元カレは守りたい。「……なんで僕と結婚したいんだ?」
結女のほうからすればきっと意味不明で唐突だっただろうデート事件も、僕のほうからすれば連綿と続いた出来事の果てに起こった終着点だったりする。
なんやかんやと理由をつけて当人への説明は避けたが、実はあのデートには、結女が風邪をひいて学校を休んだすぐ後からずっと続いていた、彼女に迫る一種の危険に対する防護策、という意味合いがあった。
もちろん、この頓珍漢な作戦を考えたのは僕ではなく、川波小暮という名前の馬鹿野郎であり、ヤツには事が終わった後で30分ほど嫌味の雨を降らせておいたのだが、結果として危機は去ったので良しとしよう。
――あたしと、結婚を前提に付き合ってくれない?
風邪をひいた結女を看病したその翌日、放課後の図書室で事は始まった。
そう――夕暮れに照らされた本棚の傍で、僕がとある女子からプロポーズを受けた、あのときから。
※※※
入学してからというもの放課後は直帰が基本だった僕だけど、ここ数日ほどは図書室に寄るのが日課になっていた。単なる高校の図書室の割には品揃えがいいことに気が付いたのだ。いかな乱読派の僕とはいえ高校生の財力には限りがあり、なれば専門書からライトノベルまで幅広いラインナップが揃えられたこの図書室は、心強い味方になってくれるはずだった。
「……スレイヤーズの1巻だと……」
この日も僕は、化石を発掘しに来た研究者のごとく、本棚という名の地層を掘り返してみては新たな発見に驚愕していた。この時代を感じさせる表紙イラスト。ボロボロになったカバーの端。いったい何年前に入荷されたんだ。貸出カードにずらりと並んだ名前に歴史を感じながら、定位置にしつつある窓際に移動する。
僕は昔から、堂々と図書館の席を占有するのが苦手だった。なんでなのかはわからないけれど、まあたぶん、隣に知らない誰かが座るのが嫌なんだろうと思う。電車に乗るときだって立ったままでいることの多い僕のことだ――本を読むというパーソナルな行為を見ず知らずの誰かに妨害されることが、本能的に我慢ならないに違いない。まあその割には教室で読書したりしているのだが。
夕方のほんの少し手前にある陽光を背中に受けながら、ページをめくっていく。へえー。こんなんなんだ、スレイヤーズって。何だか有名な観光名所に実際に足を運んだときみたいな気分になるな。
そうして観光旅行ならぬ観光読書に耽っていたときのことだった。そっと、僕の隣に、誰かが立ったのだ。
はて。
本棚からは2メートルほど離れているが――窓から何か見えるのだろうか?
本から目を上げると、二房のおさげを両肩から前に垂らした女の子が、フレームの太い黒縁眼鏡越しに、大きな瞳をこっちに向けていた。
「…………?」
後ろを見る。壁しかない。
何を見ているんだろう? まさか僕のわけないし……。
「いやいやいや、キミ以外に誰がいるのっ。まさか霊感とかあっちゃうタイプ?」
……おや?
おさげに黒縁眼鏡の、いかにも私真面目ですと言わんばかりの女子は、しかしどこか垢抜けた、弾むような快活さを感じさせる調子で喋った。
奇妙な気分だ。洋画の吹き替え声優が全然合ってないときみたいな。
「いやー、探しちゃったよ、伊理戸くん。まさかこんな端っこにいるとはね。座らないの?」
「……いや、それどころじゃない」
「どゆこと? あ、痔? 座るのがキツいとか?」
「慣れ慣れしく話しかけてきた見た目と性格が致命的にちぐはぐな女子が、実のところ完全に初対面だからだ」
誰だ、こいつ?
