『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(13) 蘇我馬子③ 推古朝後期

 関連深い物部守屋の回から数えると長くなりましたが、いよいよ本稿で蘇我馬子に関する記事は最後になります。本稿では推古朝後半における馬子の記事を見ていきましょう。



⑴『日本書紀』巻二二推古天皇三一年(六二三)是歳

是歳、新羅、伐任那。任那、附新羅。於是天皇將討新羅、謀及大臣、詢于群卿。田中臣對曰、不可急討。先察状以知逆、後撃之不晩也。請試遣使、覩其消息。中臣連國曰、任那是元我内官家。今新羅人伐而有之。請戒戎旅、征伐新羅以取任那、附百濟、寧非益有于新羅乎。田中臣曰、不然、百濟是多反覆之國。道路之間尚詐之。凡彼所請、皆非之。故不可附百濟。則不果征焉。爰遣吉士磐金於新羅、遣吉士倉下於任那、令問任那之事。時新羅國主、遣八大夫、啓新羅國事於磐金、且啓任那國於倉下。因以約曰、任那小國、天皇附庸。何新羅輙有之。随常定内官家、願無煩矣。則遣奈末智洗遲、副於吉士磐金、復以任那人達率奈末遲副於吉士倉下、仍貢兩國之調。然磐金等末及于還、即年、以大徳境部臣雄摩侶、小徳中臣連國爲大將軍、以小徳河邊臣禰受、小徳物部依網連乙等、小徳波多臣廣庭、小徳近江脚身臣飯葢、小徳平群臣宇志、小徳大伴連、〈闕名。〉小徳大宅臣軍爲副將軍、率數萬衆、以征討新羅。時磐金等共會於津、將發船、以候風波。於是船師滿海多至。兩國使人望瞻之、愕然乃還留焉。更代堪遲大舍、爲任那調使而貢上。於是磐金等相謂之曰、是軍起之既違前期。是以任那之事今亦不成矣。則發船而渡之。唯將軍等始到任那、而議之欲襲新羅。於是新羅國王、聞軍多至、而豫慴之請服。時將軍等共議以上表之。天皇聽矣。


(是の歳、新羅、任那をつ。任那、新羅にく。是に於いて天皇すめらみことまさに新羅を討たむとし、大臣に謀及はかり、群卿まへつきみたちとぶらひたまふ。田中臣たなかのおみこたへて曰く、「すみやかに討つべからず。先づかたちて以てしたがはぬを知り、後に撃つともおそからじ。こころみに使つかひを遣して、其の消息あるかたちせしめよ」。中臣連國なかとみのむらじくに曰く、「任那は是れもと我が内官家うちつみやけなり。今 新羅人伐しらきひとうつ。戎旅いくさいましめ、新羅を征伐て以て任那を取り、百濟に附けば、寧ろ新羅をるにしるしあらざんや」。田中臣曰く、「然らず、百濟は是れ反覆かへかへしく多き國なり。道路みちの間もなほいつはる。凡そ彼の請ふ所、皆 非之よくもあらず。故に百濟にさづからず」。則ちつを果さず。ここ吉士磐金きしいはかねを新羅に遣し、吉士倉下きしくらじを任那に遣して、任那の事を問はしむ。時に新羅 國主のきみ八大夫やたりのまちきみたちを遣して、新羅國の事を磐金いはかねまをし、且つ任那國の事を倉下にまをす。因りて以てちぎりて曰く、「任那は小國すこしきくになれども、天皇の附庸ほどすかのくになり。何ぞ新羅しらきのくにたやすたもたむ。常のまま内官家うちつみやけを定めたまはば、願はくばわづらひ無くけむことを。則ち奈末智洗遲ごまちせんちを遣して、吉士磐金きしのいはかねへ、た任那人 達率奈末遲たつそつなまちを以て吉士倉下きしくらじへ、仍りて兩國ふたつのくに調みつきたてまつる。然れども磐金等末だ還るに及ばずして、即年そのとし大徳だいとく境部臣雄摩侶さかひべのおみをまろ小徳せうとく中臣連國なかとみのむらじくにを以て大將軍おほいくさのきみと爲し、小徳せうとく河邊臣禰受かはべのおみねず小徳せうとく物部依網連乙もののべのよさみのむらじおと等、小徳せうとく波多臣廣庭はたのおみひろには小徳せうとく近江脚身臣飯葢あふみのあしみのおみいふふた小徳せうとく平群臣宇志へぐりのおみうし小徳せうとく大伴連おほとものむらじ、〈名をせり。〉小徳せうとく大宅臣軍おほやけのおみいくさ副將軍そひのいくさのきみと爲し、數萬あまたよろづいくさを率ゐて、以て新羅を征討ちたまふ。時に磐金いはかね等共に津にひて、將に發船ふなだちせむとし、以て風波をさぶらふ。ここに於いて船師ふないくさ海に滿ちてさはに至る。兩國ふたつのくに使人つかひ望瞻おせりて、愕然かしこまり乃ち還り留まる。更に堪遲大舍たむちたさを代へて、任那の調みつきと爲して貢上たてまつる。是に於いて磐金等 相謂あひかたりて曰く、「是のいくさ起すこと既にさきちぎりたがふ。是を以て任那の事 今亦成いままたならじ」。則ち發船ふなだちして渡りぬ。唯將軍等ただいくさのきみたち始めて任那に到りて、はかりて新羅を襲はむと欲す。是に於て新羅國王、軍多いくささはに至ると聞きて、あらかじぢてまつろはむとまをす。時に將軍等いくさのきみたち共にはかりて以て上表ふみたてまつる。天皇すめらみことゆるしたまふ。)



