ヤマトタケル関連の歌④ 思國歌

 いきなり関係ない話題で恐縮ですが、歴史学者に支配的だった空気思想が少しづつでも変化しつつある兆候なのかな? と思った出来事を取り上げてます。


 1月3日にNHKBS1で放送された「平安サミット2024 本当に平安だったのか」なる番組に出演されました國學院大學教授の笹生衛氏が「平安時代が終わった理由」として気候変動をあげられており、気候変動による飢饉が発生した事により、住民の移動・古代より続いた郡の分割がはじまり、国司が地域のリーダーとして台頭し、それが武士に繋がっていったと述べられ、それが平安時代を終わらせたという持論を述べられており、現在はこのような主張も出来るのだなと感銘を受けました。


 何故、感銘を受けたのかといえば、20世紀までの歴史学の本流は、カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスが19世紀に定立した史的唯物論、つまり唯物史観と言われるものであり、本エッセイでも良く取り上げる西郷信綱氏や石母田正氏等も影響を受けていました。唯物史観では、人類は開闢以来、その生産力を常に発展させることになります。そうだとすれば、子供がその成長にしたがって衣服が合わなくなり、新しいサイズの衣服を買わなければならなくなるように、生産力の発展にしたがって社会もまたその形を変えていかなければならない、これが「革命」であり、そのことこそが歴史の動きであると、唯物史観ではみてきたのですが、この論は人類に生得的に備わった生産力発展のポテンシャルが歴史を動かすと考えるので、その根本が環境の変化により左右される可能性など、もとよりその理論の中に織り込んでおらず、そればかりか、環境の変化が人間の歴史を左右するという考えに対しては、「環境決定論」などと呼んで邪道視する風潮すら根深かったらしいです。その為、笹生氏の様に堂々と気候変動を理由に社会が変化したことを主張できるのは時代が変わったのかな? 等とジジィの様な事を考えてしまいました。(因みに当方、まだ日本人の平均年齢(寿命じゃないよ)より若いのであしからずw)


 付け加えていうのであれば、考古学を含む人文科学の近年の趨勢では、人類もまた何ら特別な創造物などではなく、地球上に無数ある生物の一種として捉えることが常識となりつつあり、さらに、過去の気候や植生を高精度で復元する技術が飛躍的に高まった結果、一生物たる人類の社会に決定的な影響を及ぼさないではいなかった大きな環境変動の存在が、実証的に明らかにされてきており、例えば旧石器時代から新石器時代への転換は、いまや、地球規模の環境変動への適応として生じた歴史事象ととらえるのが国際的な定説となっているそうです。(参考:『縄文とケルト―辺境の比較考古学』松木武彦 ちくま新書)それ故に例えば縄文時代の日本文化と遠く離れた新石器時代のケルト文化との共通性があるのは、この様な環境変化に由縁するのかも知れないことや、神話の共通性なども環境の変化が原因があるのか、拙速に結びつけることは慎重に検討が必要とはいえ、考慮する価値はありそうです。


 毎回の様に関係ない話からスイマセン。ですが、カクヨム的には小説をお書きになられる方が多いかと思うので、支持するかどうかは別として(当方は基本的にアンチマルクス主義なので、西郷信綱氏や石母田正氏などと思想的には相反しますが、その研究に対しては是々非々で、特に西郷氏に関しては、歴史学だけでは理解しえない指摘や他分野に関して自重的な研究姿勢には感銘を受けることが多々ありますし、何よりその偏屈親父ぶりを愛していますw)、唯物史観なるものの考え方や、環境変動が歴史に影響を与え得ることを知れば、歴史ものに限らず、ファンタジー小説などにおいても、激動の時代を描く際に何かしら参考になるかも知れませんね。いや、自分が最近全く小説書いていないので説得力ゼロですが(滝)。では本題に戻ります。



◇記紀では異なる思

 大和国の西北隅、くらがり峠から信貴山にかけて、生駒山をその南に控えたところが、所謂平群丘陵地帯で、そこは大和宮廷発祥以前からの種々の伝承を持ち伝えた地であるといいます。『古事記』を読んだ事がある方であれば、最も印象に残った歌としてヤマトタケルの「やまとは 國のまほろば たたなづく……」という歌を挙げる方が多いかと思います。これを思國歌と言いますが、以下に原文と共に文学的な解釈を見ていきたいと思います。