こんな今時珍しい女学生ルックの奴がいたら、さすがの僕も覚えてるはずだけどな。
「お。もしかしてわかんない? やったねっ! 変装してきた甲斐があったってもんだ!」
「……変装?」
「ちょっと待ってね――」
女学生ルックの女子は俯いて顔を隠すと、眼鏡を外し、髪を縛るゴムを取り、下ろした髪を手で頭の後ろにまとめた状態で、再び顔を上げた。
「こんにちはっ! これでわかるでしょっ?」
「――あ」
わかるも何も――つい昨日、我が家に上がらせた人間だ。
そのポニーテールに、よく見たら体格も同じくらい小柄――小動物を思わせる雰囲気。
「……南さん?」
「せいかいっ! どお? 真面目系も結構似合うでしょ、あたし?」
眼鏡を掛け直し、手早くおさげを結い直して、
結女とよくつるんでいる女子の一人であり、つまりこの高校でもトップカーストに属する人だった。なのに、すごいな、喋りさえしなければどこからどう見ても真面目系女子だ――つくづく、人は見た目が9割である。
「ちょっと人目につきたくなくってさ、イメチェンしてみましたーっ! 伊理戸くんと喋ってるのが似合いそうな感じにしてみたよっ!」
「……喋ると化けの皮がべりべり剥がれるから、残念ながらそのコンセプトは破綻してるな」
「え、マジ?」
「そうじゃなくても、ここは図書室だから声量は落としてくれると嬉しい」
「わっちゃー。そっかそっか。……このくらいで、いいかな?」
声量と一緒にテンションも落ちた。どうやらボリューム調整機能に大いなる欠陥を抱えているみたいだ。
「……それで? そもそも基本的に私語厳禁だから、用があるなら早めに済ませてくれ」
「ん、わかった。それじゃあね、伊理戸くん、あたしと結婚を前提に付き合ってくれない?」
「……………………」
へたっくそな翻訳小説を読んだときみたいに、読解力がサボタージュした。
「…………ごめん。なんて言った?」
「えー? もう、ちゃんと聞いてよー」
南さんは距離を少し近付けると、黒縁眼鏡の奥からまっすぐ僕を見つめながら、一言一句繰り返す。
「伊理戸くん、あたしと結婚を前提に付き合ってくれない?」
……あれ? 僕としたことが、二回も聞き間違えたか?
付き合って……というか、結婚を前提に、という言葉が聞こえたような気がするんだが?
「あれー? これでもまだ聞こえないの? あたしと付き合ってって言ったの。彼女。恋人。将来的に夫婦になることを見越しつつ、あたしを伊理戸くんのそういうのにしてってお願いしてるんだよ?」
「…………ごめん。聞こえてはいるんだが、意味がさっぱり理解できない」
もしかして、僕、高校入学1ヶ月を待たずして、クラスメイトに告白されてる?
っていうかプロポーズされてる?
……オーケイ、落ち着け。これは何かの罠だ。もしくは勘違いだ。クールに情報を集め、クレバーに判断を下していけ。
「……南さん、僕と結婚したいのか?」
「したい」
「……南さん、僕のこと好きなのか?」
「結婚してもまあいいかなと思える程度には」
「……南さん……なんで僕と結婚したいんだ?」
「それはねっ!」
一気に元のテンションに戻って、南さんは満面の笑みで答えた。
「伊理戸くんと結婚したら、結女ちゃんの妹になれるから!」
「………………………………………………………………………………」
わかんねえ。
『――で、その後、伊理戸さんの良さを滔々と説かれたわけか。あたかもキャッチセールスのように』
「そういうわけだ……」
その日の夜。僕は自室で、友人の川波小暮に繋がったスマホを耳に当てたまま、深い深い溜め息をついた。
「わけがわからん……。なんなんだ、あれは……。南さんってあんな人だったのか……?」
『あんな人だったんだぜ。最悪だろ? はっはっは!』
川波はなぜか上機嫌だった。……なんだろう。まるで理解者を得たオタクみたいなテンションの高さだ。
『擬態を覚えただけマシってもんだ。前はアレが垂れ流しになってたからよ。同じ中学の人間がほとんどいない高校を選んだのも、その辺が理由だろうぜ』
彼女も高校デビュー組だったのか。結女といい、多いなデビュー組。
「彼女は……その、一体どういう人なんだ? 川波、君、確か南さんと前から知り合いだったんだろ?」
『熱しやすく、まるで冷める気配がない――それが南暁月だ』
いつもより幾許かの真面目さを乗せた声色で、川波は告げた。
『何かに入れ込んだら一直線。しかも時を追うごとに温度を上げていく。制御の利かなくなった原子力発電所みてえなもんさ。周囲に有害物質を撒き散らした末に、最終的には大爆発』
ドカーン、と川波は通話口の向こうでお茶らけるように言う。
「爆発……するのか?」
『するんだよ。ただし、入れ込まれたほうがな』
「どういうことだ?」
『こんな話がある。中学の頃、南には彼氏がいたんだ』
「そうなのか」
『そうなんだ。馬鹿な男もいたもんだろ? もちろん南は尋常じゃなく入れあげた。できうる限りすべての時間を一緒に過ごして、あれもこれもと何もかもを世話した。彼氏のほうも、まあ最初は心地よかったわけだ。好きな女が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるんだから、嬉しくないわけがない』
妙に実感が籠もってるな……と思ったが、口を挟まないでおいた。
『ところが1ヶ月後。……どうなったと思う?』
「……嫌になって別れた、とかか?」
『それなら平和だったんだがな。――彼氏のほうが、ストレスで倒れて入院した』
「は?」
いや、ちょっと待て。
甲斐甲斐しく世話を焼かれていたんだろう? 逆に世話を焼かされていたならともかく、どうして焼いてもらっていたほうが倒れることになる?
