『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(2)伝承の時代。武内宿禰
◇伝承の時代・武内宿禰
『前賢故実. 巻之1』より武内宿禰の肖像画
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(1)巻七景行天皇五一年(辛酉一二一)八月
秋八月己酉朔壬子、立稚足彦尊爲皇太子。是日命武内宿禰爲棟梁之臣。
(
(2)巻七成務天皇三年(癸酉一三三)正月
三年春正月癸酉朔己卯、以武内宿禰爲大臣也。初、天皇與武内宿禰同日生之。故、有異寵焉。
(三年の春正月の
・解説
葛城・平群・巨勢・蘇我など大臣の一族の祖である武内宿禰の伝承です。
(1)は稚足彦尊(成務天皇)を皇太子として立てた日、武内宿禰を「
以下に武内宿禰に関する説話を幾つか取り上げてみます。
(3)巻八仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)二月
九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身、而明日崩。時、年五十二。即知。不用神言而早崩。〈一云、天皇、親伐熊襲中賊矢而崩也。〉於是皇后及大臣武内宿禰。匿天皇之喪。不令知天下。則皇后詔大臣及中臣烏賊津連。大三輪大友主君。物部膽咋連。大伴武以連曰、今天下未知天皇之崩。若百姓知之有懈怠者乎。則命四大夫、領百寮令守宮中。竊收天皇之屍。付武内宿禰。以從海路遷冗門。而殯于豐浦宮。爲无火殯斂。〈无火殯斂。此謂褒那之阿餓利。〉甲子。大臣武内宿禰自穴門還之。復奏於皇后。
(九年の
〈〉=原文注
(4)巻九神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)三月壬申
三月壬申朔、皇后選吉日入、齋宮、親爲神主、則命武内宿禰令撫琴。喚中臣烏賊津使主爲審神者、因以千繒高繒置琴頭尾、而請曰。
(
(5)巻十一仁徳天皇五十年(壬戌三六二)三月
五十年春三月壬辰朔丙申、河内人奏言。於茨田堤、鴈産之。即日、遣使令視。曰。既實也。天皇、於是歌以問武内宿禰曰。多莽耆破屡。宇知能阿曾。儺虚曾破。豫能等保臂等。儺虚曾波。區珥能那餓臂等。阿耆豆辭莽。揶莽等能區珥珥。箇利古武等。儺波企箇輸揶。武内宿禰答歌曰、夜輸瀰始之。和我於朋枳瀰波。于陪儺于陪儺。和例烏斗波輸儺。阿企菟辭摩。揶莽等能倶珥珥。箇利古武等。和例破枳箇儒。
(五十年の
たまきはる 内の
武内宿禰、
やすみしし 我が大君は
・解説
日本書紀にある武内宿禰の伝承は主に
①大臣・近侍の臣として忠実に奉仕する話
②神事に関わる
③稀有な長寿の人である話
の3つのタイプで構成されており、(3)は①、(4)は②、(5)は③に当て嵌まります。
(3)は仲哀天皇九年二月五日、仲哀天皇は急に病気になり亡くなられた際、皇后と大臣武内宿禰は天皇の喪を隠して天下に知らせませんでした。皇后は大臣と四人の大夫に詔して、今天下の人は天皇が天皇が崩御した事を知らず、人民がこの事を知ったら気が緩むかもしれないと言い、四人の大夫に命じて百寮を率いて宮中を守らせ、天皇の遺骸を収めて、武内宿禰に任せ、海路から穴門に移し、豊浦宮で灯火を炊かないで火葬し、二十二日に武内宿禰が穴門から戻って皇后に報告したという内容です。
(4)は仲哀天皇九年三月一日、皇后が吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主になると、武内宿禰に琴を弾かせ、
(5)は河内国の人から「
朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。
あなたこそ国の第一の長生きだ。だから尋ねるのだが、
この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。
武内宿禰は返し歌で答えた。
我が大君が、私にお尋ねになるのはもっともな事ですが、
倭の国では雁が産卵するという事は、私は聞いておりません。
現代人の感覚だと「そんな事言われてもわたしゃ聞いた事無いよ」という返事で話が切られており、わざわざ歌にする必要があるのか? そもそも記事にする必要があるのか? と思うのですが、この歌に関しては古事記にも似たやり取り(微妙に歌が違いますが)があり、この後に武内宿禰は「あなた様の御子たちが 世の果てまで治めると 雁は卵を産んだのでございましょう」という意味の歌を返す事で物語として成り立つ形になっています。
持論ですが、この歌を見ると、津田左右吉等が唱える様な7世紀に創作された人物では無く、やはり旧辞には武内宿禰の伝承があって、古事記では少し内容を修正して片歌を追記する事で意味が通じる様にしているのに対し、日本書紀ではより旧辞原文に近い内容をそのまま載せて、意味不明な話の切り方をしているのかと思いました。
武内宿禰の初出である景行三年からこの記事迄二百八十九年を数え、因幡國風土記では「御年三百六十余歳」とされるなど長寿の人物であるとされました。故に伝説的色彩が強く、架空の人物とみられる原因の一つにもなっています。
個人的には武内宿禰は上記に述べましたように記紀が参考にした旧辞には既にその名があり、古くから宮廷の伝承ではその存在を伝えられていた可能性はありますが、だからと言って実在の人物とは言い難いと言わざるを得ません。
但し、子である葛城襲津彦は実在性が高い人物なので、その親が既にそれなりの立場を築いており、その人物をモデルに葛城氏の全盛期に神格化され、それは本来旧辞の原型をとどめた(5)の様な素朴な伝承だったのが、古事記で見られるような修正が重ねられ、今日我々がイメージする武内宿禰という人物が創作されたのかと思います。
2009年から発掘調査が進められている秋津遺跡は梁行七メートル以上の大型なものを含む掘立柱建物を囲む四世紀代前半の大規模な板塀状の方形区画遺構が七基も出土しましたが、その周囲からは多数の竪穴式住居跡の他、韓式系をはじめ東海・北海・山陰・東部瀬戸内地域の土器・須恵器・製塩土器・鞴羽口・鉄滓・銅鏃・馬歯なども出土し、出土した土器の示す地域が葛城氏が掌握した水運・海運網に関わる事や、この秋津遺跡や二〇〇〇年に発掘された鴨都波一号の調査結果は、葛城氏の発祥と対外活動を四世紀前半に遡るという説も出てきています。(6)
景行天皇紀三年二月条に武内宿禰の父である屋主忍男武雄心命が派遣され、阿備の柏原で神祇祭祀を行い、そこで九年間留まり住み、紀氏の遠祖である
*参考文献
(1)『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫
483・108ページ
(2)『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫
486・116ページ
(3)『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫
492・134ページ
(4)『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫
493・138ページ
(5)『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫
531・268ページ
(6)『謎の古代豪族 葛城氏』平林章仁 祥伝新書 266~268ページ
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