英雄時代論に関する考察。ついでに進歩的(化石的)文化人をぶった切り
英雄時代論については過去の稿(「神武東征の史実性と英雄時代論」「ヤマトタケルの伝承の起源③ 英雄時代論」)でも触れており、そこで述べた内容に関しては省略しますが、その後も各論を確認したところ、文学的な解釈を歴史的な解釈へ変換した手法の説明の欠如、ヤマトタケル伝承の祖型を『宋書』とみる当方の私見も否定し得る英雄時代批判論、批判論者の背景など、過去の内容だけでは説明が充分ではなかったことを反省し、本稿を書くに到りました。ヤマトタケルに関する論考の補足としてご覧下さればと思います。
◇マックス・ウェーバーの発展段階論
過去の稿で取り上げた石母田正の説(「古代貴族の英雄時代論」)を踏まえ、井上光貞氏はマックス・ウェーバーの説を取り入れ、英雄時代を論じました。
ウェーバーによると、社会の発展段階において➀農民共同体➁城砦王政を経験し、その後は西洋と東洋(オリエント)で発展段階が別れ、西欧の場合、貴族ポリスが展開し、原始王政における従士たちが王の支配から解放されたものであり、自治的な都市団体をつくり、プリムス・インター・パレスとしての王、または選挙された役人によって都市の行政を行ったものであり、それに対し、オリエントでは➀➁の発展段階は西洋と区別は無いものの、以降は西洋とは多方向へ発展し、「官僚制的都市王政」であり、貴族が王の支配からは解放されず、逆に王の権力が上昇し、王が従者たち及び軍事的諸勢力の支配者となり、王の手先として階層的に組織化された官人身分を創出し、それをして「臣民」を支配するに至り、この場合、都市は王及び高級官人の居住地であり、自治的なポリスとは全く反対なものが現れるのであるといい、ギリシアやローマが貴族ポリス社会、エジプトや中国が官僚制的都市王政に発展し、古代日本は西洋的発展ではなくオリエント的な発展段階に分類されるそうです。⑴
井上光貞氏は、邪馬台国や四世紀頃の大和国家を➁の城砦王政時代にあたるとし、これが英雄時代であると解釈しました。その後の経緯として、四世紀末から五世紀にかけておこなわれた大規模な朝鮮半島の軍事的経営の結果、大和国家は一つの質的な転換期に入る事になり、大和国家は屯倉の経営によって軍事的・経済基盤を確固たるものにしはじめるにつれて、地方君主に対する支配も次第に専制的になり、地方君主を国造などという地方官に転化しながらその自立性を奪っていった。こうして六世紀には、日本古代国家は、ようやく東洋的な専制国家の様相を全体的に帯びてきたのであって、身分秩序としての、いわゆる族制的・カースト的体制は、こうして大和国家の体制を特徴づけるようになったと主張されました。⑵
◇主な英雄時代の批判論
こうした英雄時代論に対し、北山茂夫氏の「民族の心」(『改造』一九五三年一〇月号)、上田正昭氏の「ヤマト王権の歴史的考察」(『日本史研究』二一)などで、四世紀代には既に族長と民衆の階級対立が顕著であったとしていたこと、或いは直木孝次郎氏は卑弥呼が呪術的権威をもって二十数か国を支配していた時期を、激動の時代といわれる英雄時代と見ることができるであろうかと疑問を呈しました。⑶
これは邪馬台国の北九州説派なのか、畿内説派かなのかという問題も絡んで対立していたようで、北九州説論者が英雄時代論を唱え、畿内説論者が英雄時代論を批判するという形で両者相容れない様相を呈していました。
この様な状況の中で、英雄時代否定論として有力な主張を一つ上げると、日本における統一国家の成立を四世紀に求められている志水正司氏は『宋書』の上表文の章句に疑問を投げかけ、「日本古代における英雄時代の有力な徴証の一つとして、該上表文中の「躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧処」の部分がしばしば利用されている。ここに自ら軍をひきいて戦場に活躍する英雄の雄姿が想見されるというのである。しかし、この部分は既成の章句である「躬擐甲冑、跋履山川」「跋渉山川」(左伝)と「不遑寧処」(毛詩)を以て潤色作文したところである。それならば、この潤色部分にどれだけ史実がふまえられているかはすこぶる疑問となり、これに依拠して歴史を考察することは冒険であるといわなければならない⑷」と主張されました。つまり、志水氏は、上表文が語っている、王自ら戦闘に参加するというような状況がこの時代にあったということを、文章が借物であるという指摘で否定しておられ、この志水氏の論は反響を呼んでかなり広くうけいれられたそうですが、これは広義で見れば『宋書』をヤマトタケルの伝承の一起源とする当方の私見を否定し得る説でもある為、見過ごす事は出来ません。
