ヤマトタケルは天皇か?

 ヤマトタケルが『常陸国風土記』や『阿波国風土記』逸文で天皇と呼ばれているのは過去の稿で触れた通りですが、記紀では天皇として語られていないヤマトタケルが、風土記では何故天皇とも呼ばれているのか、過去の説を参考にしながら、理由を探ってみました。



⑴『萬葉集注釈 巻七』所引『阿波國風土記』逸文

阿波國風土記云 勝閒井冷水 勝閒井云由者 倭建天皇 乃大櫛筍忘依而 勝閒ト云人者 櫛筍者勝閒云也 已上


(阿波國風土記に云はく、勝閒の井の冷水しみず勝閒かつまの井といふゆゑは、倭建やまとたけるの天皇、おほくし忘れ給ひしによりて、勝閒といふ。櫛筍くしげを勝閒といふなり。已上。)


⑵『常陸国風土記』多珂群 飽田村

其道前里飽田村。古老曰。倭武天皇爲巡東陲。頓宿此野。有人奏曰。野上群鹿。無数甚多。其聳角如蘆枯之原。比其吹氣。似朝霧之丘立。又海有鰒魚。大如八尺。幷諸種珍味。遊理□多者。於是天皇幸野。遣橘皇后。臨海令漁。相競捕獲之利。別探山海之物。此時野獵者。終日驅射。不得一宍。海漁者。須臾才採。盡得百味焉。獵漁已畢。奉羞御膳。時勅陪従曰。今日之遊。朕與皇后。各就野海。同爭祥福。〈俗語曰佐知。〉野物雖不得。而海味盡飽喫者。後代追跡名飽田村。


(其の道前みちのくちさと飽田あいた村。古老の曰く。倭武天皇の東陲ひむがしのくにの巡と爲て、にはかに此野に宿をたまふ。人有りまうして曰ひしく、「野の上に群鹿むらかれるしか、数なくいとおほかり。其のふりたわるつぬ蘆枯かれあしはらなして如か。其の吹氣いぶきたとふれば、朝霧のたげるに似たり。又海に鰒魚あはび有り。大きさ八尺やさかばかり。ならび諸種くさぐさ珍味めずらしきもの。遊べる漁□多し」とまうしき。是於ここに天皇野にいでまし、たちばな皇后きさきつかはして、海に臨てすなどらしめ、競捕獲とらうるさち利相あひきそひたまひ。別に山海の物を探る。此の時野のかりは、終日ひねもす驅射ゆみいたまへども、ひとつししも得ず。海のかりは、須臾しましがほどわづかに採りて、ことごとくもものあぢはひを得、かりすなどり已におわりて、御膳みけつものすすたてまつる。時に陪従おもとびとのりたまはく。「今日けふの遊び。われ皇后きさきと各野と海に就きて、同じ祥福さちを爭そふ。〈俗の語に佐知さちと曰く。〉野の物はえずとへども、海のあぢはひことごとあきくらへり」とりたまひき。後の代に跡を追ひて飽田村あいだむらと名づけよ。)


*橘皇后……『常陸国風土記』行方郡相鹿の里の条に大橘比売と同一人物。(大は敬称)記紀の弟橘媛のことと言われており、弟橘媛は走海で入水している為、ここでは姉と見る説があるそうですが、しいて記紀の伝承と一致させる必要は無いとのことです。⑶


◇解説

 上記⑴⑵でみられる様に『風土記』では倭建表記が見られ、かつてはヤマトタケルが実際に天皇であったのか、様々な説が主張されました。


 古い解釈では、松岡静雄氏の『常陸国風土記物語』⑷によると、其の当時漢字はまだ用いられた筈が無いから、天皇はスメラミコトという語にあてたものとし、必ずしも「天皇」という意味でなかったのであろうと推測し、播磨国風土記にも菟道稚郎子を宇治天皇、市邊押磐王を市邊坐天皇とした例もあり、スメラミコトの原義によって統率者たる皇子という意に用いられたのであろうとの解釈もありましたが、現在ではこの説はあまり支持されていないのか、解説書類でみかけることはありません。


 一方、福田良輔氏の「倭建の命は天皇か」⑸という論文で、常陸国風土記、阿波国風土記逸文に倭武天皇あるいは倭建天皇と記述されていることにはじまり、記紀における敬語法およびその用字に注目し(既に本居宣長の『古事記伝』で触れられている内容と被る部分もあるのですが、福田氏はその事について触れていません)、これらについての総合的判断から倭建命天皇説を導き出しました。


 古事記において、皇統を継がれた方の子は神代、人皇共に原則として「御」を添えて、「御子」と記し、皇統を継がれた方や継ぐべき方に反対した方には皇統を継がれた方でも「御」を添えない、のみならず、皇子女でもその母親の身分が低いと「御」を添えない、また皇孫以下には「御」を添えないという基本のルールを分析し、ところが倭建命の皇子女には「御」が書き添えられている例を取り上げ、「后」も古事記ではスサノオ命やオホクニヌシ神の如き最高の神や皇統を継がれた神及びお方(天皇)の配偶者に限り用いられ、皇子以下の配偶者に対しては用いられていのに、倭建命及びその御子に対する「御」、その配偶者に対する「后」の使用においては、倭建命は、天皇と全く同じ地位であると分析しました。


