秦造河勝
推古朝における人物でもう一人、秦造河勝について取り上げてみたいと思います。
・『前賢故実. 巻之1』より秦河勝の肖像画
https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816927862988284095
⑴『日本書紀』巻二二推古天皇十一年(六〇三)十一月己亥朔
十一月己亥朔、皇太子、謂諸大夫曰、我有尊佛像、誰得是像以恭拜。時秦造河勝進曰、臣拜之。便受佛像、因以造蜂岡寺。
(
・⑴概略
十一月一日、皇太子は
⑵『日本書紀』巻二二推古天皇十八年(六一〇)十月
丁酉、客等拜朝庭。於是命秦造河勝、土部連菟、爲新羅導者。以間人連臨蓋、阿閇臣大篭爲任那導者。共引以自南門入之立于庭中。時大伴咋連、蘇我豐浦蝦夷臣、坂本糠臣、阿倍鳥子臣、共自位起之進伏于庭。於是兩國客等各再拜、以奏使旨。乃四大夫起進啓於大臣。時大臣自位起、立廳前而聽焉。既而賜祿諸客各有差。
(
・⑵概略
推古天皇十八年冬十月九日、客人たちは帝に拝礼した。このとき、
⑶『日本書紀』巻二四皇極天皇三年(六四四)七月
秋七月、東國不盡河邊人大生部多、勸祭虫於村里之人曰、此者常世神也、祭此神者到富與壽。巫覡等遂詐、託於神語曰、祭常世神者、貧人到富、老人還少。由是、加勸捨民家財寶陳、酒、陳菜、六畜於路側、而使呼曰、新富入來。都鄙之人取常世虫置於清座、歌舞求福、棄捨珍財、都無所益、損費極甚。於是葛野秦造河勝惡民所惑。打大生部多、其巫覡等恐、休其勸祭。時人便作歌曰、禹都麻佐波、柯微騰母柯微騰、枳擧曳倶屡、騰擧預能柯微乎、宇智岐多麻須母。此虫者、常生於橘樹、或生於曼椒。〈曼椒。此云衰曾紀。〉其長四寸餘、其大如頭指許。其色緑而有黒點。其貌全似養蠶。
(秋七月、
「
此の虫は、常に
・⑶概略
皇極天皇三年秋七月、東国の富士川の辺に住む人、
「
(太秦の秦河勝は、神の中の神と評判の常世の神を打ち懲らしめたよ)
この虫は、常に
・⑴⑵⑶解説
⑴は蜂岡寺(広隆寺)の創立縁起、⑵は新羅の使人が朝廷に拝するにあたって導者(引率)を命じられた記事で、これらの記事により秦河勝は実在の人物と考えて良いと言われています。⑷
秦氏は応神朝に南朝鮮から渡来した
河勝が
この見解に対し、むしろ蘇我氏に代表される百済仏教に反対する立場として聖徳太子と結んだ新羅仏教の推進者としてみる立場から、仏教側を代表してではなく、巫覡・巫祝をも氏族として包含していたと考えられる秦氏が民間信仰に影響力を与えられる存在として統制を加えたとする飯島一彦氏の説もあります。⑼
飯島氏の説は恐らく⑴の太子の仏像を河勝が拝受した記事や、⑵の記事にある河勝が導者として新羅の使者を接したことから推測されたものかと思いますが、これらの記事だけをもって河勝が新羅仏教の推進者と断定するのも難しく、単純に仏教側の立場として道教を弾圧したと解釈して良いかと思います。(なお、河勝についてミステリー番組やネット上ではキリスト教と結びつけるトンデモも見受けられるので注意してください。)
・後世の伝承の展開
記紀の時代より後、聖徳太子伝承と結びついた形で、仏法興隆・守護に寄与した人物として語られるようになり、『聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝暦』などに語られる河勝は、広隆寺の創建伝承と関わって語られますが、聖徳太子を護る武将として語られるようになります。
『今昔物語』(表題のみ)、『続古事談』、『広隆寺由来記』さらに番外謡曲「守屋」「太子」などに連なっていく伝承の基底にもその意識が流れており、広隆寺が「葛野秦寺」と称され秦氏の氏寺であったことや、四天王寺と秦氏とのつながりが深かったことなどがこうした伝承を維持せしめたそうです。⑽
・河勝の晩年は危険だった?
