煩悩戦争⑥ 告白するには好きすぎる


◆ 伊理戸水斗 ◆


 性欲を飼い慣らすことに成功した。

 より正確には、興奮している状態に適応したと言うべきか――劣情を催していても、それが視線などの行動に出ないように訓練をしたのだ。


 主にネットの画像検索を使って、とにかく女体に目を慣らした。それで興奮しなくなるわけではなく、興奮している自分に慣れて、制御できるようにすることが目的だ。

 気休めみたいな訓練だったが、自己暗示くらいにはなったらしい。結果、僕は結女がどんな誘惑をしてきても、それを視界から弾き出せるようになったのだ。


 ……結局、一番直接効いたのは、責任も取れないくせに結女に劣情を向ける自分に嫌悪した、あの瞬間だっただろうな。

 副作用として、色気のあるイラストを見る目がだいぶ肥えた。


「もうちょっと湿度があったほうがいいんじゃないか? このシチュエーションの場合。わかりやすく汗で湯気を立たせるとかさ」

「ほほう。濡れ透けだけでは不十分と申しますか。水斗君も鍛えられてきましたね」


 いさなと会うときも雑念に惑わされることがない。

 凪虎さんなんかは、無遠慮にいさなの部屋のゴミ箱を覗き込んでは、


「いい加減抱けよ。キショいなお前」


 などと言ってきたりするが、プロデュース相手と男女の関係になるのは、一般的に考えて健全とは言えなかろう。

 そうして結女の攻撃を凌ぎ切った僕は、ついにこの日――十二月二十四日を迎えたのだ。


「うわ……お母さん、何このケーキ?」


 由仁さんが買ってきたケーキがテーブル上でお披露目されると、結女は物珍しそうに覗き込んだ。すると由仁さんはにんまりと意地悪な笑みを浮かべて、


「ちょっと大人なケーキよ」

「大人なケーキ?」

「お酒が入ってるの」


 えっ、と結女は驚いて、その黄色いスポンジのケーキから少し距離を取る。


「大丈夫なの? 私たちが食べて……」

「大丈夫大丈夫! 法律的には問題なし! アルコールもそんなに入ってないし!」


 本当かぁ? とスマホで調べてみたところ、日本の法律が定める『お酒』とは、あくまでアルコールの入った『飲料』だ、ということらしい。つまり食べ物であるケーキやチョコは含まれない。ちょっと裏技臭いな……。


「物は試しだよ。食べ過ぎないようにだけするといい。普通のケーキも買ってあるしね」


 父さんもそう言うので、結女も「うーん、それならちょっとだけ……」と納得した。まあ、大学の飲み会とかで初アルコールになるよりは、保護者の監督の下で試しておいたほうがいいのは間違いない。


「それじゃあ、メリクリ~!」


 こうして、伊理戸家のクリスマス・イヴは穏やかに過ぎ去った。

 途中、未だにいさなを僕の彼女だと思っている由仁さんが、「水斗くんは良かったの? 東頭さんを放っておいて~」とからかい口調で言ってきたものの、そこはもはや慣れたものだ、「あいつには季節感というものがないので」と適当にいなしておいた。


 ケーキと夕飯を食べ終わると、僕は一人、ダイニングテーブルから炬燵に移動し、テレビのクリスマス特番をBGMに本を読む。

 洋酒入りのケーキを食べたせいか、身体がぼんやりと温かく、気分も少し解放的だった。しばらくはこの心地良さに浸るのも悪くない。


 結女はテーブルのほうで、父さんや由仁さんと何か話していた。優等生は家族と話すことが多くて何よりだな。

 けど、少しすると、父さんが風呂の掃除に行き、由仁さんがキッチンで洗い物を始める。一人残った結女は――


「どう? 気分は」


 僕のほうに来て、炬燵に脚を入れた。

 僕は少し警戒したが、由仁さんがキッチンにいるんだ、滅多なことはできまい。


「気分って?」

「お酒ケーキ。結構食べたでしょ?」

「大して変わらないな。少し暑く感じるくらいだ」

「そっか……」


 何だか、妙に声がふにゃふにゃしてるな。

 と思った矢先だった。

 ころん、と結女が横に寝転んで、じゃれつく猫のように僕の太腿に頭を乗せてきた。


「んなっ、おい……!」

「んん~……ほんとだ、あったかい……」


 炬燵が壁になって、キッチンの由仁さんからは、寝転んだ結女の姿は見えない。

 だからって、あまりにも大胆な犯行だった。

 普段の結女なら、いくらなんでもこんな危険は冒さない。一体――


「……へへへ……」


 僕は、結女の顔が赤らんでいるのに気が付いた。

 もしかして――酔ってる? あの洋酒ケーキで?

