小ネタ

『古事記』でもっとも好きな話

 若干難しい話が続いたので、今回は『古事記』でも自分が最も好きな話についてご説明させて頂きます。滅びの美学的な話は『平家物語』がよく知られていますが、それよりも遥か以前にこんな物語もあった事を知って欲しいと思います。


◇『古事記』下巻 安康天皇条(目弱王の事件に関する概要)

  安康天皇が宣託を受ける為、神床に居て昼寝をしている時、天皇は皇后に心配事が無いか話しかけた。皇后は心配が無いと言ったが、天皇は「私はいつも心配している事がある。それは目弱王まよわのみこが成人した時、私がその父を殺したことを知ったら反逆心を起こすのではないだろうか」と言った。


 この時、皇后の先夫の子、七歳の目弱王はその高床の殿の下で遊んでおり、この話を聞いてしまった。目弱王は父の仇である天皇が眠っている間にその傍らにある大刀で首を打ち斬り、都夫良意富美つぶらのおほみ(葛城円)の家に逃げ込んでしまった。


 この事件を聞いた大長谷王おほはつせのみこ<後の雄略天皇>は、天皇が殺された話を聞いても立とうとしない二人の兄を殺し、軍勢を集めて目弱王を匿う都夫良意富美の家を囲んだ。都夫良意富美も応戦し、互いの矢が葦のように飛び散る程激しい戦いの中、大長谷王は矛を杖にして家の中を窺い、「私が以前言い交した娘は、この家にいるのではないか」と言った。


 すると都夫良意富美が出てきて、武器を解き八度礼拝して


「先日妻問いされた女子、訶良比売からひめは御側にお仕えいたします。また、五カ所の屯倉を添えて奉ります。しかし、私自身はお仕えできません。昔から臣下が王の宮に隠れる事は聞いていますが、いまだ王子が臣下の家にお隠れになることは聞いた事がありません。賤しい私が力を尽くしても、到底あなたには勝てないでしょう。それでも私は頼りにして下さった王子をお見捨てすることは出来ません」


 と申し上げた。


 こうして、都夫良意富美はまた武器を取り、家に帰って戦った。そして、力尽き、矢も尽きたので目弱王にその事を伝えたところ、「然らば、更に為むすべ無し。今は吾を殺せよ」と言われた。そこで都夫良意富美は王子を刺殺し、自分も首を切って死んだ。


◇解説

 この話に登場する目弱王はその名の通り、目が見えなかったという説もあります。視覚が奪われているからこそ、研ぎ澄まされた聴覚が働き、普通では聞こえない声を聞く事が出来たと『口語訳 古事記』の著書、三浦祐之氏は述べています。


 高床の殿の下で目弱王は遊んでいて、安康天皇の話を聞く事になるが、神を迎える神殿は高床になっているのは一般的であり、目弱王が耳聡く神の声を聞く事が出来る幼児だったから、父殺しの犯人を聞く事が出来たとの事。


 父の仇を討った目弱王は都夫良意富美の家に逃げ込みますが、この都夫良意富美とは四~五世紀の頃、複数の皇后を輩出し、天皇家の外戚として権勢を誇った葛城氏の頭領であり、応神あるいは仁徳天皇の代に王朝交代が起こり、所謂河内王朝が起き、天皇家の基礎を築いたという説を取るのであれば、それは奈良盆地西部を制圧していた葛城氏の力によるものが大きかったとも言います。(但し、王朝交代論は異論が多く、現在定説ではありません。当方なりの見解は何れ別稿で書きます)。


 とにかく、五世紀頃に葛城氏の力が大きかったのは事実で、後世の平氏を想像すれば解りやすいかと思います。(差し当たり雄略は源頼朝?)都夫良意富美は大臣という大和王権で最も高い位に就いていました。


 大和王権からすれば、強力なパートナーであると同時に、目障りな存在でもあったのでしょう。


 権勢を誇った葛城襲津彦かつらぎのそつひこの死後、後を継いだ玉田宿禰たまだのすくねが允恭天皇に討たれ、流石の葛城氏も勢いに陰りが見え始めたところ、目弱王という言わば厄介者が転がり込んできたようなものです。


 これは天皇家が葛城氏を攻撃する良い口実となってしまったようですが、訶良比売が大長谷王の婚約者であったので、目弱王を引き渡せば、恐らく葛城氏が滅亡する事も無かったと思われますが、都夫良意富美は大長谷王の臣下となる事を拒み戦い、幼い王子とともに最期を迎える事になります。


(因みに『日本書紀』の方では概ねの話は共通しながらも、葛城円が最期に許しを請ったところ許されず、焼き殺されるという、少し情けない話になっていますが……また、幼い目弱王の反逆自体が無理のある話なので、天皇家と葛城氏との権力闘争に目弱王が利用されたと考えられなくもないですが……個人的には『古事記』の方を信じたいです)


 こうして、古代の名族・葛城氏は滅亡し、大長谷王が即位し、大長谷若建(大泊瀬幼武)を名乗り、葛城氏さえも滅ぼした絶大な権威により、国家の統一が推し進められる事になります。


 『万葉集』『日本霊異記』では雄略に係わる内容から始まる事から、古代において特別な意味を持つ大王であったそうです。


 478年、宋に使者を送った倭王武は雄略であるとされており、『宋書』倭国伝によると、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国軍事、安東大将軍、倭国王に除しました。


 考古学的には埼玉県生田市稲荷山古墳出土の鉄剣と(銘文の「獲加多支鹵大王」とはワカタケル、つまり雄略天皇であるというのが通説です。)と熊本県和水市の江田船山古墳の鉄剣銘文にも雄略か反正天皇の名が記されていた為、雄略の時代には少なくても関東から北九州まで大和王権の勢力範囲が及んでいたことがほぼ確実と言われるようになりました。


 この様に、文献的に見ても考古学的にみても雄略の実在は確定しており、巨大な勢力を誇った大王であった事は間違いありませんが、葛城氏の氏神である一言主に対してワカタケルが恐れ入って畏まる『古事記』の説話は、如何に天皇といえども、葛城の領域に置いては葛城の神に屈服せざるを得なかったので、まだ葛城氏の影響力が健在であったと言われています。


 ですが、『日本書紀』では天皇と一事主は対等に描かれ、その後の役行者に縛られた『日本霊異記』の説話や一言主と思われる神が流刑に遭う『続日本紀』等ではかつての葛城氏の栄光は見る影も無く、一言主は零落していくことになります。


 都夫良意富美と聞いて誰の事か直ぐに分かる方は少ないかと思いますが、血筋の関係も無く、匿っても利益になると思えない様な皇子を庇いながら共に死んだ勇姿の物語を一度は読んで頂きたいと思います。



参考

『上代説話事典』 大久保喜一郎・乾克己/編 雄山閣

『口語訳 古事記 [完全版] 』 訳・註釈 三浦佑之 文藝春秋

『日本古代史「記紀・風土記」総覧』 別冊歴史読本事典シリーズ 新人物往来社『日本書紀(上) 全現代語訳』 宇治谷孟 講談社学術文庫

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