかと思いますが、あるいは現代武道でイメージ的に最も近いのは日本拳法の『突き蹴り』で、この蹴りは『日本拳法概説』によれば、「揚蹴は下から上に跳ね上げる蹴り方でしたが、突蹴は反対に上から下に向って踏み蹴るようなコースをたどる蹴り方です。そのため蹴った足に体重が乗り、相手を蹴り倒す勢いのある蹴技である」⑷とあり、二人の戦いが本当に行われたとしたら、この様な蹴りで行われたのではないかと思います。


 因みに日本拳法は柔道(柔術起源説を掲げている団体もありますが、一般的には否定されています)を基にボクシングや空手の技術を取り入れ、昭和に出来た日本最古の総合格闘技なので、宿禰達の戦いを模して突き蹴りが出来た訳ではないのですが、試合ではポイントに成り易い蹴りの上、日本拳法から他格闘技に転身した選手も強力な為多用しやすい蹴りで実戦的な様です。尚、自衛隊の徒手格闘技にも日本拳法が採用されています。と、話がズレました。


 さて、二人の戦いについてですが、技術的には現代ボクシングのワンツーですら使われ出してからせいぜい百数十年程度という事実から推測して、現代格闘技の様なコンビネーションやフェイント、防御・躱し技が存在したとは思えず、素人の喧嘩の様な我慢比べで蹴り合っていたのかも知れず、単純に力が強い方が勝ったという事でしょう。この時代にカーフキックでもあれば殺さずに済んだかもしれませんね(マテ


 我々の知る相撲とは全く異なる事や前述の雄略天皇紀の方が相撲らしい姿をしている事から、野見宿禰の話を相撲の起源とすることに対しては疑問を感じざるを得ませんが、垂仁天皇つまり活目入彦五十狭茅天皇いくめいりびこいさちのすめらみことは記紀よりも古い飛鳥時代の文献である『上宮記』にも「伊久牟尼利比古大王いくむにりひこおほきみ」の名が見られる実在性が高い天皇だと思うので、この時代の出来事として記されているのであれば、何らかの闘争があった事実を反映している可能性もあるのかも知れませんが、『古事記』に同じ話が無い事から同書と『日本書紀』共通の資料である『旧辞』にも伝えられていなかったと思われ、恐らく野見宿禰の子孫を称する土部連はしべのむらじの伝承を『日本書紀』編纂時に取り入れられたものか、あるいは書記編纂時、又はそれに近い時代に創作された可能性が高いかと個人的には思います。


 尚、この説話は腰折田という田の起源譚となっていることについては、農耕儀礼(田遊び)と相撲の関連性から指摘があるそうです。⑸


 余談ですが、相撲をヘブライ語の「スモウ」とかけて日ユ道祖論を語るトンデモも存在しますが、古訓で相撲は「スモウ」ではなく「スマヒ」と読まれているので、ヘブライ語とは関係なく、こうしたトンデモ論者やトンデモ信者はせいぜい現代語訳の日本書紀ぐらいしか読んだ事が無いという事が分かります。創作やエッセイなどで記紀や日本神話を取り扱う方は現代語訳ばかりでなく、最低限訓み下し文ぐらいは目を通しましょう。(出来れば複数の底本の原文まで目を通しましょう)



◇単なる脳筋では無かった野見宿禰


 当麻蹶速を蹴り殺した為に脳筋かと思われそうな野見宿禰ですが、決して野蛮人ではなく優しい人物でもあった様です。以下に有名なエピソードを取り上げてみます。


⑹『日本書紀』巻六垂仁天皇三二年(己亥三)七月 己卯六日

卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命〈一云。日葉酢根命也。〉薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰、從死之道、前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是野見宿禰進曰、夫君王陵墓埋立生人是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等取埴、以造作人馬及種種物形、獻于天皇曰、自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。天皇於是大喜之詔野見宿禰曰、汝之便議、寔洽朕心。則其土物始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰、自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓謂土部臣。是土部連等主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰是土部連等之始祖也。


(卅二年 秋七月あきふみづきの甲戌きのえいぬのついたち己卯つちのとのうのひ皇后きさき日葉酢媛命ひばすひめのみことあるに云ふ。日葉酢根命ひばすねのみことなり。〉かむされます。臨葬はふりまつらむとすること日有り。天皇すめらみこと群卿まへつきみたちに詔して曰く、「しにひとに從ふ道、さき不可よからずといふことを知れり。今此のたびもがり奈何いかがせむ」。是に於て野見宿禰進みて曰く、「君王きみ陵墓みささぎに生きた人を埋立うづみたつるは是れ不良さがなしあに後葉のちのよつたふることを得むや。願はくは今將に便たよりなる事をはかりてまうさむ」。則ち使者を遣して出雲國の土部はしべ壹佰人ひとももたり喚上めしあげ、自ら土部等はしべたちつかひてはにつちを取り、以て人馬及び種種くさぐさの物の形を造作つくりて、天皇にたてまつりて曰く、「今より以後のち、是の土物はにものを以て生きたる人に更易へて陵墓みささぎて、後葉のちのよ法則のりとせむ」。天皇是におほきに喜びて野見宿禰に詔して曰く、「いまし便たよりなるはかりことまことが心にかなへり」。則ち其の土物はにものを始めて日葉酢媛命ひばすひめのみことの墓に立つ。りて是の土物はにものなづけて埴輪はにわと謂ふ。亦の名は立物たてものなり。りてのりごとを下して曰く、「今より以後、陵墓みささぎに必ず是の土物はにものて、人をなやぶりそ」。天皇厚く野見宿禰のいさをしきめたまふ。また鍛地かたしところ賜ふ。即ち土部職はしのつかさけたまふ。りて本のかばねを改めて土部臣はしのおみと謂ふ。是れ土部連等天皇の喪葬みはふりつかさどことのもとなり。所謂いはゆる野見宿禰は是れ土部連等はしのむらじたち始祖はじめのおやなり。)