『猫なんかでも、べたべた触って可愛がりすぎるとストレスになるって話、知らねーか? 南暁月はそれを人間相手にやる女なんだ。好きなものを可愛がり殺しちまうんだよ』
「可愛がり……殺す」
『まあその彼氏はなんとか生き返って、今もピンピンしてっけどな。聞いた話じゃ、実際ペットを何匹か死なせちまってるらしいぜ。……昨日、南と一緒に伊理戸さんをお見舞いしたんだよな? 何か片鱗はなかったか?』
……そういえば。
あ~んとか、ふーふーとか、知り合って1ヶ月も経たない友達の割には、看病が妙に甲斐甲斐しくなかったか?
『はっは。相変わらずの一目惚れか。そうかあ、なるほどなあ。男がダメなら女に行くか。その発想はなかった』
「……どうした?」
『いやいやこっちの話。……にしても、直接伊理戸さんに行かずにあんたに行く辺り、思考回路がねじくれてやがるな。将を射んとする者は、ってヤツか? あるいは、別に恋愛対象として見てるんじゃあねーのかもな。本当に妹になりたいだけなのかもしれねえ。「お姉ちゃん」としての伊理戸さんに入れ込んでるのかもな』
「あいつにそんな『お姉ちゃん』っぽさあるか?」
『知るか。南の感性なんてわかってたまるかよ』
川波の口調は吐き捨てるかのようだった。いつも冗談半分で喋っているこいつらしくもない。
『ともあれ、大事なのはひとつだ。……伊理戸、あんたに南と結婚する気はあるか?』
「これっぽっちもないな。僕は放っておいてほしいタイプなんだ」
『だろうな。じゃあ曖昧な態度は取らずに、はっきりと拒絶し続けろ。目的があんた自身じゃなくて伊理戸さんな分、しつこいかもしれねーけどな。……もしあいつのやることの度が過ぎたら、もう一回相談してくれ。そのときはもっと直接的な策を講じるぜ』
そういうわけで、川波のアドバイスに従い、僕はまとわりついてくる南さんを徹底的に拒んで無視して否定した。
「あの……ねえ、ちょっと。結婚してよ」
「ああ。それな。絶対に嫌だ」
こんな具合に。
繰り返しているうちに何だか手慣れてきてしまって、最終的には「あの……」と「ああ」だけでこのやり取りが成立するまでになってしまった。南さんはとにかく愚直で、とりあえず一回はまったく同じ台詞でプロポーズを繰り返すのである。
だから盲点だった。
僕の見ていないところでこそこそ動くようなこと、しないタイプだと思っていたのだ――人は見た目が9割。内面にある真実なんて、外には1割も表れはしないのに。
「逃がしたでしょ! さっき! 連れ込んでた女を!」
ある日の放課後。いつの間にか家に帰ってきていた結女が、唐突にそんな言いがかりをつけてきた。
曰く、玄関に女物のローファーがあったらしい。そんな馬鹿な。どうせ自分のを見間違えたんだろうと思った僕だったが、証拠だと言って結女が見せてきた件のローファーの動画を見て、これは笑い事じゃないと思い直した。
本格推理小説を愛好し、証拠と称して動画まで用意するくせに、この女は肝心なところで注意力が足りていない――いや、これは仕方がないか。まさか僕が、自分の友達を家に連れ込んでいるとは思うまい。
ローファーのサイズがかなり小さかった。そう――南さんくらい小柄じゃなければ、このサイズの靴は履けない。
玄関扉のノブを回すと、鍵が開いていた。つまりこれは、この家の鍵を持っていない人間が外に出た直後だということだ。だとしたら、入ったのはいつ、どうやってだ?
