七支刀の謎

七支刀は何故七枝なのか?

 前稿で七支刀について少し触れたので、引き続きその事について触れてみたいと思います。


 石上神宮の宝庫には七支刀が納められていますが、これは『日本書紀』の神功皇后五二年条に久氐等が日本の国王に七枝刀を献じたとあり、この七枝刀が石上神宮の七支刀である事は良く知られています。


 ですが、何故七枝に分かれているのかはあまりよく知られていません。武器としてみれば、使い勝手が良いとは思えず、明らかに兵仗(実戦で使う武器)ではなく儀仗(祭祀用の武器)のは確かですが、何故あのような奇妙な形状をしているのか不明です。


 一説によれば神功四九年、荒田別あらたわけ鹿我別かがわけという日本の将軍が百済の将軍・久氐等と共に新羅を攻め、南朝鮮の七国を平定した事と関係があると言われています。以下に『日本書紀』の記事を取り上げてみます。



⑴『日本書紀』巻九神功皇后摂政四九年(己巳二四九)三月

四十九年春三月、以荒田別・鹿我別爲將軍。則與久氐等、共勒兵而度之、至卓淳國、將襲新羅。時或曰、兵衆少之、不可破新羅。更復、奉上沙白・蓋盧、請増軍士。即命木羅斤資・沙沙奴跪。〈是二人、不知其姓人也。但木羅斤資者、百濟將也。〉領精兵、與沙白・蓋盧共遣之。倶集于卓淳、撃新羅而破之。因以、平定比自㶱・南加羅・喙國・安羅・多羅・卓淳・加羅、七國。仍移兵、西廻至古爰津、屠南蠻忱彌多禮、以賜百濟。於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍來會。時比利・辟中・布彌支・半古、四邑自然降服。是以、百濟王父子及荒田別・木羅斤資等、共會意流村。〈今云州流須祇。〉相見欣感。厚禮送遣之。唯千熊長彦與百濟王、至于百濟國、登辟支山盟之。復登古沙山、共居磐石上。時百濟王盟之曰、若敷草爲坐、恐見火燒。且取木爲坐、恐爲水流。故居磐石而盟者、示長遠之不朽者也。是以、自今以後、千秋萬歳、無絶無窮。常稱西蕃、春秋朝貢。則將千熊長彦、至都下厚加禮遇。亦副久氐等而送之。


(四十九年の春三月はるやよひに、荒田別あらたわけ鹿我別かがわけって將軍いくさきみとす。すなは久氐くてい等と、共にいくさととのへてわたりて、卓淳國とくじゅんこくに至りて、まさ新羅しらきを襲はむとす。ときあるひとまうさく、「兵衆少つはものすくなくは、新羅を破るべからず。更復また沙白さはく蓋盧かふろたてまつり上げて、軍士いくさびとを増さむと請へ」とまうす。すなはち木羅斤資もくらこんし沙沙奴跪ささなこ〈 の二人、其の姓を知らざる人なり。ただし木羅斤資のみは、百済のいくさのきみなり。 〉にみことおほせて、精兵ときいくさひきゐて、沙白・蓋盧と共につかはしつ。ともに卓淳につどひて、新羅しらきを撃ち破りつ。りて、比自㶱ひしほ南加羅ありひしのから喙國とくのくに安羅あら多羅たら卓淳とくじゅん加羅から、七つの国を平定ことむく。りていくさうつして、西にしのかためぐりて古奚津こけいのつに至り、南蛮ありしひのからくに忱彌多禮とむたれほふりさき、百濟くだらたまふ。ここに、王肖古こきしせうこ及び王子貴須せしむくゐす亦軍またいくさひきゐて来会まうけり。時に比利ひり辟中へちう布彌支ほむき半古はんこよつむら自然おのづから降服したがひぬ。ここて、百濟くだら王父子こきしかぞこおよ荒田別あらたわけ木羅斤資等もくらこんしら、共に意流村おるすき〈今、云州流須祇つるすきと云ふ。〉相見あひみ欣感おむかしみす。ゐやあつくして送りつかはす。ただ千熊長彦ちくまながひこと百濟の王とのみ、百濟國に至りて、辟支山へきのむれに登りてちかふ。また古沙山こさのむれに登りて、共に磐石いはうへり。時に百濟の王盟こきしちかひてまうさく、「し草をきてゐしきとせば、おそるらくは火に焼かれむことを。且木またきを取りてゐしきとせば、恐るらくは水の為に流されむことを。かれ磐石いはちかふことは、長遠とこしへにしてつじまといふことを示す。ここて、今より以後のち千秋萬歳ちあきよろづよゆる事無くきはまること無いけむ。常に西蕃にしのとなりひつつ、春秋はるあき朝貢みつきたてまつらむ」とまうす。すなはち千熊長彦をて、都下みやこに至りて厚く礼遇ゐやまふことくはふ。また久氐等くていらへて送る。)