 さっきまでは、ハキハキと話してたくせに。僕の傍に来た途端、気が抜けたように――


「……おい。ここで寝るな。自分の部屋に行け」

「ん……ぃや。お風呂入る……」

「そうだな。風呂に入れ。それで目を覚ませ」

「……ね、水斗」

「ん?」

「お部屋行かない?」


 甘えるような調子で放たれた一言に、僕は固まった。


「私……渡したいものが、あって……。クリスマス、プレゼント……お母さんたちの前では、渡せない、から……」


 ……クリスマスプレゼント。

 僕の脳裏にはどうしても、二年前にもらった羽根のネックレスが浮かび上がる。


「……僕は、何も準備してないぞ」

「いいの。……私が、渡したいだけ」


 ぎゅっと、縋るように、結女は僕のズボンを掴む。


「それくらい、……いいでしょ……?」


 ダメだ、とは言えなかった。

 それほどはっきりと拒絶するには、僕は彼女のことが好きすぎた。


「わかったよ。……でも、風呂に入って酔いを覚ましてからだ」

「うん……。そっか。そのほうがいいね……」


 ちょうどそのとき、父さんが「お風呂掃除終わったよー」と戻ってきた。

 結女がゆらりと起き上がり、「私、入ります」と宣言する。そしてそそくさとリビングを去り、準備を整えるために階段を上っていった。


「……ふう」


 まさか、あの程度のアルコールで酔うなんて。遺伝的に弱いのか? いやでも、由仁さんが酔い潰れてるところなんて見たことないよな。それに――


「……………………」


 ――そういうことか?






◆ 伊理戸水斗 ◆


 結女は結局、家族全員が風呂に入って、父さんと由仁さんが寝室に引っ込んでから、僕の部屋を訪れた。


「……ありがと」


 そう言って入ってくる寝間着姿の結女からは、さっきのようなふわふわした雰囲気は見て取れなかった。


「酔いは覚めたか?」

「うん。おかげでね」

「フリだろ、さっきの」


 不意に放り込んだ言葉に、結女は一瞬だけ固まった。


「酒の強さは遺伝で決まるって言うだろ? その点、由仁さんは田舎の酒盛りにも平気でついていってたし、慶光院さんもワインを飲んでたけど顔色一つ変えてなかった――その子供の君が、そこまで弱いはずないだろ」