……心当たりがあった。帰宅して部屋まで上がったあと、玄関を閉め忘れた気がして戻ったのだが、やっぱりちゃんと閉まっていたのだ。たぶん、このときにはすでに、この小さなローファーは存在したんだろうと思う。上がりかまちの陰になって気付かなかっただけで。
やられた。
内鍵を閉めたかどうかは、外からでも音を聞いていればわかる――ここのところ、南さんは下校時にも僕にまとわりついていた。たぶんそれは僕を口説き落とすためばかりではなかったのだろう。あるいは僕が鍵を閉め忘れたのに気付いて、衝動的にやってしまったのかもしれない。ローファーを隠していないことからも、後者の可能性が高そうだ……。
いずれにせよ、僕と結婚し、結女の妹になりたがっている南暁月が、我が家に不法侵入を果たし、ずっと自室にいた僕に姿を見せないまま立ち去った。これが事実のようだった。
であれば、彼女がいたのは結女の私室であると考えざるを得ない――結女の私物が何かなくなっている可能性がある。
そう思った僕は結女に部屋をチェックさせたが、どうやら南さんは盗みを働くほど堕ちてはいなかったみたいだ。もしかしたら下着の匂いを嗅いだりベッドでごろごろしたりくらいはやっていたかもしれないが、まあ減るもんでもなし大目に見よう。
とはいえ、彼女は越えてはいけないラインを越えていた。
事前に決めていた通り、僕はすぐに頼もしい友人・川波小暮に連絡を取った――事情を聞いた川波は真剣な声でこう言った。
『……どうやらあの女、これっぽっちも懲りてねーらしい。一刻も早く、伊理戸さんのことを諦めさせる必要がある。クラスメイトから前科者は出したくねーからな』
「僕だってそうだよ。でも具体的にどうすればいい?」
『簡単だよ。――伊理戸さんとデートしろ』
は?
『幸い伊理戸さんにはブラコン疑惑がある。ほら、入学直後に、伊理戸さんがあんたを助けるために使った方便さ』
「ああ、まあ……覚えてるが。なんでデート?」
『いいか? もしそれが事実だと南に思わせることができたなら、あいつはお前の嫁なんぞになってもかえって伊理戸さんに嫌われちまうだけだって判断するようになるはずだ。そうなれば万事解決! というわけで、伊理戸水斗よ――』
さっきの真面目な声音はどこに行ったのか、全力で楽しそうな声で川波は宣言した。
『――伊理戸さんを守るため、南にラブラブきょうだいデートを見せつけるのだ!』
アホかと思ったが、口惜しくも対案が思い浮かばなかった。
悪足掻きのように『逆上されたらどうする』と懸念点を指摘してみたら、『そんときゃ取り押さえちまおうぜ。オレも護衛として影から見てるからよ』と返され、いよいよもって退路を断たれる。
こうして、僕は結女とデートしなければならないことになってしまったのだ。
当日、待ち合わせ場所に行く前に川波と落ち合うと、知り合ったばかりの友人は失礼にも「う~~~~~~~ん……」と盛大に首を傾げやがった。
「……お前さあ……コンビニ行くんじゃねーんだぞ?」
「……? 知ってるが」
「だったらなんだよその気合いの欠片も感じらんねー格好は! あんたはこれからあの伊里戸さんをメロッメロにしなきゃいけねーんだぞ!? ベストを尽くせ、ベストを!」
事が事――というか犯人が犯人なので、事情を結女に話すわけにはいかなかった。つまり二人で協力して演技をするという手は使えない。それゆえ、僕は結女のことを本気で口説き落とさなければならないのだ。
まったくもって不本意極まるが、まあ見ず知らずの女だというならともかく、付き合っていたことのある相手だ、好みはちゃんとわきまえている――つもりだったのだが……。
……付き合ってる頃もこの格好でデートしてたんだけどな?