さぶら

 様子を伺って待つの意。サブラフは古形サモラフ。サは接頭語。モラルはモルの反覆形。モルの原義は目(モ)ル意。目を注いで怠らない事。サブラフの名詞形サブラヒが、従者の意から転じて「侍」になりました。


・⑴概略

 是の歳、新羅が任那を討った。任那は新羅に属した。是に於いて天皇は新羅を討とうとされ、大臣に謀り、群卿まへつきみたちにも問われた。田中臣たなかのおみは答えて「早急に討つべきではありません。先ず様子を調べて、背く事がはっきりした後に討っても遅くないでしょう。試みに使を遣して、向こうの様子を見させてください」と言った。


 中臣連國なかとみのむらじくには、「任那はもと我が内官家うちつみやけである。今、新羅人がそれを取って得たのです。よろしく軍を整えて、新羅を討ち、任那を取り返し、百済に属させれば、新羅から得る方が必ず勝っています」。田中臣が言う、「そうではない、百済は是れ度々豹変する国である。道路みちの区間さえも偽りがある。凡その言うところは皆信じがたい。故に百済に属させるべきではない」。そこで(新羅を)討つ事を止めた。


 吉士磐金きしいはかねを新羅に遣し、吉士倉下きしくらじを任那に遣して、任那の事を問わせた。この時、新羅國主は、八人の大夫を遣して、新羅國の事を磐金いはかねに申し、任那國の事を倉下に申し伝えた。そして約束して、「任那は小国ですが、天皇につき従い仕える国であります。どうして新羅が容易く奪ったりするでしょうか。今まで通り、内官家うちつみやけと定め、心配なさいませんように」と言った。


 奈末智洗遲ごまちせんちを遣して、吉士磐金きしのいはかねえ、任那人の達率奈末遲たつそつなまちを以て吉士倉下きしくらじえ、両国の調みつきたてまつった。しかし磐金等がまだ帰らない内に、即年そのとし大徳だいとく境部臣雄摩侶さかひべのおみをまろ小徳せうとく中臣連國なかとみのむらじくに大將軍おほいくさのきみとし、小徳せうとく河邊臣禰受かはべのおみねず小徳せうとく物部依網連乙もののべのよさみのむらじおと等、小徳せうとく波多臣廣庭はたのおみひろには小徳せうとく近江脚身臣飯葢あふみのあしみのおみいふふた小徳せうとく平群臣宇志へぐりのおみうし小徳せうとく大伴連おほとものむらじ、〈名をせり。〉小徳せうとく大宅臣軍おほやけのおみいくさを副将軍とし、数万の軍を率いて、新羅を討った。


 時に磐金いはかね等共に港に集まって、出向しようと様子を伺って風を待っていた。ここでは軍船は海に滿ちた。両国の使者はこれを上方から望見して愕然として、引き返して更に遲大舍たむちたさに代えて、任那の調として奉った。これで磐金等は語り合って言った、「是の軍を起すこと既に前の約束を違う事になる。これでは任那の事は上手く行かないだろう」。港を船出して帰国した。ただ、將軍等は始めて任那に至り、はかって新羅を襲おうとした。これで新羅國王は大軍がやってくると聞き、恐れて手ばやに降伏を願い出た。時に将軍等は共に語り合って上表した。天皇は許された。




