『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(1)伝承の時代。物部十千根大連

◇伝承の時代・物部十千根大連


(1)巻六垂仁天皇二六年(丁巳前四)八月 庚辰三日

廿六年秋八月戊寅朔庚辰、天皇、勅物部十千根大連曰、屡遣使者於出雲國、雖検校其國之神寶、無分明申言者。汝親行干出雲、宜検校定。則十千根大連、校定神寶、而分明奏言之。仍令掌神寶也。


(二十六年の秋八月の戊寅つちのえとら朔庚辰ついたちかのえたつのひに、天皇、物部十千根大連もののべのとをちねのおほむらじみことのりしていはく、「屡使者しばしばつかひを出雲國につかはして、其の国の神宝を検校かむがへしむといへども、分明わきわきしく申言もうひとも無し。汝親いましみずから出雲にまかりて、検校かむがさだむべし」とのたまふ。すなはち十千根大連、神宝をかむがさだめて、分明わきわきしく奏言まうす。りて神宝をつかさどらしむ。)

 


(2)巻六垂仁天皇八七年(戊午五八)二月 辛卯五日

八十七年春二月丁亥朔辛卯、五十瓊敷命、謂妹大中姫曰、我老也。不能掌神寶。自今以後、必汝主焉。大中姫命辭曰。吾手弱女人也。何能登天神庫耶。〈神庫、此云保玖羅。〉五十瓊敷命曰、神庫雖高、我能爲神庫造梯。豈煩登庫乎。故諺曰神之神庫隨樹梯之。此其縁也。然遂大中姫命、授物部十千根大連而令治。故、物部連等至于今治石上神寶。是其縁也。


(八十七年の春二月はるきさらぎ丁亥ひのとのゐ朔辛卯ついたちのかのうのひに、五十瓊敷命いしきのみこと妹大中姫いろもおほなかつひめかたりていはく、「我は老いたり。神宝をつかさどることあたはず。今より以後のちは、かなら汝主いましつかさどれ」といふ。大中姫命 いなびてまうさく。「われ手弱女人たをやめなり。何ぞ天神庫あめのほくらに登らむ。〈神庫、これをは保玖羅ほくらと云ふ。〉五十瓊敷命の曰はく、「神庫高しといへども、我能われよく神庫の為にはしを造てむ。豈庫あにほくらに登るにわづらはむや」といふ。かれことわざいはく、「天の神倉ほくら樹梯はしだてまにまに」といふは、此其これそことのもとなり。しかうしてつひに大中姫命、物部十千根大連もののべのとをちねのおほむらじさづけて治めしむ。故、物部連等もののべのむらじら、今に至るまでに、石上いそかみ神宝かむたからを治むるは、是其のことのもとなり。)


〈〉=本文注


・解説

 (1)は物部十千根大連が出雲の国の神宝を「検校」して定め、「分明」に報告する事により、その神宝を管理する事になったとあります。この記事が日本書紀で見られる「大連」の一番最初の用例です。


 (2)は古代の武器庫的な役割を果たした石上神宮の縁起譚で、五十瓊敷命が自分は年を取ったから神宝の管理を大中姫命に頼みましたが、自分がか弱い女であり、高い宝庫に登れない事を理由に大中姫命が辞退したところ、五十瓊敷命が宝庫に梯子を造るから難しいことはないと言って尚も大中姫命に頼み、「天の神倉ほくら樹梯はしだてのままに」という諺はこれが元で、この神倉の管理を物部十千根大連に授けて治めさせた。物部連が石上神宮の神宝を治めるのはその為という内容です。


 (1)と(2)のいずれも神宝に関わる説話で物部氏が管掌者的な役割を担った一族である事を物語る説話でありますが、(2)について『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』(雄山閣)の篠川賢氏によると、

(3)「『日本書紀』編纂段階の作文、すなわち石上麻呂が台頭し、天皇の奉斎する石上神宮の祭祀に深く関わるようになった天武・持統以降の作文」とのことです。


 また、(2)と同様の内容を乗せる古事記の記事で十千根の名が見られない事、垂仁二十五年二月甲子条に「五大夫いつとりのまえつきみ」の一人として「物部連十千根」が名を連ねていますが、阿部臣・和珥臣・中臣連・物部連・大伴連という構成が和同元年(708年)3月に任命された議政官の氏族構成と一致しており、和同元年以降に作成された可能性が高く、これらの事から十千根が実在の人物と見られて居ないのが通説の様です。参考までに件の『日本書紀』と『続日本紀』の記事を以下に載せます。


(4)『日本書紀』巻六垂仁天皇二五年(丙申前五)二月 甲子八日

廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠祖武渟川別。和珥臣遠祖彦國。中臣連遠祖大鹿嶋。物部連遠祖十千根。大伴連遠祖武日、五大夫曰、(以下略)


(5)『続日本紀』巻四和銅元年(七〇八)三月 丙午十三日

丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。<1>右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。<2>大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。<3>正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。(以下略)


 <1>~<3>は著者追記。<1>石上氏は物部氏の後裔。<2>藤原氏は中臣氏の後裔。<3>小野氏は和珥氏の後裔。故に2つの記事の氏族は共通する事になります。


 また、石上神宮の創立時期についても『先代旧事本紀』では崇神朝、『新撰姓氏録』では仁徳朝と詳らかでなく、それすら分からずに石上神宮の伝承に関わる物部十千根の存在を立証するのは困難であると言わざるを得ません。


*追記

 本稿においては、物部十千根の存在は虚構であるという結論を出しましたが、大和王権が出雲国を屈服させるために物部氏が関わっていた事は『出雲国風土記』にその痕跡がみられるため、必ずしも否定できません。詳細は大分先の稿になりますが、以下の稿をご覧ください。


・「出雲の国譲りは史実か?」

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330647822297287


 又、⑷と⑸の記事の共通性から、物部十千根等五大夫が和同元年以降に作成されたという説に関しても


⑷の➀阿倍➁和珥③中臣④物部⑤大伴

⑸の➀中臣➁石上(物部)③藤原(中臣)④大伴⑤小野(和珥)⑥阿倍


と⑷と⑸記事で氏族の順位が違う事から、必ずしも創作とばかりは言い切れないという見方も出来そうです。




*参考文献

(1)『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

464・40・42ページ


(2)『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

466・467・50ページ


(3)『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』 篠川賢 雄山閣 127ページ


(4)『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 463ページ


(5)『国史大系. 第2巻 続日本紀』経済雑誌社 編(31コマ51ページ) 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991092/31

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