・概要

 四十九年の春三月に、荒田別あらたわけ鹿我別かがわけを将軍とした。久氐くてい等と、共に兵を整えて渡航し、卓淳國とくじゅんこくに至り、まさに新羅しらきを襲撃しようとした。その時にある人が言うには、「兵が少なくては、新羅を破ることはできない。沙白さはく蓋盧かふろを送って増兵を請え」と。即ち木羅斤資もくらこんし沙沙奴跪ささなこ〈この二人、其の姓が不明の人である。ただし木羅斤資のみは、百済の将なり。〉に命じて、精兵を率いて、沙白・蓋盧と一緒に遣わされた。ともに卓淳に集まり、新羅しらきを撃ち破った。そして、比自㶱ひしほ南加羅ありひしのから喙國とくのくに安羅あら多羅たら卓淳とくじゅん加羅から、七つの国を平定した。いくさうつして、西方にめぐり、古奚津こけいのつに至り、南蛮の忱彌多禮とむたれ(耽羅=済州島)を滅ぼして、百済に与えた。(百済王の)王肖古こきしせうこ及び王子貴須せしむくゐすは、また兵を率いて会いに来た。この時に比利ひり辟中へちう布彌支ほむき半古はんこよつむらが自然に降服した。こうして、百済王父子と荒田別あらたわけ木羅斤資等もくらこんしら、共に意流村おるすき〈今、云州流須祇つるすきと言う。〉で相見て喜んだ。礼を厚くして送った。千熊長彦ちくまながひこと百済の王は百済國に行き、辟支山へきのむれに登って誓った。また古沙山こさのむれに登って、共に磐石いはうへに居り、その時に百済の王が誓いを立てて、「もし草を敷いて座われば、草はいつか火に焼かれるかもしれない。また木をとって座れば、いつか水の為に流されるかもしれない。これ、磐石の上に居て誓う事は、永遠に朽ちないという事である。是を以て、今より以降、千秋万歳に耐える事は無いでしょう。常に西蕃と称えて、春秋はるあきに朝貢しましょう」と言った。千熊長彦を連れて、都に至り、厚く礼遇した。また久氐等くていらを付き添わして送った。



・解説

 書紀の紀年では西暦二四九年に当たりますが、以前の稿で取り上げましたように神功・応神朝の記事は干支二運さげるのが通説で⑵、三六九年の出来事と解釈されます。


 この時、久氐等と共に日本軍は海を渡り、新羅を攻め、南朝鮮の七つの国を平定しました。この後、忱弥多礼とむたれ(隋書や『日本書紀』の別の個所による耽羅=済州島)を伐って百済に与えたので肖古王と太子貴須は来会し、日本に長く忠実である事を誓ったと書かれています。


 その三年後、日本書紀では久氐等が七枝刀を献じたとあります。





⑶『日本書紀』巻九神功皇后摂政五十二年九月 丙子十日

五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口・七子鏡一面、及種種重寶。仍啓曰、臣國以西有水。源出自谷那鐵山。其邈七日行之不及。當飮是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。乃謂孫枕流王曰、今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩、割海西而賜我。由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。自是後、毎年相續朝貢焉。


(五十二年の秋九月あきながつき丁卯ひのとのう朔丙子ついたちひのえのねのひに、久氐等、千熊長彦に従ひてまうけり。すなは七枝刀一口ななつさやのたちひとつ七子鏡一面ななつこのかがみひとつ、及び種種くさぐさ重宝たからたてまつる。仍りてまうしてまうさく、「やつこが国の西にしのかた水有かはあり。うなかみ谷那こくな鉄山かねのむれよりづ。其のとほきこと七日行なぬかゆきていたらず。まさに是の水を飲み、便すでに是のむれかねを取りて、ひたぶる聖朝ひじりのみかどたてまつらむ」とまうす。すなは孫枕流王うまとむるわうかたりてはく、「今我がかよふ所の、わたひむがし貴国かしこきくには、是天これあめひらきたまふ所なり。ここを以て、天恩みうつくしびを垂れて、わたの西をきて我に賜へり。これりて、国の基永もとゐとこしへかたし。いまし当善はたよ和好よしびをさめ、土物くにつもの聚歛つみあつめて、奉貢みつぎたてまつることは絶えずは、死ぬといふとも何の恨みかあらむ」といふ。これより後、年毎としごと相続あひつぎて朝貢みつきたてまつる。)