⑵『日本書紀』巻二二推古天皇三一年(六二三)十一月

冬十一月、磐金、倉下等至自新羅。時大臣問其状。對曰、新羅奉命以驚懼之。則並差專使、因以貢兩國之調。然見船師至而、朝貢使人更還耳。但調猶貢上。爰大臣曰、悔乎、早遣師矣。時人曰、是軍事者境部臣、阿曇連、先多得新羅幣物之故、又勸大臣。是以未待使旨而、早征伐耳。


(冬十一月、磐金いはかね倉下くらひ等新羅より至る。時に大臣其のあるかたちを問ふ。こたへて曰く、「新羅 みことうけたまはりて驚きかしこまる。則ち並びに專使たうめ差して、りて兩國ふたつのくに調みつきたてまつる。然るに船師ふないくさの至るを見て、朝貢みつき使人つかひ更にかへれるのみ。但し調みつきをばなほ貢上たてまつる」。ここに大臣曰く、「くやしきかな、早く師を遣しつること」。時の人曰く、「是の軍事いくさごと境部臣さかひべのおみ阿曇連あづみのむらじ、先にさはに新羅の幣物まひなひを得たるゆゑに、又大臣にすすむ。是を以て未だ使つかひの旨を待たずして、早く征伐つのみ」。)


・⑵概略

 冬十一月、磐金いはかね倉下くらひ等が新羅から帰国した。その時に馬子大臣はその様子を尋ねたところ。答えて言った、「新羅はみことうけたまはり、驚き畏まり、その事だけの使いを命じ、よって両国の調を仕立てました。ところが船軍が来るのを見て、朝貢の使いは逃げ戻りました。但し、調のみはたてまつります」。大臣は言った、「悔しいな、早く軍勢を送った事は」。時の人は言った、「今度の軍事は境部臣さかひべのおみ阿曇連あづみのむらじ、先に多くの新羅の幣物まひなひを得たものだから、馬子大臣にも勧めたのだ。それで使いの返事もを待たずして、早く討とうとしたのだ」


・⑴⑵解説

 『隋書』倭国伝によれば「新羅百濟皆以倭爲大國、多珍物、并敬仰之、恒通使往来(新羅、百濟は皆倭を以て大國にして、珍物多しと爲し、ならびにに之を敬仰して、つねに使を通じて往来す)」⑶とあり、つまり、新羅と百済は皆倭国は大国で珍しい物が多く、敬い仰ぎ常に使いを往来させていたという記事が第三国である隋の国書にも記載されている事から、⑵のような新羅が倭国に朝貢していた記事は史実かと思われます。


 一方で⑴の記事は日本の旧任那の地に対して権益を犯したものであると思われ、敢えて現代で例えるのならば竹島を不法占拠された様な感覚に近かったのかと思います。


 欽明天皇二十三年(西暦五六二)新羅が任那の官家を滅ぼした後も倭との関係を絶たず、「任那の調みつき」と称する貢物を送って来ましたが、敏達天皇の頃から任那回復の議があり、崇峻朝まで続きましたが、その頃には軍事的に解決するよりも、外交交渉を有利にするためのものでありました⑷。その流れが推古朝に至っても続いていた様です。




⑸『日本書紀』巻二二推古天皇三二年(六二四)四月 戊申三日

卅二年夏四月丙午朔戊申、有一僧、執斧毆祖父。時天皇聞之、召大臣詔之曰、夫出家者、頓歸三寶、具懐戒法。何無懺忌、輙犯惡逆。今朕聞、有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼、以推問之、若事實者重罪之。於是、集諸僧尼而推之。則惡逆僧及諸尼、並將罪。於是百濟觀勤僧、表上以言、夫佛法、自西國至于漢經三百歳。乃傳之至於百濟國、而僅一百年矣。然我王、聞日本天皇之賢哲、而貢上佛像及内典、未滿百歳。故當今時、以僧尼未習法律、輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼以不知所如、仰願、其除悪逆者、以外僧尼悉赦、而勿罪。是大功徳也。天皇乃聽之。