「まあそんなこったろうと思って、こっちでいろいろ用意しといたけどな。おら、これに着替えろ! そのあと髪をセットするぜ!」
「髪をセット? ……ああ、あの髪の毛を蝋人形みたいに固めるやつか」
「認識が怖えーよ!」
小一時間ほど塗装されるプラモデルのような気持ちでいると、川波は改めて僕の姿を見て、何やら愕然としていた。
「……やべえ、なんか自信なくなってきた」
「やっぱり似合わないだろ、こんなの」
「逆だバカ。磨けば光ると思っちゃいたが……」
とにかく完成らしい。すこぶる気が進まなかったが、川波が「だーいじょうぶ! ぜぇーったい大丈夫だって! ぶっちゃけこの見てくれがあったら小細工なんもいらねー!」と繰り返すので、しぶしぶ待ち合わせ場所へと向かった――メンタルが歩調に表れてしまったか、時間からは少し遅れてしまった。
待ち合わせ場所にいた結女は、遠目にもわかるくらい不機嫌そうな気配を撒き散らしていた。縄張りを荒らされた狼みたいだ。その周囲だけちょっとしたエアポケットになっている。
とはいえ、この女の不機嫌など慣れたものである。僕は普通に話しかけた。
まったく似合わない格好を笑われるのを覚悟したが、あにはからんや、振り返った結女は川波とまったく同じように唖然と口を開けた。
「…………かっっっ――――」
「か?」
首を傾げると、結女は慌てて目を逸らした。……視界に入れたくないくらい似合わないってことか。
まったく……初っ端からミッションの難易度が上がったぞ、川波。
頭をガリガリ掻こうとして思い留まる。そういえば整髪料で髪がガチガチに固まっているのだった。
まあ、僕の見た目なんて最初からあってなきが如しだ。過去のこととはいえ、そんな奴と大喜びで付き合っていたのがこいつなのだから、別の部分での挽回はきっと可能だと信じたい。
まずは行動だな。川波に教えられたことをひとつひとつ思い出していく。
「時間が押したな。早めに移動しよう」
ちょっとためらったものの、できるだけ自然に結女の手を引いた。
強引でありつつも優しさを感じられるような強さで――って、めちゃくちゃな注文しやがって。
「……っ!」
幸い、怒鳴られるようなことにはならなかった。ここらは人が多い。この女のことだから、体面を気にして黙っているのかもしれない。
僕はそう思ったのだが、結女は結局、ずっと黙りっぱなしだった――話しかけても何やら上の空で、ははあ、やはり今さら僕とデートなんて気が乗らないということか。
こんな状態じゃあ意味なんてなかったかもしれないけれど、僕はできる限り紳士的な行動を取り続けた。車道側を歩いたり通行人から庇ったり信号待ち中に話題を振ったり、なんとまあ涙ぐましい努力か。だが基本的に小姑体質な結女なら、こういう細かいことも見ているに違いない。そうじゃなかったらやらん。
とはいえ、傍から見ているに過ぎない南さんには、こんなことを繰り返していても効果はないだろう――川波は僕が結女と一緒に出掛けると知れば、南さんは必ず覗きに来るはずだと言っていた。今も僕たちを見ているはずだ。
「……仲いいねー。羨ましい……」
「……おい、あんま見るなよ……」
すれ違ったカップルのそんな会話が耳に届き、僕は危うく振り返りかけた。
帽子を被っていて顔はよく見えなかったけれど、間違いない――川波と南さんだった。
川波は僕と結女、そしてそれを覗く南さんを監視しておいてくれる手筈だったが、どうやら先に南さんに見つかってしまったようだ。それで結局、直接監視になったというところか。結女にバレないように川波が計らってくれているみたいだった。
「……うふ。うふふふふふふふふふ……」
隣の結女が唐突に気持ち悪い笑い声を発した。
「どうした?」
「あ、いや、別に何でも」
川波たちに気付いたのかと一瞬思ったが、二人がいる背後を気にする様子はない。もしバレていたら遠回しな嫌味や皮肉が嵐のように飛び出していたことだろうが、結女が口にしたのはこれからの行き先だった。
かつて付き合っていた頃、僕らのデートと言ったら本屋か図書館か古本市、というのが定番だったので、僕は彼女持ちの過去があるくせにデートコースをろくに知らない。だから目的地についても川波が考えておいてくれた。
曰く、遊園地は待ち時間がもたないかもしれないし映画館は趣味の違いが出るので水族館辺りが一番無難だ、という話だ。
『特にこの水族館はデートに最適だぜ。適度にひと気があり適度に薄暗く適度に名前の聞いたことのある魚がいて適度に見応えがある。距離を縮めるチャンスがたくさんある一方で必死こいて喋りまくる必要もない』
『まるでずいぶんとお世話になったかのような言い草だな』
『ノーコメント』
そういうわけで、僕たちは初めての水族館デートと洒落込む運びになったのだ。
道中、スマホに川波から連絡があった。どうやら南さんとカップルのフリをして水族館の中までついてくるようだ。奇妙なダブルデートもあったもんだな。
当たり前のように結女の分まで入館料を払い、水族館に入る。
「けっこう薄暗いんだな。はぐれるなよ」
「わ、わかってるわよ。子供じゃないんだから……」
まだ付き合い始める前、地元のお祭りに二人で行ったら見事にはぐれて、やっと見つけたと思ったら半泣きになってたのは誰だったっけな。
――と言いかけたのをギリギリで我慢し、「ん」と短くうなずくに留めた。
危ない危ない。ここまで結女が妙に静かだったから大丈夫だったが、喋り始めるといつもの調子が出るな。
「――おっと」
結女が他の人に当たりそうになったので、反射的に肩を掴んで引き寄せた。
「意外と人がいるものなんだな、水族館って。ぶつからなかったか?」
結女が間近から僕の顔を見上げて目を瞠っている。
あ、やばい。これは川波には指示されてなかった――まずいか?