・⑹概略

 垂仁天皇三二年七月六日、皇后の日葉酢媛命ひばすひめのみこと〈一説には日葉酢根命ひばすねのみことであるという。〉が薨じられた。葬りまつるまでに日数がかなりあった。天皇は群卿まへつきみたちに詔して

「亡き人に殉死する方法は、前に良からずという事を知った。今度の祭礼は如何しよう」

と仰せられた。是に野見宿禰進み出て

「そもそも君王の陵墓に生きた人を埋めるのは良い事ではありません。後世に伝える事は出来ません。願はくは今適当な処置を協議して奏上いたしたいと存じます」。

と申し上げた。使者を遣して出雲國の土部はしべ百人を召しだし、自ら土部等を使ってはにつち(赤くて粘る土)を取り、人馬や種々の物の形を造って、天皇にに献上して、

「今より以後、是の土物を以て生きている人にかえて陵墓に立てて、後世の法としましょう」

と申し上げた。天皇は是に大層喜ばれ、野見宿禰に詔して、

いましの適切な処理はが心に適うものだ」

と仰せられた。則ち其の土物はにものを始めて日葉酢媛命ひばすひめのみことの墓に立てた。そして是の土物はにものを名付けて埴輪はにわという。亦の名は立物たてものとも名付けた。そこで命を下して

「今より以後、陵墓には必ず是の土物はにものを立てて、人を損なってはならない」

と仰せられた。天皇は厚く野見宿禰の功績を褒められ、更に鍛地かたしところ賜わった。そして土部職はしのつかさに任じられた。そこで本姓を改めて土部臣はしのおみと言う。是れが土部連等天皇の喪葬を司ることになった由縁である。野見宿禰は土部連等はしのむらじたちの始祖である。


・⑹解説

 所謂埴輪の起源で、野見宿禰の功績譚です。騎馬民族説をはじめ、トンデモ史観で知られる手塚治虫の『火の鳥』(ヤマト編)では生き埋めにされたヤマトオグナ(ヤマトタケル)や奴隷たちが埋められた後も尚、笛の音や声を出して大王に嫌がらせをして殉死の習慣が無くなった等と出鱈目な創作を行い、それが映画化までしましたが、『日本書紀』によれば手塚が描いた舞台である景行天皇の以前の垂仁天皇の御代には既に野見宿禰のアイディアで殉死の習慣は止めさせられている事が描かれています。


 残念な事に現在では埴輪の起源が殉死の代わりだというのは真実だと見られていないそうです。津田左右吉は日本書紀の前後の記事、(つまり崇神朝に初めて船を造ったという記事と、本文の埴輪を造り始めたという起源説話として共通性があること)古事記の記載(此の朝に土師部を定められたということと、陸に人垣を立てることが始まったということが見えるのみ)の関係から考えると、ノミノスクネの物語が歴史的事実であろうとは思はれぬと論じました。⑺


 又、形象埴輪、とりわけ人形埴輪に限定すれば、出土した埴輪の形態から、その起源に稲作儀礼との関連を説く見方もあるそうです。⑻


 考古学的には吉備地方にはじまった特殊器台が纏向遺跡など大和地方の古墳から出土するようになり、埴輪の起源の一つはこの特殊器台につながる土製の円筒製品である円筒埴輪と言われ、これに対し人物や動物など物品を象った形象埴輪と言います。⑼埴輪自体は四世紀に出現しますが、人間や馬を表現した埴輪は五世紀中頃にようやく姿をみせるので、垂仁天皇陵に比定される蓬莱山古墳が四世紀後半に築造されたことから推定すると、人物埴輪の登場が垂仁天皇の時代よりも後の時代になる為、本話の史実性は否定されます。


 なお、この話も⑴と同じく『古事記』には同じ話が無いことから、『旧辞』には伝えられていなかった可能性があり、書記編纂時、あるいはそれに近い時代に創作されたものかと思います。




◇参考文献

⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編 経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/69

『日本書紀 : 訓読. 中巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029096/34


⑵『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 33ページ 注4

『六国史 : 国史大系  類聚國史』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950692/1/271


⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編 経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/138


⑷『日本拳法概説』(日本拳法連盟WebサイトよりPDFファイルをダウンロード)

http://www.nipponkempo.jp/document/sdk_honbu.htm

31ページ「突き蹴り」


⑸『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 184ページ


⑹『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編 経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/71

『日本書紀 : 訓読. 中巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029096/36

36・37コマ


⑺『古事記及び日本書紀の新研究』津田左右吉 岩波文庫

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1918863/1/261


⑻『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 188ページ


⑼『集英社版 日本の歴史② 倭人争乱』田中 琢, 永原 慶二, 児玉 幸多, 林屋 辰三郎 集英社 265-266頁

「2 王者の墳墓の時代」祭場と埴輪

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