神功皇后

神功皇后は実在したか?

 本稿ではコメントでもよく名前があげられる神功皇后について取り上げてみたいと思います。津田左右吉氏の研究を基に、戦後の歴史学では神功皇后の実在性について否定的に捉えられてきましたが、近年ではこうした風潮も変わりつつあるようです。先ずは神功皇后の記事の中で史実性がありそうなものを取り上げてみます。



◇神功皇后紀の中で史実性を認め得る記事。


⑴『日本書紀』巻九神功皇后摂政前紀

氣長足姫尊。稚日本根子彦太日日天皇之曾孫。氣長宿禰王之女也。母曰葛城高顙媛。


(氣長足姫尊おきながたらしひめのみことは、稚日本わかやまと根子ねこ彦太ひこふと日日ひひ天皇の曾孫ひひこ氣長宿禰おきながのすくねのおほきみむすめなり。いろは葛城高顙媛かつらぎのたかぬかひめと曰す。)



⑵『日本書紀』巻九神功皇后摂政五年(乙酉二〇五)春三月癸卯朔 己酉七日

五年春三月癸卯朔 己酉。新羅王遣汗禮斯伐。毛麻利叱智。富羅母智等朝貢。仍有返先質微叱許智伐旱之情。是以誂許智伐旱而紿之曰。使者汗禮斯伐。毛麻利叱智等告臣曰。我王以坐臣久不還而悉沒妻子爲孥。冀蹔還本土。知虚實而請焉。皇太后則聽之。因以副葛城襲津彦而遣之。共到對馬宿于鋤海水門。時新羅使者毛麻利叱智等。竊分船及水手。載微叱旱岐令逃於新羅。乃造蒭靈置微叱許智之床。詳爲病者。告襲津彦曰。微叱許智忽病之將死。襲津彦使人。令看病者。即知欺而捉新羅使者三人。納檻中以火焚而殺。乃詣新羅。次于蹈鞴津。拔草羅城還之。是時俘人等。今桑原。佐糜。高宮。忍海。凡四邑漢人等之始祖也。


(五年春 三月やよひの癸卯みづのとのうのついたち己酉つちのとのとりのひ新羅しらきのこきし汗禮斯伐うれしはつ毛麻利叱智もまりしち富羅母智ふらもち等を遣してみかどたてまつる。仍りて先のむかはり微叱許智みしこち伐旱ほつかむを返したまはらむ情有り。是を以て許智こち伐旱ほつかむあとらへて紿かしめて曰く、使者つかひ汗禮斯うれしはつ毛麻利叱智もまりしち等、やつかれに告げていへらく、「我がこきし臣が久しく還らざるに以坐りて、ふつく妻子めこをさめてつかさやつこと爲す。ねがはくはしばら本土くにまかりかへりて虚實いつはりまことを知りてまをさむとまをさしむ」といへり。皇太后則ち聽したまふ。因りて以て葛城襲津彦かつらぎのそつひこを副へてまたす。共に對馬つしまに到りて鋤海さひのうみの水門みなとに宿る。時に新羅の使者つかひ毛麻利叱智等もまりしちらひそかに船及び水手かこを分ちて、微叱旱岐みしかむきを載せて新羅に逃れしむ。乃ちくさひとかたを造り微叱許智みしこちの床に置き。いつはりて病する者のまねにして、襲津彦に告げていはく、「微叱許智みしこちたちまちに病みて將に死なむとす」といふ。襲津そつひこ人を使つかはして病者やまひするものを看しむ。即ちあざむかるるを知りて新羅の使者三人つかひみたりとらへて、うなやの中にめて、火を以てきて殺しつ。乃ち新羅に詣りて、蹈鞴津たたらのつ次りて、草羅城さはらのさしを拔きて還る。是の時のとりともは今の桑原くははら佐糜さび高宮たかみた忍海おしうみすべ四邑よつのむら漢人あやひと等がはじめのおやなり。)



⑶『日本書紀』巻九神功皇后摂政五十二年九月 丙子十日

五十二年秋九月丁卯朔丙子。久氐等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。七子鏡一面。及種種重寶。仍啓曰。臣國以西有水源。出自谷那鐵山。其邈七日行之不及。當飮是水。便取是山鐵。以永奉聖朝。乃謂孫枕流王曰。今我所通。海東貴國。是天所啓。是以垂天恩。割海西而賜我。由是國基永固。汝當善脩和好。聚歛土物。奉貢不絶雖死何恨。自是後。毎年相續朝貢焉。