・概略

 五十二年秋九月十一日。千熊長彦に従ってやってきた久氐等が七枝刀一口ななつさやのたちひとつ七子鏡一面ななつこのかがみひとつ、及び種種の重宝を奉り、「わが国の西に川があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠い事は七日間では到着できません。まさにこの水を飲んで、この山の鉄を取って、永久に聖朝に奉ります」と申し上げた。そして孫枕流王うまとむるわうに語って、「今我が通うところに、海の東の貴国日本は、天の開かれた国である。だから天恩を垂れて、海の西の地を割譲して我が国に賜った。これにより国の基盤は固められた。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上する事を絶やさなければ、死んでも何の悔いも無い」と言い。是以降、毎年相次いで朝貢した。



・解説

 神功皇后摂政五十二年は西暦二五二年に当たりますが、これも干支二運さげて西暦三七二年の出来事となります。


 『古事記』にも中巻の応神天皇条に百済の朝貢記事があり「亦貢上横刀及大鏡又科賜百濟國」とあり、この横刀が神功皇后紀の七枝刀と同じであると解釈されています。


 献上された時期の為政者が記紀の間で異なる為、七支刀が献上されたのが神功の時代なのか、応神の時代なのか、どちらの記事が正しいのか不明ですが、「七枝刀」と具体的な表記がある事と、神功55年(西暦255年)に百済の(近)肖古王が崩じる記事があり、これは『三国史記』に近肖古王30年(乙亥年、西暦375年)の冬11月に崩じた記事があるので、干支二運で120年後の出来事で一致しており、『日本書紀』の方が正しく、神功の時代に献上されたものであると思います。橋本増吉氏は、古事記には元来日本書紀の様に神功皇后の摂政時代なるものを一期として認めていないのであるから、日本書紀の所謂神功皇后摂政時代の出来事は、古事記では則ち応神天皇の御宇として記されるべきことが当然であると述べています。⑷



⑸七支刀銘文

 銘文には判読が不可能な部分がありますが、明治初年以来、管政友・星野恒・福山敏男・榧本亀次郎らの研究が発表され、福山氏が識者の意見を取り入れながら幾度か修正を重ね、以下の解読がされています。


[表]

泰和四年■《四?》月十六日丙午正陽。造百錬■《鋼?》七支刀。■辟百兵。宜供侯王。■■■■作。

(以上表、一行)


[裏]

先世以来。未有此刃、百 ?世子?。奇生聖音。故為倭王旨造。傅示■世

(以上裏、一行)


・福山敏男による解釈

表「泰和四年(東晋海西公の大和四年、三六九年)某(正か四か五)月十一日の純陽日中の時に、百錬の鉄の七支刀を造る。以って百兵を辟除し、侯王の供用とするのに宜しい。某(あるいは工房)これを作る」


裏「先世以来未だ見なかったこの様な刀を、百済王と太子とは、生命を御恩に依存しているが故に、倭王の御旨によって造った。願わくはこの刀の永く後世伝わる様に」



 泰和四年は近肖古王二十四年にあたり、『日本書紀』の⑴の記事と同じ時期に該当します。この三年後、七支刀が献上されます。


 福山氏は、この七支刀などは先年⑴の倭国軍の活動を感謝し記念したものらしい。七という数は倭国軍の平定した七国と関係あろうか。と主張されています。⑹


 七支刀銘文の解釈は多数あり、史実性よりもイデオロギー的な問題で都合よく捻じ曲げた解釈も散見されます。中には百済が倭王に下賜したなどと言うトンデモ解釈も存在するようですが、当時の百済が九州の半分程度しか支配領域が無く、高句麗とも鎬を削っており倭国に頼らざるを得なかった情勢や、銘文作成から僅か22年後に倭国に服属させられると言う広開土王碑文の内容を考慮すれば、こういった解釈に無理があるのは明白です。


 それよりも⑴の七国を平定し、忱彌多禮とむたれを百済に与えたという経緯を考えると、七支刀に関連するという説も説得力がありますし、⑴の記事の史実性の高さを裏付ける物であるとも言えるでしょう。



□参考文献

⑴『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

505・178頁

⑵『上世年紀考 増補版』那珂通世 著, 三品彰英 増補 養徳社 50-57頁

「第四章 神功・應神の二御代の考」

⑶『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 505・184頁

⑷『東洋史上より観たる日本上古史研究 第1 (邪馬台国論考)』橋本増吉 著 大岡山書店 463-464頁

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920176/1/248

⑸『日本建築史』福山敏男 墨水書房 540頁

「石上神宮七支刀の銘文 再補」

⑹福山、前掲書 521頁

「石上神宮七支刀の銘文」

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