⑶の記事より、皇極三年(西暦六四四年)位までは河勝が健在であったことを示しますが、当時の政治は不安定であり、前年の皇極二年(西暦六四三年)には厩戸皇子の子である山背大兄皇子が蘇我入鹿により殺されています。
山背の側近である三輪文屋君は山背に対して、深草の屯倉にのがれ、そこから東国に行き、再起をはかることを勧めています。谷川健一氏によれば、秦河勝の根拠地の太秦と深草は近いところにあり、山城国の深草は京都伏見区深草稲荷から深草大亀谷にかけての地で、山城国の葛野郡太秦につぐ秦氏の有力な根拠地であり、三輪文屋君は山背大兄皇子に秦氏に頼れと進言したに等しいそうです。そこで入鹿の迫害を感じた河勝は身の危険を避けるために太秦を離れ、ひそかに難波から弧舟に身を委ねて西播磨に逃れ、秦氏が培った土地に隠棲したと推測される⑾以下の伝承が伝えられています。
⑿『風姿花伝』神儀篇
彼河勝、欽明、敏達、用明、崇峻、推古、上宮太子に仕へ奉り、此芸をば子孫に伝へ、〔化人〕跡を留めぬによりて、摂津国難破の浦より、うつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国
⒀『明宿集』
業ヲ子孫二譲リテ、世ヲ背キ、
『風姿花伝』には「化人跡を留めぬ」とあり、『明宿集』には「世ヲ背キ」とあり、これは、言外に河勝が置かれていた当時の困難な政治的状況をほのめかす言葉でもあり、一方河勝が播磨国での隠棲生活を目指したというのは、そこが都から遠く離れて、追手の力が及ばぬところであったと言う地理的条件に加えて、播磨が秦氏の一大勢力の拠点であったからでもあり、つまり河勝の亡命にとって安全な場所であったからだそうです。⒁
なお、河勝は大化三年(西暦六四七年)に八十三歳で播磨国の坂越で死んだと伝えられていますが、伝承の域を出るものでは無く、また河勝は播磨国で不遇な晩年を送り、死後は霊神となって、諸人に憑き、祟りをなしたと、『風姿花伝』も『明宿集』も伝えており、それは河勝の荒びた晩年の心境を伝えたものであろう⒀とも谷川氏が述べていますが、流石に室町時代の文書から七世紀の史実性を読み解くのは無理があるかと思います。とは言え、推古天皇十八年(六一〇)から皇極天皇三年(六四四)まで、実に三十四年もの空白の期間があることは上宮家の失墜と関係があることは想像に難くありません。
⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社編 経済雑誌社
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/196
『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/49
⑵『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社編 経済雑誌社
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/200
『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/54
⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社編 経済雑誌社
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/218
『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/76
⑷『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 232ページ
⑸『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 235ページ 注八
⑹『日本書紀通證 35巻 廿八、廿九』谷川士清 撰述 五條天神宮
https://dl.ndl.go.jp/pid/12865758/1/23
⑺『日本書紀通釈 第5 増補正訓』飯田武郷 著 日本書紀通釈刊行会
https://dl.ndl.go.jp/pid/1115865/1/32
⑻『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 225ページ 注一
⑼『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 233ページ
⑽『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 233ページ
⑾『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』 河出書房新社 谷川健一 222ページ
⑿『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』 河出書房新社 谷川健一 222ページ
⒀『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』 河出書房新社 谷川健一 223ページ
⒁『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』 河出書房新社 谷川健一 223ページ
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