7.もう少しだけこのままで
好きな人が家にいる① 心を決めた後の世界
◆ 伊理戸水斗 ◆
かつて、初めての彼女ができた中学生の僕は、世界のすべてが輝いて見えるようだ――なんて、どこかで聞いたような感想を宣っていたものだ。
多少は人生を知った今の僕には、世界が輝いて見えたりなんてしない。朝の気怠さも、散らかった自室も、何もかもが普段通りで味気がない。ただひとつ、変わって見えるものがあるとすれば――
「――あっ」
朝、部屋の外に出ると、パジャマ姿の結女が同じく部屋から出てくるところだった。
解いたばかりなのか、長い黒髪がところどころほつれている。寝起きだからか、もしくはまだコンタクトを着けていないのか、いつもよりも若干目つきが悪かった。
結女は僕に気付くと、慌てて口元を手で隠すようにして、
「ちょっ、やだっ、もう起きてたの!?」
「……たまにはな」
「もお~! 油断してたあ~!」
結女は手で顔を覆い、洗うようにくしくしと擦る。
別に、寝起きの顔を見るのは初めてじゃない。けれど、本質的には他人である僕に、気の抜けた顔を見られるのは、女子的に思うところがあるらしい。
確かに、中学生の頃の僕なら、何かしら反応を示していたかもしれない。
無防備な姿にどぎまぎするとか、油断した顔に幻滅するとか――でも、それは女子としての結女しか知らなかったからだ。彼女としての結女しか知らなかったからだ。
今の僕は違う。
「気にするなよ」
家族としての君を知っている。人としての君を知っている。
幻滅なんて、とっくにし切った。それでもこうなってしまったんだから、それはもう、仕方がない。
「家の中でくらい油断しろ。ただでさえ見栄っ張りなんだから、そうじゃないと疲れるだろ」
結女は指の隙間から僕の顔を垣間見る。
「……それって、気を遣ってるの?」
「一応」
「ありがとう……。ありがとう、だけど」
結女はくるりと背中を向け、自分の部屋のドアを開けた。
「私にもプライドがあるのっ!」
バタン!
と、寝起きの結女はドアの向こうに消え去った。
……うん。
やっぱり、中学生のときの気持ちには戻りようがないな。
◆ 伊理戸結女 ◆
朝から水斗にだらしのない顔を見られた私は、鏡でチェックにチェックを重ねてから、ようやく再び部屋を出た。
よだれの跡とかはなくて命拾い。まったくもう、本当につくづく思うんだけど、好きな人が家にいるってめちゃくちゃ不便! 見せたい自分だけ見せるわけにはいかなくなる。
まあ、不幸中の幸いは、あの男が私の元カレだということだ――見られたくない姿なんてもう散々見られているし、寝起き顔の一つや二つ、今更ではある。ではあるけど、それはそれ、これはこれというか……。
まったく、今日は大事な日だっていうのに、これじゃ先が思いやられる。
「おはよう、結女。パン焼いてあるよー」
「んー」
リビングに降りると、お母さんが焼いてくれた食パンを頬張る。ダイニングテーブルの対面には、パンくずが散らばった空のお皿が置いてあった。そこは水斗の席だけど、本人の姿がない――たぶん、朝ご飯を食べてから、着替えるために部屋に戻ったんだと思う。
「ごちそうさま!」
パンと紅茶を飲み干すと、私はリビングから洗面所に移動した。歯を磨くためと、身だしなみをもう一度チェックするためだ。
すると、そこで、
「あ」
シャコシャコシャコ、と。
鏡を眺めながら歯ブラシを咥えている、制服姿の水斗がいた。
水斗は入ってきた私に気付くと、無言でちょっと横に避ける。私のスペースを空けてくれたらしい。
出直すのも何だか避けてるみたいだし、順番待ちをするほど狭い洗面所でもないし……というわけで、私は水斗の横に立ち、自分の歯ブラシを手に取った。
シャコシャコシャコシャコ……。
無言で歯を磨く男女が、鏡に映っている。
もちろんのこと、別に初めての状況ではない。ないんだけど……改めて、何だか不思議な状況だなあと思う。
一番不思議なのは、この状況に私が慣れてしまっていることだ。中学時代の私、あるいはこの家に越してきたばかりの私なら、肩が触れ合うような距離で並び、しかも会話がないなんて状況、気が気じゃなかったことだろう。
けど今は、ひどく自然で、当たり前で、むしろ安心感すらあって。……たった半年程度しか経っていないのに、人間というのはよくできているものだと感心してしまう。
水斗がコップを手に取り、水を貯めて、がらがらぺっと口の中を濯ぐ。
その後、なんと制服の袖で口を拭おうとしたので、私は歯ブラシを咥えたまま「んー!」とそれを止めた。
「ん!」
タオルを突きつけると、水斗は「ああ……」と溜め息なんだかお礼なんだかよくわからないことを呻いて、それで口を拭いた。
続いて私も口を濯ぐと、水斗からタオルを受け取った。口を拭っているうちに、水斗は洗面所の出口に足を向ける。支度が楽そうでいいわね。私はこの後、リップクリームを塗らないと。
ポケットに入れて持ってきたクリームを手にしたとき、鏡の端に映り込んだ水斗が振り向いているのに気付いた。
「……何?」
振り返って訊くと、水斗はじっと私を見て言う。
「今日からだろ」
「え?」
「生徒会。……頑張れよ」
――先日、私たちの学校で生徒会長選挙が行われた。
立候補者は一人。
それゆえ信任投票となり、あの人は実に98パーセントもの信任を得て、我が校の新たな生徒会長となった。
新会長の名前は
そしてその推薦によって、私――伊理戸結女もまた、新たに組閣された生徒会執行部の一人に名を連ねたのだった。
今日から、その活動が始まる。
ちらっと話したことはあった気がするけど……覚えていてくれたんだ。
「……ありがと。頑張る」
水斗は肯いて、洗面所を出ていった。
それから、私は改めて鏡を見て、リップクリームを唇に塗る。
「うん」
すごくいい感じに塗れた気がした。
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