(五十二年 秋九月あきながつき丁卯ひのとのうのついたち丙子ひのえねのひてい熊長彦くまながひこしたがまヰけり。則ちななさやたち一口ひとつななつ子のかがみ一面ひとつ。及び種種くさぐさ重寶たからたてまつる。仍てまうしまうさく、「やつこくに以西にしのかたかはうなかみ有り。こくげつむれより出ず。其のとほきこと七日行て及ばず。まさに是の水を飮みて、便ち是のむれかねを取りて、以て永くひじりのみかどに奉るべし」とまうす。すなはうまとむわうに謂りていはく、「今我通かよふ所、海の東のかしこきくには、是れあめたまふ所。是を以て、天恩みうつくしびを垂て、海の西を割て我にたま」へり。是の由を國ももとゐとこしへかたし。いましまさに善く和好よしびをさめて、くにつもの聚歛つみあつめ、奉貢みつきたてまつるを絶えずば、死すといふとも何のうらみかあらむ」といふ。是より後に、毎年としごとあひぎて朝貢みつきたてまつる。)



⑷『日本書紀』巻九神功皇后摂政五五年(乙亥二五五)

五十五年。百濟肖古王薨。


(五十五年。百濟のせうわうみうす。)



⑸『日本書紀』巻九神功皇后摂政六二年(庚午二六二)二月

六十二年。新羅不朝。即年遣襲津彦撃新羅。〈百濟記云。壬午年。新羅不奉貴國。貴國遣沙至比跪令討之。新羅人莊餝美女二人。迎誘於津。沙至比跪受其美女。反伐加羅國。加羅國王己本旱岐。及兒百久至。阿首至。國沙利。伊羅麻酒。爾汶至等。將其人民。來奔百濟。百濟厚遇之。加羅國王妹既殿至。向大倭啓云。天皇遣沙至比跪。以討新羅。而納新羅美女捨而不討。反滅我國。兄弟人民皆爲流沈。不任憂思。故以來啓。天皇大怒。既遣木羅斤資。領兵衆來集加羅。復其社稷。一云。沙至比跪知天皇怒。不敢公還。乃自竄伏。其妹有幸於皇宮者。比跪密遣使人間天皇怒解不。妹乃託夢言。今夜夢。見沙至比跪。天皇大怒云。比跪何敢來。妹以皇言報之。比跪知不兔。入石穴而死也。〉


(六十二年。新羅しらきまうでこず。即の年に襲津そつひこを遣して新羅を撃つ。〈百濟記云く。壬午の年、新羅しらき貴國かしこきくにたてまつらず。貴國かしこきくに沙至比跪さちひこを遣して討たしむ。新羅人しらきひと美女をみな二人を餝莊かざり、とまりに迎へをこづる。沙至比跪さちひこ其の美女を受けて、反て加羅國からのくにつ。加羅國からのくにのこきし己本旱こほかむ及びひゃく久至くちしゅこく沙利さり伊羅麻いらましゅ爾汶にもむち等、其のおもむたからを將ゐて、百濟に來奔ぐ。百濟厚く遇ふ。加羅國の王のいろも殿でん大倭やまとに向ひてまうして云ふ、「天皇沙至比跪を遣して以て新羅を討つ。しかるを新羅の美女を納れて、捨てて討ず、反て我が國を滅ぼす。兄弟いろえいろと人民ひとくさみな流沈さすらへぬ。憂思うれへおもふしのびず、故に以てきたまうす」とまうす。天皇大にみいかりて、既ちもくこんを遣して、いくさびとひきゐて來り、加羅に集ひて、其の社稷くにを復したまふ。一に云ふ、沙至比跪天皇のみいかりたまふを知りて、敢てあらはに還らず。乃ち自ら竄伏かくる。其のいろも皇宮みかどつかまつる者有り。比跪密に使人つかひを遣して天皇のみいかり解くるやいなやを間はしむ、妹乃ちいめけて言す、「今夜きぞいめに沙至比跪を見る」とまうす。天皇大に怒りて云はく、「比跪何ぞ敢て來る」とのたまふ。いろも皇言おほみことを以てかへりことす。比跪ひこゆるさらざることを知りて、石穴いはつぼに入て死すなり。〉)


*其妹有幸於皇宮者……『古事記』応神天皇段にみえる応神天皇のキサキで、伊奢能麻和迦いざのまわかみこ葛城かつらぎの野伊呂売のいろめと思われる。建内宿禰後継系譜に見られる葛城長江曾津毘古(葛城襲津彦)の姉妹・怒能伊呂比売ののいろひめか。