「――ぶッふぉ! ちょろっ」
後ろのほうから、南さんとカップルになって人混みに紛れているはずの川波の声が聞こえた。こ、声を上げるくらいまずかったか……?
「……いつまで肩を抱いてるつもり?」
冷えた目で僕を睨みつけながら言う結女。
「あ、ああ、悪い」
僕はさっと身を離すことしかできなかった。やっばい。完全に怒らせた。
こういうときは川波からヘルプが入る手はずだったが、スマホが震える気配はない。おおい! 役目を果たしやがれ!
仕方なく、無言のまま水槽を見上げる。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
……なんか、さっきからずっと顔を睨まれている気がするんだが。
まずい。これは非常にまずい。結女が重度のブラコンであるように見せかけなくちゃならないのに、これじゃあ逆効果だ。
「……はあ……」
溜め息までつかれた! どうするんだこれ! どうやって挽回するんだ!
水槽に淡く映った結女の表情を見ながら頭を回転させる。くそ。このまま黙って水族館の中を連れ回してもどうしようもない。テコ入れが必要だ。
「ん?」
僕はさも溜め息を聞きとがめましたよという風を装って結女の顔を見た。
「どこかで休憩するか?」
そうして、ひとまず結女をベンチに座らせることに成功した。そして自販機へとひとっ走り向かい、あいつがいつも飲んでいた紅茶を買う。とりあえず好きな飲み物を飲ませておけば、多少は機嫌が回復するだろうという狙いだ。
缶を受け取った結女は、プルタブの部分をしばらく見つめていた。
その姿を見て、ふと思い出す――そういえば、こいつの代わりに僕が缶を開けてやったことがあったっけ。一緒にいる僕にまるで頼ろうとしないのがどうにも不器用で、見ていられなくなったのだ。
どうせ人に迷惑をかけたくないとか思っていたんだろう。他人に迷惑をかけるくらいなら自分が損をするほうがマシだと、あの頃のこいつは本気でそう思っていた。
今はどうなのか……わからないが。
結女はプルタブに指をかけると、ぷすっと簡単に開く。そして呟いた。
「…………もう、迷惑をかけなくて、済むのよね」
その、どこか寂しげな響きをはらむ声に、胸の奥が刺激される。
変わらない僕を置き去りにして、こいつは見違えるくらいにたくましくなった。前は僕が世話してやっている気分だったけど、今じゃあほとんど逆だ。社会に適合することを成長と呼ぶのなら、彼女は間違いなく成長した。
僕の恋人だった綾井結女はもはや存在しない。
ここにいるのは、飽くまで僕の義理のきょうだいである伊理戸結女だ――だとしたら、南さんから彼女を守ろうなんて、おこがましい考えなのかもしれない。結女は南さんのことも一人で勝手に解決してしまうのかもしれない。自分ではプルタブも開けられなかった彼女は、もうどこにもいないんだから。
もしそうなら、僕がこんなハリボテだらけの演技までしているのは、結女を守りたいからじゃない――僕が綾井を守っていたあの頃がまだ続いているのだと、何かに対して主張したいからだ。
この感情には、きっと名前がある。国語辞典を引けば載っている。でも、僕に残っていたプライドが、言語化することを拒絶した……。
中身が空になった缶コーヒーを口につけて、表情を誤魔化す。ポーカーフェイスは僕の数少ない得意技だ。なのに今は、表情を繕いきれなかった。なのに――
「…………もう騙されないわよ。そんな顔したって、口説かれてなんてあげないから」
「う゛」
心臓がドキリと鳴った。見透かされた。一瞬そう思ったが、どうやら結女は今の表情こそ僕のポーカーフェイスだと思ったらしい。好都合なので、勘違いさせるに任せておいた。
代わりに、ここまで継ぎ接ぎしてきたハリボテは、丸ごとかなぐり捨てることになったが。あーあ。なんだったんだ今日は。やっぱり川波の口車になんか乗せられるんじゃなかった。こんな似合わない格好までしてさ――
「似合いまくってるに決まってるでしょ馬鹿なの?」
「やっぱりな――ん、え、あ?」
あれ? 似合い……あれ? どっちだ?