この説に対し溝口睦子氏は、「このような上表文の如き格調高さを要求される文章で、典拠を踏まえた章句を全く使わないということの方が、むしろ中国的な修辞の観念からいえばあり得ないことだと言っていい」とし、「皇帝への親書を典拠ある語句で飾ったのは当然のことであり、そのことをとらえて、そこから直ちに、そこで語られた事実の存在そのものまでを全面的に疑うのは、文章の解釈としてやや行き過ぎではあるまいか。典拠ある語句を使うか使わないかはあくまで表現法の問題であって、内容の真偽とは一応別個である」と批判されました。⑸
溝口氏の指摘は『宋書』の倭王の上表文だけでなく、『日本書紀』に多数散見する漢籍による潤色にも同じ事が言えますが、それはとにかく、ここでは、史実の核を何処に見出すかという新たな問題点が生じます。
塚口義信氏は志水氏の説を取り入れた上で、「五十五國」「六十六國」「九十五國」などの表現を史実を示しているか甚だ疑わしく、「控弦百万、義声に感激し」を併せ考えると、直ぐ後の「王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。累業朝宗して歳に
確かに「九十五国」に関しては「使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」を自称する倭国側の立場から、占領地でない場所まで自国領であるかのように誇張した可能性は高いですが、国内の記事に関しては決して誇張とも言い切れません。過去の稿(「『先代旧事本紀』第十巻「国造本紀」は『国記』の記述が反映されているか?」参照)でも触れましたが、『隋書』倭国伝では「有軍尼一百二十人、猶中國牧宰」⑺、とあり、「猶中國牧宰」は中国の地方長官の様なものと言う意味で、「軍尼」は「国造」の事であると解釈されており⑻、つまり『隋書』によれば倭国は百二十の国々を支配していたと伝えており、これは『宋書』の「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」の合計、百二十一の国数とほぼ一致します。また、『先代旧事本紀』の「国造本紀」に書かれた国造の性格を『倭名類聚抄』と比較しながら比定し、七世紀後半に分国で成立した越前・越中・越後・備前・備中・備後・筑前・筑後・豊前・豊後などの国や、陸奥・常陸・美濃など律令制度下の国造が記載されていないことから、「国造本紀」は律令制度下の国造を記したものではない事を指摘し、「国造本紀」が国の数が掲げる『隋書』「倭国伝」に書かれる百二十という「
◇イデオロギー的な意図で利用された英雄時代論
ヤマトタケル以前の古代史研究において、かつては欠かせなかったのが英雄時代論であり、この論を肯定するにしても否定するにしても、邪馬台国並びに初期大和王権に関する研究が進んだことは否定できないかと思いますが、英雄時代論の負の側面としては、肯定論にせよ否定論にせよ、史実性よりもイデオロギー的な野心で利用されて来た面が大きいことがあげられます。
直木孝次郎氏は英雄時代論の背景に対して、戦後の民主化運動が保守的支配階層の反動攻勢に対して、大衆の意志を背景にして戦っていた戦後の社会情勢と無関係でないように思われるとし、社会革新に期待をつないでいた人々にとっては、その社会が「自己を変革し、はげしく運動しつつある段階」であり、指導者が集団全体と一体となって「激しい意力と情熱をもって闘った」時代であるとされる英雄時代論は、一つの理想像とも感ぜられたのではなかろうかと述べられ、石母田正氏の発想もこの情熱と無関係ではなかったであろうことや、日本がアジア的専制国家への道をあゆんだことを石母田氏が「自由な独立農民の広汎な存在という条件が我が国ではかけていたのではないか」といった主張を取り上げました。⑽