(卅二年 夏四月なつうづきの丙午ひのえうまのついたち戊申つちのえのさるのひ一僧ひとりのほふし有り、斧を執りて祖父おほぢつ。時に天皇 きこしめて、大臣を召して詔して曰く、「出家いへでせるひとひたふる三寶さむぽうりて、みな戒法いむことののりたもつ。何ぞ悔い忌むことが無くて、すなは惡逆あしきわざを犯すべき。今 れ聞く、ほふし有りて祖父をつと。故にことごとく諸寺もろもろのてら僧尼ほふしあまつどへて、以てかむがへ問ひ、若し事實ことまことならば重くつみせむ」。是に於いて、諸僧尼もろもろのほふしあまを集へてふ。則ち惡逆あしきわざの僧及び諸尼もろもろのあま、並びに將に罪せられむとす。ここに百濟の觀勤僧くわんろくほふしふみたてまつりてまをさく、「佛法ほとけのみのりは、西國てんじくよりもろこしつたはりて三百歳みももとせを經たり。乃ちつたはりて百濟國に至り、わずか一百年ももとせになりぬ。然るに我がこきし日本天皇やまとのすめらみこと賢哲さかしくましますことを聞き、佛像ほとけのみかた及び内典ほとけのみのり貢上たてまつりしより、未だ百歳ももとせにだも滿たず。の時に當りて、僧尼ほふしあま未だ法律のりに習はざるを以て、すなは惡逆あしきわざを犯せり。是を以て諸僧尼もろもろのほふしあまおそぢて所如せむすべ知らず、仰ぎ願はくは、其の惡逆あしきわざの者を除きて、以外そのほかの僧尼ほふしあまをばことごとくに赦して、勿罪なつみしたまひそ」。是れ大なる功徳のりのわざならむ。天皇乃ちゆるしたまふ。)


・⑸概略

 三十二年夏四月三日、一人の僧が居て、斧で祖父を打った。天皇がお聞きになられた時、(馬子)大臣を召して詔して、「出家した者は仏教に帰し、戒律を守る。何故悔い忌むことが無く、簡単に悪逆を犯したのだ。朕が聞くところでは、僧が祖父を打ったと。だから諸寺の僧尼集めて、よく調べ、もし事実であれば重く罪せよ」と言われた。諸寺の僧尼集め調べ。悪逆の僧と諸尼を処罰されようとした。この時、百済の觀勤僧くわんろくほふし、上表して、「仏法は、天竺(インド)よりもろこしに伝わり、三百年を経て、百済国に伝わり、わずか百年です。我が王(百済王)は日本の天皇の英明であられますことを聞き、仏像及び仏典をたてまつりましたが、未だ百年にもなりません。それ故、このような時にあって、僧尼はまだ法律に慣れていないので、容易く悪逆の罪を犯します。ですから多くの僧尼は恐縮しても、如何すべきか分からないのです。如何か、其の悪逆の行為のあった者を以外、僧尼を皆許して、罪になさいませんよう。是れが大いなる功徳になります」。天皇は許された。


・⑸解説

 日本における仏教の統制機関の設立の事情を記しています。この後、僧正・僧都を任命し、僧綱制度がはじまります。

 天皇が、仏教統制機関を設け、それに教界の統制を委ねる事。これによって、俗法の支配する世界のうちに、仏教の半自律的統制機関が成立する経過が示されています。⑹


⑺『日本書紀』巻二二推古天皇三二年(六二四)十月癸卯 一日

冬十月癸卯朔、大臣、遣阿曇連、〈闕名。〉阿倍臣摩侶二臣令奏天皇曰、葛城縣者、元、臣之本居也。故因其縣爲姓名。是以冀之、常得其縣、以欲爲臣之封縣。於是、天皇詔曰、今、朕則自蘇我出之、大臣亦爲朕舅也。故大臣之言、夜言矣夜不明、日言矣則日不晩、何辭不用。然、今當朕之世、頓失是縣、後君曰、愚癡婦人、臨天下、以頓亡其縣。豈獨朕不賢耶、大臣亦不忠。是後葉之惡名。則不聽。