聞き間違いかと思って結女のほうを見ると、結女は熱でも出たみたいに顔を赤くして逸らした。
「い……今のは聞かなかったことにして」
「あ、ああ……そうか……」
似合ってる……と、思ってたのか。
言えよ。
全然わかんねえよ。
見られているわけでもないのに目を逸らす。どうにも気まずくて、僕は誤魔化すようにして、なるだけ平静な声で言った。
「…………好評みたいで何よりだ」
「聞かなかったことにしろって言ったでしょ!?」
「いてっ!」
肩をばっしーんと叩かれる。
……ああ、こうだよな。
今の僕とこいつの関係は、こっちのほうだ――無理に昔に戻ろうとしたって、そんなのうまくいくわけがない。
僕は紅茶代の小銭を結女から徴収する。これで貸し借りなし。何のしがらみもない。どちらかがどちらかに気を遣う必要もない。対等で、平等で、公平な――
――好きでも嫌いでも構わない関係。
「実はな」
と、僕はぶっちゃけた。
「僕は今日、君と頭の悪いカップルのごとくイチャついてみせるという使命を帯びてここにいるんだ」
「はあ? みせるって……いったい誰に?」
「誰だろうな。恋敵ってやつじゃないか?」
誰を巡る、誰にとってのかは微妙なところだが。
かくして、南さんの見ている前でイチャついてみせるという作戦は、なんとも歯切れ悪く空中分解してしまい、僕たちは入館料を回収すべく普通に水族館を回った。
水族館なんて久しぶりだったが、改めて来てみるとなかなか見所があるものだ。
「あ、見て。トドがいるわ。おっきい」
「おっきいな」
「顔はあなたみたいにブサイクなのに」
「はっ倒すぞ」
「直球に脅さないでよ!?」
「そっちこそ直球にディスるな」
……付き合ってた頃にも来ればよかったな、と少しだけ思ったけれど、未練は泡のように消え失せていった。
「悪いな。ここまでお膳立てしてもらったのに」
『いやいやいや。大成功だぜ相棒。南のあの顔……ぷっくくくく!』
「は?」
『やっぱ小細工は小細工でしかねーんだなって話さ。オレたちはもう帰るぜ。死体蹴りの趣味はねーからな。お前は最後まで伊理戸さんをもてなしてやれよ』
「あいつが大人しくもてなされるようなタマか……」
『そこがいいんじゃねーのか、弟クン?』
「兄だ。いいわけないだろう、あんな性悪」
『ぶはははははははは――』
川波の笑い声を断ち切るようにして、僕は通話を切った。
口振りから察するに、どうやらうまくいったらしい。やっぱり仲をよく見せるより悪く見せるほうが効果的だったんじゃないか。それなら僕たちは大得意である。
川波の言う通りひとしきり水族館を見て回ると、僕たちは帰路についた。
やれやれ。とんだ一日になったが、目的は達せたようで何よりだ。あとはそれぞれ自分の部屋で大人しくしておけば、何事もなく明日になる――
――などと考えていた僕は、非常に甘かった。
事件はデートで起こるのではない。自宅で起こるのだ!
「えへ、えへへ、えへへへへへへへ……!!」
なぜかリビングのソファーでポーズを取らされて、なぜか結女に写真を撮りまくられていた。
……こいつ、この格好、気に入りすぎ……っ!
初見のときの仏頂面は一体なんだったんだ! ドハマリしているじゃないかこの女!
ミステリマニアが好きなものを語るとき、その口ぶりがすべからく批評っぽくなることは周知の通りだが(偏見)、まさにそのタイプであるこの女がここまで理性を捨てるとは……スタイリスト川波恐るべし。
面白いものを見た。……と、興が乗ってしまったのが運の尽きだった。
せっかくだからもうひとつくらいリクエストを聞いてやる――そんな風に提案した僕に、理性を脱ぎ捨てた結女は即決で告げたのだ。
「私がこのソファーに座ってるから、後ろから優しく抱き締めて耳元でなんか囁いて!」
ええー……。
そういうのに憧れてたんだ……。
なんか、ごめん……。
僕は謎の罪悪感に打ちひしがれつつ、ソファーに座った結女の後ろに回った。ドキドキしているのが後ろ姿から伝わってきて、僕も異様に緊張してくる。
なんか囁いて……って、何を言えばいいんだ? ううーん……。
又聞きの少女漫画知識からそれっぽい台詞を掘り出してくる。うぐぐぐぐぐぐぐ。恥っずいなもう!
やる前から死にたくなってきたが、これは向こうから言ってきたことなのだ。たとえスベっても僕のせいじゃない。というか馬鹿にされるならされるでそっちのほうが気が楽だ!
僕は思い切って後ろから結女の肩を抱き締め、耳元で口を開いた。
さあ、お望み通り本気で囁いてやる。爆笑するがいい!