◇戦後の神功非実在説の元となった津田左右吉氏の説。

 上記文献の説明の前に、神功非実在説の元となった過去の稿「専門家でも間違えやすい和風諡号と尊号」でも取り上げた、津田左右吉氏の説をおさらいしますと、(神武天皇から)仲哀天皇までが堂々とした美称尊称が加えられているのに対し、応神・仁徳・履中になると美称尊称が無くなり、安閑・宣化・欽明の時代以後には、かえって仲哀までのと同じ様な尊称が史上に現れると論じ、婉曲的な表現により、仲哀以前の天皇が後の時代に造作された架空の存在であることを説きました。


 初代天皇・神武が日本書紀では「神日本磐余彦天皇かむやまといわれびこすめらみこと」で、これは明らかに大袈裟な美称尊称が加えられているので和風諡号っぽい。


 15代天皇・応神の「譽田天皇ほむだすめらみこと」はシンプルなので実在の天皇の尊号っぽい。


 27代天皇・安閑は「広国押武金日天皇ひろくにおしたけかなひすめらみこと」とまた以前の様に大袈裟になるので和風諡号っぽいという解釈です。


 つまり、初代天皇・神武が日本書紀では「神日本磐余彦天皇かむやまといわれびこすめらみこと」で、これは明らかに大袈裟な美称尊称が加えられているので和風諡号っぽい。


 15代天皇・応神の「譽田天皇ほむだすめらみこと」はシンプルなので実在の天皇の尊号っぽい。


 27代天皇・安閑は「広国押武金日天皇ひろくにおしたけかなひすめらみこと」とまた以前の様に大袈裟になるので和風諡号っぽいという解釈です。


 概して言うと、仲哀天皇と応神天皇とのあたりに於いて一界線を有する事を示すと津田氏は主張し、仲哀天皇以前の御歴代については全く其の時代を知る事が出来ない⑹、つまり、仲哀以前の天皇については存在が疑わしいという認識による記紀の記述の批判は戦後の歴史学者に強い影響を与えました。


 又、皇后の御行動として語られているこの物語の種々の説話が、何れもそのまま事実として認め難いものであるということ、この物語の基礎となった歴史的事実のあることは明らかであるとし、物語そのままに事実の記録とは見られないとすれば、それは何の時代に如何にして形成されたのかを分析され、仲哀紀で新羅を宝の国、金銀の国(仲哀天皇紀八年九月 己卯五日の原文「眼炎之金銀彩色多在其國。是謂栲衾新羅國焉」)としているのも、新羅の文化が発達して朝貢品が立派になった時代の思想であり、そして新羅に文化の発達がしかけたのは、大体、智證法興二王の治世、即ち六世紀初期、ほぼ継体天皇の御世に当たる頃のことであろうと推測しました。⑺



◇主な神功皇后の非実在説

 こういった津田説を足掛かりにした戦後の研究では、12代天皇・景行が「大足彦忍代別天皇おほたらしひこおしろわけ」13代天皇・成務が「若足彦天皇わかたらしひこすめらみこと」14代仲哀が「足仲彦天皇たらしなかつひこのすめらみこと」であり、次いで仲哀後の神功皇后が「気長足姫尊おきながたらしひめのみこと」で全員「タラシ(ヒコ・ヒメ)」が共通しますが、七世紀の『隋書』では倭国王を「多利思比孤たりしひこ」と称し、その頃の天皇は「タラシヒコ」と呼ぶ習わしがあったらしく、実際に34代天皇・舒明は「息長足日広額天皇おきながたらしひひろぬかのすめらみこと」35代天皇皇極(37代斉明)は「天豐財重日足姬天皇あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと」であり、12代~14代の諸天皇及び神功皇后と共通します。この事から、七世紀前半の天皇の和風諡号が「足彦」が多い事と共通する事から神功や仲哀以前の天皇が後世に創作されたという説が有力視されました⑻。又、神功に関しては凱旋後の事績を含め七世紀の諸女帝、特に筑紫に赴き筑紫の朝倉宮に遷幸し白村江の戦に備えた斉明天皇をモデルとして構成されたという直木孝次郎氏の説⑼が有力視されています。