冬十月ふゆかむなづきの癸卯みづのとのうのついたちのひ大臣おほおみ阿曇連あづみのむらじ、〈名をせり。〉阿倍臣摩侶あべおみまろ二臣ふたりのまちきみを遣して天皇にまをさしめて曰く、「葛城縣かづらきのあがたは者、もとやつかれ本居うぶすななり。故れ其のあがたに因りて姓名かばねなを爲す。ここを以てねがはくは、ときはに其のあがたたまはりて、以て臣の封縣よさせるあがたと爲さむと欲す」。是に於いて、天皇詔して曰く、「今朕いまわれ則ち蘇我より出でたり、大臣亦朕おほおみまたわをぢたり。故に大臣の言をば、夜に言はば則ち夜も明さず、あしたに言はば則ち日もくらさず、何のことか用ゐざらむ。然れども、今、朕が世に當りて、ひたふるに是のあがたを失ひては、後の君 のたまはむ、『愚癡おろかなる婦人めのこ天下あめのしたきみとしのぞみて、ひたふるに其の縣をうしなへると』。ひとわれ不賢をさなきのみならむや、大臣もまた不忠つたなからむ。是れ後葉のちのよの惡名ならむ」。則ちきこしめしたまはず。)


・⑺概略

 冬十月一日、(馬子)大臣は、阿曇連あづみのむらじ阿倍臣摩侶あべおみまろの二人を遣して天皇に奏上させ、「葛城県かづらきのあがたは元、私の本貫であります。その県に因んで姓名かばねなを為しています。如何か、永久にその県を賜って、私が封ぜられた県と致したいと思います」と言った。すると天皇が詔して仰せられた、「今、朕は蘇我(氏)から出ている、馬子大臣はわが叔父である。故に大臣の言葉は、夜に言えば夜も明さず、朝に言えば日の暮れぬうちに、聞き入れて来た。しかし、今、朕の世に、急にこの県を失っては、後世の帝が、『愚ろかな女が天下に公としてのぞんだ為、ついにその県を失ってしまった』と。独りわが不明であったとされるばかりか、大臣も不忠とされ、。後世に悪名を残す事になるだろう」。として許されなかった。


・⑺解説

 葛城県はかつて葛城氏は代々ここを本拠地としており、葛城氏滅亡後に天皇家に摂取された「葛城宅七区かづらきのいえななところ」(五処之屯宅いつところのみやけ)であり、天皇の直轄領である大和の六県の一つでしたが、馬子は自分の本貫であるとして、阿曇連あづみのむらじ阿倍臣摩侶あべおみまろの二人を遣して県を譲る様に奏上させます。


 この記事から蘇我氏の出自が葛城氏であった可能性もあり、『上宮聖徳法王帝説』によれば聖徳太子が興した七つの寺の内、葛木寺に関して「葛木寺。賜葛木臣」⑻と書かれており、蘇我氏=葛城氏出自説を取る加藤謙吉氏は葛城烏那羅を『聖徳太子伝暦』の「葛城寺。又名妙安寺。賜蘇我葛木臣」と対応させ、これを同一人物とみて、葛城烏那羅は、蘇我氏の一族と位置づけており⑼、これが事実であれば蘇我氏が葛城氏出身である裏付けになりますが、蘇我氏の出自については百済の高官が倭国へ渡来してきたことを『日本書紀』や朝鮮半島の資料の中に見出したことを根拠とし、実在性が定かでないものの、蘇我氏の系図の中に高麗・韓子などの名前がある事から門脇禎二氏が唱える蘇我氏=渡来人出自説⑽もあり、ハッキリしません。


 個人的には門脇氏が唱える説が本当に百済高官を蘇我氏と結び付けられるのか疑問に思う事と、また、韓子や高麗の実在性など薄弱に思える事と、かつては葛城氏が果たしていた役割を蘇我氏が担っていた事から、率直に蘇我氏の出自が葛城氏であったと見て良いかと思います。


*追記:蘇我氏渡来人説とその批判。

 「韓子」という語に関わり、継体天皇紀二十四年九月条の「びのから那多利なたり斯布利しふり」分注に、「〈大日本人娶蕃女所生爲韓子也〉大日本の人、となりぐにりて生めすを、韓子とす➀」という文註が付されており、このことから、蘇我氏渡来人出自説とも関わり、蘇我韓子宿禰の母を韓人の女性と見る向きがある事に対し、平林章仁氏は、吉備に加えられた韓子は、個人の名ではなく、その母系の出自を示すため氏名に添えられた語であり、それに対して、蘇我韓子宿禰は韓子を除く個人の名がなくなるから、それが出自を示すために添えられたのではなく、個人名であることは明白であり、つまり、蘇我韓子宿禰の韓子が、母が韓人の女性であったからか、それとも一族や韓の地域に何らかの縁があったからつけられたか定かではない。韓子の「子」は馬子や妹子と同じく、個人名の「韓」に付された称辞と解することも可能であるから、韓子の名をもって蘇我氏渡来人出自説を主張することは出来ないと批判されました。➁


