秦造河勝

 推古朝における人物でもう一人、秦造河勝について取り上げてみたいと思います。


・『前賢故実. 巻之1』より秦河勝の肖像画

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816927862988284095



⑴『日本書紀』巻二二推古天皇十一年(六〇三)十一月己亥朔

十一月己亥朔、皇太子、謂諸大夫曰、我有尊佛像、誰得是像以恭拜。時秦造河勝進曰、臣拜之。便受佛像、因以造蜂岡寺。


十一月しもつきの己亥つちのとのゐのついたちのひ皇太子ひつぎのみこもろもろ大夫まへつきみかたりてのたまはく、「我れに尊き佛像ほとけのみかた有り、誰か是の像を得てうらやひ拜む」。時に秦造河勝はたのみやつこかはかつ進みて曰く、「やつがれをがみまつらむ」。便ち佛像ほとけのみかたを受けて、りて以て蜂岡寺はちおかでらを造る。)


・⑴概略

 十一月一日、皇太子はもろもろ大夫まへつきみに、「私は尊い仏像が有る。誰か是の仏像をお祀りしないか」と言われた。この時に秦造河勝はたのみやつこかはかつが進んで申し出て、「やつがれがお祀りしましょう」と言った。仏像を頂き、蜂岡寺はちおかでら(今の広隆寺)を造った。




⑵『日本書紀』巻二二推古天皇十八年(六一〇)十月 丁酉九日

丁酉、客等拜朝庭。於是命秦造河勝、土部連菟、爲新羅導者。以間人連臨蓋、阿閇臣大篭爲任那導者。共引以自南門入之立于庭中。時大伴咋連、蘇我豐浦蝦夷臣、坂本糠臣、阿倍鳥子臣、共自位起之進伏于庭。於是兩國客等各再拜、以奏使旨。乃四大夫起進啓於大臣。時大臣自位起、立廳前而聽焉。既而賜祿諸客各有差。


丁酉ひのとのとりのひ客等まろうとたち朝庭みかどをがむ。是に於て秦造河勝はたのみやつこかはかつ土部連菟はじのむらじうさぎに命せて、新羅しらき導者みちびきひとす。間人連臨蓋はしひとのむらじしほふた阿閇臣大篭あべのおみおほこを以て任那みまな導者みちびきひとす。共に引きて南門みなみのみかどより入りて庭中おほにはに立たしむ。時に大伴咋連おほとものくひのむらじ蘇我豐浦蝦夷臣そがのとようらのえみしのおみ坂本糠臣さかもとのぬかてのおみ阿倍鳥子臣あべのとりこのおみ、共にくらゐよりちて、進みておほばに伏す。是に於て兩國ふたつのくに客等まろうとたちおのおの再拜をがみて、以て使のむねまうす。乃ち四大夫よたりのまへつきみち進みて大臣おほおみまをす。時に大臣位おほおみくらゐより起ちて、まづりことやに立ちて聽く。既にして諸客もろもろのまらうと賜祿たまものすること各差有おのおのしなあり。)


・⑵概略

 推古天皇十八年冬十月九日、客人たちは帝に拝礼した。このとき、秦造河勝はたのみやつこかはかつ土部連菟はじのむらじうさぎに命じて、新羅の導者とした。間人連臨蓋はしひとのむらじしほふた阿閇臣大篭あべのおみおほこを任那の導者みちびきひととした。共に南門より入って御所の庭に立った。大伴咋連おほとものくひのむらじ蘇我豐浦蝦夷臣そがのとようらのえみしのおみ坂本糠臣さかもとのぬかてのおみ阿倍鳥子臣あべのとりこのおみ、共に席を立って、中庭に進んで伏した。両国の客人はそれぞれ拝礼して使のむねを奏上した。四人の大夫は前に進んで(蘇我馬子)大臣に申し上げ、その時に大臣は席を起ち、政庁の前に立って聽いた。終わって客人等にそれぞれに応じた賜物があった。




⑶『日本書紀』巻二四皇極天皇三年(六四四)七月

秋七月、東國不盡河邊人大生部多、勸祭虫於村里之人曰、此者常世神也、祭此神者到富與壽。巫覡等遂詐、託於神語曰、祭常世神者、貧人到富、老人還少。由是、加勸捨民家財寶陳、酒、陳菜、六畜於路側、而使呼曰、新富入來。都鄙之人取常世虫置於清座、歌舞求福、棄捨珍財、都無所益、損費極甚。於是葛野秦造河勝惡民所惑。打大生部多、其巫覡等恐、休其勸祭。時人便作歌曰、禹都麻佐波、柯微騰母柯微騰、枳擧曳倶屡、騰擧預能柯微乎、宇智岐多麻須母。此虫者、常生於橘樹、或生於曼椒。〈曼椒。此云衰曾紀。〉其長四寸餘、其大如頭指許。其色緑而有黒點。其貌全似養蠶。