◇海神の祭儀における母神説

 一方、神功皇后伝説には民間伝承的側面があり、誉田御子出誕は海の女神と天孫たる海童わだつみの出誕に他ならないとし、海表ノ国から凱旋する皇后と海童概念とが融即しており、かくて応神の御代が、母神と御子神の形態で、それがまた皇母の摂政と幼帝との政体という複合形態で開けるのであり、伝説と歴史の接点として理解し得るところであり、上代史は歴史的事実を神話の概念を通して表現し、また時には観念的現象を歴史的に語るという、融即性を特色としており、祭政分離以前の歴史学とでもいおうか。という説を三品彰英氏は唱えました。⑽


 見方としては否定派よりも妥当であると思いますが、「上代史は歴史的事実を神話の概念を通して表現し、また時には観念的現象を歴史的に語る」という主張について、肝心な神功皇后の場合どちらをとるのか、三品氏の主張からはハッキリと見えて来ません。ですが、解説書類を見る限り、これは母神説の主張と取られており、そうであるとすれば後者であると言わざるを得ないでしょうか。


 なお、三品氏によれば、神功皇后が戦陣に臨むことについて、早期文化における戦争行為の呪的宗教性から理解せねばならないとし、神武天皇の大和平定の物語が呪的宗儀の實習や、呪歌の詠唱が主な記述であること、熊野村で大熊との出会いを夢幻裸に神獣に邂逅する、いわゆる守護神霊を求めるアメリカ=インディアン戦士のvision questの光景さながらであり、「遠延る」すなわち昏睡状態に陥ることが交霊状態の客観的説明であることなどを取り上げ、戦争の呪的宗教的側面からすれば、宗教的性能において男子以上にすぐれた女性即ち巫女の戦争における位置は自ずから理解できるとし、卑弥呼や壹與のような巫女の霊威は男王の武力闘争を上にあり、それが国中安定の支配力であったこと、古琉球の国家最高の巫女で国王の姉妹である聞得大君が赤の鎧を召し大刀を佩いて戦陣に臨む姿を讃歌するオモロがあり、いわば「女は戦の魁」であったとし、神功皇后の場合も、天皇が琴を弾き、武内宿禰が沙庭に立って、皇后から神託を聞くことにはじまり、その後渡海の方策まで神教にもとづいていること、そして遠征の帰結に御杖を新羅の国王の門に衝き立て、墨江大神の荒御魂を国を守ります神に為って鎮め祭り還る渡るとあるのを、繰り返された朝鮮の軍事には、これに類する幾多の宗教儀礼が戦陣の間に行い継がれたことを推測なさっています。⑾



◇神功皇后紀の史実性と実在説

 神功皇后紀の妥当性を検討する前に、本エッセイで幾度か触れてきましたが、先ずは最も基本的な手法をおさらいしますと、神功皇后紀の紀年がそのままでは正しくないものの、那珂なかみちの研究⑿により干支二運、つまり一二〇年ずらせば、朝鮮史料と照らし合わせて史実が見受けられるのは過去の稿で触れた通りです。


 具体的に言えば、⑷の記事は『三国史記』巻二十四百済本紀近肖古王条の「近肖古在位三十年薨。即位」⒀と対応し、これが西暦三七五年のことなので、神功皇后摂政五五年、つまり西暦二五五年に一二〇年を足せば史実性が認められ、神功・応神紀の一部記事は同様の手法により、年紀に関してはある程度史実性を見出す事が出来ます。


 例えば、⑶の七枝刀とは現在、石上神宮に実在する七支刀のことであり、七支刀の銘文に書かれている「泰和四年」は近肖古王二十四年、つまり西暦三六九年にあたり、この三年後に日本に七支刀が献上されます。七支刀が七枝である由来に関しては、神功皇后摂政四九年に倭国軍の平定した七国と関係があろうという福山敏男氏の説⒁は過去の稿「七支刀は何故七枝なのか?」を参考にして頂ければと思いますが、その稿で取り上げた神功皇后摂政四九年の記事が西暦三六九年にあたるので、この記事も史実性を認め得るかも知れません。