「(――捕まえた)」
直後。
結女は肩を抱いた僕の腕にそっと触れながら、間近からこっちを見上げ、こっそりと、世界すべての目を盗むようにして、小さく囁いた。
「(――捕まっちゃった)」
僕は死んだ。
※※※
かくして一連の騒動(とも言えないもの)は、二つの死体を自宅のリビングに生むという悲惨な結末を迎えたのだった。しかも結女のほうは囁き返したことを覚えていないらしく、僕だけが余計にダメージを受けた形だった。ずるいぞ。
とはいえ、身を切った甲斐はあったというもので、南さんが僕にまとわりついてくる回数は激減した。
ただ1回だけ、デートをした翌日の朝に呼び出された。場所は例の図書室の隅だ。
「ゴメンねっ。さすがに家に入るのはやりすぎだったよね」
眼鏡におさげの地味モードな南さんは、小さく手を合わせて頭を下げた。
「悪気はなかったのっ! 伊理戸くんが不用心にも鍵を閉めなかったからさあ、ちょっと誘惑に勝てなかったよねっ!」
「そもそも施錠の音を聞いてるのがおかしいんだって話はしても大丈夫か?」
最初から侵入する気満々の人間の行動だろうが。
「安心して! 物を盗んだりはしてないし! ちょっと枕に顔を押しつけただけだし!」
「よし、通報する」
「なんで!? 女子高生が女子高生の枕の匂いを嗅いだだけなのにっ!」
「こういうとき便利な考え方がある。もし犯人が君みたいな女子高生じゃなくて脂ぎったオッサンだったら、と想定してみるんだ。それでアウトだと感じたら犯人が女子高生でも当然アウトだ」
「むぐぐ……! 反論の余地がない……!」
法は誰の下にも平等なのである。
「……で、でも通報したってムダだよっ! 証拠がないんだから!」
「あいつの部屋から君の毛髪とかが発見されるだろ」
「何のためにお見舞いしに行ったと思ってるの?」
きょとんと可愛らしく首を傾げられたがうおおおいそのためだったのか!?
お見舞いのときに部屋に入った事実がある以上、南さんの毛髪が発見されても不法侵入の証拠にならない……!
「むぐぐ……!」
「ふふふ……!」
やっぱり普通に危険人物じゃないか。悪気のない人間はそこまで計算尽くで動かないんだよ!
「まあでも、悪いことしたなと反省してるのはホントだし、お詫びに結婚してあげるね?」
「その路線もまだ諦めてないのかよ!」
話が違うぞ川波!
南さんは、「んーっとね」と人差し指を顎に当てながら小首を傾げ、
「完全に同じってわけじゃなくて、前とはちょーっと意味合いが変わっちゃったんだよねー。まー、もともとそういう意味合いも含んではいたんだけど、確信に変わっちゃったっていうかさっ」
「はあ? 意味合い?」
「簡単な話!」
ピンク色の唇の端を吊り上げて、南暁月は宣戦するように告げる。
「恋敵を潰すには、その恋敵に別の相手を宛がっちゃうのが最適――でしょ?」
そして放課後に、僕は再び南暁月対策会議を開催した。
もちろん、参加者は僕と川波小暮である。
「まあ正直なあ、実害がねーんならオレからできることはねーわな、色男」
「僕自身はこれっぽっちもモテてないんだよ……。勝手に巻き込まれてるだけで」
「それが色男だっつーんだよ。自分からは何もしてないのに女子のほうから寄ってくるのがモテ野郎の条件だろ?」
「そう言われたらそうかもしれないが……」
「影ながらサポートはするぜ。任せとけ。あの女の生態はよく知ってる」
「……………………」
僕は頼もしい友人の軽薄そうな顔をじっと見る。
「なんだ? 今度はオレと恋人のフリをする気か?」
「気持ち悪いことを言うな。……つかぬことを聞くが、川波」
「ん?」
「君――入院したことあるか?」
川波はピタリと一瞬動きを止めると、意味ありげに頬杖を突きながら苦笑いを浮かべた。
「あるぜ――中学の頃に」
ああ……やっぱりな。
納得した僕は、やはり頼もしい同志であるらしい川波小暮に、似たような苦笑を向ける。
「……大変だな、お互い」
「ああ。お互い、な」
いろんな人間がいて、いろんな恋愛があって、そしてそのすべてに歴史がある。
着々と積み上げられたそれらの上に、現在という瞬間が成り立っている。
今、この瞬間に起こっていることも、いつかは歴史となって未来の礎となるのだ。
そのとき、自分が誰と歩いているのかなんて、どこの誰であろうと知る由はない。
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