 もちろん確定ではなかったけど、今の反応ではっきりした。

 結女は酔ったフリをしていたのだ――おそらくは、プレゼントの話を切り出すために。


「……デリカシーないわね。見逃しなさいよ。女の子の酔ったフリは」

「悪かったな。将来、詐欺に引っかからないように警戒してるんだ」


 僕はベッドに腰掛けて、恨みがましげな顔をした結女を見やる。


「それで? そこまでして渡したかったプレゼントって?」


 雰囲気は作ってやらない。僕はできるだけぶっきらぼうにそう訊いた。

 結女は「うん……」と肯くと、すたすたと近づいてきて、ぼすんっ、と僕のすぐ隣に腰掛けた。


「おい……」


 僕が距離を取ろうとすると、その前に結女の手に腕を掴まれる。


「ダメ。……逃げないで」


 大きな瞳で、訴えかけるように僕を見つめて、


「これでも……すごく、勇気、出してるんだから」


 雰囲気作りのステージでは、相手側に軍配が上がったらしい。

 真剣な相手を茶化すような軽薄さは、口惜しくも僕には備わっていなかった。

 結女はごそごそとポケットを探ると、手のひらに乗る程度の小さなギフトボックスを取り出した。


「これ……開けて」


 僕はそれを受け取る。リボンで封をしてあるように見えるが、ただの模様らしい。開けるにはただ、蓋を取るだけでよかった。

 僕は一度、乾いた喉を唾で潤した。この蓋を取ればその瞬間、決定的な何かが変わってしまう――根拠もない、そんな直感が、僕を緊張させていた。


 ぐっと手を握り込んで、震えを止める。

 もはや、是非もない。

 僕は緊張した手で、ゆっくりとギフトボックスの蓋を取った。


「…………、あ……」


 直感は、当たった。

 ギフトボックスに入っていたのは、銀の、翼を模った意匠が施された――

 ――指輪だった。


「二年前――羽根の飾りが付いたネックレスをあげたの、覚えてる?」


 指輪を見て固まる僕に、結女は言う。


「今年は、それを超えようと思って……翼にした。……それでね――」


 ギッ、とベッドのスプリングが、小さく軋んだ。


「――実は、それ、ペアになるの」


 結女の声には、決意が宿っていた。


「二つの翼が合わさって、初めて完成する……そういう、ペアリング」


 ――比翼の鳥、という言葉が脳裏を過ぎる。

 一枚しか翼を持たない鳥が、雌雄一対となって初めて飛べるようになる――男女の深い結びつきを表す例え。


「もう片方は、買ってない。……あなたが買って、私にプレゼント、……してほしい」


 ……こんなの、ずるいじゃないか。

 君は本当に、自分からは言わないつもりなんだな。

 飽くまで僕に言わせるつもりなんだ。


 僕に――決めさせるつもりなんだ。


 なのに、言葉以外ではこんなに主張して。

 僕は……僕は、こんなに苦しんでいるのに、……そんな風に、まっすぐと。


 ――ずるいよ。

 僕だって、君みたいに、感情に素直に生きたかった。


「……、これは、……っ……」


 からからに乾いた喉が、何度も詰まった。

 これから口にする言葉を、堰き止めようとするみたいに。


「これは、…………受け取れない」


 僕は静かに、ギフトボックスの蓋を閉じる。


「僕は……、……君の、翼には、……なれない……」


 本当に、本当に悲しかった。

 だけど、それが事実だった。


 僕たちは知っている。誰よりも知っている。

 告白なんて、崩壊の序章でしかないんだ。

 どれだけ好きでも、そんな感情はいつか風化して、邪魔にさえ思うようになって、結局、自分のことばかりになって。


 今度はそれが、父さんや由仁さんまで巻き込んでしまう。


 そのことがどれだけ君を傷付けるか、僕は知っている。由仁さんのために苗字を合わせた。元カレがいる家に引っ越しまでした。そこまでして守った家庭を、君自身が壊してしまうなんて、僕は――僕は絶対、見たくない。


 いっそ、君のことなんかどうでもよければよかったんだ。

 中学での出来事なんか存在しなくて、家族になってもろくに話さなくて、君のことを何にも知らずに、何にも想わずにいられたなら、きっと大したことは何も考えずに、自分の欲望に忠実でいられたんだ。


 僕が、君に、この感情をぶつけるには、僕は君のことを、想いすぎている。

 告白するには――好きすぎる。

 だから――




「――やだ」




 断ち切るような声が、耳元で響いた。

 次の瞬間、僕の身体は突然の圧力に押し倒され、ベッドの上に押さえつけられた。


 僕のお腹の上に、結女が跨っている。

 鎖のように。

 重石のように。


「絶対、逃がさないって……言ったでしょ」


 結女は両膝で僕の両腕を固定し、上半身の自由を完全に奪った。

 それから、寝間着の裾に手を掛ける。


「おっ……おい! 何してっ……!」

「うるさい。静かにしてよ……。お母さんたちに、聞こえる」


 男女の差があるとはいえ、脚の力に腕で抵抗することはできなかった。

 なす術もなく、僕は、結女が自分の手で勢いよく寝間着の裾を捲り上げるのを見た。


 まるで突きつけるように、薄いピンク色のブラジャーに支えられた胸の膨らみが、僕の目の前で露わになる。白桃のような肌を飾り立てる、複雑なレースの模様。溢れんばかりに実ったそれが、呼吸に合わせて上下するのを、僕はただただ息を呑みながら、一心に見つめることしかできない。