 又、「坐」の用法が倭建命は天皇・大后・后と全く同じであり、最も高貴な神及び人に限り用いられる「幸」が、敬語の「イデマス」及び「マス」を表記するものとして倭建命に対して用いられており、複語尾「マス」を表記した「坐」に対応するところに「幸」が用いられている事例が古事記の各所に全般的に見られていることにより明らかであると言います。


 更に倭建命に対しては『崩』『詔』『奉』の如き語が用いられており、これらの言葉も古事記においては最高の神、天皇、大后・后などに用いられるものであることから、倭建命の身分が天皇と全く同じであった裏付けとしました。


 では、何故、記紀ともに倭建命に対して天皇の位に対応する敬語を表記する漢字を用いたのであろうかという疑問に対し、当時諸家に伝えられていた帝紀及び本辞の記事の大部分が、倭建命を天皇と伝えていたのであるまいか、少なくとも、記紀編纂当時においては、倭建命の天皇説が非常に有力で、これを否定する積極的資料が存在していなかったと考え、常陸風土記で倭武天皇、阿波国風土記逸文に倭建天皇命と記しているのは、この間の事情を正しく反映しているものと解するべきであろう、また、十四代仲哀天皇が倭建命の皇子であることも合わせて考えるべきであろうと、推測し、或いは古事記が五瀬命・神功皇后・ウヂノワキイラツコのお三方に「崩」を用いているのは、即位こそされなかったが、お三方が天皇と同じ職務を執り行われたことを重視したためと思われることと、これに対し、日本書紀がお三方に対して「崩」を用いず、「薨」を用いたのは即位の事実の有無を重視したためであろうとし、諸家に伝えられた諸伝においては倭建命の即位が事実であることを伝えたものが絶体的に多かったためであろう常陸風土記、阿波国風土記逸文の記事はその反映であるという説を述べるとともに、同時代に倭建命は景行、または成務と、二人の天皇が存在していた可能性も指摘しました。


 福田氏の主張を受け、吉井巌氏は『天皇の系譜と神話2』⑹において、歴史的事実と系譜構成上の事実とを早急に混同せられた傾向があって、俄かには賛同できないとしながらも、福田氏が指摘せられた記述上の事実は、客観的な説得力を持っていて貴重な立言であったことを否定する事は出来ないと、福田説を部分的に取り入れながらもご自身の見解を述べられました。


 吉井氏は倭建命だけに唯一つ例外的に子孫記述がおかれたのか、という疑問に対し、倭建命天皇説の仮説以外には考えられないとし、日本書紀において倭建命系譜の様態や、その系譜が、日本書紀の全体のなかで唯一の例外記述であることなどを考え合わせると、この系譜記述は、かつてある段階で倭建命が天皇として処置せられていた段階があり、その段階ではすでに一代の御記として系譜記述と東西平定の事績とが整備せられており、記紀完成の段階では、倭建命は天皇の系列からはずされ景行皇子として定着するに至るのであるが、なお、倭建命天皇時代の記述の残像が、日本書紀のなかに、幾分その形態とその場所を変えながらも残存してしまったと考えられるとのことです。


 更に倭建命の皇子である仲哀天皇の「タラシナカツヒコ」という和風諡号に注目し、オホタラシヒコ(景行)→ワカタラシヒコ(成務)→タラシナカツヒコ(仲哀)へと、倭建命を外して、現在の皇統記述はタラシヒコの連続で結ばれて行くのであり、仁徳王朝の展開をみると、そこにはかなりナカツヒメの色彩が濃厚にみえ、仁徳以下、雄略天皇までの六天皇は、その半数の三天皇まで、ナカツヒメを名とする女性を母としており、タラシ系の名辞ならびに息長氏の関与がきわめて希薄である事を注目すべきであろうとし、特に倭建命と多くの類似点を有する雄略天皇が、一代・清寧天皇をおくとは言え、顕宗・仁賢・武烈という甚だ実在性の薄弱な三天皇をへだてて、継体王朝の初代であり、強く息長氏が密着する継体天皇系譜に淵源するナカツヒコ・ナカツヒメ系譜の敗北、ならびに倭建命の天皇から皇子への転換の系譜上の推移を考える場合、多くのきわめて意味深い興味と視点を我々に与えるとのことです。


 以上が主な倭建命天皇説で、倭建命の研究自体、今となっては殆ど行われていなそうな現状においては、吉井説が有力なのかと思いますが、「タラシ」系譜と「ナカツヒコ・ナカツヒメ」系譜の対立という吉井説が王朝交代論者や、特に推古天皇以下の女帝をモデルとして、神功皇后の和風諡号につく「タラシ」は舒明天皇に近い時代につくられたものであるという直木孝次郎氏の説⑺の影響下にあることは明らかであり、時代を感じざるを得ません。