 又、応神天皇紀二十五年条の註が引く百済の木羅斤資の子である木満もくまんを蘇我満智と名が同じであることや、『三国史記』百済本記のこう王二十一(四七五)年条に、こう王の命でもん王が百済のもく満致・祖彌そみ桀取けつしゅとともに南へ行った記事の南を倭国と解し、応神天皇紀二十五年を干支三運(一八〇年)繰り下げると四七四年になり、『三国史記』とほぼ整合することから、応神天皇紀二十五年条の木満致と『三国史記』百済本記の蓋鹵王二十一年条の木劦満致にあてることが出来るという門脇禎二氏の主張③に対し、この頃の紀年は干支二運(一二〇年)古くするというのが一般的であり、応神天皇紀二十五年条の百済の直支王・久爾辛王関連の所伝も、中国南朝・『宋書』武帝紀永初元(四二〇)年七月条の記事などから、従来通り干支二運繰り下げるのが整合的であり、干支三運の繰り下げは恣意的であり、木満致=木劦満致=蘇我満智説、即ち蘇我氏渡来人説は成り立ち難いと批判されています。④


 更に満智という名について、平林氏はマチという古語には渦巻紋様で表示された祭儀に関わる宗教的区画・神意が宿り現れる神聖な場所、という意味があったとし、蘇我満智(麻智)という名についても、百済に結び付けなくても、こうした視点から理解することが可能であり、祭祀氏族である忌部氏の氏族誌『古語拾遺』に蘇我麻智宿禰の事績が記されるのも、その名に関わっていると推測することも出来ようと、門脇氏の説を否定されました。⑤


 神功・応神紀はそれぞれ干支二運(一二〇年)ずらすと、朝鮮文献と照らし合わせて大体史実に対応するということは過去の稿でも触れましたが、三運ずらすとなると、例え木満致=木劦満致=蘇我満智説が結び付けられたとしても、他の全ての記事の整合性が取れなくなることを門脇氏は想定なさっていたのでしょうかね……。 

 

 



⑾『日本書紀』巻二二推古天皇三四年(六二六)五月 丁未廿日

夏五月戊子朔丁未、大臣薨。仍葬于桃原墓。大臣則稻目宿禰之子也。性、有武略、亦有辨才、以恭敬三寶。家於飛鳥河之傍、乃庭中開小池。仍興小嶋於池中。故時人曰嶋大臣。


夏五月なつさつきの戊子つちのえねの朔丁未ついたちひのとのひつじのひ大臣おほおみみまかる。仍りて桃原墓ももはらのはかはぶる。大臣は則ち稻目宿禰いなめのすくねの子なり。ひととなり武略たけきわざ有り、また辨才きはきはしきかど有り、以て三寶さむぽうつつしゐやまふ。飛鳥河あすかがはほとりいへゐあり、乃ち庭中にはのうちに小池をれり。仍りて小嶋いささかなるしまを池中にく。れ時の人 嶋大臣しまのおほおみと曰ふ。)


・⑾概略

 夏五月二十日、馬子大臣が亡くなった。桃原墓ももはらのはかに葬った。大臣は蘇我そが稻目宿禰いなめのすくねの子である。人となりは、武略に優れ、また成務にも優れ、仏教を謹んで敬い。飛鳥河の辺に家があり、庭の中に小池を堀り、小さな嶋を池中につくり。故に時の人は 嶋大臣しまのおほおみと言った。


・⑾解説

 桃原墓ももはらのはかは奈良県高市郡明日香村島之庄にある石舞台古墳であると言われています。


 石舞台古墳は、墳丘と周濠斜面に貼石を施した一辺五十メートルの大型古墳で、かつては上円下方墳と考えられていましたが、近年では二段築成の方墳とみる見解が一般的で、上段(二段目)の盛土が後世の開墾などにより削り取られ、横穴式石室の天井石と側壁の一部の露出した実態から後世の人が石舞台と呼ぶようになったことが命名の所以です。