⑴『古事記』中巻 景行天皇

自其地幸行而、到能煩野之時、思國以歌曰、

 夜麻登波 久爾能麻本呂婆

 多那豆久 阿袁加岐

 夜麻碁母礼流 夜麻登志宇流波斯

又歌曰、

 伊能知能 麻多祁牟比登波

 多多美許母 幣具理能夜麻能

 久麻迦志賀波袁 宇受爾佐勢 曽能古

此歌者、思国歌也。又歌曰、

 波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母

此者片歌也。此時御病甚急。爾御歌曰、

 袁登売能 登許能弁爾

 和賀游岐斯 都流岐能多知 曽能多知波夜

歌竟、即崩。爾貢上驛使。


(其れより幸行でまして能煩野のぼにに到りましし時、國 しのひて歌曰うたひたまひしく、


 やまとは 國のまほろば たたなづく 青垣山あをかきやまこもれる やまとしうるはし 〔三〇〕


歌曰うたひたましく、


 いのちの またけむ人は

 畳薦たたみこも 平群の山の

 熊白檮くまかしが葉を 髻華うずせ その子 〔三一〕


此のみうた思國歌くにしのひうたなり。又 歌曰うたひたまひしく、


 しけやし 吾家わぎへの方よ 雲居くもゐたちも 〔三二〕


片歌かたうたなり。此の時、御病みやまひ甚急いとにはかになりぬ。ここ御歌みうたみたまひして、


 嬢子をとめの とこ

 が置きし つるきの大刀たち その大刀はや 〔三三〕


と歌ひへて、即ちかむあがりましぬ。かれ驛使はゆまづかひ貢上たてまつりき。)


*〔三〇〕~〔三三〕 古事記歌謡の通し番号。


◇解説

 これらの歌は思国歌くにしのびうたと言い、西郷信綱氏によれば「望郷の歌の意だが、国ほめの歌という意ともかさなる。シノフという語は遥かなものに思いを寄せるだけでなく、「黄葉モミジをば、取り手ぞシノフ」(万葉集、一・一六)のように目前のものを賞美するにも用いる。これは紛れもなく大和の中にあって大和を賛美した歌である。それが異郷にあって大和を偲ぶ歌にに転化し、思国歌と呼ばれたのであろう。「此の歌は思国歌なり」というのは歌曲としての名をあげたもので、〔三一〕歌だけでなく、〔三〇〕歌をも指すはずである。紀には〔三二〕歌までを一連として思邦クニシノヒ歌という。⑵」と述べられています。この歌について、土橋寛氏はこれらの歌を説話から切り離して独立歌謡としての実体を推定し、はじめの歌を豊穣を予祝する国見歌、次は山遊びの場において青年に歌いかけた老人の歌で、何れも平群地方の民謡としました。⑶


 なお、日本書紀では思 歌は以下の様に景行天皇が九州に征討に行った時の望郷歌として詠まれており、歌順も入れ替わっています。


⑷『日本書紀』巻七景行天皇十七年(丁亥八七)三月己酉十二

十七年春三月戊戌朔己酉。幸子湯縣。遊于丹裳小野。時東望之。謂左右曰。是國也直向於日出方。故號其國曰日向也。是日陟野中大石。憶京都而歌之曰。

 波辭枳豫辭。和藝幣能伽多由。區毛位多知區暮。

 夜摩苔波。區珥能摩保邏摩。多多儺豆久。阿烏伽枳夜摩。許莽例屡。夜摩苔之。于屡破試。

 異能知能摩會祁務比苔破。多多濔許莽。幣遇利能夜摩能。志邏伽之餓延塢。于受珥左勢。許能固。

是謂思邦歌也。


(十七年のはる三月やよひの戊戌つちのえいぬのついたち己酉つちのとのとりのひ子湯こゆあがたに幸て、丹裳にもの小野に遊びたまふ。時にひむがしのかたをそなはして、左右もとこひとに謂ひて曰く、「是の國はただの出づる方にけり」故れ其の國を號けて日向と曰ふ。是の日、野中の大石にのぼりまして、京都みやこしのびたまひて、歌ひて曰く


 しきよし、従吾わぎ家方かたゆ 雲居くもヰ

 やまとは 國の眞區まほらば たたく 靑垣山あをがきやま こもれる やまとし うるはし

 いのちの そけむ人は たたも 群山ぐりやまの 白橿しらがしを 髻華うずの挿せ の子


 是れを思邦歌くにしのびうたと謂ふ。)


