ヤマトタケル関連の歌⑤ 八尋白智鳥

 いよいよ、五回に渡ったヤマトタケル関連の歌の解説は本稿を以て終了いたします。最後にヤマトタケルの死後、白鳥と化した伝説を以て締め括りたいと思います。




⑴『古事記 中巻』景行天皇条

於是坐倭后等、及御子等諸下到而。作御陵。即匍匐廻其地之那豆岐田〈自那下三字以音〉。而。哭爲歌曰。


 那豆岐能多能 伊那賀良迩 伊那賀良迩 波比母登富呂布 登許呂豆良


於是化八尋白智鳥。翔天而。向濱飛行。〈智字以音〉爾其后及御子等。於其小竹之苅杙雖足䠊破。忘其痛以哭追。此時。歌曰。


 阿佐士怒波良 許斯那豆牟 蘇良波由賀受 阿斯用由久那


又入其海鹽而。那豆美〈此三字以音〉行時。歌曰。


 宇美賀由気婆 許斯那豆牟 意富迦婆良能 宇恵具佐 宇美賀

波 伊佐用布


又。飛居其磯之時。歌曰。


 波麻都知登理 波麻用波由迦受 伊蘇豆多布


是四歌者。皆歌其御葬也。故至今其歌者。歌天皇之大御葬也。


(於是ここにやまと后等きさきたちまた御子等、もろもろくだして御陵みはかを作りて、即ち其地そこ那豆岐田なづきた匍匐はらはもとほりて、みねかしつつ歌ひたまはく、


 なづきの 田の稲幹いながらに 稲幹いながらひもとほろふ ところづら〔三四〕


於是ここにひろしろとりりて、あめかけりてはまに向きて飛びいましぬ。かれ其のきさきまた御子みこたち、其の小竹しぬ苅杙かりくひみあしやぶるれども、其のいたきを忘れてなくなく追ひいでましき。此の時の歌曰みうた


 あさ小竹じぬはら こしなづむ 虚空そらは行かず 足よ行くな〔三五〕


又其のしほに入りて那豆美行なづみゆきましし時の歌曰みうた


 うみ行けば 腰なづむ おほはらの 植草うゑくさ うみがは いさよふ〔三六〕


又。飛びて其の磯にたまへる時の歌曰みうた


 はまどり はまよは行かず いそづたふ〔三七〕


是のうたは、皆其のはぶりに歌ひたりき。かれ今に其の歌は天皇すめらみことおほはぶりに歌ふなり。)


*〔三五〕~〔三七〕古事記歌謡の通し番号。


◇解説

 ヤマトタケルが大きな白鳥に化して天に翔り、浜に向かって飛んで行った。命の御后や御子たちは、小竹の生えた原の切株で、足の傷つくのも厭わずに、その鳥の後を泣きながら追って行かれたという説話で、ヤマトタケルの死がどれだけ悲しまれたのかを物語る内容になっています。


 記紀万葉歌の研究分野において、名著として知られている高木市之助氏の『吉野の鮎』によれば、この四首について、便宜伝説に付会して譬喩歌と解釈するのでない限りは、何等大人の臭気を蔵せず、例えば恋愛の苦悩も酒の燥狂もなく、乃至郷土自慢も職業意識もない。そういうものが無いだけでそれだけ「童」の歌謡に近いとも言えるので、ここにこそ子供のような大人の世界ではなく、真の子供の世界であるのであり、そうして四首が四首共揃ってこうした童謡の世界を持つ事は記紀歌謡としては管見の及ぶ限りでは他に類例のない事であろうとの事です。⑵


 この様に、古くは童謡説もありましたが、現在においては童謡ではなく以下の理由で鳥霊信仰に基づく歌との解釈が有力な様です。


 相磯貞三氏によれば、上記の四首の歌は、倭建命の后等の御歌となっていますが、その中の誰人の作という明記は無く、ある特定の一人の作というものでなく、作者未詳の歌が物語と関連せしめられた結果、このような推定が固定されたと見られ、終末に「是四歌者。皆歌其御葬也。故至今其歌者。歌天皇之大御葬也。」とあるから、もと葬送の歌であったのが、倭建命の物語に採り入れられてしまい、古事記撰録の当時において、実際に天皇のおおはぶりに奉仕した人々の口に歌われていたことが明らかであるそうです。


 祭典の際に人々が歌舞を行った様に、葬儀に関しても歌舞を行ったことも事実であり、天の岩屋戸の前の歌舞の如きも、一面から観れば葬儀における歌舞とみれば葬儀における歌舞と見られ、「石戸」という語は墳墓の門口に鎖してある巌石をさしていることから、天照大御神が墳墓に隠れてしまわれたので、その前で種々の音楽・舞踏が行われたことが考えられる事や、允恭天皇紀で新羅王が天皇の崩御を聞いて、調みつぎものふね八十艘と、種々の楽人八十人とを貢いで、この人々が対馬に泊まり泣き、筑紫に泊まっても亦泣き、難波津に碇泊して皆 素服あさのきぬを着け、それぞれ楽器をとって奏しつつ、或いは号泣し或いは歌舞して飛鳥の宮まで行ったとあること。貴人が薨じて未だ葬らない中に柩を安置する所をもがりのみやといい、そこで舞を舞ったことは天武天皇紀にあり、殊に、天若日子の物語は、上古に関する詳細な叙述として注意すべきであろうと、記紀の様々な伝承から、倭建命の后等の御歌が葬儀の歌舞であり、それは鳥の扮装で歌舞することは、死者の魂魄を呼び寄せようという咒術に他ならず、これの儀式化がかかる形態で造ったのであるといいます。⑶