 なお、応神天皇記に「百済国主照古王。以牡馬壱疋。牝馬壱疋。付阿知吉師以貢上。〈此阿知吉師者。阿直史等之祖。〉亦。貢上横刀及大鏡。(百済くだらの国主こにきしせうわう牡馬をまひとひと阿知吉師あちきしに付けて貢上たてまつりき。〈此の阿知吉師はちきのふみびとが祖。〉亦、横刀及たちとおほかがみとを貢上たてまつりき。)⒂」とあり、神功皇后紀と照らし合わせて、横刀が七支刀であることが明確な為、これを応神天皇の出来事であるという解釈も出来ますが、橋本増吉氏によれば、古事記には元来日本書紀の様に神功皇后の摂政時代なるものを一期として認めていないのであるから、日本書紀の所謂神功皇后摂政時代の出来事は、古事記では則ち応神天皇の御宇として記されるべきことが当然であるという主張⒃は、つまり、古事記においては摂政ではあっても天皇ではない神功統治時代の出来事は応神天皇の御代の出来事であると捉えられていたということであり、即ち七支刀献上は神功皇后時代の出来事であったと解釈すべきでしょう。



 又、かつて井上光貞氏は「帝紀からみた葛城氏」で葛城ソツヒコの所伝に関して、⑸の神功皇后六二年条の他は、いずれも他に検証する拠り所が無いのでソツヒコに関する伝承であろうとみなされていましたが⒄、近年奈良県御所市で行われた南郷遺跡群や秋津遺跡の発掘調査から、⑵の神功皇后五年条には単なる伝承としては片付けられない様な新たな考古学的知見が得られていること⒅も過去の稿で述べた通りです。但し、神功皇后五年条に関しては、干支二運一二〇年ずらして西暦に換算すると三二五年なので、葛城襲津彦がそれほど長生きだったとは考えられないことから、具体的な西暦にあてはめることは出来ないので、内容からみて四世紀後半頃のこととみるべきであろうとも言われています。⒆


 こういった紀年の妥当性だけでは仮に神功皇后紀の史実性はある程度認められても、神功本人の実在迄はみとめられないという声も聞こえてきそうですが、小笠原好彦氏によれば、奈良県磯城郡川西町唐院にある島の山古墳が四世紀後半に築造されたことを想定とし、葛城氏一族出身とみなされる被葬者を記紀に求めると、⑴の記事にある『日本書紀』の神功皇后の母である葛城高顙媛かつらぎたかぬかひめが有力候補とされ、これは神功皇后の意志によって母の出身地の葛城の地に埋葬された可能性も考えられ、島の山古墳の前方部にみる大量の宝器的な石製腕飾類の配列は、葛城氏の出身ながら、社会的に地位が高くなかった母の高顙媛に対し、葬送儀礼を権威づけ、しかも参列者に神功皇后自身がもつ権力を誇示したという見方もあり、神功の記述に関しては旧辞と帝紀を厳密に区別して考えるべきだという考え方から、神功皇后の実在を認め得るという意見も存在します。⒇


 又、神功実在説を唱える平林章仁氏の説(21)を列挙すると


➀稲荷山古墳鉄剣銘文により、五世紀後半の雄略天皇の時代にはオワケノオミが八代にわたる系譜伝承を所有していたという事実から、臣下がそうであるのに、天皇が一族の系譜伝承を保有していなかったとは考えられない。神功皇后の夫である仲哀天皇は雄略天皇から七代前、世代では四代前に過ぎず、雄略天皇の時にはその程度の系譜は確定していた。


➁「帝皇日嗣(帝紀)」や「先代旧辞(本辞)」は天武天皇の時代には文字の記録として存在し、つまり『古事記』に記されている天皇一族の系譜は、その頃すでに固定化しており、要するに息長足広額(欽明)天皇が亡くなる六四一年から天武天皇の世(六七二~六八六年)までの間に、オキナガタラシヒメという皇后像を創作し、書き加えることが可能であったのか、疑問が大きい。


③中国の『隋書』倭国伝の「倭王姓 阿毎あめ、字 多利思比孤たりしひこ、号 阿輩鶏弥あめきみ」とあることも見逃せない。欽明天皇の前、推古天皇の時にはアメノタラシヒコが倭国王の称号として用いられており、推古天皇の時には、タラシヒコ・タラシヒメが天皇や天皇家の男女の称として定着していたのであり、使


④天皇やキサキについての系譜伝承を保有していたのは天皇家だけではなく、各天皇の代に仕え奉ったことを伝える有力氏族や、天皇にキサキを入内じゅだいさせた姻族なども系譜伝承を保有していたに違いなく、そうした仕奉や系譜の伝承を保有することが、氏族がヤマト王権に帰属することの証でもあった。


 特に③に関しては、非実在派も『隋書』倭国伝の記事を根拠にしながらも、、いわば欠落した視点であり、或いは意図的にその事実をみようとしていなかったのか、非実在派が如何に自説に都合の良い解釈をしてきたのかが分かります。この様に外的史料からもハッキリしていることから、タラシ云々を根拠として、欽明天皇、或いは斉明天皇モデル説は完全に否定できます。