 この古墳の横穴式石室の特徴は何段にも石を積まず、玄室の奥壁は二段、側壁は三段、前壁は一段、羨道は一段の巨石で構成されている事で、奥壁・前壁はゆるやかに持送りがおこなわれ、石室全長は約十九メートル、玄室長七・五七メートル、同幅三・八四メートル、高さは四・七〇メートルあります。⑿



・まとめ

 推古朝初期~中期の記事では厩戸皇子(聖徳太子)の活動が目立ち、意外なほど馬子が主体的に活動した記事は多くありません。


 家永三郎氏は厩戸皇子が皇太子として国政を総理した理由について、「これまでは天皇は政治に携わらず、大臣・大連がそれに当たったが、崇峻天皇が蘇我馬子によって殺害されるに及んで男子を天皇とすることを避け、代って敏達皇后=推古女帝が登極し、聖徳太子を皇太子として国政にあずからしめた。これは、天皇不親政の慣行を維持したまま、皇室が蘇我氏に対抗して政治を取ろうとした意図による」との事と、皇嗣に総理させる事になったのには、魏書、世祖帝紀下、太平真君四年十一月条甲子条に「令皇太子副理万機総統百揆」等に見える大陸・半島の慣行によったものではないかと推測しています。⒀


 そう言った推古側の思惑もあってか、推古朝初期~中期の中頃の時期にかけて、馬子の政治活動は制限されていたのかも知れませんが、推古天皇二十年(六一二)一月七日(前稿⑷の記事)で馬子が復権を果たすと、以降は馬子の動きが活発になり、逆に厩戸皇子の活動が目立たなくなっていきます。


 馬子と厩戸皇子の関係がよく言われている様に不仲であったのか、今となっては知る由もありませんが、隋との国交の樹立、高句麗との修交、仏教の発展、日本初の国史の編纂等、推古朝が画期的な時代であったのは違いなく、この二人の果たした役割は極めて大きなものだったと言えます。


 原文紹介が中心でテキスト量が膨大になってしまった為、諸説に関しては最低限の記述になってしまいましたが、いずれ葛城高宮や蘇我氏に関する考古学的な知見なども稿を改めて書きたいと思います。ですが、この時代には魅力的な人物が沢山いるので、次稿以降はそちらの人物のご紹介などもさせて頂きたいと思います。



◇参考文献

⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/203

203・204コマ

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/57

57・58コマ


*『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 141ページ 注八


⑵『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/204

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/58


⑶『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917919/59


⑷『史料による日本の歩み 古代編』 関晃・井上光貞・児玉幸多 編 吉川弘文館 53ページ


⑸『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/204

204・205コマ

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/59


⑹『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 143ページ 注六


⑺『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/205

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/59


⑻『上宮聖徳法王帝説』狩谷棭斎 著[他] 裳華房

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054662/9


⑼『蘇我氏の古代学 飛鳥の渡来人』 坂靖 新泉社 156ページ


⑽『蘇我氏の古代学 飛鳥の渡来人』 坂靖 新泉社 33ページ


*追記

➀『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/186


➁『蘇我氏と馬飼集団の謎』平林章仁 祥伝社新書 電子書籍版 70-71ページ

「第一章 蘇我氏の発祥 ― 「韓子」は何を意味するのか?」


③『新版飛鳥―その歴史と風土』日本放送出版協会

所収「蘇我氏の出自について」門脇禎二


④『蘇我氏と大和王権』加藤謙吉 吉川弘文館・『謎の豪族 蘇我氏』水谷千秋 文藝春秋 他


⑤『蘇我氏の研究(日本古代氏族研究叢書)』平林章仁 雄山閣  39-42ページ

「第一章 大臣蘇我氏の前史 第四節 蘇我満智宿禰と蘇我氏渡来人説」



⑾『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/205

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/60


⑿『蘇我氏の古代学 飛鳥の渡来人』 坂靖 新泉社 195~196ページ


⒀『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 379~380ページ 補注四




◇関連項目

・「排仏崇仏論争の虚構」に関する反論

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700428325598278


・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(12) 最後の大連 物部守屋①

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700428210184598


・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(12) 最後の大連 物部守屋②

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700428668567453


・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(13) 蘇我馬子① 崇峻天皇殺害~推古朝初期

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700428957310434


・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(13) 蘇我馬子② 推古朝中期

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700429319890540

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