(秋七月、東國あづま不盡河ふじかはほとりの人 大生部多おほふべのおほ、虫を祭ることを村里むらさとの人にすすめて曰く、「此は常世とこよの神なり、此の神を祭る者は富といのちとをいたさむ」。巫覡かむなぎつひあざむきて、神語かむごとけて曰く、「常世の神を祭る者は、貧しき人は富を到し、老人おきなわかきにかへらむ」。是に由りて、加勸ますますすすめて民家おほむたから財寶たからを捨てしめ、酒、六畜むくさのけものみちほとりつらねて、呼ばしめて曰く、「にひしきとみ入來きたれり」。都鄙みやこひなひと常世とこよの虫を取りて清座しきゐに置く、歌ひ舞ひてさきはひいのり、珍財たから棄捨つ、かつまさる所無し、損費おとりつひゆる極めてはなはだし。ここ葛野秦造河勝かどののはたのみやつこかはかつの惑はさるるをにくみて大生部多おほふべのおほを打つ、其の巫覡等かむなぎら恐れて、其のすすめ祭ることを休めつ。時の人 便すなはち歌を作りて曰く、


太秦ウヅマサハ神神カミトモカミト聞来キコエクル常世神トコヨノカミト打罰ウチタマスモ


此の虫は、常にたちばなの樹にうまる、或は曼椒ほそきに生る。〈曼椒。此をホソキと云ふ。〉其の長さ四寸餘よきあまり、其の大きさ頭指おはよひばかりの如し。其の色緑にして有黒點くろまだらなり。其の貌全かたちもは養蠶かひこに似たり。)


・⑶概略

 皇極天皇三年秋七月、東国の富士川の辺に住む人、大生部多おほふべのおほは、虫を祭ることを村人に勧めて言うには、「これは常世とこよの神である。この神を祭る者は富と長寿を得る」と。巫覡かんなぎたちはあざむいて神託を述べ、「常世の神を祭る者は、貧しい人は富者となり、老人は若返る」と。そして、ますます、人々に財産を捨てさせ、道端に酒、菜、肉などの捧げものをして、呼ばわしめた。「新しい富がやってきた」と。都鄙みやこひなの人々は常世とこよの虫を祭って、歌舞し、幸福を祈って財産を捨てた。全く利益が無く、損害が甚しい。そこに葛野秦造河勝かどののはたのみやつこかはかつが民が惑わされる事を憎んで大生部多おほふべのおほを打ち懲らしめた。巫覡等かんなぎらは恐れて、其の祭りを勧める事を止めた。時の人々が歌を作りて言うには、


太秦うづまさは、神とも神と、聞こえ来る、常世の神と、打ちきたますも」

(太秦の秦河勝は、神の中の神と評判の常世の神を打ち懲らしめたよ)


 この虫は、常にたちばなの樹に、或いは曼椒ほそきに生まれる。その長さは四寸ほど、太さは親指ぐらい。その色は緑で黒いまだらがある。その姿は蚕に似ていた。




・⑴⑵⑶解説

 ⑴は蜂岡寺(広隆寺)の創立縁起、⑵は新羅の使人が朝廷に拝するにあたって導者(引率)を命じられた記事で、これらの記事により秦河勝は実在の人物と考えて良いと言われています。⑷


 秦氏は応神朝に南朝鮮から渡来した弓月君融通君の子孫と伝える帰化人の雄族で、中国系を称し、山城の葛野を本居とし、京都盆地・淀川北岸一帯・近江の朴市ちえ(愛智)などに広く藩延しました。造姓で、のち天武十二年九月に連、同十四年六月に忌寸に改姓、その一部は延暦年間に宿禰に改姓しました。⑸


 河勝が大生部多おほふべのおほを討った理由は大生部が秦氏の所摂であったからだという谷川士清の『日本書紀通証』⑹の説と、東国国司などに任せられて、その国に下ったのかという飯田武郷の『日本書紀通釈』⑺の説が言われていますが、河勝が仏教を代表させ民間信仰的な道教を圧えたということをあらわすとも言います。⑻


 この見解に対し、むしろ蘇我氏に代表される百済仏教に反対する立場として聖徳太子と結んだ新羅仏教の推進者としてみる立場から、仏教側を代表してではなく、巫覡・巫祝をも氏族として包含していたと考えられる秦氏が民間信仰に影響力を与えられる存在として統制を加えたとする飯島一彦氏の説もあります。⑼


 飯島氏の説は恐らく⑴の太子の仏像を河勝が拝受した記事や、⑵の記事にある河勝が導者として新羅の使者を接したことから推測されたものかと思いますが、これらの記事だけをもって河勝が新羅仏教の推進者と断定するのも難しく、単純に仏教側の立場として道教を弾圧したと解釈して良いかと思います。(なお、河勝についてミステリー番組やネット上ではキリスト教と結びつけるトンデモも見受けられるので注意してください。)