 吉井説の根幹にあるのは恐らく、仲哀以前の和風諡号に「タラシ」が付く天皇は七世紀頃に「タラシ」を称する天皇が多かった事から、この頃に創作された天皇であるという反映法(時代の古い記事と新しい記事を比較し、共通点があれば古い記事は新しい記事を反映させた虚構とみる手法。)による発想から来ているのかと思いますが、反映法がしばしば自説に有利に働くために恣意的に利用されてきた問題がある手法と言わざるを得ないことと、「オキナガタラシヒメ」についての記録である神功皇后紀には史実が多く含まれていることは本エッセイで今まで見て来た通りです。そもそも、同時期の百済王については史実を反映した記述を載せながら、肝心な日本の統治者である神功皇后については存在が虚構であるとは考えずらいです。


 かつて井上光貞氏は「帝紀からみた葛城氏」では神功皇后六二年条の他は、いずれも他に検証する拠り所が無いのでソツヒコに関する伝承であろうとみなされていましたが⑻、近年奈良県御所市で行われた南郷遺跡群や秋津遺跡の発掘調査から、神功皇后五年条には単なる伝承としては片付けられない様な新たな考古学的知見が得られている⑼ことも過去の稿で述べた通りです。他にも、神功皇后の実在性を認め得る知見及び私見については、別稿で神功皇后をテーマにした際に取り上げる予定の為、詳しくはそちらをご覧頂ければと思いますが、近年の研究成果では神功皇后こと「オキナガタラシヒメ」の実在性も否定できなくなってきており、「タラシ」云々の反映法を利用した分析が今となっては的外れである事は言うまでもありません。


 それに、仮に「タラシ」が七世紀頃に作成された系譜であるとすれば、対立する「ナカツヒコ・ナカツヒメ」系譜も当然同時期に作成されたと考えられると思いますが、倭建命の伝承の原型が遅くても『宋書』倭国伝の「祖禰」の描写から五世紀後半に作成されたものであることが想定され、同時期の資料である『稲荷山古墳鉄剣銘文』ではオホヒコからヲワケの臣に到る系譜が記録されていたことから、この頃には既に天皇家にも帝紀的な系譜の記事が作られていたことが想定されます。つまり七世紀に創作された「タラシ」系譜と「ナカツヒコ・ナカツヒメ」系譜の対立とみることは出来ません。


 寧ろ、福田氏の天皇両立説の方が妥当かと思われますし、英雄時代的な背景にも沿う様に思えますが、風土記以外で倭建が天皇を称している文献が無い現状では、裏付ける根拠が薄弱であると言わざるを得ません。



◇結論

 実在・非実在説はとにかくとして、各説で見て来た通り、古くは倭建を天皇とみなしてきたことは間違えなさそうです。これは歴代天皇に和風諡号が制定された時にヤマトタケルの名が贈られたという私見と広義で矛盾しません。


 但し、天皇の系譜から外された理由として想定される説としては、過去には有力な仮説だったと思われる吉井説は、反映法や王朝交代説を意識した、今となっては時代遅れの的外れなものであり、福田説も風土記以外の裏付けがなく、根拠が弱いと言わざるを得ません。個人的には意外と、天皇はスメラミコトという語にあてたものとし、必ずしも「天皇」という意味でなかったのであろうとする松岡説が妥当なのかとも思いますが確証はなく、結局のところ、これらの説ではヤマトタケルが天皇として語られなかった理由は分かりませんでした。


 ですが、次稿では何故ヤマトタケルが天皇になれなかったのか、同じく「タケル」の名を冠し、よく似た存在として語られるオホハツセワカタケル(雄略天皇)と比較し検討した結果、理由がハッキリとわかりました。それは識者にありがちな妙に回りくどく、ましてや露骨に偏向的な思想を紛れ込ませた解釈をせず、素朴な上代人が読んでいた事を意識して、原文を率直に読めば分かるようなシンプルな理由でした。ヒントは現代まで続く、天皇家の存在意義であり、これが。久々に会心の内容かと思いますので、是非とも次稿もお付き合い下されば幸いです。




◇参考文献

⑴『風土記』武田祐吉 岩波文庫 318頁

「阿波の國 勝閒の井」


⑵『標註古風土記』粟田寛 大日本図書 39-40頁

「多珂群 飽田村」

https://dl.ndl.go.jp/pid/993215/1/29


⑶『風土記』吉野裕 訳 東洋文庫145 平凡社 42頁

注五七「大橘比売」


⑷『常陸国風土記物語』松岡静雄 刀江書院 110頁

「四、開拓統治」


⑸『古代語文ノート』福田良輔 南雲堂桜風社 329-340頁

「倭建の命は天皇か -古事記の用字法に即して-」


⑹『天皇の系譜と神話2』吉井巌 塙書房 298-305頁

「十一 倭建命天皇説に加える一微証」


⑺『日本古代の氏族と天皇』直木孝次郎 壇書房 153-172頁

「神功皇后伝説の成立」


⑻『古事記大成 4 歴史考古篇』坂本太郎 編 平凡社 176-181頁

「帝紀からみた葛城氏」井上光貞


⑼『古代豪族葛城氏と大古墳』小笠原好彦 吉川弘文館 12頁

「一 実在した葛城襲津彦 葛城地域の考古学的知見」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る