 更に私見を付け加えるのであれば、そもそも、同時代の外国の百済王については死に関してまで正確に記録されているのに、肝心な自国の支配者について、ワザワザ創作された人物を挿し込むなどということはあり得るのでしょうか? また、仮に斉明天皇など七世紀の女帝がモデルであるとすれば、何故神功は天皇に即位せず、のままだったのか? かつて、この点について言及した歴史家を寡聞にして知りません。そして、神功皇后は女帝が誕生した七世紀の価値観で改竄されたのであれば、そこはオキナガタラシヒメノと呼んでも差支えが無いはずなのに、わざわざ皇后を称したままであったのは、事実、神功皇后が実在したからではないのか? そんな素朴な疑問が湧いてきます。無論、魚が船を運んだが如きファンタジーを始め、文飾による史実性が疑われる内容が散見されるのは否定できませんが、話が伝説的であることを根拠に、実在性まで否定することは恣意的な拡大解釈としか言いようがありません。偉人で知られる僧侶や武人の何某が腰をかけた場所だの伝説はつきものですが、それが史実ではないとしても、何某の非実在の根拠とはなり得ないのと同じであり、むしろ、その様な伝説の存在が実在を裏付ける可能性を見いだせると考えた方が自然です。もっとも、実在を証明するにはもっと研究が不可欠なのは言うまでもありませんが、今まで見て来た諸説の通り、神功が七世紀頃に創作された人物であるというかつては一般的だった説も信憑性が揺らいでおり、今では時代遅れのものになりつつあるのではないでしょうか?





◇参考文献

⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/88


⑵前掲書

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/93


⑶⑷⑸前掲書

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/96


⑹『古事記及び日本書紀の新研究』津田左右吉 岩波文庫 94-104頁

「総論 五 記紀の記事の時代的差異」

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1918863/1/64


⑺津田、前掲書 139-144頁

「第一章 新羅征討の物語 ― 物語の批判」

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1918863/1/86


⑻『日本書紀 ㈡』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

407-408頁「補注(巻第四)一 尊号と国風諡号」


⑼『日本古代の氏族と天皇』直木孝次郎 壇書房

「神功皇后伝説の成立」


⑽『日本書紀朝鮮関係記事考証 上巻』三品彰英 吉川弘文館 71頁

「神功皇后紀 摂政前紀」


⑾『古事記大成 5巻 神話民俗篇』風巻景次郎・編 平凡社 82-84頁

「古事記と朝鮮 二 伝説と歴史の側面 第六項 神功皇后の新羅遠征物語」三品彰英


⑿『上世年紀考 増補版』那珂通世 著, 三品彰英 増補 養徳社 50-57頁

「第四章 神功・應神の二御代の考」


⒀『朝鮮史 第1編 第1巻』朝鮮史編修会 編 朝鮮総督府

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1147710/1/177


⒁『日本建築史』福山敏男 墨水書房 521頁

「石上神宮七支刀の銘文」


⒂『古事記新講 改修5版』次田潤 著 明治書院

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1920824/1/390


⒃『東洋史上より観たる日本上古史研究 第1 (邪馬台国論考)』橋本増吉 著 大岡山書店 463-464頁

「二六 紀年の硏究」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920176/1/248


⒄『古事記大成 4 歴史考古篇』坂本太郎 編 平凡社 176-181頁

「帝紀からみた葛城氏」井上光貞


⒅『古代豪族葛城氏と大古墳』小笠原好彦 吉川弘文館 12頁

「一 実在した葛城襲津彦 ― 葛城地域の考古学的知見」


⒆『謎の古代豪族 葛城氏』平林章仁 祥伝社新書 33頁

「第一章 葛城氏の誕生 ― 技術者を連れ帰る」


⒇小笠原、前掲書 107-111頁

「五 葛城襲津彦より前に築造された大型首長墳と被葬者 ― 神功皇后は実在したか」


(21)平林、前掲書 39-42頁

「第一章 葛城氏の誕生 ― 神功皇后の実在問題と葛城氏の関係」




◇関連稿

・専門家でも間違えやすい和風諡号と尊号

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452219546845793


・初学者が先ず参考にすべき論文・井上光貞『帝紀からみた葛城氏』

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452219092525207


・七支刀は何故七枝なのか?

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700426381726761

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