・後世の伝承の展開

 記紀の時代より後、聖徳太子伝承と結びついた形で、仏法興隆・守護に寄与した人物として語られるようになり、『聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝暦』などに語られる河勝は、広隆寺の創建伝承と関わって語られますが、聖徳太子を護る武将として語られるようになります。


 『今昔物語』(表題のみ)、『続古事談』、『広隆寺由来記』さらに番外謡曲「守屋」「太子」などに連なっていく伝承の基底にもその意識が流れており、広隆寺が「葛野秦寺」と称され秦氏の氏寺であったことや、四天王寺と秦氏とのつながりが深かったことなどがこうした伝承を維持せしめたそうです。⑽



・河勝の晩年は危険だった?


 ⑶の記事より、皇極三年(西暦六四四年)位までは河勝が健在であったことを示しますが、当時の政治は不安定であり、前年の皇極二年(西暦六四三年)には厩戸皇子の子である山背大兄皇子が蘇我入鹿により殺されています。


 山背の側近である三輪文屋君は山背に対して、深草の屯倉にのがれ、そこから東国に行き、再起をはかることを勧めています。谷川健一氏によれば、秦河勝の根拠地の太秦と深草は近いところにあり、山城国の深草は京都伏見区深草稲荷から深草大亀谷にかけての地で、山城国の葛野郡太秦につぐ秦氏の有力な根拠地であり、三輪文屋君は山背大兄皇子に秦氏に頼れと進言したに等しいそうです。そこで入鹿の迫害を感じた河勝は身の危険を避けるために太秦を離れ、ひそかに難波から弧舟に身を委ねて西播磨に逃れ、秦氏が培った土地に隠棲したと推測される⑾以下の伝承が伝えられています。


⑿『風姿花伝』神儀篇

 彼河勝、欽明、敏達、用明、崇峻、推古、上宮太子に仕へ奉り、此芸をば子孫に伝へ、〔化人〕跡を留めぬによりて、摂津国難破の浦より、うつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国 坂越しゃくしの浦に着く。浦人舟を上げてみれば、かたち人間に変(れ)り。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす。則、神と崇めて、国豊也。「大きに荒るる」と書きて、大荒大明神と名付く。今の世に霊験あらた也。


⒀『明宿集』

 業ヲ子孫二譲リテ、世ヲ背キ、空舟うつほぶね二乗リ、西海ニ浮カビ給イシガ、播磨ノ国 南波尺師なはしゃくしノ浦ニ寄ル。蜑人あまびと舟ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。当所近離ニ憑キ祟リ給シカバ、大キニ荒ル神ト申ス。スナワチ大荒神だいくわじんニテマシマス也。



 『風姿花伝』には「化人跡を留めぬ」とあり、『明宿集』には「世ヲ背キ」とあり、これは、言外に河勝が置かれていた当時の困難な政治的状況をほのめかす言葉でもあり、一方河勝が播磨国での隠棲生活を目指したというのは、そこが都から遠く離れて、追手の力が及ばぬところであったと言う地理的条件に加えて、播磨が秦氏の一大勢力の拠点であったからでもあり、つまり河勝の亡命にとって安全な場所であったからだそうです。⒁


 なお、河勝は大化三年(西暦六四七年)に八十三歳で播磨国の坂越で死んだと伝えられていますが、伝承の域を出るものでは無く、また河勝は播磨国で不遇な晩年を送り、死後は霊神となって、諸人に憑き、祟りをなしたと、『風姿花伝』も『明宿集』も伝えており、それは河勝の荒びた晩年の心境を伝えたものであろう⒀とも谷川氏が述べていますが、流石に室町時代の文書から七世紀の史実性を読み解くのは無理があるかと思います。とは言え、推古天皇十八年(六一〇)から皇極天皇三年(六四四)まで、実に三十四年もの空白の期間があることは上宮家の失墜と関係があることは想像に難くありません。



⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社編 経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/196

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/49


⑵『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社編 経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/200

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/54


⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社編 経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/218

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/76


⑷『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 232ページ


⑸『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 235ページ 注八


⑹『日本書紀通證 35巻 廿八、廿九』谷川士清 撰述 五條天神宮

https://dl.ndl.go.jp/pid/12865758/1/23


⑺『日本書紀通釈 第5 増補正訓』飯田武郷 著 日本書紀通釈刊行会

https://dl.ndl.go.jp/pid/1115865/1/32


⑻『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 225ページ 注一


⑼『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 233ページ


⑽『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 233ページ


⑾『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』 河出書房新社 谷川健一 222ページ


⑿『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』 河出書房新社 谷川健一 222ページ


⒀『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』 河出書房新社 谷川健一 223ページ


⒁『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』 河出書房新社 谷川健一 223ページ

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