 日本書紀では順序も「愛しきよし」云々「倭は」云々「命の」云々の順になっており、これを「思邦歌くにしのひうた」と呼んでいるのですが、古事記になると些か異なり、「倭は」云々、「命の」云々、「愛しけやし」云々の順序になっています。「倭は」と「命の」の歌とは「思國歌」と名付けていますが、「愛しけやし」の方は片歌になっています。作者についても、古事記では倭建命が伊勢の能煩野のぼのにおける望郷述懐の御歌と伝えているのに、書紀にあっては景行天皇が子湯県こゆのあがたに行幸なさり、日向 丹裳にもの小野に遊ばれた時、東方を遠望され、野中の大石に上られて、故郷大和を憶うて詠まれたことになっています。古事記と日本書紀で、どちらの所伝が正しいか断定は許されず、書紀の記載順序のままならば、纏まった思想を表しているから、一種の長唄と見做されなくもなくなく、それ故、橘守部等は江戸時代の記紀歌謡の註釈書である『稜威言別いつのことわき』で古事記の所伝を斥けて、書紀を以て正伝とみているそうで、三首に伝えた理由を、次の様に述べています。


 其の皇子、此御歌をうたはす時、御病の苦しきままに、本より調も三段なれば、即一段づづ、三度にうたはしけむを、みともびと傳へて後々迄重みし守て、然かうたひならはしけるから、つひには、三首と心得たる人もありしにこそ。⑸


 しかし、現在の解釈では右の三首を一首に見ることは、多少の無理を免れ得ないことであって、三種の歌が独立したものとしても亦十分意義があると言います。古事記と日本書紀では作者が異なれば、歌詞も幾らか異なり、歌の順序も異なり、物語までも異なっています。古事記では倭建命のもの憐れな歌になっており、日本書紀では天皇の明るい歌になっています。仮に記紀相互に異なった事情の物語と、歌謡とを全く分離して見ると、「愛しきよし」と「大倭は国のまほらま」云々の歌とは、国見の歌に相違なく、書紀の所伝の如く、野中の大石にのぼって、「京都みやこしのびて」詠まれたという伝えの方が正しいのではないかと思われると相磯貞三氏は主張されました。⑹


 この様に歌が伝承の過程でいくつかの起源をもつことはあり得ることであり、異伝をもつことはそれだけ流布した歌を示すと言います。⑺


 記紀で本歌が登場するシーンが異なる事から本当にその時に読まれた歌か怪しまれており、説話から切り離して歌謡を研究する手法は、それは当然の姿勢とも思いますが、過去の稿「ヤマトタケル関連の歌② オトタチバナヒメの歌」でも取り上げた様に『古事記』の歌を「独立歌謡」として解釈することを西郷氏は批判しています。


 西郷氏によれば「古事記本文から歌だけを抽出し、それを民謡の次元に還元するのに熱心なあまり、かえって歌謡の本質を取りのがしているのではないかと危ぶまれる節もなくもない。物語を求め物語のなかに生きようとする志向を歌謡じたいがもっていたからこそ、古事記は一種の歌物語の形式をとったのであり、作者が勝手に、歌謡をと物語のなかに挿しこんだのではないことは明らかである。ただ、両者の間がしばしばぐちゃぐちゃになっているのは、その関係が文学的に渾然たるものに成熟するための歴史的与件に欠けるものがあったためと考えられる。たとえちぐはぐであっても、歌謡がいかなる物語的な地を与えられているかは、歌謡研究の立場そのものにとって無視しない方がいいはずである。むろん、この分離主義は、歌をひたすら物語に従属させて怪しまなかった従来の読みに対しては一つの解放であったけれど、逆に言えばそう簡単に、つまり引っこ抜くような具合に解放してはならない」と警告を発しました。⑻


 思国歌に限らず、全体を見ない、つまみ食い的な解釈に対して、西郷氏はこの様にしばしば警告を発しています。場合により分離が妥当な場合も有り得るので、全面的に賛成することは出来ませんが、アマチュア史家の著書などには特にこの様な傾向があるので、自分も胸に刻むべき心得であると思いました。



◇参考文献

⑴『古事記注釈 第六巻』西郷信綱 筑摩書房

124-126頁「第二十八 景行天皇」

⑵前掲書

133頁「第二十八 景行天皇」注「思国歌」

⑶『古代歌謡と儀礼の研究』土橋寛 岩波書店

325-334頁 「第5章 国見歌とその展開 第二節 「思国歌」について」

⑷『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/77

⑸『稜威言別』橘守部 著, 橘純一 校訂 富山房

https://dl.ndl.go.jp/pid/1069688/1/76

⑹『記紀歌謡全註』相磯貞三 著 有精堂出版 117-118頁

「古事記歌謡篇 三二 倭建命の御歌」

⑺『上代説話辞典』編著者 : 乾 克己 大久間 喜一郎 雄山閣

108頁「思国歌」

⑻『古事記研究』西郷信綱 未来社

271頁「ヤマトタケルの物語」

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