 結女はまだ止まらなかった。もう片方の手をズボンのゴムにかけ、ぐいっと引き下げる。ブラジャーと同じ色の、小さなリボンがあしらわれたショーツが、男とは明確に異なる股間を頼りなく覆っていた。


 くらくらと、目眩がする。

 バスタオル姿を見たり、ブラ単体で見たことはあったりしても、結女の下着姿を目の当たりにするのは、これが初めてのことだった。それが偶然ではない、明確な意思をもって見せつけられているとなれば、目を慣らすのに使ったネット上の画像なんて、物の数には入らなかった。


「……見て」


 結女の顔は、耳まで真っ赤に染まっている。

 それでも彼女は、僕から目を逸らさない。


「中学のときより……育ったでしょ? 興奮……しない?」


 捕まえるように、僕の肩に手を添えて、


「ううん、知ってる……。あなたはちゃんと、私に興奮してくれる。お風呂……入ったときに、見たし」


 上半身を前に傾けて、長い髪で僕の顔を閉じ込めながら、


「だから……逃げられない。誤魔化せない。どんなに気のないフリをしたって……私だけは、騙されない」


 そっと、僕の頬を、慈しむように撫でる。


「それとも……ブラも、取ったほうが、いい?」


 答えを待たず、結女のもう片方の手が背中に回った。

 そのとき、僕はようやく膝に挟まれた右手を引き抜いた。

 背中側のホックを外そうとした結女の手を、掴む。


「……やめて、くれ……」


 そして、絞り出すように言った。


「どうして……?」

「僕は……僕は、嫌なんだよ……! 君をそんな、欲望の対象としてだけ見るのは……!」

「…………っ」


 結女の目が、かすかに見開かれた。


「なんでわかってくれない……!? 僕はこんなに……こんなにずっと、考えてるのに……! なんで君はそんなに、考えなしなんだよっ……!!」


 今すぐに抱き締めたい。

 そのくびれた腰を、白い肩を、力いっぱい抱き締めたい。

 だけどそんな欲望は、未来には何も繋がらない。


「君も少しは考えてくれよ……っ! いつまで夢見がちなままなんだ! 中学の頃、あんな痛い目に遭っておいて、どうしてまだそんなに無邪気でいられる……!?」


 ずるい。

 ずるいよ。

 なんで君だけ、目の前の恋のことだけ考えていられるんだ。


「僕の頭はずっとぐちゃぐちゃなんだっ……! 何が正しいか知りたいのに、ちっとも見つかる気配がない! こんなことなら――」


 こんなことなら。




「――家族になんて、ならなければよかった」




 そうだ。

 全部、そのせいだ。

 中学卒業のあの日、潔くすべて終わっておけば、こんなことにはならなかった。


 僕はきっと、いさなの告白に応えていて、今頃はあいつのイラストを拡散することだけを考えていた。変に欲望を溜め込むことなく、適度に発散しながら、当たり前の高校生のように、今やりたいことだけを突き詰めることができたんだ。


 家庭なんて、人生なんて、背負わせるなよ。

 僕はただの高校生だ。ただの十六歳だ。たまたま環境が特殊だっただけだ。


 こんなの――僕には、重すぎる……。


「…………、ごめん……」


 小さく、結女が呟いた。

 そのときに、僕は気がついた。

 言うべきではないことを言ってしまったことに。


「…………ごめん……。私、何も考えて、なくて……。ただ、水斗が……水斗が、どこかに行っちゃうのが、嫌で…………」


 違う。

 違う、違う、違う。

 泣かせたかったわけじゃ――ない。


「……ごめん……」


 結女は僕の上から退き、半脱ぎの寝間着を直した。


「……本当に、……ごめんなさい……」


 そして結女は、小走りに部屋を去る。

 僕は、一歩も動けない。

 電灯が晴れがましく照らす天井を、ただ呆然と見つめた。


 ――ああ。

 ――ああ……。

 ――……あ゛あ゛……!


「――――ッ!!」


 全力で、ベッドを殴りつけた。

 何がどうなることも、なかった。

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