 これは過去の稿【『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(12) 最後の大連 物部守屋①】でも述べました様に、敏達天皇紀十四年八月十五日の殯宮もがりのみやを広瀬に立てた時、馬子宿禰大臣うまこのすくねのおほおみたちびてしのびごとを述べた時、物部弓削守屋大連もののべゆげのもりやのおほむらじが嘲笑って、「獵箭ししや(獣猟で使われる大きな矢)で射られた雀烏すずめの様だ」と言ったことは、平林章仁氏によると、雀の跳ねる様な仕草や手足を震わせる所作が、当時の王や貴人の殯宮で誄を述べる際に行われた事まで疑う必要はなく、蘇我馬子が雀の跳ねる様な所作をしたことに宗教的意味があったという事を問題として、やはり天若日子の神話を取り上げ、馬子が敏達天皇の殯宮で誄を述べる際に行った雀の跳ねる様な所作と、天若日子の模擬に雀などの鳥たちが奉仕したと伝えられることの類似に留意し、鳥霊信仰にもとづくものであったと推測されました。⑷


 平林氏の説の様な儀礼が実際に行われていたとすれば、守屋と馬子のやりとりも史実である可能性が高く、だとすれば、同様に倭建命の后等の御歌も鳥霊信仰に基づくものである可能性が高いと言えます。


 なお、魂が白鳥と化する話は、ほとんど世界中に広がっており、西郷信綱氏によれば、それは人間の死とともに、体内に宿っていた魂が外に飛び立つと考えたからで、鳥の姿となって魂が死者の口から飛び立とうとすることを描いた古代ギリシャの壺絵は、人類にはほぼ普遍的な空想をあらわしたものと言えるそうです。⑸


 しかし、神野志隆光氏は『古事記伝』の以下の内容を引用し、魂が白鳥となったという解釈を否定します。


 ナリテは、カクシ奉り倭建命のカバネ化為ナリたまへるなり、⑹


 神野志氏によれば『古事記』の「化」からいうと、魂を持ち出すのは疑問で、倭建命が肉体的に鳥にすがたをかえると見る『古事記伝』のほうが文字に即して正当であり、鳥となって去ってしまったあとにいくつもの御陵が残されるのが、そこにおさめるかばねはないのだというのがこの物語の結末となり、魂をもちだすのとはちがう、物語の読み方となりますが、神野志氏は『古事記伝』を支持しておられます。⑺


 又、第三段、志幾に御陵をつくったことを、『古事記』本文が「其地作御陵鎮坐也(其地ソコハカを作りてシズマさしめき)」といい、『古事記伝』はそれについて「シズマリマサシメキとは、生て坐白鳥なる故に、カクシ奉れるには非るが故に、かく云るなり」⑻(姿をかえて白鳥となって生きていて、葬るのではないから、そこにお留めすることを鎮坐というのだ)と注しており、これも効いているとのことです。⑼

 

 補足すると、『古事記伝』では更に「さるは神ノ社に、其のタママツる如くに、シズメマツりしなるべし、【然るを神社と云ハずして、御陵を作ルと云るは、此ノ白鳥もご能褒野ノ御陵に葬奉リし御屍のナリ賜へる故なるべし、】」⑽と、神社の様に鎮め祭ることをしながら、神社と言わず、御陵が作られた由縁を、白鳥の屍が能褒野に葬られたことにあるといいます。


 事実はとにかくとして、白鳥の屍が葬られたとあるのであれば、「ナリテ」は、白鳥への肉体的な変化を指し、やはり魂と解釈するのは誤りで、神野志氏の解釈が妥当ではないかと思います。



 以上、ヤマトタケル関連の歌は本稿で終了しますが、ヤマトタケル特集はもう少し続きます。次稿ではヤマトタケルが天皇であったのか識者達の各説及び私見による批判。その次の稿では、何故正史である記紀ではヤマトタケルが天皇になれなかったのかを解き明かしていきたいと思います。


・地元で撮ったヤマトタケルの化身……じゃなくて白鳥の画像

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16818023211944969726



◇参考文献

⑴『古事記新講 改修5版』次田潤 明治書院

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1920824/1/387


⑵『吉野の鮎』高木市之助 岩波書店 201頁

「古代歌謡における童謡の痕跡」


⑶『記紀歌謡全註解』相磯貞三 有精堂出版 128-129頁

「三八 倭建命の后等の御歌」


⑷『蘇我氏の実像と葛城氏』平林章仁 白水社 46-48頁


⑸『古事記注釈 第六巻』西郷信綱 ちくま書房 147頁

「第二十九 景行天皇(続々々)・成務天皇 一、八尋白智鳥」


⑹『古事記伝 : 校訂 坤 増訂』』本居宣長 著 吉川弘文館

注〇 ナリテ

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041637/1/161


⑺『古事記伝を読む』神野志隆光 講談社選書メチエ 223-224頁

「『古事記伝』二十九之巻・日代宮四之巻、志賀宮巻 八尋白智鳥」


⑻本居、前掲書

注〇 鎮坐シズマリマサシメキ

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041637/1/167


⑼神野志、前掲書 224頁

「『古事記伝』二十九之巻・日代宮四之巻、志賀宮巻 八尋白智鳥」


⑽本居、前掲書

注〇 鎮坐シズマリマサシメキ

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041637/1/167

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