又、北山茂夫氏は「英雄時代論が古いものの批判に役立つよりも、かえってそれをアイマイにさせ、民族主義を鼓舞することによって、再起をたくらむ反動を利する」⑾と、英雄時代論を批判しましたが、こういった主張は歴史的事実の追求よりも、自分のイデオロギーに都合の良い主張を優先させ、その為には史実を捻じ曲げることも厭わないということを自ら打ち明けているようなものであり、信用なりません。
こう言った意味では、津田左右吉氏の研究内容に対しては必ずしも肯定的には捉えられないとしても、研究姿勢に関しては如何にマトモであったのかが理解出来ます。(戦後、津田氏が共産主義に対して反対の立場を取ったことを、津田氏の思想を唯物史観と思い込んでいた一部の研究者からは「変節」と捉えられましたが、戦前の津田氏の著書である『上代日本の社会及び思想』所収の「大化の改新の研究」⑿辺りを読めば、津田氏が唯物史観と相反することは一目瞭然です)
残念ながら、上記は一例にすぎず、英雄時代論やヤマトタケルについて活発に論じられていた時期の著書では、自らを恥ずかしげもなく進歩的文化人などと称し、北朝鮮を共和国と呼び、一方、天皇制維持論者や米国支持者達を反動呼ばわりする、今となっては化石的文化人(自分の造語です)とでも称されるべきセンセイ方が大きな影響力を持っていたようなので、ウンザリさせられますが、殊更ヤマトタケルや英雄時代論に関しては左派の最盛期である1950~70年代に研究が盛んだったので、好むと好まざるに拘わらず、この時代の著書に目を通さざるを得ません。現代においても
◇参考文献
⑴『日本古代国家の研究』井上光貞 岩波書店 532-535頁
「第Ⅲ部 古代国家形成の諸段階 二 ウェーバーの発展段階論」
⑵井上、前掲書 542頁
「第Ⅲ部 古代国家形成の諸段階 四 官司制の形成」
⑶『奈良時代の諸問題』直木孝次郎 塙書房 438-440頁
「二 古代家族と社会構造」
⑷三田史学会『史学』第39巻第2号 53頁
所収「倭の五王に関する基礎的考察」志水正司
⑸『古代氏族の系譜』溝口睦子 吉川弘文館
「四 ワカタケル大王の時代」261-262頁
⑹『古代伝承とヤマト政権の研究』塚口義信
「第一章 一『古事記』の三巻区分について」 18頁
⑺『倭国伝 中国正史に書かれた日本』全訳注 藤堂明保・竹田晃・影山輝國 講談社学術文庫 467ページ
⑻『倭国伝 中国正史に書かれた日本』全訳注 藤堂明保・竹田晃・影山輝國 講談社学術文庫 189ページ 注15・16
⑼『日本国家成立論 国造制を中心として』吉田晶 東京大学出版会
⑽直木、前掲書 439頁
「二 古代家族と社会構造」
⑾『改造』1953年10月号
所収「民族の心」北山茂夫
⑿『上代日本の社会及び思想』津田左右吉 岩波書店 440-441頁
「第三章 大化の改新の研究 七 社会組織の問題」
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1041708/1/228
◇関連稿
・ヤマトタケルの伝承の起源➀ 祖禰
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330663966958364
・ヤマトタケルの伝承の起源③ 英雄時代論
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330664490613704
・神武天皇東征の史実性と英雄時代論
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330657747570713
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